主日礼拝

主イエスの死

「主イエスの死」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第69編1-37節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章33-41節
・ 讃美歌: 183、301、481

残酷な十字架  
 主イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られた、マルコによる福音書のその場面を本日ご一緒に読みます。15章の25節には、「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」と語られていました。本日の箇所の冒頭の33節には「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。午前九時から午後三時に至る六時間、主イエスは、手と足を釘で十字架に打ち付けられて磔にされていたのです。その苦しみの姿を多くの人々が見ていました。その多くは、前回読んだ所に語られていたように、「救い主なら先ず自分を救ってみろ」と主イエスをののしり嘲ったのです。十字架の死刑は見せしめという意味も持っています。激しい痛み苦しみと出血の中で次第に弱って死んでいく死刑囚の姿を多くの人々に見せるために十字架につけるのです。主イエスはご自分をののしり嘲る人々の目の前で、六時間にわたる十字架の苦しみを受けなければならなかったのです。それは正視に耐えない残酷な光景です。

闇の支配  
 昼の十二時になると全地は暗くなり、三時まで、つまり主イエスの死の時まで続いたとあります。この暗闇を、日蝕が起ったのだとか、そういう自然現象として説明する必要はないし、そんなことをすべきでもないでしょう。神の独り子であられ、人々を愛し、弱い者、貧しい者、罪人の友となって生きた主イエス・キリストが、人間の裁きによって死刑の判決を受け、十字架に釘づけられ、人々の嘲りの中で何時間もの苦しみを受けた末に殺される、それはまさに暗闇が世界を覆ったとしか言いようのない出来事です。たとえ日の光が燦々とその場に降り注いでいたとしても、そこを支配しているのは人間の罪の闇です。罪に支配された人間がどれほど残酷になれるか、しかもその人々は自分が正しいことをしていると思い込んでおり、正義のゆえの残酷さを楽しんですらいる、そういう救いのない真っ暗闇に閉ざされた世界がそこにあるのです。先週私たちは、イスラム国の人質となった二人の日本人のことで心を痛め、心配し、その無事を祈ってきました。今朝になってついに、その内の一人が殺害されたという衝撃のニュースが流れました。先週インターネットに流されたあの映像は、明るい昼間の砂漠の映像でしたが、その明るさは深い闇に閉ざされ支配されていることを誰もが感じたのではないでしょうか。その闇をどうすることもできないもどかしさを覚えます。主イエスの十字架の死において全地を覆った闇は、今この世界をも、私たちの生きている現実をも覆い、支配しているのです。

主イエスの十字架を正しく見つめるとは  
 本日この礼拝においてこの聖書箇所を読んでいる私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と、その時に全地を覆った暗闇とを、今起っている人質事件と無関係に読むことはできません。この箇所を今起っている出来事と無関係に読んでいるとしたら、それは主イエスの十字架を歴史上の一つの出来事としてのみ捉えているということであって、主イエスの十字架を正しく見つめているとは言えません。主イエスの十字架は、そしてそこにおける暗闇は、私たちが自分自身の生活の中で、今この世界に起っている出来事の中で、あるいは私たちが直接間接に見聞きしてきた歴史の中で、自分のこと自分たちのこととしてそれを見つめる時にこそ、正しく受け止めることができるのです。具体的に言えば、例えばアメリカではこんなことが問われています。アメリカ人が主イエスの十字架を見つめる時に、人種差別、特に黒人差別の中で白人によるリンチにあい、首を絞められて木にぶら下げられて殺された多くの黒人たちのことを合わせて見つめようとしないのなら、果してそれは主イエスの十字架を正しく見つめていることになるのか、という問いです。それはドイツ人にとっては、あのユダヤ人虐殺、ホロコーストを思い起こし、見つめることなしに主イエスの十字架を見つめることができるのか、という問いになります。そして私たち日本人においては(日本人でない方々もこの中にはおられるわけですが)、朝鮮半島や中国や東南アジアにおいて日本が過去に行なってきた数々の残虐行為に目を向けることなしに主イエスの十字架を本当に見つめることができるか、という問いです。過去の問題だけではありません。先日安部首相はエルサレムでホロコースト記念館を見学して、このようなことが繰り返されてはならないと言いましたが、今日本において広まっているヘイトスピーチはまさにあのホロコーストにつながるようなことであり、ナチスのユダヤ人迫害もそういうことから始まったことを彼は意識しているでしょうか。それは安倍首相だけでなく私たち一人一人にも問われていることです。主イエスの十字架における悲惨な死と、その時全地を覆った闇を見つめる時に私たちは、その悲惨な出来事が自分たちの間でも起っていること、その闇が自分たちをも覆っていることを合わせて見つめなければならないのです。その闇はイスラム国という悪の集団によってだけもたらされているのではありません。私たち自身の罪による暗闇が今もこの世界を覆っており、数々の悲惨な出来事を生み出しているのです。そのことに思いを致すことなしに、主イエスの十字架の死を正しく見つめることはできないのです。

