主日礼拝

信仰による義認

「信仰による義認」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記第15章1-6節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第4章1-8節
・ 讃美歌:8、377、536

信仰の父アブラハム
礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、本日か ら第4章に入ります。この第4章でパウロが語っているのは、アブラ ハムという人のことです。聖書の章や節はパウロ自身が付けたもので はなくて、後の人が便宜的に付けたもので、時々おかしな区切り方に なっていることもありますが、この第4章は確かに、アブラハムにつ いて、ということで括ることができる部分なのです。
アブラハムとはどのような人でしょうか。1節に「肉によるわたし たちの先祖アブラハム」とあります。アブラハムは、パウロもその一 人であるユダヤ人、イスラエルの民の先祖です。しかも、先祖の一人 というのではなくて、イスラエルの民の歴史はこの人から始まった、 まさに最初の人、一番最初の先祖なのです。このアブラハムの息子が イサクであり、イサクの息子がヤコブです。そのヤコブの息子たちか ら、イスラエルの十二の部族が分かれていきました。ですからユダヤ 人、イスラエルの民は、どの部族の人も、先祖を辿っていけばアブラ ハムに行き着くのです。「肉によるわたしたちの先祖」という言葉は そういう血筋における先祖を意味しています。しかしアブラハムはイ スラエルの人々にとって、血筋における先祖であるだけではありませ ん。そもそも、血筋におけることなら、最初の先祖という言い方はお かしいわけです。アブラハムにも当然両親がいたわけだし、さらに先 祖たちがいたのです。それなのに、このアブラハムがユダヤ人の最初 の先祖であると言われるのは、彼が神の呼びかけを受け、それに応え て故郷を離れ、神が示す地へと旅立ったからです。そのことは旧約聖 書、創世記第12章に書かれています。そこから、神の民としてのユ ダヤ人の歴史が始まったのです。つまりユダヤ人の歴史は、一人の人 が神の呼びかけに応えて旅立ったことによって始まったのです。それ は信仰の旅立ちです。聖書の教える信仰には、旅立ちという性格があ ります。それまでの、生まれつきの古い生活を捨てて、神の招きに応 えて旅立つ、神の導きに従って、神の示される方向へと歩み出してい く、それが信仰者となることなのです。アブラハムはそういう信仰の 旅立ちをした、それによって彼は、神の民イスラエルの最初の先祖と なったのです。それゆえにアブラハムは、ユダヤ人たちにとって血筋 における先祖であるのみでなく、信仰の先祖です。アブラハムのこと を「信仰の父」とも呼ぶのです。アブラハムが我々の先祖である、と いうことを覚えることによって彼らは、自分たちが神に選ばれ、神の 召しを受けて神と共に歩む信仰の民なのだということを確認している のです。

信仰による義認の証人
そのアブラハムのことをパウロがこの第4章で取り上げて語ってい くのは何のためでしょうか。それは3節を語るためだと言えるでしょ う。「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。 それが、彼の義と認められた』とあります」。アブラハムは神を信じ たことによって義と認められた、つまり信仰によって義とされた、義 とされたというのは、神の前に正しい者と認められたということであ って、救いを与えられたという意味になります。アブラハムは信仰に よって救いを与えられたのだ、ということをパウロは語ろうとしてい るのです。それが、パウロがこの手紙で語っている福音の中心です。 その福音の中心は、3章21節以降に語られてきました。それは、自 分の正しさ、善い行いによっては義とされることができない罪人であ る私たちが、主イエス・キリストの十字架の死による贖いによって、 ただその主イエスを信じる信仰によって、無償で義とされ、罪の赦し を与えられ、救われる、ということでした。神の恵みのみによって、 それを信じる信仰のみによって義と認められる、つまり救われる、そ れが救い主イエス・キリストによって実現し、私たちに与えられてい る福音、救いの知らせなのです。それを「信仰による義認」と言いま すが、イスラエルの最初の先祖であるアブラハムもその救いにあずか ったのだ、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた 」というのはそういう意味だ、とパウロは語っているのです。つまり 彼は、イエス・キリストによって実現した信仰による義認の証人とし てアブラハムをあげているのです。そうすることによって彼は、信仰 による義認はイエス・キリストによって初めて生じたことではない、 信仰の父であるアブラハムから既に始まっていたのだということを語 ろうとしています。3章21節で彼は「ところが今や、律法とは関係 なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されまし た」と言いました。イエス・キリストを信じる信仰によって罪人であ る私たちに神の義が与えられるという福音は、律法と預言者によって 立証されている。律法と預言者というのは、要するに旧約聖書のこと です。旧約聖書が既に、信仰による義認を証ししている、そのことを アブラハムにおいて具体的に示そうとしているのがこの第4章なので す。

