夕礼拝

ヨセフの夢と従順

「ヨセフの夢と従順」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:ホセア書 第11章1-4節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第2章13-15節  
・ 讃美歌:240、512

 今日共に、読みました御言葉の箇所は、クリスマスの喜びの直後の出来事です。13節に「占星術の学者たちが帰って行くと」とありますように、先週わたしたちが聞きましたように、占星術の学者たちが、不思議な星を追いかけて、イエス様の元に来て、喜びに満ちあふれました。光る星に導かれ、真の光であるかたに出会い、学者たちは喜びに満ちあふれていた。その場面は、明るい、温かい、喜びにあふれた場面でした。しかし、今日の箇所に描かれている場面は、真っ暗闇です。ヘロデという、殺そうと追っかけてくるもの、そして真夜中の逃避行。死という恐怖に脅かされながら、逃げる。舞台は、暗く、そして緊張感に包まれています。
本日の御言葉と先週ともに読みました2章1節から、12節のところには、追い出すものと、従うもののことが書かれています。追い出すものとは、ヘロデのことです。彼は、自分がユダヤの王であったので、ユダヤの新しい王が生まれると聞いて、自分の地位を守ろうとして、イエス様を追い出そうとします。ヘロデの場合は、幼子を殺して、自分の場所から追いだそうとしていました。ヘロデは、殺すことはできなかったけれども、今日の箇所ではベツレヘム、ユダヤの土地から、イエス様を追い出すことができました。しかし、彼、今日の15節にあるように、彼は死にました。彼は、イエス様を自分の場所から追い出し、そして、いつまでも、自分の地位を脅かされるかもしれないという恐怖の中で、死にました。

追い出すものと従うもの
わたしたちは、ヘロデのように、イエス様を自分の場所から外に追いやろうとしてしまうものです。自分を中心に据えたい、自分の地位を守りたい、一度自分の地位が揺るがされると、凶暴になる。そのような性質をわたしたちは持っています。悪者から、そのようにされるのであるのならば、わたしたちは確かに、自分を守るために、その悪者を外に追いやろうとするのは当たり前だと、わたしたちは考えています。しかし、わたしたちは神様をも、外に追い出さそうと、神様を攻撃しようとしてしまうのです。真に善い方、わたしたちを救って下さる方すらもわたしたちは追いだそうとするのです。それは、自分に近づいてくる人は、すべて自分の立場を脅かすものであると、恐れているからです。その恐れのあまり、自分を救いに来て下さった方までも、悪者のように思い、近くに来ないでくれ、近くに来るなら攻撃するぞ、となってしまうのです。
ですので、わたしたちは、まず、自分に近づいてくるものを受け入れるということをする必要があります。なにかわからないものが、自分に近づいてきてもそれを受け入れるということが必要です。しかし、そのことを、想像してみるととても恐ろしいことだと思います。わたしたちは、自分の家のチャイムが鳴り、ドアの覗き穴を見て、そのドアの向こうに、近所の人でもない、知り合いでもない、配達の人でもない、知らない人が突っ立っているということを想像してみるだけで、恐ろしいですね。恐れることはなくても、その時は必ず警戒心を高めると思います。どちら様ですか?なんのようですか?とわたしたちは尋ねるでしょう。そのドアの前の人が、「わたしは、これこれこういうものです」、「あなたにお知らせしたいことがありここに来ました」と丁寧にその人が言ったとしても、わたしたちは心のそこからは、その人を信じないでしょう。
そのように、外からから来たものを、無条件に受け入れるということが、わたしたちは不可能と言っていいほどできないものです。

このようにわたしたち自身のことを振り返った上で、今日共に読みました御言葉の中に出てきますヨセフのことを考えると、実に不思議で仕方ありません。彼は、夢という形で、自分に現れた得体のしれない人、いや人でもない天使が現れ、天使の言葉を受け入れて、それまで生きていた土地、職業、家族を捨て、エジプトまで幼子イエス様と、妻マリアを連れて、その夢を見た直後に、夜の内に、逃亡するのです。わたしたちは、自分の家の玄関先に、天使と自称する人が現れて、あなたたちは命が狙われていているから、横浜から離れて、九州に逃げなさいと言われても、その言葉を信じる人は少ないと思います。

