主日礼拝

心が燃える

「心が燃える」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第7章14節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第24章13-35節
・ 讃美歌:8、509、481

<主の日>  
 教会では今、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死を覚える、受難節(レント)の期間を歩んでいます。受難節というのは、イースターからさかのぼって、六回の日曜日、主の日を除いた40日間です。どうして主の日を除くのかというと、主の日は週の初めに、主イエスが復活なさったことを覚えて礼拝を捧げる日だからです。そういう意味では、毎週、主の日の礼拝はイースターであり、主イエスの復活を喜び、お祝いしているのです。  

 本日の聖書箇所は、二人の弟子が、復活のイエスさまと出会った出来事が語られています。受難節なのに、もう復活の話?と思われるかも知れません。しかしわたしたちは、受難節を歩んでいる時だからこそ、既に、確かに与えられている復活の恵みを、今日の主の日に、また新たにされて、残りの受難節の日々、また来週から始まる受難週に備えたいと思うのです。

<エルサレムを離れる>  
 本日の箇所には、二人の弟子が登場します。一人の名前は18節に「クレオパ」と出てきますが、もう一人は誰なのか分かりません。この二人は十二弟子のメンバーではありませんでしたが、イエスさまの教えを聞き、数々の奇跡を見て、イエスさまが力ある預言者であると信じ、従っていた者たちです。

 彼らはエルサレムを離れて、六十スタディオン、約11㎞先の、エマオという村へ向かおうとしていました。
 13節に「ちょうどこの日」とありますが、「この日」とは、イエスさまが十字架に架けられ、死んで葬られてから三日目にあたる、週の初めの日、今のカレンダーで言えば、日曜日のことです。

 その道中、二人は「この一切の出来事について話し合っていた」とあります。それは、イエスさまが十字架に架けられて死んでしまったこと、そして、それから三日目にあたるこの日の明け方に起こった、不思議な出来事です。
 婦人たちが今朝、墓に行ってみると、中が空っぽで、イエスさまのご遺体が無くなっていた、というのです。このことは、本日の聖書箇所の直前、24:1~12に語られています。
 婦人たちは、その空っぽの墓に天使が現れて「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げた、と言います。ペトロだけが、それを聞いて墓へ走っていきましたが、墓の中には亜麻布しか無かったといいます。

 イエスさまは、十字架に架かられる前、弟子たちに向かって、ご自身が「罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということを、何度もお語りになりました。しかし、復活の日の朝、空っぽの墓を見ても、天使が復活を告げても、誰もそのことを信じることが出来ませんでした。婦人たちも、墓が空っぽなのを確かめたペトロも、驚きはしましたが、不思議に思ったまま、家に帰ってしまったのです。

 この二人の弟子も、今朝のことはどういうことなのだろうと、話し合い論じ合いつつ、エマオへと向かっていました。ただでさえ悲しみに暮れているのに、イエスさまの遺体が無くなってしまって、何が起こったのか、さっぱり分かりません。でもとにかく、二人はエルサレムから離れようとしていました。

 信頼し、従っていた方が、十字架という残酷な刑で処刑されたのです。また、その十字架を前に、ただ遠くから見ているしかなかった、その方を見捨ててしまった、罪責感のようなものもあったかも知れません。さらには、この後自分たちは、あの処刑されたイエスに従っていた者たちだということで、危険な目に遭うかも知れません。
 エルサレムは彼らにとって、もはや一刻も早く逃れ、遠く離れたい、忌まわしい、悲しい、危険な場所になってしまったのです。

<同行者>
 ところが、そのエルサレムを離れる道中、「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。なんと、復活なさったイエスさまご自身が近づいて来て、この二人と一緒に歩き始められました。
 「しかし、二人の弟子の目は遮られていて、この方がイエスだとは分からなかった」のです。イエスさまは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と二人にお尋ねになりました。
 「二人は暗い顔をして立ち止まった」とあります。愛する人を失った顔です。希望を失った顔です。混乱し、不安を覚えている顔です。危険を感じ、恐れ慄く顔です。

