夕礼拝

あなたのお考えであるならば

「あなたのお考えであるならば」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:エゼキエル書第37章1-6節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第8章1-4節
・ 讃美歌:353、504

 イエス様が山の上で語り終え、山から下りられる時、山に共に上り、山の上でイエス様の教えを聞いていた大勢の群衆もまた、イエス様に従って山を下りました。イエス様は山を下っても、山の上と同じように、まわりには大勢の群衆がいました。山を下ってきた時、最初にイエス様に向き合って、話しかけたのは、この群衆の中のひとりではありませんでした。群衆と共にいることのできないひとりぼっちで孤独な人が、イエス様に近寄ってき向き合いました。イエス様はその一人を御手をもって受け止めます。そして癒やし、清められました。イエス様は、この一人の人の信仰を見ておられました。この人のイエス様に対する信頼を、イエス様は受け止められました。そして、イエス様は、すべてのものから離されて、孤独となっていた者を、神の民の一人、父の子の一人であることを証ししてくださいました。そして、この地でも、部外者ではなく、神の民の一人として歩むようにしてくれました。わたしたちもまた、異邦人です。そして、病んでいる者の一人です。今日、イエス様にこの一人の人と同様に受け止められていることを聞いて参りましょう。今日、この一人の人のイエス様への信頼の姿と、それにイエス様がどう応えられたのかを通して、福音を聞いて参りましょう。  

●イエス様の信仰発見物語  
 このマタイによる福音書、8章1節から4節、5節から13節までを、ある説教者はイエス様の「信仰発見物語」だといっております。本日の箇所ではないですが、5節から登場する百人隊長とイエス様は出会い、彼の言葉を聞いて、10節でイエス様が「感心」される場面があります。この感心するという言葉は、「驚かれる」という言葉です。また10節で、「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われます。この見たことがないという言葉の「見る」という言葉は「発見する」を意味する言葉です。「イスラエルの中で」といっておりますが、「イスラエル」とはユダヤ人のことで、特に選ばれた神の民であることを強調する時に「イスラエル」という言葉を用います。イエス様は、選ばれた神の民の中でも、発見できなかった信仰を5節から登場する異邦人であるローマの百人隊長の中に発見されました。  本日の8章1節から4節での登場人物は、イエス様と大勢の群衆、そして重い皮膚病を患っている人です。新共同訳聖書の初期の版では、この重い皮膚病はらい病となっていました。今で言うハンセン病です。しかし、この重い皮膚病が指す皮膚病が、必ずしもハンセン病というわけではないようで、現在の版では「重い皮膚病」となっています。この重い皮膚病を患っている人は、元来ユダヤ人であるとされています。しかし、重い皮膚病にかかったものは、ユダヤの民、イスラエルの民の中の一人には数えられないものとされていました。レビ記13章14章に出てきますが、重い皮膚病を患ったものは、「汚れたもの」とされ、イスラエルの人が住む場所には共に住んではならず、レビ記の時代の当時は独り宿営の外で住まわねばならないという律法がありました。この重い皮膚病の人もまた、5節以下に出てくる百人隊長と同様に、神の民に属していないものとされていました。しかし、イエス様は、山を下りられて一番に、この重い皮膚病の人の信仰を発見されます。

●山から下りても興味で群集が近づいてくる  
 イエス様が山を下りられた時の状況をもう一度振り返っておきましょう。イエス様が山を下りても、群集は従ってきていました。彼らは、7章28節にあるように、山上でイエス様の言葉聞き、イエス様を「権威ある者としてお教えになっている」と非常に驚いておりました。まだまだ、教えを聞きたいと思っていたり、イエス様についていくことが自分にとって良いことだと思っていたりしたのだと思います。だから、山を下りてもなお、付いてきていたのでしょう。しかし、本当の意味で、イエス様に近づいたのは群集ではありませんでした。先ほども申し上げましたが、イエス様はこの群集の中からは、イエス様に対する、また父なる神様に対する信仰を発見することはありませんでした。山を下りられた時に、イエス様が発見された信仰者は、この群衆にいることも、近寄ることもできない者でした。それが重い皮膚病の人です。

