夕礼拝

恐れずに信じる

「恐れずに信じる」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 列王記上 第17章17-24節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第5章35-43節
・ 讃美歌 ; 231、327

 
はじめに
 本日の箇所は、21節から続いていた主イエスなさった奇跡の物語の終わりの部分です。21節から43節には、二つの救いの出来事が、一つの物語として記されています。イエスの服に触れる女の話とヤイロの娘の話です。ヤイロの娘の話に挟まれるようにして、イエスの服に触れる女の話が語られているのです。先週は、この間に挟まれた、イエスの服に触れる女の話に聞きました。今日は、この話を囲むようにして記された、ヤイロの娘の復活の物語に聞きたいと思います。
 復活というのは、私たちにとって、信じがたいことです。死からの復活ということは、理性的に分かろうとして分かることではありません。むしろ、そんなことは馬鹿げているというのが普通の反応です。本日お読みした、40節には、「人々は主イエスをあざ笑った」とあります。主イエスが、死んでしまった少女について「眠っているのだ」と言われたのを聞いて、人々は、主イエスを馬鹿にしたのです。これが、私たち人間の反応です。しかし、死が支配する絶望中で、なお、命が与えられるということを、「ただ信じる」ことこそ、キリスト者の歩みなのです。

主イエスに願い出る
 この物語の最初の部分、21節から24節には、会堂長ヤイロが主イエスを見るなり、イエスの足もとにひれ伏して、願い出たことが記されています。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょう」としきりに願うのです。会堂長というのは、それぞれの会堂に一人ずついる人で、礼拝を司るつとめが与えられていた人です。礼拝における大切な役割を与えられ、会堂守のようなこともしていた人のです。主イエスは、これまで会堂で権威を持って語られたり、汚れた霊を追い出されたり、病を癒されたりしてきました。ヤイロは、当然、主イエスのことは見聞きしていたのです。しかし、主イエスにひれ伏してまで、何かを願おうとは思わなかったのです。主イエスのしていることは自分の救いとは関係がなかったのです。もしかしたら、主イエスの噂を聞いて「あざ笑う」こともあったかもしれません。しかし、この時のヤイロは違います、死の力が、12歳というまだ幼い自分の娘に迫っているのです。自分の娘の死に直面して、初めて主イエスを求めたのです。「しきりに願った」と記されています。何度も繰り返し懇願したのです。会堂長である彼にとって、当時の宗教的指導者たちである、律法学者やファリサイ派が敵視している人に自分の願いを聞いてもらうことにはためらいもあったことでしょう。しかも、それなりの地位があった者が、大勢の群衆がいる前でひれ伏して懇願するということは容易なことではなかったはずです。しかし彼は、恥も外聞もなく、主イエスに願ったのです。
 死という現実の前で、私たちは、何もすることが出来ません。そこでは地位も人間的な力も無力です。そこでこそ、私たちは本当に救いを求めるのです。私たちは人生が何もかもうまく行き、自分で自分の歩みを切り開いているかに思って、自らの死を忘れて生きる時、主イエスにひれ伏すことは少ないのです。むしろ、普段は意識することの少ない死の力が自分自身の歩みを支配していることに直面する中で、主イエスを求めるのです。ヤイロも又、そのような死の苦しみの中で主イエスを求めたのです。その求めに応じて主イエスは、ヤイロや人々と共に家へと向かうのです。