 わたしたちも、人生の歩みの中で、度々、このような暗い顔をすることがあります。
 目が遮られるからです。「遮られる」という言葉は、元の言葉では「捕えられる」「留められる」という意味もあります。悲しみや不安や絶望を前に、そのことに目が捕らわれてしまい、遮られて、他のことが何も見えなくなってしまうのです。自分が捕らわれている思いだけを見つめ、暗く深い底に沈んでいってしまうのです。特に「死」は、圧倒的な力であり、人間にとっては抵抗しようのない現実で、わたしたちの心を強く捕らえ、支配します。

 しかしこの時、復活なさったイエスさまが、二人の目の前に立っておられるのも、まことに確かな現実でした。イエスさまは幽霊などではなく、確かに体をもって、約束の通り、死者の中から復活なさったのです。そして、確かに二人の前に立っておられます。二人の目に映っています。しかし二人は、イエスさまが確かに死んで葬られたことを知っており、そのことが心を満たしています。死に捕らわれ、目を遮られて、自分たちに語りかけておられる方がどなたか分からないのです。「イエスさまが復活なさった」という知らせは、確かに二人の耳に届いています。しかし、心には、まったく届いていませんでした。

<おかしな質問>
 さて、二人の弟子たちからすれば、いつの間にか一緒に歩いていた人が、「その話は何のことですか」と聞いてきたことは、呆れてしまうような質問でした。
 この人も向かう方向が一緒なのですから、エルサレムの町からやって来たに違いありません。エルサレムにいながら、エルサレムで起こった、あの騒動、あのナザレのイエスの十字架の出来事を知らないなんて、あり得ないことでした。
 クレオパは、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と言いました。

 イエスさまは、「どんなことですか」と聞き返します。しかしこの時、本当は、この方だけが、すべてを知っておられました。
 イエスさまは、強引にご自分を分からせようとなさったのではありません。人がそれぞれ抱いている思いを押し殺させたり、迷いや苦しみをなかったことにはなさらないのです。本人たちが気付かない内から、ずっと歩調を合わせ、共に歩み、語りかけ、あなたの思いを、悲しみや、絶望した苦しみを、「どんなことですか。話してごらん」と言って、促し、語らせて下さり、耳を傾けて下さいます。
 わたしたちは、自分の思いを、この方に訴えて良いのです。苦しいです、悲しいです、絶望しました、訳が分かりません…それらを、主イエス・キリストがすべて聞き取り、受け止めて下さいます。

 イエスさまの「どんなことですか」という問いに、二人の弟子は、語りはじめました。19節以下のところを見てみましょう。
 「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 二人の弟子は、イエスさまが「イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」と言います。ローマ帝国の支配下にあり、国を失ったイスラエルの民は、神が遣わして下さる救い主によって解放され、新しい自分たちの国が建てられることを期待していました。それは、イスラエルの救いが実現する、ということでもあり、また旧約聖書にも救い主が現れることは預言されていました。
 そして、とうとう、神と民全体の前で、まさに行いにも言葉にも力ある方が現れました。彼らは、このイエスという方こそ、神が遣わして下さった救い主だ、王になる方だと信じ、喜んでイエスさまに従い、またエルサレムに入られる時には、王さまのように迎え入れたのです。
 しかし、同じイスラエルの民、ユダヤ人の指導者たちが、イエスさまを死刑にするために引き渡し、十字架につけて殺してしまいました。望みをかけていたけれど、その望みは虚しく消え去ってしまいました。しかも、救い主だと思っていた方が、犯罪人として、神に呪われていると言われる仕方で、残酷に殺されてしまったのです。
 しかも、それから三日目の今日、墓から遺体が無くなり、天使が「イエスは生きておられる」と告げた。もう、混乱の極みです。

 彼らは言います。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
 目の前におられる主イエス・キリストご自身に向かって、「あの方は見当たりませんでした」と言うのです。本人の前で、「あなたはいない」と言っているのです。
 この二人の弟子の姿は、とても、滑稽で、悲しく、愚かです。しかし、この姿こそ、目が遮られている、信仰の弱い、わたしたちの現実の姿です。自分の思いでしかものを見ず、捕らわれ、遮られて、自ら悲しみの中に留まっています。そばにいて、共に歩んで来て下さり、語りかけ、耳を傾けて下さる方を、見ようともしていないのです。

<聖書の説き明し>  
 二人が語り終えると、イエスさまは言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。  

