主日礼拝

神の恵みによってある私

「神の恵みによってある私」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第103編1-22節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第15章1-11節
・ 讃美歌:7、451、529

神の恵みによって今日のわたしがある
 本日のお話の題を「神の恵みによってある私」としました。この題は、先程朗読された新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第15章10節に基づいています。そこに「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあります。この手紙を書いたのはパウロという人ですが、彼は、自分が今日あるのは神の恵みのおかげだ、と言っているのです。何々のおかげで、あるいは誰々のおかげで今日のわたしがある、という言い方を私たちはよく耳にします。それはしばしば、何か素晴しい業績をあげた人、社会的に成功し、地位や名誉を得た人、例えばノーベル賞をもらった人が、自分の人生を振返って、このような業績をあげることができたのは、成功することができたのは、こういうことのおかげだった、あの人との出会いがあったからだった、と語っている言葉です。つまり「これこれのおかげで今日の私がある」と言う時の「今日の私」とは多くの場合、社会的に成功し、業績をあげ、人々から尊敬されている「私」なのです。それではこの手紙を書いたパウロはどうだったのでしょうか。成功し、地位や名誉を得て、人々に尊敬されていたのでしょうか。このパウロはキリスト教会で「使徒」と呼ばれている人の一人です。「使徒」という言葉は本日の箇所の7節9節10節に出て来ます。その意味は「遣わされた者」ということで、イエス・キリストによって直接遣わされて、キリストによる救いを告げる福音を宣べ伝えている人のことです。パウロはその使徒の一人でした。だから1節において「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と言っているのです。この手紙はコリントという町の教会に宛てて書かれたものですが、この町で福音を、つまりイエス・キリストによる救いの知らせを最初に告げ知らせたのはパウロでした。パウロが宣べ伝えた福音を人々が信じたことによってコリント教会が生まれたのです。ですからパウロはコリント教会の人々からは、自分たちの教会の創立者として尊敬されていました。しかしイエス・キリストを信じて教会に連なっている人はコリントの町に住む多くの人々の中のほんの一握りです。町の大部分の人々はパウロのことなど知らないし、相手にもしていなかったのです。つまりパウロは、教会においてこそ使徒としてある尊敬を受けていましたが、決して社会的に地位や名誉のある人ではなかったし、成功者として人々に一目置かれてもいなかったのです。むしろ以前の彼の方が、名声もあり、人々に尊敬されていたと言えます。パウロが以前どんな人だったかは9節に語られています。「わたしは、神の教会を迫害していたのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。ここに語られているように、以前のパウロは、神の教会つまりキリストを信じる人々の群れである教会を憎み、迫害し、撲滅しようとしていたのです。それは何故かというと、パウロもその一人だったユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれて神の民とされた者たちであり、律法と呼ばれる神の掟を与えられている、その律法を守ることによって神の民として生きていると誇っており、それに対してユダヤ人以外の人々、いわゆる異邦人は、神の民とされておらず、律法も守っていないから救いにあずかることはできないと考えていたのです。ところが新しく起こってきたキリスト教会は、律法を行なうことによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってこそ救われる、その救いにあずかるのにユダヤ人も異邦人もない、と教えていました。その教えは、ユダヤ人たちが抱いている神の民としての誇りや優越感を根底から否定するものでしたから、ユダヤ人にとってキリスト教会の教えは大変けしからんものだったのです。しかもパウロはそのユダヤ人たちの中で、将来指導者となることを嘱望されていた人でした。ファリサイ派と呼ばれる、律法を厳格に守ることによって神の民として歩むことを志し、律法を守る生活を人々にも教えていたグループのエリートとして彼は育ちました。彼はそのファリサイ派の信仰に燃えて、キリスト教会を迫害し、撲滅しようとしていたのです。その頃のパウロは同胞であるユダヤ人たちから、ユダヤ人の伝統と誇りを守るために戦っているヒーローとして尊敬され、また期待されてもいたのです。
 しかしそのパウロにある日、主イエス・キリストが現れました。その出会いによって彼は180度の方向転換をして、それまで迫害し、撲滅しようとしていたキリストの福音を信じる者となりました。それだけでなく、彼に現れたキリストは彼を、キリストによる救いの知らせを人々に宣べ伝える者としてお遣わしになったのです。そのようにして彼は復活したイエス・キリストご自身によって使徒とされたのです。この人生の大転換によってパウロは、それまでユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、ユダヤ人のヒーローとして持っていた立場や名声を全て失いました。それどころかユダヤ人たちから裏切り者として激しく憎まれ、命をも付け狙われるようになったのです。それだけではありません。彼はキリスト教会の人々からも、最初のうちは、この間まで迫害の急先鋒だった者が急に信者になったなどと言っても信じられない、と疑いの目で見られもしました。そのようにあちらからも憎まれ、こちらからも疑われる中で彼はキリストの福音を語っていったのです。そしてこれは今日の日本においても同じですが、十字架につけられて殺されたイエスという男を救い主と信じるというキリスト教の信仰は、当時の人々にも容易に受け入れられはしません。コリントでもそうだったようにどの町でも彼は人々から相手にされなくなったのです。つまりパウロの今日(こんにち)は、社会的に成功したとか、地位や名誉を得ているとか、人々に尊敬されている、などということとは程遠い日々なのです。そのパウロがここで、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と、明らかに感謝を込めて語っています。何故彼はこのように言うことが出来たのでしょうか。彼が見つめている「神の恵み」とはどのようなものなのでしょうか。

