主日礼拝

悔い改めと罪の赦し

「悔い改めと罪の赦し」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第32編1-11節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第1章1-11節
・ 讃美歌:351、442、476

洗礼者ヨハネのこと
 本日も先週の礼拝と同じく、マルコによる福音書第1章1~11節よりみ言葉に聞きたいと思います。先週はペンテコステ、聖霊降臨日でした。ペンテコステは、弟子たちに聖霊が降り、イエス・キリストこそ救い主であるという福音を宣べ伝える伝道が始まり、教会が誕生したことを記念する日です。この日、聖霊が降ったことによって人々が洗礼を受け、教会に加えられました。それと同じように先週の私たちの礼拝においても、二人の方が洗礼を受けました。ペンテコステに降り、教会を誕生させて下さった聖霊が、今私たちの教会においても働いて下さり、新たな方々が洗礼を受けて教会に加えられることを私たちは目撃したのです。先週はそのことを覚えつつ、マルコ福音書1章1~11節の中の、主イエスが洗礼をお受けになったこと、すると聖霊が主イエスに降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたことを中心にみ言葉に聞きました。聖霊の働きと洗礼との深い結びつきが、マルコ福音書の冒頭において既に語られていることを示されたのです。本日の礼拝においては、同じこの箇所から、先週とは別のことを見つめていきたいと思います。主イエスが洗礼をお受けになったのは、洗礼者ヨハネからでした。そのヨハネのことを中心にみ言葉に聞きたいのです。この福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始められています。その「福音の初め」としてマルコが先ず語っているのは洗礼者ヨハネのことです。イエス・キリストの福音はヨハネの活動から始まった、とマルコは言っているのです。

預言んの成就として
 ヨハネは荒れ野に現れ、洗礼を授けました。2、3節には、旧約聖書の預言の言葉を引用することによって、ヨハネは救い主の前に遣わされ、その備えをする使者であり、主の道を整え、その道筋をまっすぐにする「荒れ野で叫ぶ者の声」であることが語られています。「預言者イザヤの書にこう書いてある」とありますが、3節は確かにイザヤ書第40章3節ですが、2節の言葉はイザヤ書以外からの引用です。いずれにせよ、洗礼者ヨハネの登場は旧約聖書に預言されていたことであり、独り子イエス・キリストを遣わして救いを実現して下さる神様のご計画の一環なのだということが先ず語られているのです。

悔い改めを迫るヨハネ
 イザヤの預言通りに荒れ野に現れたヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と4節にあります。先ほど私は、ヨハネは荒れ野に現れて洗礼を授けたと言いましたが、マルコの言葉に即して言えば、洗礼を「授けた」のではなくて「宣べ伝えた」のです。マルコは、ヨハネは洗礼を授けるという儀式だけを行ったのではなくて、彼が「宣べ伝えた」ことがあった、ということを語ろうとしているのでしょう。彼が宣べ伝えたのは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でした。そこに、彼が語ったことの内容が凝縮されています。ヨハネは人々に、悔い改めることによってこそ罪の赦しが得られることを語り、悔い改めを迫ったのです。彼が授けた洗礼は、悔い改めて罪の赦しを得ることの印だったのです。