アブラハムは行いによって義を得たのか
彼は何故そのようなことをするのでしょうか。それは、パウロが宣 べ伝えているイエス・キリストの福音、神の恵みのみによって、信仰 のみによって義とされるという福音に対して、ユダヤ人たちが、この アブラハムを盾に取って反論していたからです。その反論がこの4章 の1、2節に反映しています。「では、肉によるわたしたちの先祖ア ブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって 義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできませ ん」。ここから分かるユダヤ人たちの反論は、アブラハムは行いによ って義とされたのだ、ということです。アブラハムは神によって義と され、救われて、神の民イスラエルの最初の先祖となるという祝福を 与えられました。その祝福は、アブラハムが、信仰に基づく自分の行 いによって得たものだった、とユダヤ人たちは考えていたのです。そ れゆえに、パウロが語っている、行いによるのではなくて、イエス・ キリストを信じる信仰のみによる義認に対して、信仰の父であるアブ ラハムはそうではなかった、人が義とされ救われるのは、ただ信じる ことによってではなくて、その信仰が行いとして現れる、その行いに よるのだ、と反論していたのです。

信仰には行いが伴う
この主張はある意味で至極尤もなことです。信仰というのは頭の中 の観念ではありません。あるいは、気持ちの高まりや感動でもありま せん。信仰は、実際の生活の中に、思いと言葉と行いの中に現れるも のです。行いのない信仰などあり得ません。例えばアブラハムは、先 ほど申しましたように、神の呼びかけを受けて、父の家を離れて神の 示す地へと旅立ったのです。旅立つという実際の行動、行いなしに、 ただ「自分は神の呼びかけを受けた」と思っていたり感動しているだ けでは何にもなりません。彼が信仰の父となったのは、実際に旅立っ たからです。そしてこのアブラハムの信仰ということを考える時に忘 れることができないのは、彼が長年待ち望んできてようやく与えられ た一人息子のイサクを、犠牲として献げよ、という命令を神から受け た時に、彼がその命令通りにイサクを殺して献げようとしたという、 創世記22章に語られている出来事です。あれなどはまさにアブラハ ムの信仰が、神への具体的かつ徹底的な服従の行為として現れている 代表的な姿です。ユダヤ人たちは、そのようなアブラハムの姿を見つ めて、彼が義とされ祝福を得たのは、信仰に基づく行いによってだ、 と言っているのです。それは尤もなことで、私たちの信仰においても 言えることです。信仰は、「自分は神を信じている」と思うことでは ありません。神に愛され、守られていると感じることでもありません 。信仰とは、神を信じて日々を生きることです。神に愛され、守られ ている者として人生を歩むことです。そのためには、アブラハムが旅 立ったように私たちも、神の語りかけに応えて、生まれつきの自分の 生き方を捨てて、神の導きに従って旅立つのです。新しく生き始める のです。「信仰のみによる義認」という福音は私たちをそのように新 しく旅立たせるものです。そのことを忘れてはなりません。信仰のみ によって義とされ、救われるという福音が、私たちを、それまでの古 い生活の中に安心して埋没させるような働きをすることはあり得ない し、そうであってはならないのです。新しく生き始めることをもたら さないようなものは福音ではありません。パウロ自身、イエス・キリ ストの福音によって、180度の方向転換を体験し、全く新しい人生 を歩み出したのです。新しくされることなしに救いはないのです。

