「神の子ども達」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編 第62編1-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第17章22-27節
・ 讃美歌 : 68、159
第2回目の受難の予告
本日はご一緒にマタイによる福音書第17章22節から27節をお読みします。最初の22節と23節では、主イエス・キリストがご自分の受難と復活の予告されたことが語られています。主イエスが弟子たちに対して、厳しい言葉で受難の予告をされたところから、本日の箇所は始まります。第17章の最初に描かれている、主イエスのお姿は、高い山の上で光り輝く栄光に包まれた神の独り子であられました。そして、病を癒され、悪霊を追い出すという力ある神の子であるメシア、救い主はこれから苦難の道を歩んで行かれるのです。私たちは既に、第16章21節以下において、主イエスのご受難の予告の御言葉を聞きました。本日は再び、主イエスご自身の口を通して、イエス・キリストの死とよみがえりについて、聞くことはとても大事なことであると思います。私たちが今礼拝し、私たちがお従いする主は、十字架への道を歩まれる方なのです。父なる神様によって、そのためにこの世に遣わされ、私たちと同じ一人の人間としてお生まれになった方なのです。ご自身の受難について予告する主イエスのお言葉を見ていきたいと思います。小見出しには「再び自分の死と復活を予告する」とあります。主イエスがこのようにご自分の受難と復活を予告されたのはこれが二度目なのです。そして、主イエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」と言われました。「人の子」とは、主イエスご自身のことです。
神の導きによって
ご自分がこれから、人々の手に引き渡され、殺されるのだと語られました。この主イエスのお言葉を直訳しますと、このようになります。「人の子は人々の手に渡されようとしている。そして、彼らは彼を殺すだろう。そして彼は三日目に復活させられるだろう。」となります。ここで、主イエスの死についてはっきりと「彼らは彼を殺すだろう」となっております。「彼らが」というのが主語になっています。けれども、「引き渡される」という言葉と「復活させられる」という言葉は受け身の形になっております。この「引き渡される」という言葉は聖書において、主イエスの受難の本質を言い表す言葉として用いられて来ました。つまり、その行為の主体がはっきりと描かれていないのです。学者たちはこのような言葉を「神的受動」と呼びます。神様が主語、行為の主体であることを示すための受動態ということです。人の子である主イエスが、人々によって殺されるために「引き渡される」、その背後にはあるのは、神様の御心なのです。神様のご意志がそこにあるのです。人間の思いや行動を通して、神様が働いておられるということです。御子イエス・キリストの苦難の背後には、隠された主語として、父なる神がおられるのです。父なる神様が神様の独り子であられる主イエスを十字架の死へと引渡したのです。それは何よりも私たちの救いのためです。私たちを救うために、父なる神様が主イエスを十字架の苦難へと引き渡されたのです。主イエスは父なる神様の御心に従って、罪人の手に引き渡されました。そうなりますと、主イエスは父なる神様と罪人、人間たちの間にあって一見、御子主イエスご自身は全く自由ではないかのように見えるのではないでしょうか。
しかし、実はそこでそこ、御子主イエスの自由が発揮されているのです。主イエスは強制されてではなく、全く自由に、父なる神の御心に従おうとされます。罪人たちの手にご自身を任せるほどに、自由に振舞っておられるのです。この主イエスの自由を更に分かりやすく表現をしているのが、続く「神殿税を納める」という物語であると言えます。そこには、文字通り「自由」という言葉が用いられています。26節の言葉を直訳しますと「それでは、子供たちは自由だ」となります。主イエスは、神の子ども達の自由について、ペトロとの対話を通して教えて行かれるのです。主イエスが受難予告をされました。そして、一行はカファルナウムに行き、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言ったのです。神殿税とは聖書の後ろの用語集によりますと「出エジプト記30:11以下に定められた規定に従って、ユダヤ人成人男子が年に一度、神殿に納める税金。額は旧約では半シェケル、新約時代には2ドラクメであった」とあります。