「収穫するためにあなたを」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:エゼキエル書第34章11-16節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章35節-第10章4節
・ 讃美歌:220、513
マタイによる福音書9章36節「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。これは、35節の御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたというイエス様のお働きが、どのようなみ心によってなされていたのかを語っている言葉です。イエス様は、人々が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になりました。そして深い憐れみを覚えられました。この「深く憐れまれた」という言葉は、「はらわた」つまり「内臓」という言葉から来ています。イエス様は御自身の「内臓がよじれるような」思いになり、群衆を憐れまれたのです。イエス様は御自身が群衆とは無関係で、苦しんでいる人々をただ遠目で見て「かわいそうに」と思ったということではなくて、群衆の苦しみや嘆きを自分のものとするくらいに、自分自身のはらわたを痛めるほどに、群衆の様子をご覧になって憐れまれたのです。そしてその深い憐れみが、根本にあって、今まで、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されていたのです。イエス様がそのように、「内蔵がよじれるほど」に人々のことを憐れまれたのは、36節にあるように「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」からでした。イエス様の目には群衆がそのように映っていたのです。
前回の夕礼拝でも語りましたが、飼い主のいない羊というのは、だれにも所有されていないということです。飼い主がいないから、もどるべき牧場もない、守ってくれる者もいない、養われることもない。だから、自分で歩きまわり、外の脅威に対していつも緊張し怯える。いつも食べるものを求めてあくせくしている。病にかかっても癒やしてくれる人もいない。群衆はそのような状態になっていたのです。このような状態から、解放されたいと思っているけれども、どうすればいいかわからない。イエス様が見つめられた群衆は、そのように映っていたのです。イエス様が見つめられているこの群衆は、この話の中だけの人々ではなく、今を生きる人々も、この群衆の中に入っています。つまり、わたしたちも、イエス様にこのように見つめられているということです。
実は、人々が飼い主のいない羊のようになってしまうことには、原因がありました。「讃美歌21」には讃美歌200番の「小さい羊が」という讃美歌があります。この讃美歌は、失われた一匹の羊を捜し求める羊飼いの姿を歌ったものです。その1節に、この羊が失われていく様子が歌われています。「小さいひつじが、いえをはなれ、ある日とおくへあそびにいき、花さく野はらのおもしろさに、かえるみちさえわすれました」。この羊は、自分で、羊飼いからも群れからも離れ、遊びに行ってしまいました。そして気がついてみると、帰る道がわからなくなり、迷子になってしまった。そうして失われた羊になってしまったのです。わたしたちもしばしば、そのようにして、飼い主のいない羊になってしまうのではないでしょうか。わたしたちは、自分から、飼い主のもとを離れていってしまうことが多くあります。神様の下で、イエス様と共に生きる人生を不自由な人生だと思い、また教会という神様を信じる群れに生きることを窮屈に思い、もっと自由に、自分の思い通りに生きたい、束縛されずに、自分が好き勝手できるに自由な道を歩みたいと思って、飛び出していく。神様の下にいるのが不自由だなどと思わなくても、そもそも「神様なんて関係ない」と思って生きているということも、あの迷い出た羊と同じです。わたしたちはそうやって、飼い主のいない羊になっていったり、既にそのようになっていたりして、その結果、弱り果て、打ちひしがれていってしまうのです。
飼い主のいない羊に何が起こるのか。そのことを先ほど共に聞いたエゼキエル書34章の16節の次の節、17節以下にこのように語られています。「お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」。これは、羊と羊の間でのことです。「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す」、それは、羊が、自分のことしか考えず、他の羊のための思いやりを持つことができないという姿です。そのために、弱い羊は押しのけられ、踏み荒らされた草を食べ、濁った水を飲まなければならないということが起っているのです。
わたしは、この前、妻と息子と一緒に、青葉区にあります「こどもの国」に行きました。その園内の羊がたくさんいるエリアに行った時に、まさにこの光景を目撃しました。柵の中にたくさんの羊がいたのですが、その時飼育員の人は、そこにはおらず、羊たちは、お客さんが買った固形の餌を食べられるところに、群がってきていました。わたしたちの隣にいた小さな子が、楽しそうに羊に餌をやっていたのですが、それをよーく見ていますと、あることに気づいたのです。それは、体の大きい羊たちが前を占領し、小さな体の羊は後ろに追いやられ、大きい羊だけが餌を独占し、小さな羊はその餌を全然食べることができず、後ろで悲しそうに佇んでいたということでした。わたしは、気を利かせて、落ちていた固形の餌を、小さな羊の前に投げたのですが、驚くべきことに、それに反応した大きな羊が、小さな羊に体をぶつけ、その一粒の餌をも、奪ってしまったのです。