 ここでの「聖書全体」とは、旧約聖書のことです。旧約聖書には、神がイスラエルの民に与えた約束が記されています。そこにはまさに、26節に語られているように、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」ということ、神が遣わされるメシア、救い主が、苦しみを受け、殺され、そして栄光をお受けになるのだ、ということが示されていました。それは、イスラエルの民を救うためであり、またそれだけでなく、諸国の民、つまり世界中のすべての人々を救うためである、ということが語られています。
 イエスさまは、これらの旧約聖書に語られていることは、まさに十字架に架けられ、そして復活したわたしを指し示しているのだ、ということを説明なさったのです。聖書の説き明かし、つまり説教をなさったのです。

 エマオに向かって歩く道は約11㎞、ゆっくり歩いて二時間半から三時間くらいでしょうか。たっぷりの時間をかけて、イエスさまが聖書のことを教えて下さいました。暗い顔をしていた二人は、夢中になって聞いたのではないでしょうか。時間はあっという間に経ち、いつの間にかエマオの村が近づいていました。

 二人の弟子は、聖書のことを聞いている時にはまだ、目の前にいる方が、復活なさったイエスさまだとは気づいていません。しかし、二人は明らかに変わり始めていました。
 後で二人の弟子は、32節にあるように、「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。
 エルサレムから逃げるように、悲しみと絶望の中を、暗い気持ちで出発した二人でした。ところがイエスさまが近付いてきて下さり、語りかけて下さり、それにお答えをし、また聖書の説き明かしを聞く、その対話、イエスさまとの交わりの中で、確かに心が燃え始めたのです。明るい、熱い炎が、二人の暗い心を照らし始めたのです。

<一緒にお泊りください>  
 二人の心が燃えてきた時、とうとう目指す村に近づきました。しかし、イエスさまは、なお先へ行こうとされます。二人は、そのイエスさまを無理に引き止めました。「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。」
 確かに、夕暮れの暗い道の一人旅は危険でしょう。しかしここではイエスさまを気遣ったというのではなく、むしろこの二人が、イエスさまに一緒にいて欲しいと強く願ったのです。
 「無理に引き止めた」の「無理に」という言葉は、「強制する」とか「暴力を用いて」という意味も持つ、強い言葉です。もしかすると、イエスさまの腕をむんずと掴んだかも知れません。本当に必死になって、どうしてもイエスさまに一緒にいて欲しいと願ったのです。

 しかし、本当は、二人がそのように願うずっと前から、イエスさまは共にいて下さったことを、わたしたちは知っています。遮られた目を開き、捕らわれた心を開かせようと、扉をずっと叩き続け、名前を呼び続け、待っていて下さっていたのはイエスさまの方です。この方は、決して扉を壊して無理矢理押し入ったりはなさいません。わたしたちが、喜んで扉を開く時を、語りかけながら、じっと待っていて下さるのです。    

 二人に引き止められたイエスさまは、「共に泊まるため家に入られた」とあります。
 神の子が、救い主が、復活の主が、この二人の願いを聞き、共にいるために、家に入ってこられます。お迎えするところは、神の子を受け入れるのにふさわしいところではありません。しかし、復活のイエスさまは、この貧しい家に入って来られるのです。

<主の食卓>  
 そしてイエスさまは、二人と一緒に食事の席につかれました。そこで、ご自身でパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、二人にお渡しになりました。これは、客を迎える主人が行う動作です。ここでイエスさまは、本来は迎えられた客の立場であったのに、二人の主人となられます。ご自分の食卓として、二人を招き、祈り、パンを裂いて渡されたのです。
 これは最後の晩餐と同じ動作です。十字架に架けられる前、イエスさまはパンを裂き、これはあなたたちのために与えるわたしの体、と言って、お渡しになった。  
 この時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」とあります。遮られていた目が、とうとう開かれたのです。目の前におられる方が、ずっと共にいて下さった方が、十字架に架けられたあのイエスさまであり、約束の通り、復活なさった神の御子、救い主であると分かったのです。  

 この「目が開け」という言葉は、厳密にいえば、受け身の形で「目が開かれて」と書かれています。体の目ではなく、信仰の目です。わたしたちは、自分自身で、自分の目を開くことが出来ないのです。自分から、神を知ることが出来ないのです。神が、自らご自分を現して下さるから、わたしたちは神を知ることが出来ます。主イエスご自身が、わたしたちのところに来られ、出会い、語りかけ、交わって下さるところにおいて、「わたしがあなたの主である」と示してくださるところにおいて、はじめて、わたしたちは主なる神を知ること、イエスさまがどなたであるかを知ることが出来るのです。  

