夕礼拝

天に富を積む幸い

「天に富を積む幸い」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第49編6-12節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章19-21節
・ 讃美歌: 218、470

 本日の第6章19節からイエス様が語られている山上の説教の新しい部分に入ります。ここからは、イエス様に従っていく者の生き方が教えられていきます。その冒頭にあるのが、「地上に富を積んではならない」「天に富を積みなさい」という教えです。「富」という言葉がここで大事な役割を果たしています。富とは、「宝」と訳すことができる言葉で、わたしたちが宝のように大事に持っているもの、つまり財産のことです。従って、富とは、わたしたちが拠り所としているもの、これがあるから自分の人生が、生活が支えられる、と思って大事にしているもの、失ったらだめだと大切に守っているものだとも言えるでしょう。その拠り所となる富とは何なのか、またその富をどこに積むかを、今日イエス様はわたしたちに教えてくださっています。  
 イエス様は19節で「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。と言われています。確かに、地上に蓄えられた富は失われていきますし、減っていくものです。わたしたちはそのことを、現実を通して実感しています。自分の得た収入も、生きていくために必要な食事のため、住居のため、水道や電気を使うため、そのような様々ことで減っていきます。そのような現実的なことで、富は減っていき、富を貯めるどころではない。そのような状況の中で、将来の生活のために、また他の人々との助け合いのために、わたしたちは年金の保険料を国に納めます。なけなしの富を国に預けます。年金の保険料の支払いをしていても、受給する時には、僅かなものしかもらえないかもしれない。もしくは年金自体が破綻してしまったら、今まで支払っていた分はどうなるのか。そのような不安がわたしたちにつきまといます。  
 なけなしの富を、銀行に預けるとしても、利子は僅かであり、最近はあまり起こっていませんが、少し前は、銀行が破綻するということも起こった。そういうことを聞くたびに、わたしたちは不安になります。お金があれば不安はなくなると思うものの、そのお金の預け所は大丈夫だろうかと不安になります。どこにも預けずタンス貯金をしているのが、一番安全であるかと言えばそうではありません。タンス貯金は、泥棒に入られてしまった時のリスクが大きすぎる。そのようにどこに富をおいても、なくなってしまうという恐れは生まれ、不安は残ります。地上にわたしたちの財産があるかぎり、それらがなくなるというリスクをわたしたちは負っています。だから不安になります。地上の富は、わたしたちを不安するだけでなく、わたしたちの心まで支配します。わたしたちは、地上の富が増えるように、心を使います。そのお金をどこかに投資したり、外国の通貨に替えて海外の銀行に預金したりすればもっと儲かるのではないか。何をしてどこに預けておくのが得で、何をしてどこに預けておくと損なのか、今の自分の状況は損しているのではないか。もっとリスクを上げれば儲けられるかもしれない。そんなことで心が動かされます。そのように、地上にある財産の預け場所で、損得を考えると常に目を配らなくていけないし、頭も心もその富のために支配されます。地上に積まれた富が安心できるものではなく、またそれに心を奪われてしまうということをわたしたちは経験的に知っています。  
 21節で、イエス様は「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言い切られておられます。確かにそうです。わたしたちは、自分の生活や命が、その財産によって支えられていると思っていますから、それがなくなってしまわないかどうか、減ってしまわないかどうか、むしろ増やすためにはどうすればいいかと考え、目も心もそこを向かっていきます。それは、ある意味わたしたちの心を地上の富に支配にされているといえるでしょう。そのようなわたしたちに、イエス様は、「富は、天に積みなさい」と言われます。それはどういうことでしょうか。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」と言われております。地上にあるわたしたちの財産は、なくなる恐れがある。だから、不安になり、それにしか目がいかなくなり、心を奪われてしまいます。天に積まれた富は、なくなる心配がないということを、イエス様はいっておられます。  
 ここでもう一度考えたいことは、「富」つまり「財産」とはなんなのかということです。イエス様がここで言われている「富」とはお金のことだけを言っているのではないでしょう。わたしたちが考える「財産」というのは、お金や家、土地、車でしょう。それらは、全部自分で得ていくものです。しかし、わたしたちが自分で得たものでない、自分の体や命もまた財産です。その自分の命や体は、神様がわたしたちに貸し与えてくださっているものです。イエス様は、地上の富を語る時に、目に見えるお金や土地のような財産だけでなく、地上に生きるわたしたち自身も財産であり、滅びゆくものであることを示唆しています。  

