主日礼拝

罪人となった神

「罪人となった神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1-12節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章35-38節
・ 讃美歌:10、361、531

とまどい、疑問
 十字架につけられる前の晩に主イエスが弟子たちと共に「最後の晩餐」をなさった、その席におけることがルカによる福音書第22章の14節から語られています。本日読む35~38節はその最後の所です。この後の39節以降には、この晩餐を終えて主イエスが弟子たちと共にオリーブ山のいつもの場所、他の福音書ではゲツセマネと呼ばれている所へ行って祈られたこと、ユダの手引きでそこにやって来た祭司長らによって逮捕されたことが語られていくのです。
 最後の晩餐の場面の最後にあたる本日の箇所は、どのように理解したらよいのかよく分からない、読み方によっては少し後味が悪いとも感じられるような話になっています。主イエスは先ずここで弟子たちに、以前「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足したものがあったか」と問われました。主イエスが弟子たちを派遣なさったことは、この福音書において二度語られていました。第一の場面は9章1節以下です。十二人の弟子たちが、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされたのです。その時主イエスは「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」とおっしゃったのです。第二の場面は10章1節以下です。そこでは七十二人の弟子たちが任命され、二人ずつ組にして、これから主イエスが行こうとしておられる町や村に先に遣わされたのです。その時にも、「財布も袋も履物も持って行くな」とおっしゃいました。そのように、弟子たちは主イエスによって何も持たずに派遣されて神の国を宣べ伝える働きをしてきたのです。しかし、何も持たずに出かけて何か不自由したかというと、彼らがここで答えているように、何も不足することはありませんでした。主イエスはそのことを彼らに思い出させておられます。その上で、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とおっしゃったのです。このお言葉が先ず読む者をとまどわせます。あの時は何も持たずに出かければよかったのに、今は財布や袋や剣が必要なのはなぜなのか、あの時と今とでは何が違うのか、ということが一つの疑問です。そしてここは、財布や袋や剣などのいろいろなものが必要だと言っているのではなくて、財布や袋を持っている者はその中にある金で剣を買え、そういう金がない者は服を売って剣を買え、と言っておられると考えられます。つまり主イエスはここでもっぱら剣を用意せよと言っておられるのです。そのことは38節で弟子たちが「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と答えていることによっても裏付けられます。つまり主イエスはここで、「今は剣が必要だからそれを何としても用意せよ」とおっしゃり、弟子たちがそれに答えて「二振りあります」と言うと「それでよい」と満足なさった、と読めるのです。それはいったいどういうことなのでしょうか。主イエスが剣で、つまり武力で何かを成し遂げようとしたことはこれまで一度もありませんでした。主イエスの教えはそういうこととは正反対のものだったはずです。なぜ今、剣が必要だとおっしゃるのか。そして先ほど、後味が悪いとも感じられると申しましたのは、二振りの剣を見て主イエスが「それでよい」と言われたことです。最後の晩餐における主イエスの最後のお言葉が、二振りの剣を見て「それでよい」と満足するお言葉となっている。本当にそれでよいのだろうか、と疑問を感じるわけです。

剣は神の言葉?
 そういうわけで、この箇所は聖書を読む者たちを悩ませてきました。この箇所で説教する牧師たちも人によっていろいろなことを語っています。例えば、主イエスが用意せよとおっしゃった剣は、実際の剣のことではなくて、象徴的な意味だ。これから主イエスが逮捕され十字架につけられていく、その試練に直面しようとしている弟子たちに主イエスは、信仰の戦いを戦い抜くための剣を備えるようにおっしゃったのだ。その信仰における剣とは神の言葉である。み言葉を剣として、つまり敵の攻撃から身を守る武具としてしっかり持ち、それによって信仰の戦いを戦い抜くようにと主イエスはおっしゃったのだ、と語っている人がいます。ところが、弟子たちはその主イエスのお言葉の真意が分からず、実際の剣のことだと勘違いして、「剣ならここに二振りあります」と言った。それに対して主イエスが「それでよい」とおっしゃったというのは、そのように訳すべきではないのであって、これは「もうたくさんだ」と訳すべきだ、とその人は言っています。実際ここに使われている言葉は、「それで十分だ」という意味であって、英語で言えばIt is enough.となります。それは、「それだけあれば十分だ、満足できる」という肯定的な意味にもなりますが、「もうそれで十分だろう。いいかげんにやめにしろ」という否定的な意味にもなるわけです。主イエスは、信仰の戦いにおけるみ言葉の剣を備えるようにと語ったのに、実際の剣のことしか考えることのできない弟子たちに愛想を尽かすような思いで、「もういい」と言ったのではないか、このように考えれば、剣を用意せよとおっしゃった主イエスの思いと、「それでよい」という言葉の意味が説明できるわけです。

