夕礼拝

神の国は来ている

「神の国は来ている」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第49章14-26節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章22―32節
・ 讃美歌 : 579、224

敵対関係の中で
 本日は共にマタイによる福音書の第12章22節からの御言葉を聞きたいと思います。本日の箇所では、主イエスとファリサイ派の人々との間のある論争のことが語られています。ファリサイ派の人々とは、当時のユダヤ人たちの信仰的指導者でありました。マタイによる福音書の12章から、主イエスに対するファリサイ派の人々の厳しい批判と、敵対する様子が語られてきました。14節では、「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。ファリサイ派はどのようにして主イエスを殺そうかと相談を始めていました。本日の箇所もそのような中で起きた出来事です。主イエスとファリサイ派の全面的な対立であると言えます。本日の出来事は小見出しにあるように「ベルゼブル論争」と呼ばれています。ベルゼブルというのは、24節のファリサイ派の人々の言葉にあるように、「悪霊の頭」です。悪霊というのは人間に取りついていろいろな病気や障害を引き起こすと考えられていました。22節では、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」が登場します。人間を苦しめ、正常な生活を妨げる力が悪霊です。その頭がベルゼブルと呼ばれていました。22節では主イエスがこの目が見えず口が利けなかった人を癒されたことが記されております。主イエスは悪霊にこの人から出て行けと命じられました。主イエスが悪霊を追い出されたことによって目が見えず、口が利けないこの人はものが言えるようになり、目が見えるようになりました。そのような主イエスのお姿を見た群衆は大変驚きました。「驚く」と言うのは、「自分の外に出されてしまう」と言う言葉です。自分を忘れて、問わずにおれなかったのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。

主の勝利
 「ダビデの子」とは、イスラエルの民に神様が遣わすと約束して下さっている救い主を表す呼び方です。主イエスの悪霊追放の御業を見た人々は、「この人こそ、約束されている救い主ではないだろうか」と思いました。しかし、そのような人々に対してファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルによらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)と言いました。ファリサイ派の人々は主イエスが「悪霊の頭」であるから、悪霊に指図しているというのです。ファリサイの人々は主イエスが、目が見えず口の利けない人を癒されたという御業をこのように理解したのです。主イエスの御業を見て、ファリサイ派はこのように受け止めたのです。主イエスが悪霊を追い出された出来事という、主イエスの癒しの御業を見て「この方こそ神様から遣わされた救い主だ」と受け止めた人もいました。しかし、同時に他方でイエスは「悪霊の頭」である理解した人もいました。ファリサイ派はそのように受け止めました。主イエスは、このようなファリサイ派の人々に対して言いました。主イエスはファリサイ派の人々の考えを見抜いておられました。25節です。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」と言われました。内輪で争っていたら、その国は成り立たない、ということです。「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」。サタンとは「悪魔」という言葉で、悪霊と同じことです。主イエスがここで、悪霊の追放を、「争い」と言っておられます。一人の人から悪霊が追い出され、癒される、苦しみから解放されるということです。そこには、熾烈(しれつ)な争い、激烈な戦いがあります。主イエスはそのようにおっしゃるのです。主イエスにとって悪霊が追放され、癒しを与えられるということは敵との激しい戦いであるというのです。厳しい戦いに勝利することによって、人は癒される、苦しみから解放されます。ファリサイの人々は、今の苦しみをもたらしている力よりも強い力によって、解消されると考えました。同じ悪霊の力、サタンの力であっても同じです。しかし、主イエスは違います。主イエスは、人間の苦しみ、悲しみは、それをもたらしている力と戦って勝利することによってもたらされると言っておられます。人間の苦しみ、悲しみの現実について、どう捉えるのか主イエスとファリサイ派では違います。私たちは、苦しみ悲しみの現実に出会うと時、その現実から逃れようとします。苦しみ、悲しみを取り除いてくれる力にすがろうとします。苦しみ、悲しみの原因を探ろうとします。私たちは今大きな地震を経験しました。何で、どうしてこのようなことが起こるのだろうかと問います。しかし、答えは出ません。そのような時に自分の苦しみや悲しみから救ってくれる力を頼ろうとします。自分の満足のいく答え、自分の納得のいく答えを求めます。それでは、主イエスの救いを、サタン、悪霊の力との戦いと勝利の出来事として捉えることにはなりません。自分を苦しみから救い、守り、助けてくれるより大きな力がそこにあるから、その力に頼って苦しみから逃れさせてもらおう、と思います。しかし、それは何の解決にもなりません。