ヤイロの家への途上で
 本日お読みした箇所は、ヤイロの家に向かう主イエスとその一行について記している部分です。「イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人々が来て言った」とあります。「まだ話しておられる時」とあるように、この時、主イエスは、出血の止まらない女とまだ話をしていたのです。ヤイロの家に向かう道すがら、後ろからついて行った群衆に紛れて、十二年間出血の止まらない女が、主イエスの服に触れて癒されたということがありました。その時、主イエスは振り返り「わたしに触れたのは誰か」と自らに触れた人を捜し始めます。そして、恐れながら自ら進み出てひれ伏し、ありのままを話した女に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われたのです。主イエスは、自らの服に触れて癒された者をそのままほっとかずに、この女との真の出会いを求めて、女を捜し、そして救いを宣言されたのです。
 しかし、一方で、そうしている内にも、幼い娘の死が迫っていました。人々の考えからすると、生きるか死ぬかの境目にいる人のもとに救急車が、一刻も早く駆けつけるように、少しでも早く、主イエスを連れて娘の待っている家に辿りつこうとするのが普通です。ですから、周りにいた人にとって、急に足を止められた主イエスの振る舞いは、あまりにも不可解なことであったと思うのです。皆、少なからず苛立ったことでしょう。何を暢気なことをしているのだと思った人もいたかもしれません。ヤイロ自身はどうだったのでしょうか。困難が押し迫っていて緊急事態にある時、私たちは、周りのことが見えなくなり、自分のことがすべてになりやすいものです。ヤイロ自身も、いつになったらこの話が終わるのかとの思いを抱いていたかもしれません。

恐れることはない
 この女とまだ話している最中に、ヤイロの娘の死を告げる人がやってくるのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。この知らせ深い絶望をもたらしたことでしょう。確かに、少女は死にそうになっていました。しかし、どんなに死が迫っているとしても、まだ生きている限り希望は残っていたのです。ヤイロも娘が死にそうになったとしても最後まであきらめていなかったでしょう。しかし、その望みがたたれるのです。心のどこかでは予感していたものの、ここで、恐れていたことが、ついに現実のこととなってしまうのです。死が知らされる中で、全ての希望がついに途絶えるのです。それは、人々から望みを奪う知らせでした。かすかな望みがたたれてしまう。もしも、ここで、この女と会話をしていなかったら、間に合ったかもしれないのです。しかし、もう時間はもとにもどせない。今となっては、もはや手遅れとなってしまったのです。
 しかし、主イエスは「その話をそばで聞いて『恐れることはない、ただ信じなさい』と言われ」ます。ここで、「そばで聞いて」と訳されている言葉は、「聞き流す」という意味の言葉です。死の知らせに耳を貸さないのです。愛する者の死に直面して、人間の絶望のみが支配する時に、主イエスは、その死の告知に耳を貸すことなく、ヤイロに、ただ信じるようにとだけ言われます。「死」は恐れるのではなく、私のことを信じなさいと言われるのです。おそらくヤイロはこの時、深い恐れに捕らえられていたことでしょう。何かの間違いであってほしいと思いつつも、もう娘は戻ってこないとの思いに支配されていたのだと思います。主イエスの所までやってきてしきりに願ったことは無駄だったとの思いや、主イエスが出血の止まらない女との会話に時間を割いてさえいなければ違った結果になったのにとの思いにとらえられたかもしれません。それらのことを思うことも出来ずただ絶望の中で、呆然と立ちつくしていたのかもしれません。しかし、そのような中で、主イエスは「信じること」を求めています。ご自身に委ねることを求めておられるのです。