神の恵み=福音
 パウロはその神の恵みを宣べ伝えています。その神の恵みを告げる言葉が「福音」です。「良い知らせ、喜ばしい知らせ」という意味です。本日の箇所の最初の1節でパウロは「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と言っています。コリント教会の人々はかつてパウロから福音を聞いて、信じたのです。それによってこの教会は生まれたのです。1節の後半には「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」とあります。あなたがたは、私が告げ知らせた福音つまり神の恵みを信じ受け入れてキリスト信者になった、そしてその神の恵みに支えられて、それを生活の拠り所として生きている、その福音をここでもう一度知らせるから、それをしっかり確認しよう、と言っているのです。続く2節では、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」と言っています。パウロが福音を、神の恵みを、どんな言葉で告げ知らせたか、その言葉を思い起こし、しっかり覚えていてほしい、そうすることによってあなたがたは、神の恵みによる救いを確かに受けることができるのだ、というのです。

福音の言葉
 パウロがどんな言葉で福音を告げ知らせたのか、その福音の言葉は3節以下に語られていくので、それを見ていきたいのですが、その冒頭に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」とあることに先ず注目したいと思います。パウロ自身も福音の言葉を先輩の信仰者から受け、聞いたのです。それを信じて受け入れ、生活の拠り所として生きているのです。そしてその言葉をコリントの人々に告げ知らせたのです。つまり福音の言葉は、教会において、人から人へ、世代から世代へと伝えられ、継承されていくものです。福音の言葉を聞いて、それを受け入れ、それを生活の拠り所として歩むことが教会の信仰です。そしてその福音の言葉を他の人々や次の世代の人々に伝えていくことも教会の大切な使命です。そのために、本日の伝道礼拝は行なわれているのです。
 3節後半の「すなわち」以下が、パウロ自身も受け、伝えた福音の言葉です。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。これが福音の言葉であり、キリスト教会が信じ、宣べ伝えていることの中心です。それは一言で言えばキリストが死んで復活したということです。しかも大事なことは、そのキリストが死んだのは「わたしたちの罪のため」だったということです。教会が信じ受け継いでいる福音とは、キリストが私たちの罪のために死んで、そしてその死から復活した、ということなのです。キリストが死んだのは、年をとって死んだのでも、病気で死んだのでも、誰かに暗殺されたのでもありません。キリストは捕えられ、裁判にかけられ、死刑の判決を受けて、十字架にかけられて処刑されたのです。つまりイエス・キリストは、生かしておくべきでない最悪の罪人として処刑されたのです。しかしその罪はキリストご自身の罪ではなくて、「わたしたちの罪」だったと聖書は語っています。キリストは、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに死刑になったのです。ということは、生かしておくべきでない最悪の罪人とは実は私たちのことだということです。本当は私たちが受けなければならない十字架の死刑をキリストが代って受けて下さったことによって、私たちは無罪放免になり、救われたのです。「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」とはそういうことです。聖書はそういう救いを語っており、教会はその救いの知らせを福音として宣べ伝えているのです。

自分の罪に気づかされたパウロ
 しかし、自分は本当は死刑にならなければならない最悪の罪人だ、などということは納得できない、と誰もが思います。以前のパウロもまさにそうでした。彼は、自分はキリストに身代わりになって死んでもらわなければ救われないような罪人ではない、ファリサイ派の一員として、神の掟である律法を厳格に守っているのだから、正しく誠実に生きているのだ、そのように生きていけば救いを得ることができるはずだ、と思っていたのです。だから彼は、人は皆最悪の罪人であり、キリストが私たちの罪のために死んで下さったことによってこそ救われると教えているキリスト教会を激しく憎み、迫害していたのです。つまり教会が、あなたはこのままではだめだ、救われない、あなたは変わらなければならない、と語っているのに対して、パウロは、自分は変わらなくてよいのだ、このままでちゃんとやっていけるのだと思っていたのです。そのパウロが、今ではキリストの十字架の死によってこそ自分は救われたと信じており、キリストによる救いの福音を宣べ伝えています。それは彼が、正しく誠実に生きていると思っていた自分が実は最悪の罪人だったことに気づいたということです。律法を厳格に守り、神に従ってちゃんと生きていると思っていた彼の歩みは、実は神のみ心とはかけ離れたものであり、自分の思いを満足させるばかりで神に敵対するものだったのです。そしてその結果彼は、人を愛するのでなく裁き、敵を作り出して攻撃し、人を苦しめ迫害する者となっていたのです。その自分の罪に気づかされたことによって、彼は180度の方向転換を遂げ、新しい人生を歩み出したのです。