人間の弱さ
 主イエスが悪霊を追い出されたということは、悪霊の力との厳しい戦いと勝利によることです。当時、ファリサイ派の人々の仲間たちの中にも、悪霊を追い出し病気を癒す業をしていた者がおりました。主イエスは27節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と言います。この「あなたたちの仲間」とは、ファリサイ派の中の人々の癒しを行っていた者たちです。そのような人々は何と言うだろうか、と主イエスは問います。主イエスは悪霊を追い出すということが厳しい戦いであることは、実際にそれをしている者には明らかなのです。私たちは、苦しみ、苦しみをもたらす悪霊、サタンの力から逃れることは出来ません。しかし、だからと言ってこのような戦いを正面から受け止めることもできません。そこから逃げてしまいます。

神の国の到来
 主イエスは「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。「私が神の霊で悪霊を追い出している」(28節)、と言います。主イエスご自身が、神の霊で悪霊と戦い、勝利して下さるのです。「わたしが神の霊で悪霊を追い出している」とはそのようなことです。私たちに求められていることは、自分を捕え支配している悪霊、サタンの力と戦い、悲しみ苦しみに勝利していくことではありません。目が見えず口の利けなかった人も、自分でその苦しみと戦って克服したのではありませんでした。彼は主イエスのところに連れられて来て、主イエスが彼を癒して下さったのです。主イエスが癒しの御業をなされるのです。人が出来ることは、癒しの業ではありません。主イエスにところに人々をお連れすることだけです。主イエスはご自身の力によって、捕えている悪霊の力と戦われました。主イエスは勝利されました。私たちが、自分の苦しみ悲しみと戦い、それに勝利して平安や喜びを得るということではないのです。そのようなことは出来ないのです。主イエス・キリストがそのことをなして下さいます。主イエス・キリストは既に悪霊の、サタンの力を打ち破り、勝利して下さいました。主イエスによって神の国がわたしたちのところに来ているのです。私たちにはそのことを求められています。主イエスを信じることが、主イエスが求めておられます。そしてこのことこそ、が、ファリサイ派の人々が拒否したことだったのです。彼らは、主イエスにおいて、神の霊が働き、悪霊、悪の力、罪の力が打ち破られている。そして、それによって神の国が到来している、ということを認めたくないのです。受け入れたくないのです。だからこのように、主イエスの業をベルゼブルによることであると言うのです。主イエスにおいて確かに、悪霊の力が、神の霊の力によって打ち破られ、神の国が、即ち神のご支配が私たちのところに到来しているのです。

主の十字架によって
 主イエスはそのことを一つの譬えで語られます。「また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(29節)。戦いの状況が描かれています。家の一番強い人を先ず縛り上げて抵抗できないようにしておいて、それから略奪をするのです。それが戦いです。ここでは、主イエスが家を略奪しようとしています。その家とはサタン、悪魔の家、そこの一番強い人とは悪霊の頭ベルゼブルです。主イエスはまず頭であるベルゼブルを縛り上げ、それからその家の家財道具を奪い取ります。悪霊を追い出す御業です。主イエスはそのように、悪霊の頭に既に勝利しておられる、悪霊との戦いにおいて、主イエスの、そして神様の勝利はもう決定的になっているのです。それなので、残って抵抗している敵を各個に倒していく戦いが残っているだけです。主イエスにおける神様の勝利の業は決定的であります。神様に敵対する力であるサタン、悪霊との戦いに勝利されています。主イエスは神の独り子であります。神の独り子である主イエスは私たちと人間としてこの世に来られました。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神がその主イエスを死から復活させて下さったこと、復活された主イエスが天に昇り、父なる神の右に座し、今私たちを、この世界を支配していて下さっています。主イエスが十字架にかかって死んで下さり、復活して天に昇り、父なる神の右に座しておられる今や、サタンとの戦いに勝利されました。神様の恵みの勝利は決定的になっているのです。