主イエスに対する無理解
 この時、人々は、主イエスの救いを理解していませんでした。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言う言葉からすると、人々は、主イエスのことを、病を癒す優れた医者であるかのように考えていたことがわかります。少女がまだ生きていた時なら、主イエスに来て頂いたら助かったかもしれない。しかし、死んでしまった今はもう、主イエスに頼っても無駄だ。そのように考えたのです。ここには、主イエスに対する無理解があります。主イエスは単に、病を癒す医者として、世にこられたのではありません。罪と死の力から人間を救うために、世にこられたのです。だからこそ、主イエスにとって、出血の女が癒されたということ以上に、その女と真に出会い、信仰を見いだし、救いを宣言することが重要だったのです。病を癒すことが、主イエスのこられた理由であるならば、主イエスは、癒された女のために足を止めることなく、急いでヤイロの家に向かったことでしょう。主イエスの救いというのは、病の人のもとに一刻も早く駆けつけて、肉体的に病を癒すということではありません。十二年間病で苦しむ女にも、今にも死にそうなヤイロの娘にも、ご自身を信じるもの全てに与えられる罪と死からの解放です。このことこそ主イエスがなさる業なのです。ですから、死の力に支配され、その前で何もすることが出来ないでいる時においてこそ、私たちは、主イエスを煩わすのです。「煩わす」というよりは、「委ねる」と言った方が良いかも知れません。この死の現実の前で、それを克服する、主イエスの業がなされるのです。そこでこそ、主イエスに委ねるべきなのです。
 主イエスを自分自身の判断で捉え、ただ病を癒す医者のようなものとしてとらえる人々は、結局、自分の理解出来る範囲で主イエスの救いを判断しようとしているのです。そのような時、人々は、主イエスにひれ伏していないのです。死の力に捕らえられて、どうすることも出来ない中で主イエスに委ねるのではなく、主イエスのことを理解せずに、その言葉や行いを心の中であざ笑っているのです。

主イエスにひれ伏す
 会堂長ヤイロと、出血の止まらない女は、お互いに、おかれた境遇は全く異なります。しかし、二人に共通していることは、救いを求めて主イエスに近づき、主イエスにひれ伏したということです。主イエスの服に触れることで癒された女は、恐れつつ進み出てひれ伏し、全てをありのまま話します。又、娘に死が迫ったヤイロは、イエスの足下にひれ伏してしきりに願います。ここで「ひれ伏す」と言われている言葉は、「滅びる」とか「倒れて死ぬ」といった意味でも用いられる言葉です。自分自身が、滅びる。主イエスとの出会いの中で、自分の力にのみ頼って歩んでいた古い自分が倒れ死ぬということが、ここで起こっているのです。そして、そのような人々に主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と語り、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われるのです。罪と死の力の前でどうすることも出来ないまま、打ち砕かれて倒れ死ぬ時に、主イエスに対する信仰が生まれるのです。主イエスに、ひれ伏すことのない信仰はないのです。
 この物語を読んでいて不思議に思うことは、ヤイロ自身について、記されているのは、主イエスのもとに出てひれ伏して願ったということだけであることです。その後、ヤイロがどのような思いを抱いたかとか、どのように振る舞ったとかということが記されていないのです。聖書は、そのことに注目していないのです。娘の死を告げる人々がやって来た時のことも、主イエスと共に、家についた時のヤイロの姿も記されていないのです。記されているのは、周りの人々の振る舞いについてです。押し迫る群衆がいる。人々によって死の告知がなされる。泣き叫ぶ人々や、騒ぐ人々がいるのです。その中でヤイロについて言われているのは、ひれ伏して願ったことと、そのようなヤイロに、主イエスが、ただ信じなさいと語られたということだけなのです。主イエスにひれ伏すものの歩みとは、死の力が人々をどれだけ騒がせても、主イエスへの信仰が与えられることによって、死を克服される方に委ねる歩みなのです。