復活した主イエスとの出会いによってこそ
 しかしこの方向転換は、彼が頭の中で考えて、今までの自分は間違っていたと気づいたことによって実現したのではありません。彼がこのように変えられたのは、自分のために死んで復活したキリストが彼の前に現れたことによってでした。3節以下の福音の言葉は、キリストがわたしたちの罪のために死んで復活したことだけを語っているのではありません。復活したキリストがケファ、つまりペトロに現れ、その後十二人の弟子たちに現れたことをも語っています。さらに6節以下には、「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と語られています。このように復活したキリストが多くの人々に現れ、そして自分にも現れたということが大切に語られているのです。それは、復活して今も生きておられるキリストとの出会いによってこそ、キリストによる救いを知り、それにあずかることができるからです。復活して生きておられるキリストが出会って下さったことによってパウロは、自分は神に従っているつもりでいながら全く反対に敵対しており、神に従っている人々を迫害していた最悪の罪人だったことを示されたのです。しかし彼に出会い、彼の罪をお示しになったキリストは、彼の罪のために十字架にかかって死んだキリストでした。このキリストとの出会いによって彼は、最悪の罪人である自分がキリストによって既に赦されていることをも同時に示されたのです。

主イエスとの出会いを求めていくこと
 パウロ自身も受け、伝えた福音の言葉、教会が受け継ぎ、告げ知らせている福音の言葉とはこのように、言葉による単なる情報ではありません。キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さいました、そして復活なさいました、ということが言葉としていくら語られ、私たちがそういう話を何度聞いても、それでキリストによる救いを信じて受け入れ、それによって生きていく信仰が生まれるわけではありません。教会において継承されていく福音の言葉とは、私の罪のために死んで下さったキリストが、復活して今も生きておられ、自分に出会って下さることによってこそ伝えられ、信じられ、人を生かすものなのです。皆さんの中には、今日初めて教会の礼拝に来たという方がおられるかと思います。その方々にとっては、キリストが自分の罪のために死んで復活した、などと言われても、何のことだか分からないし、そんなこと信じろと言われても無理だと思うでしょう。それは当然だし、それでいいのです。また、既に何度か礼拝に通っているけれども、信じることができない、信仰が分からないと思っている人もおられるでしょう。あるいは既に洗礼を受け、教会員となっている人の中にも、自分はどうも信仰の確信が持てないでふらふらしている、こんなことでは駄目だと思うのだけれども…、と思っている人がいるかもしれません。それらの方々に申しますが、決してあせる必要はありません。それは、復活して今も生きておられる主イエスとの出会いがまだ与えられていないというだけのことなのです。信仰は、私たちが頑張って努力して獲得したり、修行を積んである境地に達するようなものではありません。私たちの罪のために死んで復活した主イエスとの出会いによってこそ与えられるものです。その出会いは、洗礼を受ければ与えられるというわけではないし、その出会いを明確に体験していなければ洗礼を受けることができないというわけでもありません。私自身は一歳になる前の赤ん坊の時に幼児洗礼を受け、中学生の時に信仰告白をして自覚的な信仰者となったのですが、その時点で主イエスとの出会いをはっきりと与えられていたわけではありません。その出会いはその後の歩みを通して次第次第にはっきりと与えられていったのです。主イエスとの出会いはパウロのように突然劇的に与えられることもあれば、もっと静かに徐々に与えられることもあるのです。しかしどのような出会い方になるにせよ、そのために大事なことは、その出会いを真剣に求めつつ礼拝に集うことです。ですから、今日初めて来られた方も、信仰がよく分からないと思っている方も、ぜひ続けて、教会の礼拝に集っていただきたいのです。「求めなさい、そうすれば与えられる」と主イエスはおっしゃいました。聖霊なる神様が私たちに働いて下さり、この礼拝に働いて下さって、復活して生きておられる主イエスが出会って下さり、ご自身を示して下さることをご一緒に祈り求めていきたいと願っています。

