夕礼拝

主の恵みの約束

説教題「主の恵みの約束」 牧師 藤掛順一

サムエル記下 第7章1~29節
使徒言行録 第13章16~41節

ダビデの政治的見識
 私が夕礼拝の説教を担当する時には、旧約聖書サムエル記下よりみ言葉に聞いています。今読んでいるあたりには、イスラエルの王となったダビデが、国の土台を固めていったことが語られています。前回読んだ6章の後半で、ダビデは、新しく定めた首都エルサレムに、神の箱を運び入れました。神の箱は、モーセが神から授かった十戒を刻んだ二枚の石の板を納めた箱です。これをエルサレムに安置することによって、エルサレムはイスラエルの政治的中心であるのみでなく、宗教的、信仰的な中心となったのです。十二の部族の連合体であったイスラエルに、このように中心がはっきりと定められることによって、統一王国としての体裁が整い、国全体が安定するのです。ダビデはそのように、王国の土台の整備を精力的に進めていきました。このようなことは、彼の前の王サウルの時代にはなかったことです。ダビデが優れた政治的見識、センスを持っていたことがわかります。

主なる神の導きによって
 しかし彼は決して政治的な打算のみによって動いていた人ではありません。彼は、自分がイスラエルの王となったのは、主なる神の導きによるのだということを深く意識していました。もともと彼は、王家の出だったわけではないし、兄弟たちの間でも末っ子で、家督を継ぐ立場ではなかったのです。羊の群れの世話をすることが彼の仕事でした。その彼が、神によって選ばれて油を注がれ、様々な紆余曲折を経て、こうして王となったのです。そのことは、8節の主なる神の言葉にある通りです。「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」。まさに、「牧場の羊の群れの後ろ」が彼の居場所であり、そこで人生を送るはずだったダビデが、神によってイスラエルの民の指導者、神の民を先頭に立って導く者とされたのです。その神の恵みをダビデは片時も忘れたことはありませんでした。

神への感謝として神殿を建てよう
 王となった今、ダビデはその神への感謝を何らかの形で表そうとしました。それが2節です。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」。ダビデはエルサレムの王宮に住んでいました。5章の11節にこう語られています。「ティルスの王ヒラムはダビデのもとに使節を派遣し、レバノン杉、木工、石工(いしく)を送って来た。彼らはダビデの王宮を建てた」。このように、彼の王宮は、隣国ティルスの王ヒラムからのプレゼントでした。ティルスは地中海に面した港町であり、現在はレバノンです。そこの名産であるレバノン杉を使った王宮を、ヒラムがダビデのために建ててくれたのです。このようにして彼は、「レバノン杉の家」である立派な王宮に住んでいました。しかし6章でエルサレムに運び込まれた「神の箱」は、なお天幕、つまりテントの中に置かれていたのです。この神の箱のために、立派な家、つまり神殿を建てて、主なる神への感謝を表そうとダビデは思ったのです。ダビデはこのことを預言者ナタンに相談しました。このナタンが、7章以降、ダビデの傍らにあって重要な働きをしていきます。ダビデが彼に神殿建設の計画を相談すると、ナタンは「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と言いました。つまりこの計画に賛成したのです。

天幕を住みかとして歩んで来られた神
 しかしその夜、主なる神のみ言葉がナタンに与えられました。主はこう言われました。「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」。このみ言葉にはいくつかの大事なことが示されています。第一に、主なる神が、イスラエルの民の間に住んでおられるということです。「イスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで」ずっと、神はイスラエルの民の中に住んでおられるのです。7節の言葉で言えば、「イスラエルの子らと常に共に歩んできた」のです。しかしその神は家ではなく天幕を住みかとしておられました。そのことに神は不都合や不満を覚えてはおられません。むしろそのことを喜んでおられるのです。天幕つまりテントは、たたんで持ち運ぶことができるものです。そのテントに住むことによって、イスラエルの子らと常に共に歩むことができるのです。エジプトを出て、約束の地へと荒れ野を旅していったイスラエルの民は、常に移動を続けていました。彼らは神の箱を担いで運び、それを安置するテントをも運び、滞在する所でそれを建て、出発する時にはそれをたたむ、という歩みを続けていたのです。神が天幕を住みかとしておられるのは、そういう民の旅路に常に同行して下さるためでした。荒れ野の旅はとうに終わり、イスラエルはカナンの地に定住しているわけですが、神の箱は今もテントの中にある、それは、神が今でも、イスラエルの民と共に歩んで下さっていることのしるしです。神はそのことを喜んでおられ、立派な神殿よりも、移動可能なテントを住みかとすることを喜んでいる、と言っておられるのです。だから、神のために立派な家を建てようというダビデの計画はむしろ有難迷惑で、ノーサンキューだ、と神は言っておられるのです。