人々の騒ぎと主イエスの落ち着き
 主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、ヤイロの家に着きます。そこには、あわてふためく人々がいます。大声で泣きわめいている人、騒いでいる人がいます。それを見た主イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。少女は、寝ていたのではありません。もちろん、仮死状態であったというのでもありません。確かに死んでしまっているのです。しかし、主イエスは死んでいるのかどうかを確認することもなく、寝ているのだと言われるのです。主イエスのいる所、主イエスの権威のもとでは死も眠りにすぎないようなものなのです。ここには、身近にいた人の死に直面した人々のあわてようと、主イエスの落ち着きが対照的に記されています。さらに、人々は、この主イエスの言葉を聞いて、主イエスをあざ笑います。死に直面して、悲しみに暮れ、泣きわめきつつ、主イエスをあざ笑ったのです。主イエスをあざ笑うことと、死に直面して泣きわめき騒ぐことは、密接に関連しています。それらは、主イエスにひれ伏すことがないところで起こるのです。自分の思いで主イエスを捉え、主イエスの救いとはこのようなものだと判断して、主イエスの業や行いをあざ笑う者は、罪と死の前に泣きわめき騒ぐことになるのです。
 主イエスは、泣きさけび、あざ笑う人々を外に出します。そして、両親と三人の弟子を連れて、子供のいる所へ行き、「タリタ、クム」と言われています。翻訳すると、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味であると記されています。新約聖書はギリシャ語で記されていますが、主イエスが語られたアラム語の言葉が翻訳されないでそのまま記されているものがあります。たとえば「アッバ」がそうです。主イエスが語られた言葉の響きをそのまま伝えようとしていると言って良いでしょう。「タリタ、クム」「少女よ、起きなさい」というのは、日常的によく使う言葉であったようです。朝寝坊してしいる子供に母親が「朝ですよ、早く起きなさい」と起こす時を思い浮かべて見ても良いかもしれません。主イエスは、仰々しい言葉や呪文を唱えるのではなく、普段母親が子供を起こすような言葉で娘を起こされるのです。その言葉によって少女はすぐに起きあがって、歩き出したのです。そして、朝起きた、愛する子供に母親が、食事を整えるように、食べ物を与えるよう言われるのです。ここで主イエスにとっては、終止、死の力は問題となっていません。この方において、死の知らせは耳にとまらず、死んでいる少女は、眠っているだけなのです。

主イエスに委ねつつ歩む
 主イエスは、このことを、誰にも知らせないようにと厳しく命じられます。主イエスは、驚くべき奇跡によって、人々をご自身の業に注目させようとしているのではありません。主イエスは、あざ笑う者を外に出され、主の前にひれ伏し、真の救いを求める者にのみ救いを示されるのです。ここには、一人の少女の死からの復活という出来事が記されています。この出来事は、主イエスの復活を先取りするようにして示されている復活の出来事です。主イエスはこの後、人々の罪によって十字架につけられ三日目に復活します。主イエスの復活に先んじて与るようにして、このヤイロの娘は死から起きあがったのです。主イエスは、自ら死を克服して下さる方だからこそ、死に直面するヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語って下さるのです。罪と死の力の支配の前で、私たちがなし得ることは、主イエスのもとで、「ただ信じる」ということです。主イエスが、罪と闘いつつ、十字架の上で死んで下さり、罪と死の力に勝利して、三日目に復活されたということを信じるのです。

キリスト者の歩み
 ここに記されている、主イエスにと共に家へと向かうヤイロの歩みは、キリスト者がなす歩みです。主イエスに従い、主イエスと共に歩み歩みです。その歩みの中には、確かに、突然の死が訪れます。人々が死を告知し、大声で泣きわめき、騒いでいます。そして、主イエスをあざ笑うのです。しかし、そのような死の知らせや、人々があざ笑う声の中で、主イエスにひれ伏し、ただ信じつつ歩むのです。主なる神が主イエスを十字架で死に渡され、三日目に復活させて下さった故に、罪と死は私たちを支配しないのです。私たちも又、主イエスの復活に与るものとされるのです。私たちが今日一日を歩むということは、確実にこの世における肉体の死に近づいていることに他なりません。それは、ヤイロの娘のように突然訪れるのです。しかし、その地上の歩みを主イエスと共に歩むことにおいて、その死は、滅びとしての死ではなくなります。それは主イエスによって起こされる眠りなのです。
 私たちは、毎週の礼拝において、自らの歩みを止めて、主イエスの足下にひれ伏します。この方の前で、自分の思いで主イエスの救いを判断し、あざ笑う私たちが倒れ死に、この方を人生の主とするのです。ここで、私たちは、自らを支配する罪と死を知らされると共に、その力を克服される方に自らの歩みを委ねます。そして、ここから、主イエスと共に歩み始める。その時、自らの罪と死の力に直面しつつも、「恐れることはない、ただ信じなさい」との御言葉のもとを安心して歩むものとされるのです。

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