夕礼拝

木とその実

「木とその実」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章33-37節
・ 讃美歌 : 529、474

自分の言葉によって
 主イエスは言われました。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(37節)ここでの「義」とは「正しい」ということであります。聖書で「義」とされるというのは、神様の前で義とされる、正しい者とされるということで、それは「救い」にあずかることができるということを意味します。また同時に「罪ある者とされる」ともあります。それは罪人として裁かれるということです。神様の前で裁かれるという判断をされることでうす。このように主イエスは自分の語る言葉によって救いにあずかる者とされ、また罪人として裁かれる、と言います。主イエスは、救われるか裁かれるかは「あなた」つまり「私たち」がどのような言葉を語るかということにかかっているとおっしゃったのです。
 そうなりますと、私たちの日常で語る言葉というのが大事になっていくということです。神様が私たちに求めておられることは、日々の営みや行ないではないということです。私たちがどのような行動を取り、何をしているかということが問題ではなく、自分の語る「言葉」が大事であるということです。私たちの語る言葉にかかっているというのです。しかし、私たちは言葉だけ立派なことも言ってそれが実行できているか、言葉通りに生きているかどうかだ、その行動を見なければ、その人のことを正しく判断することはできない、というのも、普通に思っていることです。けれども、主イエスは違います。主イエスはここで人が義とされるか、罪ある者とされるかは、その「自分の言葉」で決まる、とおっしゃいました。それは、行ないはどうでもよい、ということではありません。しかし、どのような行いをしているか、ということにも勝って、自分がどのような言葉を語っているかということによくよく気をつけなければならないと主イエスは言われます。主イエスは行いさえちゃんとしていれば、言葉はどうでもよい、などとは言われないのです。私たちは振り返って、自分が隣人である、職場、家族、友人、他者に対して、どのような言葉を語っているのか吟味してみる必要があります。自分は義とされるような言葉を語っているのか、それとも罪ある者とされるような言葉を語ってしまっているのか、私たちは良く考えたいものです。

悪い言葉
 その直前の箇所ではこのようにあります。36節「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。」と主は言われます。以前の口語訳聖書では「自分の話したつまらない言葉」というのが「無益な言葉」となっています。「つまらない」「無益な」言葉とは、それを口にした後で、「ああ、しまったあんなつまらない事を言うくらいだったならば、黙っておいた方が良かった」と後悔をする言葉です。「無益」「つまらない」というのは、有害でも有益でもない中途半端な言葉というだけではなく、主イエスにおいては悪い言葉を意味します。主イエスにおいて「悪い」とはどういうことでしょうか。本日の箇所では「悪い」と言う何度か言葉が使われます。まず、冒頭の33節には「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とあります。良い木には良い実が実り、悪い木には悪い実が実ると言うのです。ここでは、「木」とは「人間の心」を表します。そして、その「実」とは言葉を意味します。人間の心から生み出される実が「言葉」であるので、言葉によってその人の心がわかると言うのです。34節と35節では、それらのことが示されています。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」。悪い言葉、人を呪い、傷つけ殺すような言葉は、悪い心から出てくるのです。更にそのような言葉が出て来るということは、その人の心が「悪い」ということです。