主と共に
 主イエスは、私たちに、このサタンとの戦いに加わるように、主イエスと共に戦うように求めておられます。主イエスは「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(30節)と言われました。味方でない者は敵だと言うのです。それは、私たちを、主イエスご自身が戦い、勝利を決定的なものとしておられるサタンとの戦いに加わらせるためです。私たちも、主イエスの味方となって、主イエスと共に、なお残るサタンの力、悪霊の支配と戦って、勝利を得ていくためです。主イエスの味方になり、共に戦うのでなければ、それは敵方につくこと、サタンに組することになるのです。私たちの日々の歩みはこの悪霊の攻撃にさらされています。様々な悲しみや苦しみが私たちを襲い、神様の恵みから引き離そうとしています。私たちに対して主イエスを悪霊の頭であるかのように敵意を抱かせます。私たちはそのような厳しい戦いの中に置かれています。悪霊の攻撃は実に巧妙です。心の隙間に入ってきます。自分はサタンの味方をしている、などと思わせないでおいて、実際には私たちを味方につけてしまうのです。主イエス・キリストは、私たちが、サタンの力と、またそれによってもたらされる様々な苦しみや悲しみの現実と、逃げずに正面から向き合って戦っていくことを求めておられます。主イエスはその戦いを、中心になって戦っておられます。主イエスご自身の苦しみと死と復活を通して勝利を確実なものとして下さっています。私たちは、自分の力でサタンと、また苦しみや悲しみと、正面から向き合って戦っていくことができるような者ではありません。主イエス・キリストと共にならば、私たちもこの戦いに招かれています。主イエスが既に、強い人を縛り上げて、敵の力を、罪と死の力を打ち破り、勝利を確実なものとして下さっているのです。その主イエスの勝利のもとで私たちは戦います。私たちに襲いかかってくるサタンの力と戦うのです。戦うことができるのです。もう逃げなくてもよいのです。苦しみや悲しみから逃げ出そうと思って、どんな力を頼ってみたところで、逃れることはできません。苦しみや悲しみは、逃げ出そうとする私たちを必ず捕え、支配します。主イエスという方のもとに逃げ込んでもそれは同じです。主イエスご自身が、私たちを捕え、滅ぼそうとしているサタンの力と戦って、勝利しておられるのです。そして私たちにも、私の下で共に戦えと言っておられるのです。サタンの力、苦しみ悲しみの力は逃げることによってではなく、戦って勝利することによって克服されるのです。主イエスは私たちのためにその戦いを戦い、勝利して下さったのです。それによって私たちも、サタンの力、苦しみ悲しみの力と戦って勝利することができるようにして下さったのです。

罪の赦し
 31、32節では、「霊」に対する冒涜、あるいは聖霊に言い逆らう罪は、「この世でも後の世でも赦されることがない」、とあります。この「霊」への冒涜や聖霊に言い逆らう罪とは、主イエスが神の霊によってサタンと戦い、その力を打ち破って神の国、神のご支配をもたらしておられるのに、その戦いと勝利とを認めようとせず、主イエスの業を悪霊の頭ベルゼブルによるものとしてしまうことです。そのように主イエスによってサタンの力が打ち破られていることを否定してしまうなら、私たちはサタンの支配下に今なお置かれていることになります。完全に主イエスにもたらされる罪の赦しにあずかる神の国、神のご支配の下にいるのではありません。まだ、そうではありません。ですので、私たちが赦されることがないということです。

十字架の勝利
 主イエスは言われます。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」とあり、また32節では「人の子に言い逆らう者は赦される」と言います。驚くべき主イエスのお言葉です。どんな罪を犯している者でも、どんなに神様を冒涜している者でも、赦していただけるのです。人の子とは主イエスのことです。その主イエスに言い逆らう者ですら赦されるというのです。赦されない罪などない、ということです。その罪の赦しは何によって与えられるのでしょうか。主イエス・キリストが、私たちのために、サタンと、罪の力と、戦って下さり、ご自分の苦しみと死と復活によって勝利して下さったことによります。この主イエスの十字架における戦いと、その勝利によって赦しが与えられています。主イエスの戦いは私たちのための戦いです。そして、主イエスはご自身の命をささげて戦われました。そして、戦いにおいて勝利されました。その救いを信じるところに、私たちの罪の赦しがあるのです。主イエスの味方となって、聖霊によって力づけられつつ、この戦いを主イエスと共に戦っていくことができるのです。その戦いは様々です。私たちそれぞれが、自分に襲いかかってくる苦しみや悲しみと戦っていくことでもあります。苦しみや悲しみの内にある隣り人を慰めの言葉をかけ、支えて共に生きていくことでもあります。様々な問題、悩みの内にある人々のためにとりなし祈ることです。そして、行動していくことでもあります。この地上における一人ひとりの歩みの中において、今自分が遣わされている場所で、与えられている交わりにおいて、主イエスを証ししていくのです。主イエスが味方であることを明らかにすることです。主イエスと共に歩んでいく日々の具体的な歩みの全てがその戦いです。私たちはその中に置かれています。私たちは先立って進まれ、戦われる主イエスと共に、主イエスの勝利に支えられて歩みたいと願います。

関連記事

TOP