恵みの約束
 ナタンに与えられた神のみ言葉はそれだけではありませんでした。さらに8節以下が語られています。そこには、先ほど読んだように、神がダビデを牧場の羊の群れの後ろから取って王となさったことが語られています。そして9節には「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」とあります。主なる神は、これまでも、そしてこれからも、常にダビデと共にあり、行く手の敵をことごとく退けて下さると言っておられるのです。それはダビデ一人のためではありません。10、11節において主は、そのことによって、ご自分の民であるイスラエルに、平安、安らぎを与えて下さる、と言っておられます。神はそういう恵みの約束をここでダビデとイスラエルの民に与えて下さったのです。

主があなたのために家を興す
 その恵みの約束は、ダビデとその子孫にも与えられていきます。それが11節の後半以降です。「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す」とあります。その「家」とは、次の12節に「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」とあるように、ダビデの子孫が代々イスラエルの王となり、ダビデ王朝が続いていくということです。つまりこの「家」は建物のことではなく、「ダビデ王家」のことです。ダビデの王権がその子孫へ代々継承されていくことによって、イスラエル王国が揺るぎないものとなるのです。15節には「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない」とあります。ダビデの前の王サウルは、主の慈しみを失い、サウル家は没落してしまいました。しかしダビデの家に対してはそのようなことはしない、と神は約束して下さったのです。このように主なる神は、ダビデの家に、子孫たちにまで及ぶ恵みの約束を与えて下さったのです。ここには言葉の遊びがあります。神のために家を建てようとしたダビデに、神は、「わたしこそお前のために家を興す」と言われたのです。主なる神は、「わたしのための家はいらない」と断ったのみではなく、むしろ逆にダビデのために家を建てるという祝福、恵みを約束して下さったのです。

ギブアンドギブの神
 ナタンを通してダビデに与えられたこのみ言葉には、主なる神とはどのような方であられるかが示されています。ダビデは、主なる神の恵みへの感謝を形にして表そうとしたのです。しかしそれに対して神は、ダビデの感謝を受けるのではなく、むしろ逆にさらなる恵みの約束を与えて下さったのです。これまでにも大きな恵みを与えて下さった神が、それに感謝しようとする人間に、さらに大きな恵みを与えて下さる、それがここで起こっていることです。主なる神とはそういうお方なのです。それは私たちの常識をはるかに超えたことです。私たちの常識からすれば、誰かから何か恵みを受けたら、それに感謝を表し、自分も相手のために何かをするのが当然です。恵みを受けてもそれに感謝せず、相手のために何かをしようとしないのは非常識です。この世の人間関係はそういう常識によって成り立っています。だから私たちは、これだけしてやったのにあいつは恩知らずだ、と思ったり、逆に人から何か恩恵を受けたら、それに見合うお返しをしなければ、と思ったりするのです。この世の人間関係は、そのような恩恵と感謝のギブアンドテイクで成り立っています。私たちはそれを神との関係にもあてはめてしまいがちです。そして、神から恵みをいただいたのだから、それに感謝し、お返しをしなければ、と思うのです。それは勿論ある意味では当然のことで、神から与えられた大きな恵みに感謝して生きることが信仰者の生活の基本です。しかし私たちはそこでともすると、神と私たちの関係において最も大事なことを見失ってしまいます。その最も大事なこととは、私たちは神と対等の存在ではない、ということです。対等な人間どうしの間では、恩恵に対して感謝するのが当然です。しかしその感覚を神と自分との間に当てはめてしまうと、自分と神を同じレベルに置いてしまうという間違いを犯してしまいます。ダビデが、自分はレバノン杉の家に住んでいるのに神の箱は天幕の中だ、神のためにも立派な家を建てなければ、と思ったのはそういう間違いだったのです。それは神を敬っているように見えて、実は神を自分と同じレベルに引き下げてしまっていることです。神がこのダビデの思いを断り、逆にさらなる恵みの約束をお与えになったのは、ダビデに、神と自分とは決して同等ではない、ということを教え示すためだったと言えるでしょう。しかし神はそのことを教えるために、「ちょっと偉くなったと思って生意気なことを言うな、そんなことを言い出すのは百年早い」などとはおっしゃいません。そうではなくて、「私があなたのために家を興す」とおっしゃったのです。それは、「あなたは私に感謝して私のために家を建てようと思っているが、あなたが私のために何かをするのではなくて、私があなたに恵みを与える、それが私とあなたの関係なのだ」ということです。人間が頭の中で造り出した神とは違う、生けるまことの神の姿がここに示されています。人間が造り出した神は、人間の常識の範囲を越えることはできません。そこにはあの、恩恵と感謝のギブアンドテイクの世界が展開されるのです。しかしまことの神と私たちの関係は、神が恵みの上にさらに恵みを与えて下さるという、ギブアンドギブの世界です。そんなんじゃ申し訳ない、と思うこと自体が、既に人間の傲慢、自分を神と同じレベルに置こうとしていることです。まことの神に出会う時に、私たちの傲慢は打ち砕かれるのです。神は、「私はレバノン杉の家はいらない、テントでいい、テントに住むことによって、あなたがどこへ行っても、どのような所、どのような状態にあっても、そこに共にいることができる。私はあなたに対してそのような神なのだ」と言って下さることによって、私たちの傲慢を打ち砕いて下さるのです。

