主日礼拝

思い起す祈り

「思い起す祈り」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上第12章20-25節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章8-15節
・ 讃美歌: 324、416、500

パウロの感謝  
 先週に続いて本日も、ローマの信徒への手紙第1章の8章15節からみ言葉に聞きたいと思います。先週は、11、12節を中心としてこの箇所を読みました。パウロはこの箇所で、ローマの教会を訪れたいという願いを語っているわけですが、それは自分が与えられている霊の賜物を彼らに分け与えて力になり、またお互いの信仰によって励まし合いたいからだ、と11、12節で言っています。先週はそのことを中心としてこの箇所を読みました。教会とは、主イエス・キリストを信じる信仰者が、お互いに与えられている聖霊の賜物を分かち合い、励まし合い、慰め合う交わりです。そういう信仰の交わりをローマの教会の人々との間にも築くことをパウロは願っているのです。  
 この8章15節は、1章7節における挨拶に続く、この手紙の序文に当るところです。パウロは挨拶に続いて8節でこう書いています。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」。彼はここで感謝を語っています。まず初めに感謝を語ることは当時の手紙の通常の始め方でした。私たちも手紙の最初に、時候の挨拶に続いて「いつもいろいろとお世話になっており感謝です」などと記すことがあります。当時の手紙においては、相手の健康などについての感謝を記すことが普通だったようです。それは私たちにおいては、「ご健勝でお過しのこととお喜び申し上げます」というようなことです。これらの例が示しているように、当時の人々においても私たちにおいても、通常手紙の冒頭には、挨拶と共に、相手に関しての感謝や喜びを表明するのです。しかしここでパウロが語っている感謝は、それとはいささか違うユニークな感謝です。「あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」と言っています。「あなたがた一同」にではなくて神に感謝しているのです。パウロはここで勿論「あなたがた一同」のことを、つまりローマの教会の人々のことを見つめており、彼らに感謝しています。しかし彼の目は、ローマの教会の人々のことよりも神を見つめているのです。いや正確に言えば、神を見つめつつ、その目でローマの教会の人々のことを見つめているのです。そこに、神に感謝することによって同時にローマの教会の人々に感謝するという語り方が生まれているのです。そこで彼が感謝しているのは、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」とあるように、ローマの教会の人々の信仰です。彼らに信仰が与えられており、その信仰によってしっかり生きている、パウロはそのことを、先ず神に、そしてローマの教会の人々に感謝しているのです。この感謝は、神を見つめつつ、その目で相手のことを見つめている所にしか生まれません。相手の信仰を感謝することは、自分が信仰を持っている人にしかできないのです。信仰とは、神を見つめることです。パウロは、自分自身が神をしっかりと見つめており、その信仰の目でローマの教会の人々のことを見つめていたために、彼らの健康や自分への好意などではなく、彼らの信仰を、つまり彼らも神を見つめて生きていることを、神に感謝することができたのです。同じ神を見つめる信仰を与えられているというこの感謝こそ、パウロがこれからローマの教会の人々との間に築こうとしている関係の土台となるものなのです。

教会の存在を感謝する  
 パウロは「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」と言っています。それはどういうことなのでしょうか。彼らの信仰は特に優れた模範的なものだったのであちこちで評判になっていたのでしょうか。ローマの教会の人々がどのような信仰に生きていたのか、はっきりとした史料はありませんが、この手紙から分かることがいくつかあります。パウロはこの手紙の14章10節でこう言っています。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」。その先の13節にも「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」とあります。ローマの教会の信徒たちの間には、互いに裁き合うようなことがあり、それがパウロのところにも伝わっていたのです。つまりこの教会も決して何の問題もない理想的な教会だったわけではないのです。そのようなローマの教会の人々の信仰が、全世界に言い伝えられているというのは、その信仰が特に優れていたということではなくて、ローマ帝国の首都であり、当時の世界を支配していたローマ皇帝のお膝元であるローマにも、主イエス・キリストの教会がある、神はあのローマにも、キリストを信じる神の民を立てて下さっているのだ、ということが全世界に伝えられていた、ということでしょう。ローマ帝国はこの頃次第に、皇帝を神として崇め礼拝させることによって様々な民族から成る帝国を統合しようとし始めていました。「イエスは主である」という言葉は初代の教会の基本的な信仰告白ですが、この告白は、「皇帝は主である」という言葉に対抗する意味を持っていたのです。「皇帝は主である」と言わせるようとする圧力に対抗して、クリスチャンたちは「私たちの主は皇帝ではなくてイエス・キリストだ」という意味で「イエスは主である」と告白し、その告白に命をかけていったのです。皇帝礼拝とキリスト礼拝との対立によって激しい迫害が起るのはこれよりもう少し後のことですが、ローマ皇帝のお膝元であるローマに、キリストを主と仰ぐ教会が存在していることはそれだけで、ローマ帝国の全域にある諸教会が大いに注目し、感謝していたことだったのです。