●群衆に拒まれていた重い皮膚病の人  
 重い皮膚病の人は、律法にあるように、汚れたものとされていたため、群集に近づいてはなりませんでした。人が自分に近づかぬように、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげをはやすという形で、わたしは汚れたものであると示さねばなりませんでした。また、もし人が知らずに自分の方に近づいた場合は、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と言わねばなりませんでした。そうしなければならないということが、律法で決まっておりました。この重い皮膚病の人は、群集の中に入ることはできなかったので山上の説教を聞くことができていたかはわかりません。できていたとしても、最も遠いところから聞いてはずです。この人は、イエス様が山上にとどまっている時は、近づくことができませんでした。おそらく、群集や弟子たちがイエス様のまわりを囲んでいたからでしょう。ですが、今、イエス様が山上を下りられた時、彼は最初から山の下にいたのか、イエス様が下りられる方に先回りしたかはわかりませんが、イエス様が動かれたことで、群集がイエス様に付いてくる形になり、近づくことができるようになりました。イエス様が動き出されたことで、彼はイエス様への道が開かれました。彼は、だれもそばに寄る事のできないものだから、そのタイミングしかないと思っていたのではないかと思います。彼は孤独で、誰にも近寄ることができないものであったために、イエス様に対して誰よりも近づくことができました。イエス様が動き出され、そして、彼はイエス様のみ前に近づくことができたのです。

●律法違反?  
 彼がイエス様に近づいたというのは、律法を言葉の通りに受け取るならば、戒めを破ったことになります。重い皮膚病の人が近づくことができたのは、汚れているかどうか、治ったかどうかを判断する祭司だけです。それ以外のものに、近づいたのならば、それは律法違反です。もし、彼が律法を言葉通りに忠実に守っているのならば、彼はイエス様にも近づくことさえできません。しかし、彼は、ここで、律法を守るか守らないかということなど考えてはいなかったのではないかと思います。彼は、自分の目の前におられる方が、「真の主、救い主であるから、わたしを清め、癒すことができるお方だ」とそう考えていたのです。だから、自分を癒やし、救ってくださる方が自分に近づいてきてくださったから、「清められたい、救われたい」と単純にそう思って近づいたのです。その時、彼は律法を守ることによって救われるのではなく、この目の前におられる方が自分を救ってくださるのだと、心にそう思ったでしょう。彼のこの行動は、それを指し示しています。

●受け止めてくれることを信じている病人  
 この重い皮膚病の人は、イエス様が自分の病を受け止めてくださると信じていました。でなければ彼はイエス様に近づくことはしないでしょう。イエス様に皮膚病が移ってしまうかもしれないから、迷惑をかけることになるから、近づいて毛嫌いされるかもしれないからなどを、考えていたのならば、足は前に進むことはなかったでしょう。この重い皮膚病の人は、この方は、「わたしが皮膚病であって、そうではなくても、必ず受け止めてくださる」とイエス様を信頼しておりました。山上の説教を遠くから聞いていた時に「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」という言葉を聞いた時に、彼はその言葉通りに求めよう、近づいてみよう、イエス様という門を叩いてみようと思い、その通りにしたのです。「この方が必ず与えてくださると言っている。だから、近づいて、求めよう」と彼は思い動いたのです。彼はイエス様の言葉も信じていたのです。

●わたしたちはどうか  
 わたしたちは、この重い皮膚病の人を見ている時に、はっとさせられることがあります。もし自分がこの人だったら、イエス様に病気を感染させてしまうから、近づかないでおこうと思うのではないかと思います。わたしたちは、時にそのような謙虚さをだしてしまうことがあります。「自分は汚れているから、近づくのはやめておこう」としたのならば、それは一見、謙虚な姿勢のように見えます。しかし、自分が汚れているから近づかないほうがいいというのは、実は、妙な謙虚さです。自分が汚れているから近づかないほうがいいということは、言い換えれば、あの人に頼ると迷惑なってしまうからやめておこうという気持ちです。わたしたちにも、そのような思いをいつもします。それは特に隣人に頼る時に現れます。「こんなこと頼んだじゃったら、苦しい時に、助けを求めたりしたら、あの人の時間を奪っちゃう。」「あの人がやりたいことができなくなるかもしれない。あのひとも、わたしの苦しさを知ると、それが重荷になり、同じように苦しくなるかもしれない」と、わたしたちは考えます。確かに、わたしたち人は弱いものでありますし、限界がある存在です。隣人もまた同じ限界がある存在です。だから、苦しみを分かち合うのには、限界があるとわかっているから、わたしたちは、苦しんでいる時、病の時、心が重くなっている時、イライラが止まらない時、そのようなときでも、我慢しようとします。しかし、時に、神様にも同じ態度をとってしまうことはないでしょうか。神様に対して迷惑だからと思う人は、あまりいないかもしれませんが、頼ろうとしないということは、多くあると思います。自分で抱えこんで、誰にも相談もできず、孤独になるということがあります。神様は人とは違います。限界が在る方ではありません。尽きることのない憐れみと、すべてを受け止めることができる力強いみ腕をもっておられる方です。神様は、苦しんでいる重荷を負っているものに、「迷惑だから近づくな」と言われません。そうではなくて、重荷を負い、苦しんでいるものに「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」といってくださる方です。その重荷や病を共に担い、受け止めてくださる方なのに、わたしたちが神様にこの重い皮膚病の人のようには近づかず、頼らないということは、わたしたちが、神様のことを「力弱気、限界がある、小さなもの」「限界のある人間」と同じであると考えているということです。そのような神様に対する不信頼がわたしたちのどこかにあるからそう思うのです。この重い皮膚病の人はそう信じてはおりませんでした。重い皮膚病の人は、ただ「この方は自分をいやすことのできる方だ」「だから救いを求めてもよいのだ」とそう信じたのです。