文脈
 しかし、こういう読み方は本当に正しいのでしょうか。私はどうも納得がいかない思いがします。その読み方では、何も持たずに出かけて不足したことはなかった、ということと、しかし今は剣を備えよ、という言葉とがうまくつながらないように思うのです。そこで、これもまたある別の方の説教からヒントを得て考えていることなのですが、むしろこのように読む方がよいのではないでしょうか。つまりこの箇所は、先週読んだ31節以下と深くつながっているのだと思うのです。31節以下には、主イエスが弟子たちの筆頭であるシモン・ペトロに、あなたがたはこれからサタンのふるいにかけられようとしている、その試練の中で信仰の挫折に陥る、しかし私はあなたの信仰が無くならないように祈った、だから立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい、とおっしゃったことが語られていました。シモンはそれに対して、「私は死に至るまであなたに従っていく覚悟です」と言いました。しかし主イエスは「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう」と予告なさったのです。先週申しましたようにここには、自分の信念、決意、覚悟を貫くことが信仰だと思っているペトロの姿が描かれています。それに対して主イエスは、あなたの信仰はあなたの決意や覚悟によって支えられるのではなくて、私の祈りによって、その祈りに応えて下さる神様の恵みのみ業によってこそ与えられ、養われ、維持されるのだ、ということを示しておられるのです。自分の覚悟や信念を貫くことによって歩もうとする時、あなたは結局三度、つまり徹底的に、私を知らないと言うことになる、そう主イエスは予告なさったのです。このみ言葉に続いて本日の箇所があります。ペトロに対して語られたこの予告を聞いていた弟子たち全員に向かって主イエスは、「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足したものがあったか」と問いかけられたのです。財布も袋も履物も持たずにとは、自分の持っているもの、自分の貯え、自分の力に一切依り頼まずに、ということです。主イエスによって伝道のために派遣された弟子たちは、自分の力によってではなく、ただ主イエスのみ言葉に信頼して、父なる神様がみ業を行って下さることのみを頼りに、出かけて行ったのです。それは、自分の信念や決意や覚悟によるのではない歩みです。遣わして下さった主イエスのみ心のみに支えられて、彼らは伝道したのです。そしてそこで不足することは何もなかった、いつも十分に支えられ、養われ、守られてきたのです。主イエスは弟子たちにそのことを思い出させておられるのです。
 しかし、今からいよいよ弟子たちは、サタンのふるいにかけられようとしています。主イエスが捕えられ、十字架につけられることによって、信仰が試される試練に直面しようとしているのです。その試練を前にしてペトロは、自分の信念や決意や覚悟に従って生きようとしています。ペトロだけではありません。ペトロは弟子たちの筆頭としてそう言ったのであって、他のみんなもそういう思いだったに違いありません。先週申しましたように、私たちは誰もが基本的に、信仰とは自分の決意、信念を守り抜く覚悟に生きることだと思っているのです。ペトロの「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という宣言は、私たちの思いでもある。私たちもそうありたいと願っている。でもできないかもしれない、できそうもない、しかしそうであらなければ、どうしたらそうなれるのだろうか、そのようにあれこれ考えているのが私たちなのではないでしょうか。
 しかし主イエスは、あなたがたの信念や決意や覚悟が信仰なのではないし、それによって信仰が支えられるのでもないよと言っておられるのです。あなたがたの信仰は、つまり神様との関係は、あなたがたの決意や努力によってではなくて、私の祈りによって、そしてそれに応えて下さる父なる神様のみ業によって与えられ、支えられ、維持されるのだよ。現に思い出してごらん。私があなたがたを、財布も袋も履物も持たせずに伝道のために遣わした時、何か不足したことがあったかい。何もなかっただろう。何も持っていなくても、何の力もなくても、神様の守りと支えと導きによって歩むことができただろう。それが信仰というものだ。信仰に生きるとは、自分の力で信念や覚悟を貫いて生きることではなくて、この神様の恵みによって生きることなのだよ…。それが先週の箇所から本日の所への文脈において主イエスが語っておられることなのです。

