夕礼拝

人の思いか、神のご意志か

2003年7月6日、横浜指路教会・夕礼拝説教
詩編39:1-10
ルカ1:57-66

「人の思いか、神のご意志か」

序 わたしたちはそれぞれに人生の計画を立て、達成すべき目標を定め、それに向かって努力することに生きがいを見出しています。将来に向かう歩みをも視野に入れ、それに備えた行いを今という時から始めることができるというのは、人間に備えられた優れた能力ということができるでしょう。ある人にとっては平和で幸せな家庭を築くことが人生の目標であるかもしれません。またある人にとっては世界のいろいろな国を旅行することが長年の夢であるかもしれません。いわゆる一流の大学への進学や一流の企業への就職に全力を注ごうとする生き方もあるでしょう。最近はがむしゃらに努力することに疲れを覚える時代に入ってきていますから、落ち着いた平凡な毎日が過ごせればそれでいいと思う人も増えてきているかもしれません。
 しかし、こうしたわたしたち人間が抱く計画や目論見を中断させたり、方向を変えさせたりする力があります。福音の持っている力はそのようなものではないでしょうか。福音はわたしたちが予定したことや当然と思っていることを覆して、わたしたちが予期していたこととは全く違った形をもって神のご意志を実現していくのです。わたしたちの常識を覆し、当然こうなるはずだと思っていた枠組みを突破していく力を、福音は持っているのです。

1 先に天使ガブリエルは祭司ザカリアのもとへ遣わされて、神の言葉を告げ知らせました、「恐れることはないない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(1:13―17)。しかしザカリアはこの天使のお告げをそのままに受け止めることはできませんでした、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。自分も妻ももう年を取っているのだから、子供を産む力などとっくに失ってしまっているのだと言っているのです。神のご意志よりも、自分の人間的な思いを優先させているのです。丁寧な表現で応答していますが、そこには隠れた形での神への抗弁があります。神の御旨をそのままに受け入れることへの拒否があります。ザカリアはたしかに長年子供が与えられることを願い続けていました。しかしいざ「あなたの願いは聞き入れられた」とのみ告げを受けるや、それが真理であることをいぶかり、しるしを示すことを神に要求しているのです。そして人間の生理的な可能性の次元で神の言葉を扱ってしまっているのです。これに対して神は、ザカリアの口がきけなくなるという形でしるしをお与えになります。神の言葉に抵抗し、心を頑なにするザカリアそのものを、神はご自身の御栄えを現すためのしるしとしてお用いになったのです。それは人間の思いをそこでストップさせるしるし、人間的な思いをいったん中断させるしるしなのです。

 さて、こうして身ごもったエリサベトは六ヶ月目に同じく天使からのお告げを受けたマリアからの訪問を受けます。この時エリサベトは聖霊に満たされて叫びます、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。ここにおいて、エリサベトにおいては、人間の思いが突破され、神のご意志の支配が始まっているのです。それゆえに、ついに月が満ちて男の子が生まれた時、エリサベトは近所の人々や親類には理解できないことを言うのです。「名はヨハネとしなければなりません」。近所の人々や親類はエリサベトに子供が産まれたことを素直に喜んで集まってきています。確かに人々は「主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて」(58節)集まってきています。そのことを喜び合っています。しかしそこで彼らがなそうとしたのは、慣習に従って父の名に因んだザカリアという名をこの子供に与えることでした。当時は生まれて八日目に割礼を施し、それと同じ日にその子に命名をするというのが習慣でした。人々はそれに従って、忠実に事を果たそうとしたのです。
 ところが母であるエリサベトはそれを認めませんでした。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(60節)と言います。近所の人々や親類はなおもそれに抵抗して言います、「あなたの親類には、そういう名のついた人はだれもいない」(61節)。そこで人々は父であるザカリアにうかがいをたてたのです。

2 ここに至って父親のザカリアは、板に「その子の名はヨハネ」と書き付けるのです。この時、ザカリアにも聖霊が働き、もはや以前のようにではなく、神の御心、神のご意志を受け入れる者へと変えられたのです。人間の思いに左右されない、ご自身がよしとされたことを実行なさる神の決意、神のご計画に目を開かれたのです。その時、ザカリアに同時に起こったことは何でしょうか。ザカリアはたちまち口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのです。周囲の人々には何が起こったでしょうか。彼らは「驚き」(63節)、「皆恐れを感じ」(65節)ました。さらにこの話を聞き及んだ人々は「皆これを心に留め、『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』」(66節)と言ったのです。これは人間の思いをはるかに超える神の介入を感じた人々の反応です。人間の思いではとらえきれない神のご意志が今、歴史の中に働いておられる。常識や人間的な思いを覆し、それらをはるかに超えて働かれる神の力、神の御手の働きを感じたのです。神が今救いの計画を実行に移そうとしておられる。その神の臨在、神の現臨が恐れを引き起こしたのです。
 今生まれようとしているヨハネは来るべきお方、救い主イエス・キリストをこの世に対して指し示すために遣わされる存在です。このヨハネを否定し、ザカリアという名を与え、人間的な思いなしの枠組みの中に閉じ込めることは、神の救いのご計画を否定し、主イエス・キリストの十字架を否定し、その復活を認めないことを意味するのです。しかし神はこの人間の抵抗、人間の頑なさを打ち破ってヨハネという神のよしとされる名をこの世に降らせ、この世の只中に据えたのです。そのようにして主イエスの十字架へのみちぞなえを確実なものとなさったのです。
 かつて主は預言者を通してイスラエルの民に語りかけられました、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:8-10)。人間の思いがいかなるものであろうと、神はご自身のよしとしたもうたことをその御言葉を通して成し遂げられるのです。しかもわたしたち人間の予想や計画をはるかに超えた仕方で、それでありながらわたしたちにとって最善のことがらを神は実現してくださるのです。その時わたしたちに求められるのは、ただ聖霊の力によってこの神の御心を受け入れ、そこで湧き上がる賛美と感謝に生きることなのです。神を畏れ、その主権に栄光を帰す歩みの中を生かされることなのです。