 わたしたちは、自分の富、自分が持っているお金や土地などの財産を、しっかり確保して、自分の人生の土台にして、その財産を元に自分自身を養っていきたいと考えています。しかし、自分を支えようとしているそれらの財産も、自分という財産も、やがては朽ちてなくなるものです。自分の命という財産も、必ずこの地上において滅びます。その財産を、イエス様は天に積みなさいと言われています。どうやって、わたしたちが自分の財産を、天に蓄えることができるのかとわたしたちは思います。どうやったら、自分の貯金を天に預けることができるのか。どうやって天に、地上の土地を持っていくことができるのかと疑問に思います。その答えを端的に申し上げますと、わたしたちが所有している財産を、神様に所有して頂くということになります。そのように言われると、「え!?自分の財産を神様に所有してもらったら、もはやそれは自分の富じゃなくなるじゃないか」とわたしたちは疑問に思います。天に富を積むということは、その条件として、地上に富を積まないということを意味されています。もともと、わたしたちの体や命、そしてお金や土地という財産も、すべて神様がお造りになったものであり、わたしたちはその神様が所有されていたものを貸し与えられているのが現状なのです。だから、天に富を積むというのは、言葉を換えれば、神様に財産をお返しすることであるといえるでしょう。つまり、自分の財産だと思っているものを、神様の財産であると認めるということです。もともと、わたしたちが自分の財産だと思って、守ろうとしているものは、すべて神様に貸し与えられているものです。しかし、わたしたちはそれを自分のものだと思っています。その自分のものだと思っている財産の所有権を手放し、神様のものとして頂く。それが、地上に富を積まないことであり、天に富を積むことといえるでしょう。それは、今持っている貯金や財産を手放し、全部を教会に献金したり、どこかに募金したりしなさいという意味ではありません。また、地上に富を積んではならないから、今持っているものをすべて捨てるということではありません。それらを神様から貸し与えられているものと、認めるのです。さらに、地上の富を手放すということは、どういうことかと言えば、それは、自分の持っている財産により頼み、そこに安心を求めることをやめることであるといえるでしょう。  
 山上の説教の中で、イエス様は「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」と語られました。「心の貧しい人」とは、自分の心に、何一つ豊かさを持っていない、より頼むべき富を持っていない、ただ神様の恵み、憐れみにすがって生きるしかない、そういう人です。地上に蓄えられた富を全く持っていない人です。その人こそ、幸いである。天の国はその人のものである。天の国とは神様のご支配という意味です。それは、神様が、天の父として、恵みを与え、養い、導いて下さるということです。その天の父からの恵みに支えられ生きる所、そこに本当の幸いがあるのです。天に富を積むということは、その富を自分で持つのではなく、神様から頂くものとなるということです。富を自分で持たなくなりますから、自分は貧しいものになります。自分自身にも、財産にも頼ることはできなくなる。しかし、神様からの恵みを頼ることできる、そして、神様からの必要なものをすべて与えてもらえることを信じて生きることができる。地上に富を積んでいた時、わたしたちは、自分でどうにかして生きていかなれば、財産を確保していなければ、生きていけないという不安が起こります。しかしその恐れとなっている富の事柄を、天におられる父なる神様に託すことで、不安から開放され、神様からの恵みを頼って、安心していきていくことができる幸いに与ることができるのです。  
 父なる神様は、わたしたちを子として愛してくださり、責任をもって養い導いて下さるということを、聖書はわたしたちに教えてくれています。その恵みに信頼して、安心して生きるからこそ、自分の財産を頼りにせずに生きることができるのです。自分の富に固執せずに生きることができる。天に富を積みつつ生きることは、天の父なる神様の恵みに信頼して、思い悩むことなく生きることと一つなのです。しかし、ここで注意しなければいけないことがあります。それはわたしたちが地上の富を手放すという条件で、神様の恵みが与えられるということではないということです。神様からの支えという恵みは、わたしたちが願う前から与えてくださっているものです。ですから、すべてを手放したものにだけに与えられるということではありません。しかし、その恵みが神様から与えられているのだと実感できる人というのは、自分が何も持っていない者であることを知っている人です。自分の力で得たのだ、だから自分が所有しているのだと思っている人は、恵みを恵みとして受け取っていなのです。自分で得た恵みだと思っている間は、その人は自力に頼ることになり、いつも不安を抱えることになるでしょう。  