剣を備える
 そのように読むならば、「しかし今は、剣を手に入れなさい」というみ言葉はどういうことになるのでしょうか。その「今」というのは、弟子たちがサタンのふるいにかけられ、試練にあおうとしている今です。信仰が試されようとしている今です。またそれは同時に、その試練を前にしてペトロが「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と宣言して、自分の信念、決意、覚悟を貫こうとしている今でもあります。主イエスは、弟子たちが試練を目前にして、今どのような思いで歩もうとしているのかを見つめつつこのみ言葉を語っておられるのではないでしょうか。つまり、自分の力で、信念、決意、覚悟を貫いて歩もうとするならば、そこで必要になってくるもの、それなしには不安であるもの、どうしても備えたくなるもの、それが剣なのです。つまり主イエスがここで「剣を用意しなさい」とおっしゃったのは、ペトロの、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という言葉に対する応答なのではないでしょうか。あなたがたは、自分の力で信念、決意、覚悟を貫いて生きようとしている。しかしそのような歩みには必ず剣が必要になる、剣によって自分の身を守ろうとするようになる、そして攻撃こそが最大の防御ですから、身を守ろうとしているうちに必ず、その剣で人を攻撃するようになっていく、そういう歩みへとあなたがたは向かおうとしているのだ、ということを主イエスは教えておられるのだと思うのです。
 ですからこの剣を、「み言葉の剣」のように象徴的に考える必要はないと思います。実際の剣を用意せよ、と言っておられるのです。しかしそれは積極的な命令と言うよりも、弟子たちが今思っていること、その思いによって歩もうとしている道の必然的に行き着く先を示しておられるのだと思うのです。そしてその歩みは、私があなたがたを以前伝道に遣わした時にあなたがたが体験した歩みとはいかに違っていることか。あの時、あなたがたは剣どころか、財布も袋も靴も持たずに歩んだ。しかし何も不足することはなく、平安に歩むことができた。ところが今、自分の力で信念と決意を貫こうとしているあなたがたは、不安に捉えられており、剣を必要としている。その違いに気づかせようとしておられるのです。
 そこには剣が二振りあり、主イエスは「それでよい」と言われました。この後、祭司長たちに率いられた群衆が、剣や棒を持って主イエスを捕えに来ます。武装した群衆の前で、この二振りの剣は全く無力です。身を守る役には立ちません。主イエスが、その二振りの剣を見て「それでよい」とおっしゃったのは、先ほど申しましたように、「もうそれで十分だろう。いいかげんにやめにしろ」という意味もあったでしょうが、同時にそこには、「あなたがたが自分の力で振り回すことができるのはせいぜいその二振りの剣ぐらいのものだ」という意味も込められているのではないでしょうか。彼らが持っている二振りの剣は、彼らをふるいにかけ、試練を与えるサタンの力の前では全く無力なものであって、それによって信念を貫くことなどできはしないのです。彼らは結局サタンに敗北し、挫折するのです。二振りの剣を見て「それでよい」とおっしゃったのは、先週の箇所でペトロの信仰の挫折を予告なさった言葉、「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と同じ役割を果しているのではないでしょうか。自分の力で信念と覚悟に生きようとする者は、武装した群衆の前で二振りの剣を振り回すぐらいのことしかできず、結局無惨に敗北するしかないのです。