感謝こそ、信仰生活と交わりの土台  
 パウロはこのようにこの手紙を、ローマの人々に信仰が与えられ、この町に教会が存在することを神に感謝することによって書き始めています。先程申しましたようにパウロはこの感謝を土台として、ローマの教会の人々との交わりを築いていこうとしています。私たちの信仰生活と、信仰に基づく兄弟姉妹の交わりの土台となるのも、この感謝です。信仰が与えられ、連なる教会が与えられ、そこで同じ神を見つめる兄弟姉妹が与えられていることを神に感謝する、その感謝こそ、私たちの信仰生活を、また教会における交わりを支える土台です。私たちの信仰は、また教会における交わりは、この土台の上にしっかりと立っていなければ、この世の様々な困難や苦しみ悲しみに翻弄され、立ち行かなくなるでしょう。キリストの体である教会がこの世に存在しており、信仰を与えられて共にそこに連なることを許されていることを神に感謝することこそ、私たちの信仰生活と交わりとを支える土台なのです。

とりなしの祈りは思い起す祈り  
 さてパウロはこの感謝に続いて9、10節でこう言っています。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」。パウロがここで言いたいことの中心は、「私は、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こしている」ということです。そしてその祈りにおいて願っているのは、「何とかしていつかはあなたがたのところへ行ける機会があるように」ということだ、私が仕えている神がそのことの証人となって下さる、と言っているのです。つまりパウロはここで、自分がローマの教会の人々のことを覚えて祈っている、その祈りのことを語っています。このように、相手のことを覚え、相手のために祈る祈りを「とりなしの祈り」と言います。それは祈りの大切な要素の一つです。私たちの祈りは、ともすれば、自分のことやせいぜい家族のことを祈る、自分のための祈りに終始してしまうことがあります。しかし聖書は、他者のための「とりなしの祈り」が大切だということを教えているのです。パウロも、ローマの教会の人々のためのとりなしの祈りをしていたのです。そしてここで注目すべきことは、パウロがこのとりなしの祈りのことを「祈るときにあなたがたのことを思い起こしている」と言っていることです。祈りにおいて相手のことを思い起こすこと、それがとりなしの祈りの基本です。このことを私たちは本日しっかりと捉え、自分の祈りに生かしていきたいと思います。とりなしの祈りの言わば秘訣がここに示されているのです。他の人のためのとりなしの祈りを改まってしようとすると、いったい何を祈ったらよいのか分からない、ということにもなります。漠然と「この人が幸せになりますように」とか「守られますように」と祈るだけでは本当の意味でとりなしの祈りをしたことにはならないのではないか、とも思います。とりなしの祈りはなかなか難しいと感じるのです。しかしここで教えられているのは、先ず、相手のことを祈りにおいて思い起こすことです。何か具体的なことを祈る前に、先ずその人のことを思い起こすのです。具体的には、その人の顔を思い浮かべるのです。それを祈りの中でするのです。つまり、神に顔を向け、神を見つめつつ、その人のことを思い起こし、見つめるのです。その時、そこには自然に、その人のためのとりなしの祈りの言葉が与えられていくでしょう。つまりとりなしの祈りの秘訣は、祈りにおいて人のことを思い起こすことです。私たちが、とりなしの祈りがなかなかできないと感じたり、あるいはそれがおざなりな、心のこもらない紋切り型の祈りになってしまうことが多いとしたらそれは、祈りの中で他の人のことをしっかり思い起こしていないからなのではないでしょうか。