多くの人がやって来た
 このヨハネの呼びかけは多くのユダヤ人たちの心を動かしました。そのことを5節が語っています。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」とあります。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」というのはいくらなんでも誇張ですが、そのように語られるほどに多くの人々が、荒れ野から聞こえてくるヨハネのメッセージに衝撃を受け、彼のもとにやって来て洗礼を受けたのです。洗礼という儀式はヨハネが考えたわけではなくて、それ以前からありました。もともとは神のみ前に出るために水に浸かって全身を浄める、ということから始まったものです。当時のユダヤ人たちの中には、世俗を離れて修道院のような共同生活をしていた人々がおり、彼らの間では、水で身を浄めることが繰り返し熱心に行われていました。しかし当時の一般のユダヤ人たちにとって洗礼とは、異邦人、つまり他の神々を拝んでいた人が改宗して主なる神様を信じる者となり、イスラエルの民に加えられる時に受ける儀式でした。異邦人つまり異教徒は、洗礼を受けてイスラエルの民に加えられることによって初めて救いにあずかることができる、と考えられていたのです。ところがヨハネは、ユダヤ人たちに向かって、あなたがたも洗礼を受けなければ救われない、と語ったのです。それは、ユダヤ人も異邦人と同じ罪人だ、ということです。異邦人が悔い改めて洗礼を受けることによって罪を赦されて救いにあずかるように、あなたがたユダヤ人も、悔い改めて罪の赦しを与えられなければ救いにあずかることができないと彼は宣言し、悔い改めて罪の赦しにあずかる救いの印として洗礼を授けたのです。
 このヨハネのメッセージは、自分たちは異邦人とは違って神に選ばれた民であり救いを約束されている、と思っていたユダヤ人たちにとって、頭をガツンと殴られるような衝撃的なものでした。それまで抱いていた、神に選ばれた民としての誇りや自負や優越感を否定され、見下していた異邦人と同じにされてしまったのです。当然、そのような教えには反発し、拒否し、敵対する人々もいました。特に民の指導者たちの間にはそういう人々が多かったわけで、このヨハネが後に捕えられて首を切られたのも、そしてヨハネが「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と告げた主イエスが十字架につけられて殺されたのも、そのような人々によってです。けれどももう一方で、このヨハネの言葉、悔い改めを求める言葉に耳を傾け、そこに真実を見出したユダヤ人たちも沢山いたという事実をこの5節は告げています。多くの人々が、罪を指摘し、悔い改めを迫るヨハネの言葉に引き付けられ、ショックを受けつつも、本当にそうだと思ったのです。そして彼らはヨハネのもとに来て、罪を告白して洗礼を受けたのです。彼らは、我々は神に選ばれた民だなどということに胡座を組んでいることはできない、自分は神様に赦していただかなければ救われない罪人なのだ、ということを認めたのです。

悔い改めこそ福音の初め
 洗礼者ヨハネの促しによってユダヤ人たちの間にこのような悔い改めが起った、それが、イエス・キリストの福音、つまり主イエスによる救いの出来事の初めとなった、とマルコは語っています。私たちはこのことをしっかりと見つめ、その意味をきちんと捉えなければなりません。キリストによる福音、救いの出来事は、悔い改めへの促しと分ち難く結びついているのです。この後主イエスが登場し、福音を宣べ伝えていかれますが、その最初のお言葉は15節の、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。主イエスご自身の教えにおいても、「福音を信じる」ことは、「悔い改める」ことと結びついているのです。
 そして私たちが本日の箇所において確認しなければならない大事なことは、その悔い改めを求める言葉が、多くの人の心に届いたということです。ヨハネの言葉は反発を受け、無視され、誰も耳を傾けなかったのではなくて、多くの人々がそれを受け入れ、彼のもとに来て罪を告白したのです。このことは、悔い改めを迫るヨハネの言葉が、人々の心の奥深くにある真実に触れたことを示しています。ユダヤ人たちは、我々は神に選ばれた民だ、異邦人とは違うんだ、という自負を持ち、それに依り頼むことによって誇りを保って生きていました。しかし表面的にはそのように誇り高く生きていたユダヤ人たちの心の奥深くには、満たされない思いがあり、恐れや不安が隠されていたのです。それらの隠された思いに、ヨハネの言葉は届いたのです。ヨハネは、彼らの心の奥深くにある満たされない思いや恐れや不安は、罪から生じているのだと語りました。その罪というのは、犯罪を犯しているとか、神の掟である律法をきちんと守っていない、というような表面的なことではなくて、神様との関係が正しくない、ということです。神様に背き、神様との良い交わりを失っていることが聖書の語る罪です。その罪を認めて悔い改めなさい、とヨハネは語ったのです。「悔い改める」というのも、私たちが普通に考える、自分の悪い所を反省してそれを直す、ということではありません。聖書における悔い改めは、神様のもとに立ち帰ることです。神様に背き逆らい、良い関係を失っている罪を認めて、神様のもとに立ち帰り、赦しを求めること、それが悔い改めることなのです。あなたがたに本当に必要なのは、そういう悔い改めなのだ、とヨハネは告げたのです。すると、それを聞いた多くの人々が、本当にそうだ、と思ったのです。自分でも気付いていなかった、罪に支配されてしまっている自分の姿を示され、自分に本当に必要なことは神に立ち帰ることだということに気付かされたのです。