これが、飼い主のいない羊同士の姿ではないかと思います。飼育員さんは、おそらく小さい羊を呼び、その子だけに餌を上げたりもすると思います。その飼育員さんがいないところでは、小さい羊は食べることができないのです。ここから、飼い主のいない羊は、自分が弱り、打ちひしがれていくだけでなく、羊どうしの関係が、愛を失ったものとなり、自分勝手な思いが支配するようになり、互いに押しのけ、傷つけ合うようになっていくことがわかります。さらにそこで、小さな者、弱い者が、最も苦しむことになる。それが、まさにわたしたちの間で起っていることではないでしょうか。その現実が、まさにわたしたちが、まことの羊飼いを失っている証拠と言えるのではないでしょうか。
エゼキエル書34章は、飼い主のいない羊のようになってしまっている人々のもとに、神様が僕ダビデを牧者として遣わして下さるという約束を語っています。11節「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」とあるように、神様ご自身が牧者、つまり、羊飼いとなって群れを導き養って下さるという約束でもあることに気付かされます。これらの約束が、イエス様がこの世に遣わされたことによって、実現したのです。まことの羊飼いであるイエス様が、群れを飛び出し、失われてしまった羊であるわたしたちのあとを追いかけ、どこまでも捜し求め、見つけ出して連れ帰って下さるのです。わたしたちはこのまことの羊飼いであるイエス様によって、探し出され、群れへと、わたしたちが本当に生きることのできる場である神様のみもとへと連れ帰られるのです。それはエゼキエル書34章16節にこう書かれているとおりです。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」。わたしたちは、わたしたちの方から勝手に神様などいらないという気持ちで生きて、そのような生き方が正しいと思い込んで生きて、神様を無視して生きて、神様を悲しませて、そして自分の自由を求めて生きていました。しかしそのわたしたちは、幸せになるどころか、他者を傷つけたり、他者から傷つけられたり、時に自分を傷つけたりして苦しんで、隣人、家族もっとも近くにいる人も愛せない、それだけでなく自分自身を愛することすらできなくて、生きることがつらくなったり、いっそ死んでしまったほうがいいなどと思ってしまうほどに、深い絶望、暗い闇が支配する谷底まで迷い出てしまっていたのです。そこまで行ってしまったのは、自分たちのせいです。しかし、神様など知らんといって勝手に出て行ったわたしたちなのに、わたしたちが苦しみ、死にそうになっているわたしたちの姿をご覧になって、イエス様は憐れまれたのです。イエス様は、わたしたちがもう死んでしまったほうがいいと思っているような絶望に生きるわたしたちの苦しみを、ご自分の苦しみのように、内蔵がかき乱されるような自分の内側の痛みのように、感じてくださって、憐れんでくださったのです。イエス様はそのようなわたしたちを憐れまれ、わたしたちをその苦しみから救うために、今このようにして、この礼拝に導いてくださったのです。わたしたちは、今、イエス様に導かれて礼拝に来たと自覚していないかもしれません。そのように、自覚もしていないのに、わたしたちが気づきもしていない時から、イエス様はわたしたちを見ていてくださり、見えないところで一方的に出会ってくださり、わたしたちにこの礼拝に来させる動機を起こさせ、この礼拝まで導いてくださっていたのです。神様など知らん、関係ない、自分が正しいとして生きていたわたしたちは、本当は神様から守られたり養われたりするような存在ではなかったはずなのに、またこのように神様の御前にたって礼拝することだって赦される存在ではなかったのに、イエス様がこの世で苦しまれ、十字架で死んでくださったことにより、その命が献げられることで、わたしたちは罪赦され、神様の御前にたち礼拝することを赦され、さらに父なる神様の愛する子とまでされたのです。まったく良い子でも、善い行いをしたわけでもなく、神様に対してなにかすることができたわけでもないのに、今、養われ、守られる恵みに与っているのです。さらに、その憐れみと恵みを受け止め、イエス様の救いを信じるものには、永遠の命まで約束され、死んでも切れることのない神様との愛の関係を、イエス様は結んでくださろうとされているのです。洗礼を受けている信仰者は、そのイエス様の救いの恵みを信じ、受け止めた者たちです。イエス様は、「わたしたちを絶対に切り離されることのない綱で神様と結んでくださった」ということを、洗礼という恵みの印として示してくださいました。わたしたちは、もう迷うことのない、迷っても必ずその綱を辿ればもどることのできる羊、本当の飼い主のいる羊となる恵みをも、今、イエス様によって与えられているのです。
わたしたちは、イエス様というまことの羊飼いの下で今、この礼拝を通して養われています。それが、イエス様を信じる信仰者、弟子たちの姿です。聖書に登場する弟子たちも、かつては群衆たちと同じように、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていましたが、イエス様というまことの羊飼いに見出され、その下に養われる羊として生きるようになりました。その弟子たちに、つまり信仰者たちに、イエス様はこう言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。収穫、それは飼い主を失った羊たちが戻ってくることです。イエス様は、好き勝手して出て行った者を御自身の手で連れ帰り、救い出されることを、御自身の収穫だと、おしゃってくださっています。厄介者が帰ってきて、負債が増えたとは思われずに、イエス様はわたしたちのことは、秋の実りのような喜ばしい収穫ように見てくださっているということです。その収穫は「多い」とイエス様は言われています。収穫される見込みが多いということは、それほど、神様を見失って苦しんでいる人が多いということです。イエス様は、その多くの飼い主のいない羊のような人々を、神様はご自分のもとに連れ帰り、ご自分の牧場の羊として養い、導き、守ろうとしておられます。しかしその人々が収穫として神様のもとに呼び集められ、救いにあずかるためには、「働き手」がもっと必要であるとイエス様は言われています。もっと多くの働き手が立てられることによって、多くの人々がまことの羊飼いイエス様の憐れみにあずかることができる。その働き手を送ってくださるように、収穫の主である神様に祈り求めなさいと、イエス様は言われています。これは当時の弟子たちだけでなく、わたしたちにもこのように祈ることをイエス様は求められています。