「信仰とは人間の行いである」という落とし穴
このように、信仰は実際の生活の中に、思いと言葉と行いの中に現 れるものであり、行いのない信仰などあり得ない、というのは至極尤 もなことです。しかしこの当然のことを見つめていく中で、私たちは ともすれば落とし穴に陥ります。それは、「信仰には行いが伴う」と いうことがいつのまにか、「信仰とは人間の行いである」ということ にすり替わってしまう、ということです。「信仰には行いが伴う」と いうのは、別の言い方をすれば、私たちが神を信じ、従っていくのは 、この世の具体的な生活の中でであって、具体的な日々の生活から離 れたところで信仰の生活を送るわけではない、ということです。そこ において私たちの目は神を見つめているのです。神を見つめつつ、神 のみ言葉を聞きつつ、日々の具体的な人生を歩んでいくのです。とこ ろが「信仰とは人間の行いである」ということになってしまうと、私 たちの目は、神ではなくて人間の信仰の行いを見つめるようになって しまいます。信仰の行いをどれだけきちんと、立派にすることが出来 ているか、を見つめるようになるのです。そこで追い求められていく のは、自分は信仰の行いを立派に出来ていると胸を張ることができる か、ということです。そこには当然、他の人の信仰の行いとの比較が 生じます。他の人よりも自分の方が信仰の行いを立派に出来ていると 思えば安心し、優越感を感じ、「自分はあの人よりもちゃんと信仰に 生きている」と誇るようになり、さらには他の人のことを、「あの人 の信仰には行いが伴っていない」と批判するようになります。逆に他 の人の方が自分よりも立派な信仰の行いをしていると思うと、引け目 を感じて落ち込んでしまい、自分のような者は信仰者とは言えないの ではないか、教会に来る資格などないのではないか、と思ってしまい ます。自分のような不信仰な者はとてもついて行けません、と言って 教会を去っていく人が時々いますが、そういう人は大抵そのように、 他の人と自分を見比べているのです。自分は立派な信仰者だと胸を張 っている人と、自分のような不信仰な者はと去っていく人と、表面的 な現象は正反対ですが、両者は本質において同じ間違いに陥っていま す。どちらも、神ではなくて、自分の信仰の行いばかりを見つめてい るのです。信仰に行いが伴うのではなくて、人間の善い行いこそが信 仰だということになってしまっているのです。その根底には、善い行 いをしている自分に満足し、安心したい、そういう自分を人に対して 誇りたいという思いがあります。「信仰には行いが伴う」が「信仰と は人間の行いである」にすり替わってしまうと、信仰は、自分に満足 し、安心し、自分を誇るための手段になってしまうのです。
ユダヤ人たちはこういう落とし穴に陥っていました。信仰を、人間 の善い行いにしてしまって、それによって満足し、安心を得て、さら にはそれによって他の人々、異邦人に対して誇っていたのです。そし て彼らは、自分たちの先祖、信仰の父アブラハムをもそのような目で 見ていました。アブラハムは立派な信仰の行いによって義とされ、神 の祝福を獲得して、ユダヤ人が神の民となる土台を築いた、我々もア ブラハムの子孫として、神が与えて下さった律法を守り、善い行いに 励むことによって、神に選ばれた民として歩んでいる、だから異邦人 たちとは違って我々は神の救いを約束された民なのだ、ということで す。彼らにおいても信仰は、自分に満足し、安心し、自分を誇るため の手段となってしまっていたのです。