言い訳
 主イエスはそのようなはっきりと言われます。私たちは戸惑い、反発を覚えるかもしれません。悪い言葉を口にするということは幼い子どもも知っていることです。けれども、現実はそうはいかないと思います。人間関係の難しさやお互いの罪の現実に直面する時に、ついつい、人を傷つけるようなことを言ってしまうことがあります。言わなくて良いようなことまで言い過ぎてしまうこともあります。いけないとは思いながらも、相手に「あなたのためだ」と冷たい言葉、棘のある言葉を吐いてしまうことがあります。人間は弱いものなのだから、言葉の弾みということがある、それをいちいち追求されたらたまらん、という感覚があります。あるいは、その場の状況や感情によって、心にもないことを言ってしまうことがあるではないか、それをそんなに大問題にするなよ、という思いです。しかし主イエスはここで、まさに私たちのそのような思いに対して36節ですが「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と主イエスは言われます。私たちが、普段何気なく、大して考えもせずに語っている言葉の一つ一つが、神様の前でその責任を問われるのです。神様は、その私たちが語る一つ一つの言葉を聞いておられ、決してどうでもよい、ささいなこととはお考えにならないのです。何故ならば、そのような一つ一つの言葉によって、神様と私たちとの関係が築かれて行くからです。そしてそれはまた、私たちとこの世における人間関係、隣人との関係が築かれていくからです。隣人との関係において私たちが経験するのは、ささいな一言によって傷つけられるということです。そして、自分は何とも思っていない一言で相手を傷つけるということです。お互いに傷つけ合い、時に相手を殺すようなことをさえしてしまうということです。語る方は、「そんなこと言ったかな」と覚えてすらいないようなことが、相手にとっては深い傷となっていて、「あの人のあの一言は一生忘れない」なんて思われていることがあるのです。言葉というのはそれほどに重いものなのであります。「言葉ぐらい」などと軽く見ることは決してできないのです。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。この主イエスのお言葉は、私たちの人間関係にそのままあてはまるのです。そして同じことが、私たちと神様との関係においても起こるのです。

主イエスによって赦されて
 主イエスがこのような教えを語っていかれるきっかけとなった出来事があります。は、この主イエスのお言葉の前の箇所です。22節以下の、「ベルゼブル論争」と呼ばれている話です。主イエスは、目が見えず口の利けなかった人から悪霊を追い出しました。そしてその人を癒されました。そのような主イエスのその御業をファリサイ派の人々見ておりました。ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言ったのです。つまり彼らは、主イエスの癒しのみ業を、聖霊の力による神様の救いのみ業ではなく、悪霊の働きだと言ったのです。主イエスはこのような言葉に対して語られました。31、32節です。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、「霊」に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」。「霊」に対する冒涜、聖霊に言い逆らう罪とは、彼らファリサイ派の人々の言葉を指していることは明らかです。彼らは主イエスの癒しのみ業を悪霊の働きとすることによって、主イエスに働いている神の霊を冒涜し、聖霊に言い逆らっているのです。そのような罪はこの世でも後の世でも赦されることがない、とは大変厳しい言葉ですが、それは、神様はそれほどに人間の言葉を重視し、語られた言葉への責任を問おうとしておられるということを示しています。何故神様がそうなさるかというと、先ほどもありましたように、一つ一つの言葉によって、神様と人間との関係が具体的に築かれていくからです。主イエスの癒しの業を悪霊の力によることと言ってしまう時、それによって、その人と神様との関係がある方向へと築かれていきます。この場合にはそれは築き上げられると言うよりも、むしろ突き崩され、破壊されていくわけです。このように、私たちと神様との関係、即ち信仰は、主イエスに関して私たちが語る一つ一つの言葉によって築き上げられたり、突き崩されたりするのです。それは私たちの人間関係が、私たちの一つ一つの言葉によって築かれたり破壊されたりするのと同じです。どのような言葉を語るかによって、神様との関係も定まっていくのです。言葉にはそういう重大な意味があるのだ、ということを、私たちは自覚しなければなりません。私たちは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされるのです。