そのように祈っていく弟子たちにイエス様がして下さることが、次の10章の始めに語られていきます。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。弟子たちの中から12人が選び出され、汚れた霊を従わせるような権威と力が与えられたのです。つまりこの12人が、「収穫のための働き手」として立てられたのです。ここに示されているのは、「収穫のために働き手を送ってくださるように」との祈りは、このようにかなえられていくということです。つまり神様は、そのように祈っている者自身を、時に、収穫のための働き手としてお立てになり、お遣わしになるということです。わたしたちが、「神様どうか収穫のための働き手を、あなたが起し、遣わして下さい」と、その祈りを本当に真剣に祈っていく中で、神様が、「わたしはお前を選んで遣わす」と言われることがあるということです。
収穫のための働き手として立てられることは、いわゆる伝道献身者となって牧師になる、ということだけではありません。十二人の弟子たちが選ばれたのは、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と言われています。それを読むと、とてつもなく大きな使命が彼らに与えられたように思います。しかし実はこれらのことは、イエス様ご自身がこれまでになさってきた働きなのです。イエス様は、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々の様子を見て、深く憐れみ、汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒されたのです。それはつまり、イエス様の憐れみのみ心が明らかにされていったということです。そのイエス様の憐れみのみ心が、さらに多くの人々に及んでいくために、わたしたちは立てられ、遣わされていくのです。イエス様の憐れみのみ心がさらに多くの人に及んでいくために、遣わされていく者とは、牧師や伝道師のように礼拝の説教で福音を語る務めに与る者たちだけではなく、実際に弱く打ちひしがれている人と関係していく人も、そうなのです。わたしたち一人ひとりのまわりにも、飼い主がいない羊、さらにその中で小さく弱くされている羊がいるはずです。その人々を、先ほどのエゼキエル書になぞらえていうとするならば、その人たちがきちんと牧草にあずかり、きれいな水を飲むことができるようにする者も、主の憐れみの御心の担い手であり、収穫のための働き手なのです。しかし、わたしたちも羊ですから、わたしたちができるのは、「餌をむざぼるような、自分を満たすために隣人などお構いなしであるというその思い」と自分が戦うこと、わたしたちに与えられている糧や恵みを、分かち合うこと、さらに言えば、「自分が、自分が」となっている人の罪や過ち、それによって自分が傷つけられたことを赦すことです。その忍耐、分かち合い、赦しに生きている時、わたしたちはイエス様の深い憐れみのみ心の担い手となり、収穫のための働き手となっているのです。そういう歩みへと、わたしたち一人一人が、それぞれの生きている場で招かれているのです。
イエス様によって選ばれて十二使徒となった人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではありませんでした。最初の四人、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、ガリラヤ湖の漁師です。当時の人々から罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人であったマタイの名もここにあります。彼らは、収穫のための働き手としての素晴らしい資質を見込まれて使徒となったのではありませんでした。彼らは皆、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた人々の一人だったのです。つまりもともとは神様を忘れ、神様を傷つけ、自分勝手に生きていた人たちだったのです。その彼らが、イエス様と出会い、羊のために命を捨て、十字架にかかって死んで下さるイエス様の、憐れみのみ心によって、生かされる者になったのです。そして主がその憐れみのみ心を人々に分け与えようとされる、そのための働き手が送られることを祈り求める者となったのです。その祈りの中で彼らは、まことに弱い、罪深い、欠けの多い者だけれども、イエス様がその働き手として自分を遣わして下さる、そのみ心を、喜びをもって受け入れる者へと変えられていったのです。同じことがわたしたちにも起こります。それは本当です。わたしもその一人です。自分勝手に生きて、家族も、幼なじみ、教会の兄弟姉妹も傷つけてしまうような私が、神様など知らんと生きていた私が、今このように、主の憐れみによって、働き手とされているのです。
今こそ、飼い主のいない羊が大量にいる今こそ、打ちひしがれている人々が多くいる今こそ、収穫の主に「収穫のための働き手を送ってください」と祈りが熱心にささげられるべき時です。多くの者が憐れみあずかるために、救いを受け止めるために、主の収穫のためにあなたの祈りを今、主が求められています。