 二人が、この食卓の交わりによって、目の前の方が復活なさったイエスさまだと分かったとたん、そのお姿が見えなくなった、とあります。
 復活の主イエスは生きておられ、この方と確かに出会い、いつも共におられると知った今や、もはや肉の目に頼る必要はなくなったのです。自分の思いによって見つめる現実ではなく、神が示してくださる、恵みの現実を知ったからです。イエスさまは、復活し、生きて、わたしと共におられる。それこそが見つめるべきまことの現実だと、確信することが出来たのです。  

 二人は、イエスさまの姿が見えなくなったからと言って、イエスさまを捜し回ったり、先ほど引き止めようとしたように、必死になって慌てたりはしませんでした。確かに、イエスさまが灯して下さった信仰の炎が、心の中に燃えていたからです。ここに来るまでも、主イエスがいつも共にいて下さったことを知り、また今も共にいて下さり、これからも共にいて下さることを、確信したからです。  

 もう夜になっていたはずですが、二人は時を移さず出発して、エルサレムへの11㎞の道のりを戻って行きました。暗い顔で歩いた道、絶望したエルサレムです。しかしもはや、彼らの目には、同じその道も、同じエルサレムも、全く別のものとなりました。道は、主イエスがずっと共に歩いて下さった道であり、エルサレムは、神の御業が成し遂げられた場所なのです。目を開かれて、復活の主イエスを知って、彼らの目は、神の恵みを見つめる目になりました。すると、自分の人生の見方も、世界の見方も変わります。すべては復活の主イエスの御手の中にあると分かるのです。すべてが新しくなるのです。  
 そして、「本当に主は復活した」と語り始めたのです。

<教会で起こっていること>  
 このエマオの出来事は、わたしたちの物語だと言えます。ある人は、この名前が分からないもう一人の弟子は、わたしなのだ、と言いました。  
 わたしたちも、他のことに目を遮られ、暗い顔をして人生の道を歩んでいたのです。しかし、イエスさまは、すでに共におられます。一緒に歩んでおられます。  

 そして、この二人の弟子に起きたことは、まさにここ、教会において起こっていることです。わたしたちは、聖書の説き明かし、御言葉の説教を通して、神のご計画を実現する方、救い主であるイエスさまを示されます。すぐにはこの方がどなたかは分からないかも知れません。しかし、心が燃えて、この方と共にいたいと願い、受け入れようとする時、本当はこの方に招かれ、すでに受け入れられていたのだと気付くのです。
 そして、主の食卓は、教会の聖餐の食卓です。ここで、復活の主イエスと出会うのです。この方の裂かれた体によって、命を与えられ、養われるのです。
 御言葉を聞き、命の食卓に与る時、そこにまことの救い主との出会いが与えられます。主イエスとの交わりに生きるときに、わたしたちは目を開かれ、わたしの主はこの方であると、確信するのです。

 主イエスを信じることは、聖書を理解することや、十字架や復活について納得することではありません。聖書に示された神の約束を実現して下さり、苦しみを受け、復活し、生きておられる主イエスとの交わりの中で生きることです。信仰とは、復活の主イエスの命に生かされて、この方と共に人生を歩むことなのです。

 「イエスは生きておられる」。復活の主の日の朝ごとに、わたしたちは礼拝でこの恵みの知らせを、確信と共に聞きます。この方と共に歩むなら、わたしたちは絶望した暗い顔ではなく、心を燃やして、神の恵みのご支配を見つめて、新しくされた人生を歩んでいくことが出来るのです。
 そしてわたしたちは、この復活の主の恵みの中でこそ、この恵みに与るために、また心の鈍い者のために、主イエスが何をして下さったのか。その十字架の苦しみと死を、真剣に見つめ、自分の罪を悔い改め、受難節の時を過ごすことが出来るのです。

 本日お読みした旧約聖書のイザヤ書7:14は、主イエス・キリストの誕生が預言されている箇所です。「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。/見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。
 インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。イエスさまは、まさにこの預言を実現して下さり、その名の通り、いつも、今も、これからも、生きて、わたしたちと共にいて下さる方なのです。

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