アブラハムの信仰
パウロは、ユダヤ人たちが誇りの拠り所としているアブラハムのこ とを2節で、「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇っ てもよいが、神の前ではそれはできません」と言っています。アブラ ハムは行いによって義とされたのではなかった、だから彼は誇ること はできないのだ、というわけです。そのことを彼は3節の聖書の引用 によって明らかにしているのです。「アブラハムは神を信じた。それ が、彼の義と認められた」。この3節は先ほど共に読まれた旧約聖書 、創世記第15章の6節の引用です。先ほどは1-6節が朗読されま した。それによってこの6節がどういう場面において語られているの かが分かります。アブラハム、当時はまだアブラムと呼ばれていまし たが、彼は神から、あなたに大いなる祝福を与え、あなたの子孫を大 きな民とするという約束を与えられて旅立ったのです。しかしそれか ら何年も経っても子供が与えられず、自分も妻も既に年老いていまし た。子供がいなければ、あなたを大いなる民とするという約束は虚し いものとなります。アブラハムは、神の呼びかけに応えて信仰の旅立 ちをしたけれども、その信仰は結局実を結ばずに終わろうとしている 、神を信じて生きてきたけれどもそれは無駄だったのではないか、と いう思いの中にいるのです。そういう思いを示しているのが、「あな たが子供を与えて下さらなかったから、私の跡を継ぐのは家の僕の一 人であるダマスコのエリエゼルです」という言葉です。しかし神は彼 のその言葉を否定して、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あ なたから生まれるものが跡を継ぐ」とおっしゃいました。そして彼を 夜、外に連れ出して「天を仰いで星を数えることができるなら、数え てみるがよい、あなたの子孫はこのようになる」と言われたのです。 アブラハムはこの神のみ言葉を信じ、主はそれを彼の義と認められた のです。ここでアブラハムは何か善い行いをしたわけではありません 。彼はただ信じただけです。神のみ言葉をそのままに受け入れたので す。人間の常識からすればとうていあり得ないことを、何も根拠もな く、ただそれが神のみ言葉であるがゆえに信じたのです。その信仰に よって彼は義とされたのです。そこで私たちはすぐにまた、彼はとう てい信じられないことを信じるという他の人には真似の出来ないよう な純粋な信仰によって義を得たのではないか、と考えてしまいがちで す。しかし明らかなことは、アブラハムは「主を信じた」ことによっ て、自分が何か素晴らしいことをした、という満足や安心感を得たわ けではないし、その信仰は他の人に対して誇ることができるようなも のでは全くない、ということです。人間の目には希望がないとしか思 えない状況の中で、神のみ言葉を信じて、それに賭けて生きることは 、自分はこんな善い行いをしていると自己満足や安心を得ることがで きるようなことではありません。またそれは人に誇れるようなもので もありません。むしろ人からは、何とおめでたいやつだ、と馬鹿にさ れるのがオチです。アブラハムのこの信仰はこのように、人間の善い 行いの一つになってしまうことのあり得ないものなのです。それを別 の言い方で言えば、アブラハムはここで、信じている自分を見つめて いるのではなくて、ただひたすら神を見つめ、神が自分に語りかけて 下さったみ言葉に依り頼んでいるのです。神の前で全く受け身になっ て、神に自分の人生をお委ねしているのです。それがアブラハムの信 仰でした。その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。このことに おいて彼は私たちの信仰の父なのだ、とパウロは言っているのです。