「神殿税」とは本来は「二ドラクメ」というお金の額を表す言葉なのです。イスラエルの民に属する20歳以上の成人男子は、臨在の幕屋と呼ばれる聖所のために用いる費用として、年に一度銀半シェケルを納めることが規定されています。この「銀半シェケル」というのが、二ドラクメに当たります。現実的には、聖所の運営や修理費に当てる経済的な基盤となりました。これは象徴的には、神殿税を納めるということが「イスラエル」という神様の民の一員であるイスラエルに属する者が、そのしるしともなったのです。神殿のために献金を毎年捧げることが律法によって義務づけられていたのです。興味深いのは出エジプトの規定において、この献げ物が「命の代償」「命を贖うもの」と呼ばれていることです。これを納めることによって、聖所での犠牲の献げ物に参加することになったのです。やがてはユダヤ人にとって、律法を守りながら「命の代償」としての納入金を納めることが、神の民としての選びと祝福を確かなものとする保証と見なされるようになりました。それは、命の代償ですから、人によって多い少ないがあってはなりません。これも興味深いことに、どんなにお金持ちであっても、銀半シェケル以上払ってはならないと規定されています。また、どんなに貧しい者であっても、銀半シェケルより少なくてはならないのです。命の贖い代は平等であります。
自由な神の子
さて、この神殿税は、年に一度、過越の祭りの頃、徴収する者が各家庭を訪れて集めたようです。ある時、カファルナウムにあるペトロの家にも、神殿税を集める者たちがやって来ました。そしてペトロに尋ねたのです。 「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」。
この問い方それ自体が、非難の調子を含んでいるように響きます。ペトロは、いささか、むっとしたのかもしれません。ただ「納めます」とだけ答えて、家の中に入ってしまうのです。この「納めます」という答えも、ぶっきらぼうに、一言答えて、家に入ってしまったのです。ペトロが家に入ると、ペトロが言い出すよりも先に、主イエスがお尋ねになりました。 「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われました。「では、子供たちは納めなくてもよいわけだ」。要するに、人間の王は、自分の子供たちからは税金を取り立てたりはしない。同じように、天の大王の子供たちも、納税の義務に対して自由なはずだと言われるのです。神殿税というのは、ユダヤ人が神の民という共同体の一員であることのしるしなのですから、もともと神の子であるイエスはそれを納める必要はないのです。しかし、本来ならば、神殿税を納める必要がないはずの神の御子が、それを納めようとされる。そこに、神の子の自由があります。しかもこの自由は、御子イエスだけの自由ではありません。主イエスははっきりとここで、「子供たちは自由だ」と言っておられます。あたかもその場にいるペトロをも含み込むようにして、神の子とされている者たちは、自由だと宣言されるのです。そしてその自由を、人々をつまずかせないために働かせられるのです。
「神の子たち」とは主イエスの十字架の贖いを信じて、主と共に死に、主のよみがえりの命にあずかっている者たちのことです。そのような人は皆、神の子供たちであります。
「子供たちは納めなくてよいわけだ」の「納めなくてよい」と訳されている言葉は、もともとの意味は、「解放されている、自由である」ということです。主イエスは「子供たちは解放されている、自由だ」と言われたのです。神殿税を支払う義務がないというだけのことではありません。神様の子供とされるならば、人は解放されるのです。自由になるのです。神様が私たちの父となって下さり、私たちはその子供とされるのです。子供とは、父から愛される存在であります。主イエスは神様は私たちの天の父となって下さり、あなたがたを愛して下さっているのだ、と語っておられるのです。神様に愛されて生きるところに解放、自由が与えられるのです。それは、何かの義務や束縛からの自由と言うよりも、むしろ、恐れからの自由、不安からの、絶望からの自由です。神様が天の父として私たちを導いて下さるのです。
自由な主イエス