十字架上での唯一の言葉  
 この暗闇の中で、また六時間にわたる激しい苦しみの末に、主イエスはついに午後三時に大声で叫びました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。主イエスが十字架の上で語られたお言葉は七つあると言われており、その多くはルカ福音書とヨハネ福音書に記されています。マルコ福音書とマタイ福音書が語っているのはこのお言葉だけです。いずれの福音書も主イエスがこれを「大声で叫んだ」と語っています。息を引き取られる直前にもう一度「大声を出して」とありますが、それは言葉としては伝わっていません。つまりマルコとマタイでは、十字架に着けられた主イエスが語ったただ一つの言葉が「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」だったのです。それを聞いた人々が「そら、エリヤを呼んでいる」と言ったとあります。エリヤは旧約聖書に出てくる代表的な預言者であり、火の戦車に乗って生きたまま天に上ったとされる人です。そして救い主の到来に備えるためにもう一度この世に来ると言われていました。主イエスが叫んだ「エロイ、エロイ」という言葉を聞いた人々は、そのエリヤを呼んでいるのだと思ったのです。その後の36節の、「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、『待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう』と言いながら、イエスに飲ませようとした」という所は論理が通っておらず、変な文章です。マタイ福音書はそこを整理して語っていますが、マルコは混乱しており、その分緊迫感が伝わってきます。主イエスはこのぶどう酒を飲むことなく、最後の大声をあげました。ここは、大声をあげることによって息を、霊をご自分から出された、という描写になっています。このようにして主イエスは亡くなりました。十字架の上での主イエスの最後の、そしてただ一つのお言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」だったのです。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。

信頼の言葉?  
 このお言葉をどのように捉え、読むかをめぐって、古来様々な議論がなされてきました。これは旧約聖書、詩編22編の冒頭の言葉です。そこからの引用であると言えるのです。詩編22編は、この言葉によって代表される、神に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望を語っています。その最初の部分だけを読んでみます。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。神が遠く離れ、救おうとせず、自分の声を聞いて下さらない、神に見捨てられてしまった、という絶望が語られているのです。しかしこの詩は読み進めていくと次第に、しかし神はそれでもなお、わたしを遠く離れて見捨てることなく救って下さるという信頼を語っていきます。そして最後は、生きている者も死んだ者も皆、主のみ前にひれ伏し、主のご支配を喜び、宣べ伝えていくのだと結ばれているのです。そのことから、主イエスが十字架の上でこの詩の冒頭の言葉を語られたのは、この詩全体が語っている主への信頼をご自分がなお失っていないことを示すためだったのであって、主イエスは父なる神に見捨てられたという絶望の内に死んだのではない、むしろ十字架の死に臨んでもなお、父なる神に深く信頼しておられた、このお言葉はそういうことを示しているのだ、という主張もあるのです。  
 この解釈の根底には、神の子であられ、救い主であられる主イエスが、十字架の上で、神に見捨てられたという絶望の内に死んだとしたら、もはや神の子でも救い主でもなくなってしまい、主イエスによる救いがおじゃんになってしまう、という恐れがあります。そして実際このお言葉は、キリストによる救いを否定する人たちによって利用されてきました。教会の歴史の初めの頃から、イエスは十字架の上で、神に見捨てられたと嘆きつつ死んだではないか、そのような者が救い主であるはずはない、という批判がなされていたのです。日本でも、例えば私が以前おりました富山は仏教の盛んな所ですが、明治十年代にキリスト教伝道が始まった頃、仏教徒たちの間で、キリスト教を批判するための数え歌が歌われていたという記録があります。その中にはこういう一節がありました。「最後に臨みてキリストは、天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す、この愚か者」。この「天主(ゴッド)のうらみてな、泣き出す」というのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉を指しているのです。キリストは絶望の内に神を恨みつつ惨めに死んでいった。そんな情けない愚か者を救い主と信じているクリスチャンとはなんと愚かな連中か、というわけです。このように主イエスのこの最後のお言葉は、信じようとする者にはつまずきを与え、批判しようとする者には絶好の口実を与えるようなものです。それゆえに、いやこのお言葉は詩編22編からの引用であって、主イエスは父なる神への信頼を語ろうとしておられたのだ、と理解したい気持ちはよく分かるのです。