ヨセフはなぜ、そのように出来たのでしょうか。
今日の箇所では、追いだそうするものヘロデと、受け入れて従うものヨセフの姿が対比されて描かれています。ヨセフは、受け入れる人でした。しかし、彼がもともとそのような人であったのではありません。彼も、もともとは、ヘロデと同様に受け入れられないものでした。マリアが、妊娠していることを知った時、彼は、彼女が聖霊によって身ごもったと言っていることを、受け入れ事ができずに、マリアと離婚しようと考えていました。彼も、初めは追いだそうとするものでありました。しかし、彼が変わったのは、神様の言葉を聞いた日からでした。聞いたと言っても直接ではなく、夢の中で、かつ天使を通してです。夢というのは、とても不確定です。今では、夢は、自分の脳が情報を整理するために、見ているとも考えられています。ヨセフの時代であっても、夢というのは、非現実的であって、自分の想像かもしれないということは、考えられていたでしょう。さらに、その夢に、会ったこともない、天使というものが、お告げをするのです。わたしたちであるならば、不思議な夢を見たなぁと思う程度でしょう。その言葉を信じようとはしないでしょう。しかし、彼は、その夢の中で語られた言葉を信じました。実に不思議です。なぜ彼がその言葉を信じるに至ったかは聖書には書かれていません。しかし、彼のその時の状況だけは、わたしたちには理解できます。彼は苦しみの中でした。愛するマリアを離婚という形で、自分で追い出さなくてはならなかったからです。彼は、彼女の言葉を信じられない、けれども、信じて彼女を愛したい、でも信じられない。というジレンマの中にいたのです。そのような苦しみの中で、彼は、信じるものとなった。それだけが、わたしたちにわかることです。そこから、わたしたちがさらに知らされていることは、苦しみ中にあるものを、神様は放おっておかれないということです。ヨセフがまさに妻となるものを信じられないという自分の現実、自分の弱さに、苦しんでいる時に、神様は、ヨセフに夢を通して、彼を、彼の生まれながらの性質、それはわたしたちも同じである、受け入れられない、追い出す、信じることができないという性質を、ひっくり返す、新たに作り変える、言葉を与えてくださったのです。その言葉は、ヨセフにとっては、夢の中で語られた言葉でした。わたしたちには、この聖書に書かれている御言葉、そして、神様が語って下さるこの礼拝の中の説教です。この神様のみ言葉と出会わなければ、聞くことがなければ、わたしたちは信じるものにも、受け入れるものにも、なることはできないでしょう。それは、なぜか。なぜなら、まず、わたしたちは、受け入れられることを知らずに、人を受け入れられることができないからです。そして、この神様が語ってくださるメッセージは、「わたしはあなたたちを受け入れる」ということだからです。神様はわたしたちが、苦しみにあるときに、それを無視して、死んで滅びるまで待って、「あなたたちを見捨てる」などとは考えておられません。そうではなくて、「あなたたちを救うために、あなたたちと出会うために、あなたたちを受け入れるために、あなたたちといつまでも共にいるために、自分の愛する子をこの世に贈ろう」、「この愛する子が、犠牲となって死ぬことで、あなたたちは私がなんのために、この子を世に送ったかわかるであろう」、「それはあなたたちを受け入れ、あなたたちの罪をゆるし、あなたたちを救い、あなたたちといつまでも共にいるためである」と神様は考えられておられるのです。これが、神様がわたしたちに知ってほしい、メッセージ、福音です。このメッセージを聞いて、神様を追い出そうとしていたわたしたちが、実は神様に受けいれられていたのだと知ることになります。その時、初めてわたしたちは悔い改めることになるでしょう。そして信じるものなるでしょう。そして、それから追い出すものでなく、受け入れることができるものへと変えられていくのです。
ヨセフは、今日の箇所で、神様の言葉を受け入れてすぐさま行動をしています。彼の信仰がすばらしいから、すぐさま行動したのかというと、おそらくそうではないでしょう。すぐにでも、逃亡しなければ、幼子イエス様が殺されてしまうと思ったからでしょう。
ヨセフとマリアと幼いイエス様は、夜も明けない暗闇の中を歩みます。目的地は住んだこともない、見知らぬ土地エジプトです。この夜中の逃避行は、わたしたちの歩みを表しているといえるでしょう。わたしたちは、いつも恐怖の中います。わたしたちは誰かに殺されるかもしれないとは、いつも考えていませんが、じつはわたしたちはいつも命をねらわれているのです。だれに狙われているのか。それは死というやつに狙われているのです。わたしたちの人生の歩みは、いつも死からの逃避行です。長生きしたいというのは、その死に追いつかれたくないと思っているということです。しかし、いつ、その死というやつがやってくるかはわかりません。何十年後かもしれないけれども、明日かもしれない。わたしたちは、そのような死の恐れの中、死という暗闇の中にいるのです。ヨセフとマリアも同じでした。ヘロデの手下がいつ来るかもわからない。もうすぐ後ろまできているかもしれない。そのような、状況でした。しかし、ヨセフとマリアは恐れてはいなかった。なぜならば、神様の子、イエス様が共にいてくださるからです。それは、幼子イエス様が、不思議な力で、ヘロデをやっつけてくれるから大丈夫だとおもっていたのではありません。そうではなくて、イエス様が共にいて下さる限り、全知全能の方、万軍の主、すべてを支配される方である、父なる神様が守って下さるということを信じていたからです。わたしたちの人生も、死というものに脅かされています。しかし、わたしたちは、この世を歩むときに、その死に対して、恐れなくていいのです。なぜならば、イエス様が今もわたしたちと共にいてくださるからです。イエス様が共にいてくださるということを、知っている時、同時にわたしたちは神様が今もわたしたちを守り、導いてくださることを知ることができるのです。わたしたちが、イエス様を忘れて歩んでいるとき、わたしたちは、言わば自分が無防備であると、勘違いをします。本当は、イエス様が片時も離れないで一緒にいてくださるのに、イエス様のことを忘れているので、死の恐怖に怯え、真っ暗闇の中で道がわからなくなってしまったと、立ち止まってしまうのです。イエス様を忘れている状態というのは、わたしたちが目を閉じているということでしょう。本当は、イエス様が隣にいて、光を灯していてくださり、道を案内してくださっているのに、目を閉じていて、ここは、暗い、そして見えない、イエス様がいないと思ってしまっているのです。
イエス様はおられます。そして、イエス様はわたしたちに今、手を差し伸ばしてくださっています。見えないけれども、声は、聞こえます。イエス様の声です。その声のする方に、伸ばしてくださっている手があります。その手を握った時にわたしたちは目が開かれるでしょう。