感謝ととりなしの祈り  
 パウロは、祈りにおいて、神を見つめつつローマの教会の人々のことを思い起こしています。そこに、先程の感謝も生まれてきたのです。神を見つめつつ、信仰の兄弟姉妹のことを見つめ、思い起こす、そこにこそ、その人の信仰を神に感謝する思いが与えられます。そしてその感謝の中で、相手のためのとりなしの祈りがなされていくのです。つまり8節の感謝と、9節のとりなしの祈りとは深く結び付いているのです。このことも私たちがここからしっかり受け止めたいことです。私たちが相手のために本当にとりなしの祈りを祈ることができるのは、相手のことを神に感謝することが出来る時です。相手のことを感謝する思いのない所でどうしてその人のために祈ることができるでしょうか。そしてそのとりなしの祈りを生む感謝は、相手のことが好きだとか、親切にしてくれたという個人的感情から生まれるのではありません。自分自身が神をしっかりと見つめつつ、その信仰の目で相手のことを見つめていく時に、相手の信仰を、つまりその人も共に神を見つめて生きていることを神に感謝する思いが与えられ、そこにとりなしの祈りが生まれるのです。

とりなしの祈りから行動へ  
 さてパウロは、ローマの教会の人々のことを祈りにおいて思い起こすことによってどのようなとりなしの祈りを与えられたのでしょうか。それは「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように」ということでした。ローマへ行って、あなたがたに会いたい、それがパウロに与えられた祈りだったのです。これは、相手のために何かを祈り求めるという狭い意味のとりなしの祈りとは違います。しかしここにやはりとりなしの祈りの本質が示されていると言えるのです。繰り返し申していますが、パウロはまだローマに行ったことがなく、ローマの教会の人々の多くを直接には知りません。面識のない教会の人々のためにとりなし祈っているのです。面識がないのですから、その人々一人一人の顔を思い起すことはできません。そのような中でもとりなしの祈りはできることがここに示されています。パウロが、まだ会ったことのないローマの教会の人々のことを思い起こしてとりなし祈ったように、私たちも、会ったことのない、顔も名前も知らない、この国の、また全世界の教会と、そこに集う人々のためにとりなし祈ることができるし、その祈りによって全世界の教会と、目に見えないつながりを持つことができるのです。しかしここに示されているもう一つの大事なことは、会ったことのない人々のことを思い起こすとりなしの祈りは、その人々と実際に会いたい、その人々の所に行って顔を合わせたいという願いを生むものだということです。とりなしの祈りが真剣になされる時には、祈っているだけでなく、その相手のところへ行って顔を合わせ言葉を交わす、そういう交わりを求めることが起るのです。その人のことを思い起こすとりなしの祈りは、その人のところへと出かけて行く行動を生むのです。これは、祈っているだけで行動しないのでは無意味だ、ということではありません。とりなしの祈りは、それ自体が大きな意味を持つ奉仕です。祈っているだけでは何もしたことにならない、などということは全くありません。そうではなくて、その祈りがある所にこそ、行動もまた与えられていく、ということです。とりなしの祈りが真剣になされる所にこそ、具体的な交わりへの熱心な求めが生まれていくのです。パウロがローマの人々のことを祈りにおいて思い起こす中で、ぜひ彼らと会いたいという願いを与えられたというのはそういうことです。この願いが神のみ心によって実現することによって、11、12節の、霊の賜物をいくらかでも分け与えて力になることも、互いの信仰によって励まし合うことも実現していくのです。とりなしの祈りはまさにそのような信仰の交わりの確立を目指してなされるのです。