不信心な者が義とされる
このアブラハムの信仰による義認をパウロは4、5節でこのように 見つめ直しています。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではな く、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な 者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認 められます」。信仰を人間の善い行いとして捉え、それによって救い を獲得することができると考えるとすればそれは、自分が働いた分の 賃金の支払いを雇い主に求めるように救いを神に求めていることにな ります。労働者に対する賃金は、当然支払われるべきものです。雇い 主はそれを払う義務があるのです。私たちが、信仰を神に提供する善 い行いと考え、その善い行いによって救いが得られると思うなら、私 たちは神を、私たちの善い行いに対して救いという賃金を支払う義務 のある雇い主にしているのです。賃金は、雇い主が働いた者に対して 負っている負債です。つまり私たちの善い行いによって、神が私たち に負債を負っていることになるのです。神と私たちの関係においてそ れは間違っている、とパウロは言っているのです。だから、働く者に 対する報酬として救いを考えるのは間違っているのです。神が私たち に対して負債、借金を負っているのではありません。全く逆であって 、私たちの方こそ神に負債がある、返さなければならない借金がある のです。それが私たちの罪です。神に背き逆らっており、神をも隣人 をも、愛するよりも憎み傷つけてしまうことの多い私たちは、償わな ければならない罪という負債を神に対して負っているのです。しかも その負債は、私たちが自分の力で償い、返済できるようなものではあ りません。むしろ私たちは日々罪を重ねて、負債を返すどころか増や してばかりいるのです。ところが私たちは、この負債をすぐに忘れて しまって、自分が少しでも善いことをすると、そのことを誇り出し、 神は自分のこの善い行いに報いを与えるべきだ、などと思い始めるの です。しかしそのような思いは、自分の罪をあまりにも過小評価し、 逆に自分の善い行いをあまりにも過大評価している間違いです。罪人 である私たちが義とされ、救われるのは、5節に語られているように 、「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくて も、その信仰が義と認められます」ということによってでしかないの です。不信心な者が義とされる、不信心とは、神を信じない、神とし て崇め、従わない、神との関係が正しく持てていない、ということで す。それが私たちの現実の姿であり、私たちが罪人であるというのは 、何か犯罪を犯しているということではなくて、この「不信心な者」 だということです。私たちはこの不信心を自分の力でどうすることも できません。神との関係を自分で正すことは出来ないのです。しかし 、その不信心な者を義として下さる方がおられます。不信心な私たち のために、この世に人間として来て下さり、私たちの不信心の罪を全 て背負って、身代わりとなって十字架の死を遂げて下さった神の独り 子、主イエス・キリストです。この方を信じる者は、働きがなくても 、つまり善い行い、すぐれた業など何もなくても、神の独り子イエス ・キリストが成し遂げて下さった贖いの業、ご自分の命を犠牲にする ことで私たちの罪の負債を全て支払って下さり、神との関係を正常化 して下さった恵みのみ業にあずかり、義とされ、救われるのです。

信仰によって義とされつつ
それが「信仰のみによる義認」という主イエス・キリストの福音、 喜びの知らせ、救いの知らせです。罪人である私たちの救いはここに しかありません。そしてここでは、私たちの善い行いは救いの根拠と はなり得ません。キリストの十字架による救いにおいては、私たちは どんな善い行いも、自分の功績として誇ることはできないのです。ま たここでは、信仰は人間の善い行いではありません。不信心な者を義 として下さる神の恵みの前で、徹底的に受け身となり、み言葉を聞き 、神に自分自身を、自分の人生をお委ねすることが信仰なのです。そ れがアブラハムの信仰でした。その信仰によって彼は神の約束を信じ て旅立ったのです。その旅路において彼は様々な失敗を重ねました。 しかし自分がどのような信仰の行いをすることができているかではな く、救いを与えて下さる神をこそ見つめ、そのみ言葉を聞いていたか ら、彼は神によって義と認められ、信仰の旅路を最後まで歩み通し、 イスラエルの民の最初の先祖、信仰の父となることができたのです。 私たちも、主イエスの語り掛けを受けて旅立ち、その歩みにおいて、 自分がどれだけ信仰者らしい善い行いをすることができているかを見 つめて一喜一憂するのでなくて、不信心な者を義として下さる主イエ ス・キリストをひたすら見つめる信仰によって義とされつつ、主の約 束して下さっている救いに向かって歩んでいこうではありませんか。

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