主イエスは絶望の内に死んだ  
 けれども、このお言葉をそのように読んでしまうと、マルコ、マタイ福音書がこのお言葉によって見つめていることを受け止め損ね、さらには主イエスの十字架の死を正しく見つめることができなくなってしまうと思います。主イエスの十字架の死を正しく見つめるとは、先程申しましたように、主イエスの死とその時全地を覆った暗闇を、自分自身の生活、自分たちが生きているこの社会において起っている悲惨な現実と、そこを覆っている暗闇とのつながりの中で、自分自身の罪が生み出している悲惨な現実と重なり合うものとして見つめていく、ということです。主イエスの十字架の死と同じような正視に耐えない悲惨な出来事が私たちのこの世界には起っているし、私たちは今朝まさにその渦中におり、その暗闇に覆われているのです。そのことに目を向ける時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスのお言葉は、文字通りの意味で私たちに迫って来ます。私たちも、今聞かされている出来事の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばずにはおれないことを感じるのです。そしてその時にこそ私たちは、主イエスが十字架の上で味わわれたあの苦しみを知り、主イエスが体験されたあの暗闇を体験するのです。主イエスご自身が十字架の上で、愛し信頼していた父なる神に見捨てられてしまったという絶望を味わわれたことを知るのです。主イエスの十字架の死が本当に分かるとはそういうことです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの絶望の叫びが私たち自身の叫びとなるところでこそ私たちは、主イエスの十字架の死とは何だったのかが本当に分かるのです。このお言葉を、「これは実は信頼の言葉だったのだ」と捉えようとしている間は、主イエスの十字架の死は、この自分にとって本当に意味あるものとはならないでしょう。そこでは主イエスは二千年前に生きていた偉人の一人に過ぎなくなります。昔こんな立派な人がおり、十字架の死に臨んでも父なる神様への信頼を失わなかった、私たちもこの方を見倣って神様を信頼して生きましょう、というような教訓話にしかならないのです。しかし私たちが体験し生きているこの世の現実はそんな甘いものではありません。この世を覆っている人間の、私たちの、罪の闇の深さは、神様に信頼して歩みましょうなどという人間の思いや営みを粉みじんに打ち砕くのです。十字架の苦しみの中でも父なる神に信頼しつつ死んでいったイエスは、尊敬すべき偉人かもしれませんが、罪の支配下に置かれ、その闇に閉ざされている私たちの救い主ではあり得ません。罪に支配された私たちの現実、私たちが閉ざされている暗闇、神に見捨てられてしまったとしか思えない絶望、それを主イエスご自身が体験し、味わい、その絶望の内に死んで下さったからこそ、主イエスは私たちの救い主なのです。

主イエスの死は特別な死  
 主イエスはこの世界を、私たちの現実を支配している罪の支配の暗闇の中で、私たちが陥っているのと同じ絶望を味わい、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。その死は、リンチによって殺された黒人たちの死と、ホロコーストの犠牲者たちの死と、日本の支配下で殺されたアジアの人々の死と、また空襲、原爆によって殺された日本人たちの死と、そして今、テロリストによって殺されている人々の死と重なるのです。それらはいずれも、絶望の中での死です。主イエスの十字架の死は、その人々の絶望的な死と重なり合うのです。しかしそれでは主イエスの十字架の死は、理不尽に殺されていった多くの人々の絶望的な死の中の一つに過ぎなかったのでしょうか。そうではありません。絶望の中で死んだ主イエスは、神の子だったのです。十字架の上でのあの言葉は、そのことを示しているのです。絶望の中での死に臨んで主イエスは、「わが神、わが神」と神に語りかけたのです。主イエスは、絶望の中で語りかけることができる「私の神」を知っておられました。その「私の神」に「なぜ」と問いかけていかれたのです。主イエスのこのお言葉を、神への信頼を語っていた、と読むべきではないと思いますが、しかしこのお言葉において主イエスが、子として父なる神と向き合っておられ、そこには決して切れることのない父と子との間の「わたしとあなた」という関係があったことは確かです。主イエスは十字架の苦しみと死の絶望の中でも、父なる神との関係を持ち続け、子として、父なる神に語りかけたのです。ですから主イエスはあの数え歌のように神を恨みながら死んだのではないのです。神に見捨てられたという絶望の中で、なおその神に「なぜ」と問いかけつつ死んだ主イエスは、神の独り子としての、父である神との関係を失うことはなかったのです。それゆえに、主イエスの十字架の死は特別な出来事です。理不尽に殺された多くの人々の絶望的な死の中の一つではなくて、それらの全ての絶望的な死を担う、特別な死なのです。主イエスの十字架の死によって、罪の暗闇に閉ざされている世界に、新しい扉が開かれたのです。