キリストの福音への信頼のゆえに  
 パウロは14、15節で、ローマ訪問を願う理由を別の角度からも語っています。「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」。この世の全ての人々に福音を告げ知らせる責任が自分にはある、とパウロは言っています。それは、これも繰り返し指摘していますが、1節にあったように、彼が神の福音のために選び出され、召されて使徒となったことによって与えられた使命です。彼はこの使命をローマにおいても果たし、さらにはイスパニア、今日のスペインにまで行って果たしたいと願っています。そういうまことに壮大な、スケールの大きい願いを抱いているわけですが、それはパウロという人が偉大なのではなくて、彼が告げ知らせているキリストの福音の偉大さによることです。スケールが大きいのは、パウロではなくてキリストの福音なのです。神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、罪の赦しと永遠の命の約束が与えられた、キリストを信じることによって私たちは、罪を赦され、新しい命を与えられて、神の祝福の内に、神の民として生きることができる、そして最終的には永遠の命を生きる者とされる、このキリストによる救いを、神は世界の全ての人々に与えようとしておられるのです。キリストの福音はそれほどに偉大な、スケールの大きいものです。ですからこのキリストの福音と関係のない人などこの世に一人もいないのです。パウロの伝道も、とりなしの祈りも、このキリストの福音の偉大さへの、そのスケールの大きさへの信頼に支えられています。だから彼は、面識のない人々のためにもとりなし祈ることが出来るのです。その人たちをも神がキリストの福音にあずからせようとしておられることを確信しているからです。キリストの福音のスケールの大きさへのこの信頼は、私たちがとりなしの祈りを祈ることにおいても大きな支えです。私たちがとりなしの祈りに覚える人々は、勿論教会の兄弟姉妹、信仰の仲間たちのことでもありますが、それと同じくらいに私たちが切実に祈っているのは、信仰を持っていない人々のことです。私たちの家族、親戚、友人知人の中にはそういう人々が沢山います。そういう人々の方がはるかに多いと言えるでしょう。私たちはそれらの人々のことをも、祈りの中で思い起こし、とりなし祈るのです。その場合には、その人々の信仰を神に感謝することは出来ません。同じ神を見つめている兄弟姉妹としてその人々のことを思い起こすことはできないわけです。しかしパウロがここで語っているように、主イエス・キリストの福音は、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも」つまりこの世の全ての人々に告げ知らされるべきものです。父なる神は、私たちがとりなし祈っている、まだキリストを知らず信じていない、あるいはキリストに敵対し、信仰に否定的な思いを抱いているあの人この人のためにも、御子イエス・キリストを遣わして下さったのです。ですから私たちは、その人々をも、キリストの福音の中に置かれ、信仰へと招かれている人として、とりなしの祈りに覚えていくことができるのです。先程、私たちが相手のためにとりなしの祈りを祈ることができるのは、相手のことを神に感謝することが出来る時だ、と申しました。私たちは、まだ信仰を持っていない人々については、その信仰を神に感謝することはできません。しかし、主イエス・キリストの福音が世界の全ての人々に告げ知らされることを神が望んでおられるがゆえに、キリストの福音と関係のない人などこの世に一人もいない、その神のみ心に感謝しつつ、私たちはそれらの人々のためにもとりなしの祈りを祈ることができるのです。そしてその祈りから、その人々のところへ出かけて行って働きかけ、交わりを築いていく願いと力とが与えられていくのです。

祈りの交わりを深め、伝道する教会  
 パウロはこの手紙を、ローマの教会の人々に与えられている信仰を感謝することから始めました。その感謝の中で彼は、相手のことを祈りにおいて思い起こすとりなしの祈りをしていきました。その祈りから、ローマを訪れたいという具体的な願いを与えられました。私たちの信仰による交わりも、教会における奉仕も、伝道も、このような筋道によるものでありたいのです。それら全ての土台にあるのは、与えられている信仰を、教会を、神に感謝することです。その感謝の祈りの中で、教会の兄弟姉妹のこと、様々な営みのことを、そしてまだ信仰を得ていないあの人この人のことを思い起こして、とりなしの祈りをしていくのです。そしてその祈りから、具体的な交わり、働き、奉仕、伝道の業が、またそれを行なっていく力が与えられていくのです。教会の営みは、そのようなとりなしの祈り、思い起こす祈りによって支えられ、前進していきます。「祈りの交わりを深め、伝道する教会」という私たちの今年度の主題はそのことを目指していると言うことができます。お互いのことを思い起こす祈り、とりなしの祈りによって交わりを深め、その祈りから伝道へと押し出されていきたいと願います。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、サムエル記上第12章の23節において、サムエルは、イスラエルの人々のために祈ることをやめることを主に対する罪であると言っています。とりなしの祈りをやめること、祈りにおいてお互いのことを思い起こすことをやめることは主の前で罪である、そういう思いをもって、お互いのことを、教会の歩みを、思い起こす祈りを深めていきたいのです。祈りおいて思い起こすことが増えれば増える程、その人の信仰は成長したと言うことができます。思い起こす祈り、とりなしの祈りが豊かになされていくことによって、教会全体も成長していくのです。

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