3 わたしが大学生の時代に、ワークキャンプに参加してタイに行く機会がありました。チェンマイという町を訪ねた際、Aさんという大学の先輩にあたる方にお会いしました。この方は現在マッキンリハビリテーションセンターというハンセン病の患者のための施設で農業指導を長いこと行っておられます。しかし本来そのような志があって大学に来たのではなかったのです。初めは法律の世界に進もうと大学での学びを始めたのですが、あるワークキャンプに参加してインドネシアを訪ねたのがきっかけで農業に興味を持つようになり、大学を卒業後アジア学院で農業を専門的に学び、さらに日本基督教団から派遣されてタイのチェンマイでの奉仕を始めたのです。そこでタイの方と結婚され家庭を築きつつ、息の長い奉仕を続けています。物静かな方ですが、その心の底に、神の恵みの導きに信頼する強い信仰を感じさせるお方です。今の人生は、浅井さんご本人も予想だにしていなかったものでしょう。それは彼が計画を立て、予定通り実行した人生ではなかったでしょう。いや彼がもともと抱いていた夢、元来の計画からすれば大きく横道に逸れた歩みであり、ある意味では失敗であったかもしれない。しかしそれは人間的な思いで判断した場合のことです。大切なのは、そこで神が何を意志しておられ、どのようにわたしたちの歩みに身を向けて、わたしたちに関わろうとしておられるのか、そのことではないでしょうか。それは当初の計画から見れば「曲げられた人生」であるかもしれない。けれども神がよしとしたもうた人生なのです。
神がその力強い腕、伸ばした御腕をもってこの世界を導いておられる。わたしたち一人一人の歩みを導いておられる。歴史を完成に向かって導いておられる。その神の恵みのイニシャティヴの中に自己を投げ出し、委ねてゆくこと、それがわたしたちキリスト者の生き方です。「摂理」という言葉があります。神が人間の目論見をはるかに超える仕方でご自身のご計画をもって万物を保ち、導き、完成に至らせてくださるということです。神の摂理を信じるからこそ、わたしたちは一見無意味と思われることの中にも意味を見いだし、失敗と見えることの中にも勝利を見いだし、破滅と見えることの中にも成就を見いだすことができるのです。もちろんわたしたちの人間の思いは容易にこの神のご意志を受け入れることはできません。それは大いなる畏れを引き起こし、不安を生まれさせます。自分の思いが中断される時、自分の計画が挫折する時、わたしたちの中には怒りや悔しさが生まれます。あの時こうしていればよかったというような後悔や自分の思いを挫折させた力に対する恨みを抱いたりします。しかしその時わたしたちが心を向けて、聴かねばならないのは、神がそこで何を意志され、何をしようとしておられるのか、ということではないでしょうか。もしわたしたちが、そこで神に祈り求め、御言葉の導きを求め、聖霊の豊かな導きを願い求めるならば、神はわたしたちに応えてくださり、聖霊によってわたしたちの心の目を開いてくださるのです。そこで神が行おうとしておられる救いの御業を明らかにし、ご自身を現してくださるのです。

結 主イエスの十字架は人間にとっては人生の中断、あらゆる目論見の挫折を意味します。そこですべての人間の営みはストップさせられ、言葉を失い、神の前にひざまずかずにはいられなくなるのです。あの詩編の詩人と同じように、「主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます」、「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう」(39:8,10)と言わざるをえなくなるのです。わたしたちのすべての罪、その根深さ、地震によって大地がぱっくりと割れた時のような底の深い罪を十字架が明らかにします。しかし同時に十字架はその罪が神の独り子によって担いきられ、贖われ、拭い去られたことを明らかにするのです。この十字架によって向きを変えられ、ひっくり返され、新しく方向づけられた人生、それがキリスト者の人生です。それは人間的に見れば「曲げられた人生」であるかもしれない。しかし神がよしとされた祝福された歩みであり、それゆえにわたしたちにとっては、あのザカリアと同じように神賛美のうちに歩まれるべき喜ばしき人生なのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神よ、あなたがわたしたちの人生の只中に十字架を打ち込み、わたしたちの歩みを中断し、方向を変え、全く新たな歩みへと招き入れてくださいました恵みに感謝たします。信仰弱く、心の頑ななわたしたちはしばしばあなたのご意志よりも人間の思いを優先する罪を犯しますけれども、あなたはそれらを乗り越えて、またそれらをも用いつつ、御心を成し遂げてくださいますことを信じます。どうか御霊によってわたしたちの心の目を開き、あなたのご意志を知り、それに従って歩む感謝と賛美の道をいよいよ確かに踏みしめて行くことができるようにしてください。

わたしたちの古き罪の歩みの只中に救いの十字架というくさびを打ち込んでくださった、我らの主イエス・キリストの御名により祈り願います、アーメン。

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