次の日曜日の主日のクリスマス礼拝の中で、洗礼式が行われます。わたしたちが声を信じて、イエス様の手をにぎるというのが、信仰を告白し洗礼を受けるということでしょう。ですから、信仰を告白し洗礼を受けているものは、既に手を握られています。じゃあ、信仰者になったら、「わたしたちは、イエス様に手を握られているから、なにしてもいいや、目を閉じていてもいいじゃん」と思って、そのようにしていていいのかといえば、そうではありません。イエス様はわたしたちに、「目をさましていなさい」と言われています。これは、現実に眠るなという意味ではなく、信仰の目を開いていなさいということです。わたしたちは洗礼を受けイエス様に手を握っていただいているのに、時に眠ってしまい信仰の目を閉じてしまうのです。なぜ、眠ってしまうのかと言えば、声を聞いていないからです。手を繋いでいるけれども、イエス様の声を聞いていないので、眠ってしまうのです。わたしたちは、音のなっているところでは、普通は眠ることができません。わたしたちの体は眠らなくてはいけないのですが、信仰は眠る必要はないのです。信仰の体は、イエス様の言葉を聞きながら、ずっと目を覚ましていることができるのです。しかし、実際のわたしたちは、信仰の目を閉じ眠ることがある。だから、信仰者になっても、イエス様の言葉を聞かなくてはならないのです。パウロは、わたしたちはイエス様の姿を「おぼろに写った」ようにみているといっています。わたしたちの目は、完全には開ききっていないのが現実なのです。薄目をしている時くらいしか開いていません。だから、すぐ眠りそうになる。そのようなわたしたちですから、握られている手の感触を覚え、イエス様の声を聞き続ける必要があるのです。
そのように、しっかりとイエス様と共にいることを自覚しているとき、わたしたちは同時に、父なる神様の導きを見ることができるでしょう。わたしたちは、イエス様と共にいることを自覚してない時から、父なる神様に守られ、導かれ、養われてきました。
それが今日共に読みました、旧約聖書のホセア書11章1節から4節にかかれています。幼なかったイスラエル、エフライムと書かれているのがわたしたちです。もう一度読んでみましょう。

ホセア書11章1節
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
父なる神様は、わたしたちが幼かった時から、愛して下さり、わたしたちを、死の恐れ、暗闇、罪の中から、呼び出してくださり、我が子、つまり「神様の子」としてくださいました。
2節
わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像にこう香をたいた。
3節
エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。

しかし、わたしたちは、呼び出されたのに、時に神様以外のものを信じたり、また自分を信じたりして、神様を裏切ることをしてしまっていた。
そのようなときでも、神様はわたしたちの腕を支えて、歩かせてくださいました。そして、色々なことで傷つき、また苦しみの中にあるわたしたちを癒して下さっていた。しかし、わたしたちはそれを知らなかった。
4節
わたしは人間のつな綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らのあご顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。

そのような恩知らずなわたしたちであるのに、神様は人間の綱、つまり人間となって下さったイエス様という綱をわたしたちに結んで下さり、その愛のきずなで、わたしたちを今も導いてくださっています。そして、わたしたちの首に架けられていた、重い罪の軛を取り除いてくださいました。そして、いまでも、神様は自分を低くされて、わたしたちを養ってくださっているのです。
これが、父なる神様の導きです。わたしたちイエス様という綱に繋がれて、今も導かれています。ですから、耳を済まして、神様の言葉を聞き、目を覚ましていましょう。わたしたちは今どこに導かれているのか。わたしたちは神様の国に導かれています。わたしたちは、今、神様の国に近づいています。

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