●御心ならば  
 この重い皮膚病を患っている人はイエス様にこう言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。この御心ならばというのは、これは、「どちらでもわたしはいいのですが御心ならば、清くしていただきたい」という妙な謙虚さを出す言葉ではありません。「御心ならば」とは、「イエス様が意志されるならば」、わたしを清くすることが出来ますという、彼の確信を言い表しています。この「御心ならば」という言葉の元の言葉を見てみますと、「あなたが欲してくだされば」という意味になります。あなたが欲してくだされば、必ず清くなる。この文を直訳すれば「もしあなたが欲されるのであれば、あなたは私を清くすることができます」という意味になります。ここには、わたしを救って欲しいという願いだけでなく、あなたこそがわたしを救ってくださるという確信が込められています。ですからここで彼は、「あなたはわたしを救うことのできるお方です。」という告白しているといえるでしょう。それは「イエス様、あなたこと救い主である」という告白です。

●イエス様の自由は侵害しない  
 彼は、イエス様のことを自分の救い主だと確信していても、「イエス様、あなたは救い主だから、わたしを救うのは当たり前だ」という気持ちは持っておりませんでした。あくまでも、かれは「主の御心ならば」なのです。自分は癒されることを求めるし、与えられると確信していても、なお、その与えられた理由が、自分が願ったから、欲したからというのではなく、「イエス様のご意志だったから、イエス様がそう望まれたから、自分が癒やされた」という帰結を彼は望んでいるのです。彼は、イエス様の自由な決断やご意志を侵害しようとはしていません。彼は「求めれば、与えられる」ということの、真意をわかっていたのでしょう。求めれば与えられるというのは、求めたことが根拠となって与えられるということではありません。与えられるのは、求めたからでなく、なによりも、父なる神様がわたしたちに恵みを与えること望まれたからということが、最大の根拠です。それと同じように、重い皮膚病のこの人も、イエス様の望み、イエス様のご意志として、癒やしが行われることを望んだのです。

●差し伸べてという言葉は「広げる、拡張する」という意味を持つ  
 その信仰の告白と願いに対してイエス様は、3節にあるように「手を差し伸べてその人に触れ」ました。この手を差し伸べるの「差し伸べる」という言葉は、元の言葉の意味を見てみますと、「伸ばす」という意味だけなく、広がりを意識した「拡張する」という意味を持っています。ここから、複数のことを気付かされます。ここを、「イエス様が手を広げられた」と訳するのであれば、イエス様は、この重い皮膚病の人を受け止めるため手を広げたということを見て取れるでしょう。病に蝕まれ、人々に離されて、孤独となっていたこの人を、イエス様はその手で受け止めてくださったということが示されているのです。これは、「もう独りではない、わたしが共にいるという、その病を引き受ける」ということのジェスチャーであるといえるでしょう。もう一つ、この「広がり」を意識してこの言葉を使ったのは、ユダヤの民以外のものが、つまりイスラエルの民の外に置かれたこの人のような者たちに、救いが広げられたということがこの一言に表わされているのではないかと思います。