私たちは神の子どもとされ、神の愛の導きの内に生かされ、私たちの国籍は天にあるのです。ですので、この世の秩序からは、一切自由にされているのです。しかし、人々をつまずかせないために、愛のゆえに、配慮を持って隣り人を生かすために、この神の子としての自由が侵されない限りは、この世の秩序と法に従っていく自由をも与えられています。神の御子は、本来は納める必要のない神殿税を納めるほどに自由なのです。主イエス・キリストは、その自由な意志によって、神の御心に従い、十字架への道を歩まれました。私たちを愛して、私たちのために、その命を捨ててくださったのです。この御子の愛によって捕らえられ、この世の定めから解き放たれて自由となった者は、やはり愛する自由を与えられているのです。私たちの自由、あるいは、私たちの正しさが、人を傷つけ、人をつまずかせるようなことになっていないか、反省を迫られます。もしも、人を傷つけ、つまずかせてまで自分の自由を主張するならば、それは、神の愛から出たものではありません。神の御子の自由は、私たちを愛して、私たちのために命を捨てる自由でした。御子イエスは、全き従順のただ中で、自由な主として振る舞っておられます。律法を成就する救い主として、モーセの律法に従われたのです。本当の自由とは、自分の好きなことをできることではなくて、人のために、人の信仰のつまずきとなってしまわないために、配慮していくことができることです。
主イエスの死
しかし、そこで主イエスが選ばれた解決法は、不思議な言葉として響きます。ユーモアに富んでいます。もとは漁師であったペトロに対して、主イエスは、釣りをすることを命じられます。ガリラヤ湖で釣りをして、最初に釣れた魚の口に、銀貨一枚が見つかると言われるのです。銀貨一枚は、ちょうど二人分の神殿税の額に当たります。それを、ご自分とペトロの分として納めよと命じられたのです。一体なぜこのような回りくどい方法を命じられたのでしょうか。湖で釣りをするというと、何となく、のんびりしたのどかな風景を思い浮かべがちです。けれども、主イエスの命令を直訳すれば、 「海に行って、釣り針を投げ込みなさい」となります。激しい響きが含まれているのです。「釣り針」という言葉は、旧約聖書においては、しばしば、神の厳しい裁きの権能を示す言葉として用いられている言葉です。主イエスは確かに、彼らをつまずかせないように、と言われました。そこに、神の御子の自由が現れていました。しかし、考えてみれば、どんなにつまずきを取り除こうとしても、決して取り除くことのできない根本的なつまずきが残るのではないでしょうか。神殿税を納めることによって、自分たちは神に対する責任を果たし、神の民の一員として何の不安もないと思い上がっている人々にとって、神の独り子の十字架の死という知らせは、大きなつまずきなのではないでしょうか。私たちの命は、年に半シェケルを支払って、神殿の犠牲の祭儀にあずかっていればそれで贖われるようなものではありません。私たちの命が贖われるためには、尊い御子の血が流されなければならなかったのです。 湖に投げ込まれる釣り針、それは、御子イエス・キリストの死を指し示していると言ってもよいのではないでしょうか。神様は私たちを救うために、御子を罪人たちの手に引き渡し、愛する独り子を不信仰なこの地上に投げ込まれたのです。つまずくならば、他のどこでもなく、御子イエスの十字架にこそつまずかなければなりません。この十字架のもとでつまずき倒れ、このつまずきの石によって打ち砕かれてひれ伏すのです。このつまずきの中から十字架を仰ぐとき、御子の死が、私たちの命の贖い代であったことを知るのです。この投げ込まれた釣り針に魚がかかります。
信仰のしるし
魚というのは初代のキリスト者たちにとって、大切な意味を持つしるしとなりました。「イエス・キリスト、神の子、救い主」という告白の頭文字をつなぎ合わせると、「魚」という意味の言葉になったからです。信仰のしるしとして、魚の絵が描かれるようになりました。まさにその魚の口に、命の贖い代としての銀貨一枚が備えられたのです。私たちもまた、この信仰の言葉によって生きるのです。自らの功績によってではなく、ただ神の御子が備えてくださった恵みの御業によって救われ、御名を讃える信仰の言葉によって礼拝する者とされるのです。私たちは神の独り子であられる主イエスの十字架の苦しみと死によって、本来神の子ではなかった私たちが、神の子とされたのです。主イエスの「わたしとあなたの分として」というお言葉に、主イエスのペトロに対する深い愛と慈しみのみ心が示されています。御子イエスこそは、私たちの命の贖い代として、ご自身を献げてくださった自由な主であります。ただ今より、私たちは主の聖餐に与ります、聖餐において私たちは主イエスが私たちのために十字架にかかり、死と苦しみをもって罪を贖って下さったことを覚えるのです。主イエスは、ご自身とペトロのために、そしてペトロに続く全ての神の民のために、救いを備えてくださったのです。