良い言葉を積極的に
 主イエスは、私たちが言葉を語ることをやめることを望んではおられません。主イエスはむしろ、良い言葉を積極的に語っていく者となることを求められます。主イエスは私たちに自分の語る言葉によって義とされていくことを示されております。良い言葉を積極的に語っていく、そのためには何が必要なのでしょうか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのです。良い言葉は、良い心から出てきます。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出すのです。ですから私たちが良い言葉を語るためには、私たちの心が、良いもので満たされていけばよいのです。心の中に良いものがないのに、言葉だけ良いものにしようとするのは意味がありません。しかし、心が良いもので満たされるとはどういうことでしょうか。私たちが、心の中にもう悪い思いを持たなくなる、憎しみや、恨みや、嫉妬や、そういう心がなくなって、親切な、やさしい、好意的な思いだけを持つようになる、ということでしょうか。私たちにはそのようなことは不可能です。一生かかったって絶対ないのです。主イエスが私たちに求めておられることはそうではありません。31、32節にあります。前の箇所と本日のところはつながっております。聖霊に言い逆らう罪は赦されることがないという、恐ろしい御言葉です。しかし「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」「人の子に言い逆らう者は赦される」という御言葉です。どんな罪や冒涜も、主イエス・キリストに言い逆らう罪すらも、神様は赦して下さる、と言っているのです。ただ、霊に対する冒涜、聖霊に言い逆らう罪は赦されない、それは、主イエス・キリストに、神様の霊、聖霊が働いていて下さり、主イエスによって、神様の救いのみ業、私たちの罪の贖い、赦しのみ業が成し遂げられている、ということを否定してしまうこと、それを悪霊の働きにしてしまうことです。そのように、主イエスによる神様の赦しの恵みを否定してしまったら、そこには赦しはない。しかしそれは逆に言えば、このことだけをしっかりと信じ、受け入れるならば、私たちのいかなる罪も赦されるということです。どんな罪も冒涜も、主イエスに言い逆らうことすらも赦される、その赦しの恵みの根拠が、主イエスにおける聖霊の働きにあるのです。このことこそ、主イエスが私たちの心に満たされることを願っておられる良いものです。私たちは、自分の心を、良いものにしょうと思って努力を重ねても限界があります。私たちはもともと悪い人間だからです。蝮の子らと呼ばれるしかない者だからです。その私たちの心が良いもので満たされるためには、私たちはそれを外から、神様からいただかなければなりません。神様が、独り子イエス・キリストによって、その十字架の死と復活とによって、私たちの全ての罪を赦して下さり、その主イエスを信じる信仰によって私たちを義として下さる、救って下さる、その恵みをいただくことしか、私たちの心が良いもので満たされることはないのです。そしてこの良いもので心が満たされる時に、私たちは、神様に対しても隣人に対しても、良い言葉を積極的に語っていくことができるようになるのです。本日は聖餐に与ります。聖餐はこの主イエス・キリストの十字架の出来事を思い起こし出来事です。まだ、洗礼を受けておられない方もおられます。主イエス・キリストは全ての人のために、洗礼を受けて主イエスの出来事を信じるように招いておられます。

主イエスへの感謝の言葉
 神様に対して良い言葉を語るとはどういうことでしょうか。主イエスへの信仰を言い表し、主イエスが示された恵みを受け入れ、感謝をすることです。礼拝において、聖書の御言葉に触れるとき、祈りをするとき、そして日々の歩みにおいて、神様とどのような関係を築いているのか振り返ることも大切でしょう。神様にどのような言葉を語っていくのか、ということを通して私たちと神様との関係、交わりが築き上げられていきます。隣人に対して良い言葉を語ること、それは、自分も、隣人も、共に主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの下に置かれていることを信じる時にこそできることです。私たちはお互いに罪を持っており、そのために傷つけ合い、行き違いを生じてしまう者です。そういうことを乗り越えて、お互いの交わりを築き上げていくことができる言葉は、単なる人間の善意や好意からは生まれません。自分の罪も、隣人の罪も、共に主イエスが赦して下さっていることを信じ、主イエスが自分を赦して受け入れて下さっているように、自分も隣人を赦し受け入れていくことによってこそ、お互いの罪を乗り越えて、交わりを築き上げる言葉を語り合うことができるのです。

主イエスとの関係において
 そのような良い言葉を求めつつも、私たちはなお、悪い言葉、神様を冒涜し、主イエスに言い逆らい、隣人を傷つける言葉を語ってしまう者です。しかし大事なことは、その都度、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しの恵みに立ち戻ることです。今私たち一人一人にも、聖霊が働きかけていて下さり、私たちを主イエスによる罪の赦しの恵みにあずからせて下さる、その聖霊のお働きを信じることです。それによって、あの「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」「人の子に言い逆らう者は赦される」という恵みが、私たちにも与えられるのです。そしてその恵みの下で、私たちは、安心して、大胆に、言葉を語っていくことができるのです。不用意なことを言って罪を犯してしまってはいけない、とびくびくして、言葉を失っていくことが主イエスのみ心なのではありません。主イエスは私たちに、主イエスによる罪の赦しに信頼して、大胆に、積極的に、神様と隣人に向かって語りかけることを求めておられます。この主イエスの促しの下で、より良い言葉を語り、神様と隣人との交わりを築き上げていきたいのです。

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