今こそ悔い改めるべき時
 悔い改めを迫るヨハネの言葉が多くの人々に受け止められたのは、当時の人々が置かれていた状況にもよると言えるでしょう。ユダヤ人たちはこの時、ローマ帝国の強大な力によって支配されています。神の民イスラエルとしての独立した国を持つことはできず、異邦人であるローマの許可なしには何もできない状態です。ローマの支配の下で平和が保たれ、ローマの繁栄の恩恵を被り、ローマへの税金を払わなければなりません。自分たちは神の民だ、という誇りや自負を語っても、負け惜しみにしか聞こえないような状態だったのです。そのような閉塞状況、自分たちの歩みに自信が持てず、行く先に希望が見出せないような中だったからこそ、民族の誇りや自負を打ち砕くようなヨハネの衝撃的な言葉を受け止めることができたのかもしれません。もしこれが、国が順調に繁栄しており、異邦人に対して優越感を自然に抱けるような状況だったら、こんなに多くの人々がヨハネのもとに来て罪を告白することはなかっただろうと思うのです。神様に逆らい、良い関係を失っているという罪の現実は、いつの時代にもどの人にも共通してあります。しかし私たちは人間の奥深くにあるその現実になかなか気付くことができません。苦しみや悲しみ、思い通りにならない現実に直面することの中でこそ、罪を指摘し、悔い改めを求める言葉の真実に気付くことができる、ということはよくあるのです。そういう意味では、経済的な落ち込みの中で貧富の差が広がり、年間3万人もの自殺者があり、東日本大震災や原発事故の苦しみをかかえている現在の日本に生きる私たちは、悔い改めを迫るヨハネの言葉の真実に今こそ気付くべき時なのではないでしょうか。このような状況の中では、当時のユダヤ人たちにおいてもそうだったように、自分たちの誇りや自負をかき立てることによって人々を元気づけようとする民族主義的な主張もなされていきます。しかし、今私たちに本当に必要なのは、神様への悔い改めであり、神様による罪の赦しなのではないでしょうか。

反省ではなく方向転換
 悔い改めるとは神様に立ち帰ることだと申しました。それは要するに、向きを変えることです。生まれつきの私たちは、神様から離れ去っていく方向へと向かっています。神様に背を向けているのです。神様に背を向けつつ、こうすればもっと良くなるだろう、事態が改善されるだろうと自分なりにいろいろなことを努力し、頑張っているのです。しかし基本的に神様に背を向けているので、歩めば歩むほど、神様から遠く離れていってしまうのです。努力すればするほど罪の結果が深まっていく、という悪循環に陥っているのです。それゆえに、自分の悪い所を反省してそこを直していこうと努力しても、根本的な解決が得られないのです。神様との関係において私たちに必要なのは反省ではなくて向きを変えることです。神様に背を向けている方向性を180度転換して、神様に顔を向け、顔だけでなく全身を向け、神様の方へと歩んでいくことです。悔い改めるというのは、反省することではなくて、方向転換をすることなのです。それはとても大変なことです。自分のこれまでの歩みを否定されることになるからです。だから私たちは、反省ぐらいで事を済ませたいと思っているのです。反省というのは、根本的には自分の現状の肯定です。基本的には今のままでよい、でも少しここだけは改善しよう、ということです。生活の上のことなら、そういう反省と改善が大事でしょう。また人間関係においては、相手の存在を先ずありのままで受け入れ、肯定して、関係を築くことの中でこそ問題の解決もなされていくと言えるでしょう。批判ばかりしている中で関係の改善は得られないのです。しかし私たちと神様との関係をそれと同じに考えてはなりません。神様との関係においては、私たちは方向転換をしなければならないのです。神様の愛は、私たちの現状をただ肯定して、そのままでよい、ありのままでよい、というものではありません。神様は私たちに、悔い改めを求めておられるのです。背を向けていないで、私の方に向き変わりなさいと呼びかけておられるのです。神様からのこの語りかけをしっかりと聞き、自分の罪を認め告白して、神様と正面から向き合い、罪の赦しを求めることが必要なのです。

悔い改めと罪の赦し
 悔い改めが反省ではなくて方向転換であるように、罪の赦しも、私たちが罪を反省して自分を改善し、罪のない立派な人になることではありません。罪のない立派な人になるというのは、罪の赦しを必要としない人となる、ということです。罪の赦しは、罪人にこそ与えられるのです。神様に背き逆らっている罪人である私たちが、神様の方に向き変わり、罪を認めて赦しを願う時に、神様が恵みによって赦しを与えて下さるのです。私たちはその神様の恵みによって、罪人であるままで赦しにあずかるのです。そういう意味では、神様は罪人である私たちを、そのままで、ありのままで赦し、受け入れて下さいます。しかしそのことは、私たちが悔い改めること、神様の方に向きを変えることにおいてこそ起るのです。ヨハネの授けていた洗礼は、この悔い改めにおいて与えられる罪の赦しの印でした。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」というのはそういうことです。神様の恵みによる罪人の罪人であるままでの赦しが、神様の方へと向きを変え、立ち帰って赦しを願う悔い改めによって与えられる、そういう救いをヨハネは宣べ伝えたのです。

ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼
 ヨハネは、自分の授けている洗礼が、来るべき救い主のために道を準備し、整えるものであることを自覚していました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」という言葉がそれを示しています。ヨハネの洗礼は水での洗礼だが、来るべき救い主は聖霊で洗礼をお授けになるのです。ヨハネの洗礼はその救い主の洗礼のための備えであって、来るべき方の洗礼にとって替わられていくべきものなのです。そしてその来るべき方として、主イエスがガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのです。主イエスが洗礼を受けると、天が裂けて、「霊」が鳩のように降りました。そして同じように天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたのです。このことによって、主イエスこそヨハネが予告した「わたしよりも優れた方」であり、「聖霊で洗礼をお授けになる」方であることが神様によって示されたのです。
 主イエスが授ける聖霊による洗礼、それは先週申しましたように、聖霊を受けて誕生した教会において弟子たちが授けていった教会の洗礼ですが、それとヨハネが授けた水による洗礼、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とはどう違うのでしょうか。ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」だったが、主イエスの洗礼、教会の洗礼は、悔い改めなしに罪の赦しを与える洗礼なのでしょうか。そうではありません。先ほども見たように、主イエスご自身も、「悔い改めて福音を信じなさい」とお語りになったのです。主イエスによる救いにおいても、悔い改めること、神様の方に向き変わり、立ち帰ること抜きに救いを考えることはできないのです。ですから主イエスの聖霊による洗礼もやはり、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その根本は変わりがないのです。ではどこが違うのか。その違いは、主イエスご自身が、ヨハネの洗礼をお受けになったことによって、そしてその主イエスが十字架の死に至るご生涯を歩まれ、そして復活なさったことによって生じているのです。

主イエスの受難と復活によって
 主イエスご自身が、罪人が罪を告白して受けるヨハネの洗礼を受けて下さいました。悔い改めて神様に立ち帰ることによって罪を赦していただくべき私たち人間と同じ所に、神様の独り子であり、救い主であられる主イエスが立って下さったのです。そのことによって主イエスは、神様に背を向け、敵対している私たちの罪をご自分の身に背負って下さったのです。そしてその罪を償い、私たちに赦しを与えるために、主イエスは十字架の苦しみと死へのご生涯を歩み通して下さいました。主イエスの受洗は十字架の死へのまっすぐな道の始まりだったのです。そして十字架につけられて死んだ主イエスを父なる神様は復活させ、死に勝利する永遠の命を主イエスに与えると共に、それを私たちにも与えることを約束して下さいました。主イエスの洗礼、教会の洗礼は、主イエスの十字架の死と復活によって実現した神様の救いの恵みの中に置かれています。そこに、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼の違いがあるのです。どちらも、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。しかし主イエスの洗礼、教会の洗礼を受けることにおいて私たちは、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の死と復活による救いを与えて下さった父なる神様のもとへと立ち帰り、この神様へと向き変わることができるのです。そして、主イエスが私たちの罪を背負って十字架かかって死んで下さったことによって具体的に実現して下さった罪の赦しにあずかり、主イエスの復活にあずかる新しい命を生き始めることができるのです。単なる反省ではない方向転換は、私たちが自分の力でできることではありません。聖霊のお働きによる主イエスの洗礼を受け、主イエスの十字架と共に罪に支配された古い自分が滅ぼされ、主イエスの復活にあずかって新しい命を生きる者とされることにおいてこそ、私たちは本当に方向転換をして、神様の方に向き変わって生きることができるのです。

聖餐にあずかりつつ
 主イエスの洗礼を受けて教会に加えられた者が、主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みを体をもって味わい、その恵みによって養われていくために備えられているのが、本日共にあずかる聖餐です。聖餐のパンと杯とにあずかることによって私たちは、私たちの罪の赦しのために、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して下さった、その恵みを味わいつつ、主イエスによる罪の赦しを与えて下さった父なる神様の方にしっかりと顔を向け、主イエスの復活の命にあずかって新しくされつつ、世の終わりに実現することが約束されている永遠の命への希望を新たにしつつ、歩んでいくのです。洗礼を受け、聖餐にあずかって歩むことの中で、罪の赦しを得させる悔い改めが私たちにも与えられていくのです。

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