神の恵みの中で生きている
 信仰とはこのように、主イエスが出会って下さることによって与えられるものです。それゆえに、どんな人でも、信仰を与えられて救われることができるのです。パウロのように、キリスト信者たちを激しく憎み、教会をこの世から抹殺しようとしていた人でも、キリストの救いにあずかり、最悪の罪を赦され、さらには使徒として立てられたのです。10節の後半で彼はこう言っています。「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。ここに語られている通り、パウロは使徒たちの中で最大の働きをしました。彼は三度にわたる大伝道旅行をし、各地に教会を生み出し、また新約聖書に収められている多くの手紙を書きました。しかしパウロはここで自分のそういう働きを誇っているのではありません。「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」ということを彼ははっきりと意識しているのです。私が今使徒として働くことができているのは、自分の力や努力によることでは全くない、それはただひたすら神の恵みによることだ、私の罪のために死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストによって、私はこの神の恵みを与えられ、その恵みの中で生きる者とされた、それが「今日の私」です。パウロはそういう「今日の私」を感謝しつつ生きているのです。

神の恵みによってある私
 神の恵みによって今日の私がある、その「今日の私」とは、それゆえに決して成功して名誉名声を得た私ではありません。人々に尊敬されている私でもありません。あるいは、パウロのように使徒として大きな働きをしている私である必要もないのです。神の恵みによってある私とは、私の罪のためにキリストが十字架にかかって死んで下さり、そして復活して、今も生きておられる方として出会って下さったことにより、キリストによる救いの中に、神の恵みの中にしっかり捉えられている私です。その私の現在の状態がどうであるか、どんな働きが出来ているかいないか、元気に生きているか否かは問題ではないのです。ここで私の親友である一人の牧師の話をします。教会の集会でも著書を紹介したことのある、中渋谷教会の及川信牧師です。彼は私と神学校の同級生であり、同い年です。その及川牧師は昨年11月末に脳梗塞で倒れ、今リハビリ中です。まだいろいろな障碍が残っている非常に厳しい状況の中にありますが、この9月27日の主の日の礼拝において、10か月ぶりに説教をすることが出来ました。まだ毎週説教できる状態ではありませんが、講壇に復帰することが出来たことは本当に感謝です。その日の説教の原稿を彼が送ってくれました。その中の一部をご紹介したいと思います。こう語られています。「今回の場合、皆さんの祈りのおかげだと思いますけれど、私は自分にとって最悪のことが起こったのではなくて、最上のことが起こったのだと思っています。つまり、神様が最上のことをしてくれたのだと思っているのです。何故かと聞かれても、それは分かりません。格好をつける訳でも何でもなく、最上のことをしてくれたに違いないと思っている。何が最上なのかは分かりません。でも、恐らく最上のことをしてくださっているに違いないから、そのことが分かるまで耐えるしかない。そう思っています。これは最初からそう思っているからそう思っている、としか言い様がないのです」。脳梗塞で倒れ、様々な障碍が残っており、牧師としての働きにおいても出来ないことがまだ沢山あり、耐えなければならない苦しみが数多くある中で、神が自分に最上のこと、最も良いことをしてくれたと思っている、何が最上なのかは分からないけれども、最上のことをして下さっているに違いないから、それが分かるまで耐えていく、これこそが、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」という信仰です。神の恵みによってある私は、病気の苦しみの中にある私かもしれない、障碍を負って生きている私かもしれない、老いの苦しみを覚え、不自由な生活を強いられている私かもしれない、いろいろな悩みや苦しみ、悲しみにうちひしがれている私かもしれない、しかしその私に、神は最上のことをして下さっている、そのことを理屈抜きで信じている、何が最上なのかと問われたら困ってしまうけれども、でも神は自分に最も良いことをして下さっているに違いないから、それが分かるまで忍耐して歩むのだ。そのように信じることが出来るのは、特別に信仰の深い人だからではありません。私の罪のために十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが自分に出会って下さったから、このキリストが共にいて下さるから、このキリストによる神の恵みの中に自分が置かれていることを知っているから、そのように信じることができるのです。このように信じて生きることへと私たちは招かれています。私たちが頑張って努力して、あるいは精進を積んでそのように考えることができるようになるというのではなくて、私たちの罪を全て背負って身代わりとなって十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きて働いて下さっている主イエス・キリストが私たちと出会って下さるなら、私たちの誰でもが、どのような人生を歩んでいても、そのように感謝して生きる者となることができるのです。その主イエス・キリストとの出会いは、この礼拝において、福音の言葉を聞くことによってこそ与えられます。主イエスよ、あなたが生きておられるなら私と出会って下さい、ご自身を示して下さい、と真剣に祈りつつ、これからもご一緒に、この礼拝を守っていきましょう。

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