 わたしたちが、神様から与えられている財産を、神様の所有しているものだとするということは、同時に神様がその財産をわたしに託され、そこでなにを望まれておられるのかを問うものとなります。わたしたちに与えられているこの富を、どのように自分で用いるのかをわたしたちは問われています。ひとつは、自分が生きるために与えられている糧として、用いることがありましょう。しかし、神様は自分のためだけに富を用いるのではなく、貧しい人に施すことを勧められています。それはルカによる福音書12章33節で語られています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。神様のものとして、わたしたちに与えられた尽きることのない恵みを、他者に分け与えていくことを、神様は勧められており、それこそが天に富を積むことであると言っています。富は神様のものであるから、神様が望まれていることに用いていくこと、それがわたしたちに求められていることです。わたしたちは神様かたの富を貸し与えられている状態です。ですから、その富を、天おられる神様のために用いるのです。その時、天に富が積まれていくと書かれています。恵みという資本はすべて神様から来ており、その恵みを分け与えていくことで、天に宝は積まれていくと神様は語られています。おそらく、それは、わたしたちの善行をすることで、わたしたちの富がポイントが加算されるように積まれていくということではないでしょう。そうではなく、天に富が積まれるというのは、わたしたちが恵みを分け与えることで、分け与えられたものが神様の恵みと出会い、そこで、その人が神様を知り、神様を信じ、神様のものとなるから、天の宝が増えていくのでしょう。そこから、父なる神様は、わたしたちひりひとりを、宝としてくださっていることがわかります。それは、イザヤ書で「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し」に書かれているとおりです。わたしたちもまた、神様がわたしたち自身を所有される時に、天に「わたし」という宝が、積まれていくのです。神様は、わたしたちが宝として積まれること、つまり、神様のものとして、神様の子とすることを望まれておられ、またわたしたちを用いて、わたしたちの隣人を宝として、ご自分の子としようとされようとなさっているのです。その働きのためにわたしは用いられています。  
 「天に積まれた富は、虫が食うことも、さび付くこともなく、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」 わたしたちのすべてが神様に所有されたとき、わたしたちは滅びるものではなくなります。わたしたちが、自分の存在を神様のものにして頂くために、イエス様は十字架で死に、その命を代価としてわたしたちを買い取ってくださいました。わたしたちは、自分たちの罪に支配されており、自分で自分を所有していると思っていました。その罪の支配から解き放ってくださり、「父なる神様のもの」となる道を敷いてくださったのがイエス様です。わたしたちが、神様のものとなるためには、自分で自分を所有していたと思っていたその自分を手放し神様に委ねること、それがわたしたちに必要になります。イエス様を信じ、その死と命に与るために洗礼を受けること、それによって、わたしたちは神様のものになります。それは、同時に自分自身を神様に委ねるということです。天に富を積むということは、わたしたちのすべてを神様にお委ねするということが勧められているのです。わたしたちの存在自体が、神様のものになることで、わたしたちは自分の富である命も神様の所有しているものとなり、神様はその命を滅びることのないように守ってくださり、永遠の命としてくださるのです。  
 イエス様において与えて下さった恵みに与ることで、わたしたちは神様に所有して頂き、永遠の命という希望を与えられます。またわたしたちが、父なる神様がわたしたちをご自分のものとして、いまも支えてくださっているというその恵みを信じ、地上の富に心奪われることなく、不安なく歩むことが出来ます。それが天に富を積む幸いのひとつひとつです。また、わたしたちの隣人が神様の救いに与り、神様のもの、愛する子となることが、わたしたちのさらなる幸いです。隣人が神様のものとなった時、天に富が積まれます。その時父なる神様は喜ばれます。その喜びをともにできること、それも幸いです。わたしたちと同じように、隣人が神様の恵みに生きるようになること、これもまたわたしたちの幸いです。父なる神様は、わたしたちに与えられている富を、隣人の救いのために用いられることを望んでおられます。わたしたちは、天におられる父なる神様に心向け、またその父なる神様が宝としてくださろうとしている隣人に心向け、神様にすべてを委ね歩んで参りたいと思います。

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