●イエス様は、自分は神の子だから感染しないと思っていたから触ったのではない。  
 イエス様は、この重い皮膚病の人に手を広げ、手を伸ばし、触れました。わたしたちだったら、この人の体に触るということは、躊躇してしまうのではないかと思います。感染するのではないか、重荷を負わされるのではないかと考えると思います。この思いは、形を換えれば、苦しんでいる隣人に対して、わたしたちが近づくと、めんどくさいことになるのではないか、重荷を負うことになってしまうから、嫌だなぁとかんがえることと同じです。イエス様は、そうではありませんでした。イエス様がこの重い皮膚病の人に躊躇なく触れていたということは、その人の病気や重荷を共に担おうとしていたということの現れです。イエス様は『「自分は神の子だから、皮膚病をうつされることはない」と思っていたから触れたのではないか』と思う人がこの中にいるかもしれません。イエス様は、確かに神の子です。しかし、イエス様は同時に真に人の子であります。イエス様にだって、もしこの重い皮膚病の人が、感染するような形の皮膚病であれば、感染する可能性だってあったはずです。決してイエス様は、自分は完全に守られて大丈夫だから、触ったということではないでしょう。旧約聖書のイザヤ書にイエス様のことを預言している箇所が出てきます。これはこのマタイによる福音書8章の17節で引用される言葉ですが、「彼はわたしの患いを負い、わたしたちの病を担った」という預言です。イエス様は、聖なる方だから、感染しないということではなく、イエス様がこの患いや病を負われた、つまり引き受けられたということが、旧約聖書によって説明されているのです。イエス様が重い皮膚病の人に触れられ、「よろしい、清くなれ」と言われて、この重い皮膚病の人の病は癒され、清められました。しかし、これは単に、イエス様が不思議な癒しの力を使って、これを行ったということではなく、イエス様がこの病をかわりに負われたから、この時、この人は清められたのです。イエス様が皮膚病をかわりに負われたから、この瞬間にイエス様が皮膚病になったということではないでしょう。この病を担うという預言が意味するのは、イエス様が、病が生み出す孤独、病の行き着く先の死を、この時、覚悟され、担われたということです。それが形となったのが、十字架を負うまでの苦しみ、また十字架上での苦しみ、また十字架の上での死です。あの時、イエス様はすべての人に、見捨てられ、軽蔑され、汚され、殺されました。そこにおいて、この重い皮膚病の人が負うべき、孤独とまた病が、担われたのです。「よろしい、清くなれ」の「よろしい」とは、元の言葉を直訳すると、「わたしはそれを欲する」という言葉です。「わたしはそれを欲する、清くなれ」この私はそれを欲するということは、ただあなたが癒やされることを意志する、そのように思うというだけでなく、わたしはあなたのその苦しみや病、孤独を欲する、それを受け止めるということの意志がそこにはあると思うのです。イエス様の自分がこの愛する兄弟のために、痛み、苦しみ、孤独、死を受け止めることを欲するという、イエス様の相当の覚悟、意志、決断がこの「よろしい」という言葉には詰まっています。

●私たちも病人である  
 わたしたちは、体は健康かもしれません。しかしわたしたちは、病におかされている一人だと思います。これは罪のために起こる、また現代の病を患っていると言えます。それは孤独という病です。「自分の弱さや、苦悩を他者には打ち解けてはいけない、忙しく、ヘトヘトになっても、自己責任だ。自分が担わなくては」とそう思い、苦しむ。世も「自分を信じろ」「人を助けるのはいいか、人に頼るな」「自分のやるべきことは自分で責任をとれ」と訴えてきます。そのように強迫観念に生き、だれにも頼ることなく、友人にも、しまいには家族にも頼ること出来ず、一緒に生きているのに、自分だけ隔離されており、孤独を感じる。そのような病にわたしたちはかかっていないでしょうか。わたしたちは、自分の弱さや苦しみをもって隣人に近づいてはだめだ、この苦しみを感染させてはいけないと思ってはいないでしょうか。「神様に頼ることは、弱いもののすることだ。神などに頼らず自主独立して生きるのが良いことだ」と世は言います。その言葉を信じて、わたしたちは神様からも自分を隔離して離れてはいないでしょうか。それでいて、苦しい、なんだか満たされない、寂しいと嘆いてはいないでしょうか。
 わたしたちは、病を負っています。それは、罪が生み出す孤独という病です。その孤独の病の感染はこの世に猛威を振るっています。そのわたしたちの前に、イエス様は近づいてきてくださっています。今イエス様は山を下りられたのです。この病から救ってくださる方が、受け入れてくださる方が、その孤独から解き放ち、新たな道を歩ませてくださる方が、わたしたちに近づいてきてくださっているのです。わたしたちはだから、今近づきたい。今、病を認め、救われることを確信し、求めるのです。イエス様に受け入れられることを、救われることを。そして「イエス様がわたしの救い主である」と告白できた時、わたしたちは主に触れて頂き、神の民として、神の子として受けられるのです。今この重い皮膚病を患っている人ともに、救い主に恐れつつ大胆に主に近づきましょう。それをイエス様は待っておられます。

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