犯罪人の一人に数えられた
 このように主イエスはここでも、先週の箇所と同じように、弟子たちがこれから試練の中で陥る信仰の挫折を見つめておられるのだと思います。そしてその中で、他とは異質な37節のみ言葉が語られているのです。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」。このお言葉は、私を犯罪人の一人のように捕えに来る人々がいるから、それに備えて剣を用意しなさい、という文脈でここに語られています。しかしそれは上辺だけの文脈であって、主イエスが捕えに来る人々から身を守るために剣を用意させようとしておられるのでないことは明らかです。主イエスが本当に語ろうとしておられるのは全く別のことなのです。このお言葉は、旧約聖書の預言が今や実現しようとしていることを語っています。「その人は犯罪人の一人に数えられた」という預言です。それが私の身に実現しようとしているのだ、と言っておられるのです。この預言の言葉が語られているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章の最後の12節です。12節をもう一度読んでみます。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。ここに「罪人のひとりに数えられたからだ」とあるのが、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という預言の言葉です。このイザヤ書53章は、イザヤ書にいくつかある「主の僕の歌」と呼ばれている一連の歌のクライマックスです。主なる神様による救いのみ業に仕え、それを成し遂げる僕の姿が描かれています。その僕は、2節から3節によれば、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」、そういう人です。その人は苦しみを受け、傷つけられ、殺されるのです。5節によれば「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という救いの出来事がそれによって実現するのです。主なる神様が罪人を救うためにそのようにして下さったのです。10節には「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの 献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」とあります。11節の後半には「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」とあります。このような主の僕による救いの出来事のしめくくりとして12節は「彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた」「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」と語っているのです。このイザヤの言葉は、「わたしにかかわること」、「わたしの身に実現すること」なのだと主イエスは言っておられます。これから起ろうとしている主イエスの逮捕と十字架の死において、主イエスは罪人の一人に数えられ、人々の罪と過ちを担い、背負って死ぬことによって、罪人のための執り成しをして下さるのです。主イエスの受けた懲らしめによって私たちに罪の赦し、神様との平和が与えられ、主イエスの受けた傷によって、私たちは自分のまた隣人の罪による傷を癒される、そういう救いが実現しようとしているのです。主イエスの十字架の苦しみと死は、ご自身は何の罪もない神の独り子であられる主イエスが、私たち罪人のところに来て下さり、私たちの罪を全て背負い、引き受けて下さり、自ら罪人の一人となって死んで下さるという救いの出来事なのです。私たちの救いはこのことによってこそ実現し、与えられるのです。自分の信念、決意、覚悟を貫くことによって救いに至ることはできません。サタンによる試練の中で、無惨に敗北していくだけです。しかしそのように罪に支配され、自分の力でそれに打ち勝つことのできない私たちのところに主イエスは来て下さり、罪人の一人となって、私たちの罪を担い、執り成しをして下さるのです。ですから37節のみ言葉は、先週の箇所において主イエスがペトロに、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とおっしゃったのと同じことを語っているのです。

真実の平安へと
 主イエスの十字架によって実現し、与えられる罪の赦しの恵みによって生きるのでなく、自分の力で、信念、決意、覚悟を貫いて歩もうとする時、私たちは、剣を振り回すようになります。実際弟子たちが持っていた剣はこの後、主イエスの逮捕の場面で抜かれ、大祭司の手下の右の耳を切り落とすことになります。しかし主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言って、その耳に触れていやされた、と51節に語られています。自分の信念、決意、覚悟を貫こうとする私たちは、そのように人を攻撃し、傷つけてしまうのです。しかしそれによって身を守ることも、信念を貫き通すこともできず、結局敗北し、挫折していくのです。しかしそういう私たちの罪と弱さを主イエスは全てご存知であり、それを担って下さり、ご自分の命を犠牲にすることによって私たちを赦して下さり、また私たちが人に負わせてしまう傷を癒して下さるのです。この主イエスの救いの恵みをいただいて、この恵みにこそ依り頼んで生きることが信仰です。そこには、剣はおろか、財布も袋も履物も何も持たなくても不足することが全くない、恐れや不安から解放された、真実に平安な歩みが与えられていくのです。

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