新しい扉が開かれた  
そのことを語っているのが38節です。主イエスはついに息を引き取られた。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。主イエスの死によってこのことが起ったのです。神殿の垂れ幕、それはエルサレム神殿において聖所と至聖所を隔てていた幕です。至聖所こそ、神がご自身を現される場であると考えられていましたが、そこには年に一度、大祭司のみが、しかも罪の赦しのための犠牲の動物の血を携えることによってのみ入ることができました。それ以外の時に、また大祭司以外の者がそこに入ることを阻んでいたのがこの垂れ幕です。その垂れ幕が、主イエスの死と共に真っ二つに裂けた。それは、神と人間との間を隔てていた人間の罪が、主イエスの十字架の死によって赦され、もはや私たちが神の前に出ることを妨げるものはなくなったということです。罪を赦された私たちが神の前に出て礼拝をし、神との交わりに生きることができる新しい扉が開かれたのです。その扉の向こうにはどのような世界が開かれているのでしょうか。もはや何の苦しみも悲しみもなく、人間の罪による悲惨な出来事が起ることもない、楽園のような世界でしょうか。そうではありません。それは、この世の終わりの救いの完成においてのみ実現することです。それまでは、人間の罪によって主イエスの十字架の死という正視に絶えない悲惨な出来事が起ったように、この世界は人間の罪の闇に覆われているのです。しかし、神の独り子である主イエスが、その闇の現実の中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。その主イエスの死は、同じ絶望、同じ闇の中に閉ざされている私たちに、その中で神を「わが神」と呼び、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問うていく道を開いたのです。主イエスがこの絶望の叫びを父なる神に向けて語って下さったことによって、私たちも苦しみ悲しみ絶望の中で、主イエスと共に、父なる神と向き合い、神を「私の神」と呼んで、自分の絶望を訴えていく道が開かれたのです。罪を赦されて神の前に出て礼拝をすることができる扉が開かれたとはそういうことです。主イエスの十字架の死によって与えられた罪の赦しの恵みによって、私たちは、神に見捨てられてしまったとしか思えないような苦しみ悲しみ絶望の中で、なお神から離れることなく、神の前に出て、主イエスの父である神に語りかけ、その神からのみ言葉を聞きながら生きていくことができるようになったのです。私たちの前に立ち塞がり、また私たちを暗闇の中に閉じ込めている罪の幕はまことにぶ厚く重いものです。私たちの力でそこに新たな道を切り開くことはできません。しかし主イエスの十字架の死によって、その幕は真っ二つに裂け、闇に閉ざされている私たちに希望の光が差し込んで来たのです。

本当に、この人は神の子だった  
 主イエスがこのようにして息を引き取られたのを見たローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。彼は、主イエスが十字架の苦しみと死に臨んでも神への信頼を失わず淡々と死を受け入れ、堂々と死んでいったことを見てそう言ったのではありません。彼は主イエスの処刑を執行する責任者として、正視に絶えない残酷な仕方で処刑され、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで絶望の内に死んだ主イエスを見たのです。しかしその主イエスが苦しみの中で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、そこに、主イエスと父なる神との確かな関係を、失われることのない絆を感じ取ったのです。この人は神の子として、父である神との確かな関係を持ちつつ苦しみ、絶望し、死んでいった、それが彼の言葉の意味です。そしてそこには、この神の子の死によって世界は変わる、何か新しいことが始まる、という期待が込められています。絶望と闇に閉ざされているこの世界の現実のただ中で、神の子主イエスが十字架にかかり、絶望を身に負って死んで下さったことによって、神と人間とを隔てていた幕が開かれました。私たちを覆っている絶望と闇を照らす一筋の光がそこから差し込んで来たのです。

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