生けるまことの神
 神が私たちの間にテントを張って宿り、私たちといつも共にいて下さる、それが、二ヶ月後に祝うクリスマスの出来事の意味です。主イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さったのは、神が「あなたがどこへ行こうとも、わたしは共にいる」と宣言して下さったということです。神はご自分の独り子を与えて下さるほどに、私たちを愛して、共にいて下さるのです。私たちがその恵みにどのように感謝し、神のために何をするかということとは関わりなく、このような恵みをもって私たちと関わって下さるのが、生けるまことの神なのです。
神に対して何をするべきか
 この神に対して、私たちはどう関わり、何をするべきなのでしょうか。18節以下の、み言葉に答えてダビデが祈った言葉からそれを知ることができます。ダビデはこう言っています。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。また、この地上に一つでも、あなたの民イスラエルのような民がありましょうか。神は進んでこれを贖って御自分の民とし、名をお与えになりました。御自分のために大きな御業を成し遂げ、あなたの民のために御自分の地に恐るべき御業を果たし、御自分のために、エジプトおよび異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました。主よ、更にあなたはあなたの民イスラエルをとこしえに御自分の民として堅く立て、あなた御自身がその神となられました。」
ここでダビデが語っているのは、主なる神が自分に、こんなにもすばらしく、こんなにも大きな恵みを与えて下さった、ということです。それを彼は驚きをもって受け止め、その恵みをほめたたえているのです。私たちも信仰者として生きる中でこのような言葉を語っています。「信仰告白」の言葉がそれにあたると言えるでしょう。私たちは毎週の礼拝において「使徒信条」によって信仰を告白しています。本日の主日礼拝では入会式が行われたので、「日本基督教団信仰告白」が唱えられました。これらの信仰告白に語られているのは、父と子と聖霊なる三位一体の神が、私たちの救いのために成し遂げて下さったことです。信仰告白において私たちは、独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さった神の救いの恵みをほめたたえ、それを信じて、感謝して受け入れることを言い表すのです。その信仰告白こそ、神の恵みに対して私たちがなすべきことです。それは言い換えれば、神の救いの恵みに対して「アーメン」と言う、ということです。「アーメン」とは「本当にその通りです」という意味です。私たちの信仰、神に対する関係は、神の救いの恵みに対して「アーメン」と言ってそれを信じ、受け入れることであり、それに尽きると言ってもよいのです。ですから、祈りの最後に、また信仰告白の最後に、あるいは誰かに洗礼が授けられる時に、みんなで「アーメン」と唱える、その時に、ささやくような声で言うのではなくて、はっきりと、世の人々に信仰を宣言するような思いで「アーメン」と言いましょう。そういう力強い「アーメン」が、世の人々への証し、伝道になるのです。

勇気を出して私に恵みを願い求めよ
ダビデはさらにこう祈りました。「主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。僕ダビデの家が御前に堅く据えられますように。万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です。あなたは僕にこのような恵みの御言葉を賜りました。どうか今、僕の家を祝福し、とこしえに御前に永らえさせてください。主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます」。ここでダビデは神に向かって、私の家をとこしえに祝福し、子孫たちを守り導いてくださるという約束を守って、その通りにして下さい、と言っているのです。それはずうずうしいことだと私たちは感じます。これまでにも神の大きな恵みを受けてきて、それに対する感謝も形にして表すことができておらず、自分は立派な家に住みながら、神の箱はまだテントの中なのです。そんな状態の中で、恵みの約束を守って下さいと神に求めるなんてとんでもない、まずちゃんと感謝を表して、立派な神殿を建てて、それから次のお願いをするべきだ、というのが私たちの常識です。人間が考え出した神ならそれを求めるでしょう。しかし生けるまことの神が私たちに求めておられることはそれとは違うのです。神は私たちに数々の恵みを与え、独り子イエス・キリストの命をも与えて下さいました。その救いの恵みに対して神が私たちに求めておられることは、その救いを信じて受け入れ、さらに恵みを求めていくことなのです。ダビデも27節で、「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました」と言っています。神が「わたしこそお前のために家を建てる」と言って下さった、そのみ言葉によって彼は、ずうずうしさを顧みず、神の恵みを願い求める勇気を与えられたのです。主なる神は私たちにも、「勇気を出して私に恵みを願い求めよ」と語りかけていて下さいます。独り子主イエス・キリストの命をすら与えてくださった神は、私たちが、勇気を出して恵みを願い求めていくことを、喜んで、待っていて下さるのです。

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