「主の山に備えあり」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第22章1-19節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙 第8章31―39節
・ 讃美歌 ; 327、227
人生の正念場
「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの物語を読み進めていますが、本日読む創世記第22章は、そのクライマックスであると言うことができます。この時アブラハムはどのような状況にあったのでしょうか。1節の冒頭に「これらのことの後で」とあります。「これらのこと」とはその前の21章を指していると考えてよいでしょう。前回読んだ21章には、アブラハムが神様の語り掛けを受けて旅立った75歳から25年間待ち続けた子供イサクがついに誕生したことが語られていました。また、イサクが生まれる前に、妻サラの女奴隷だったハガルとの間にイシュマエルが生まれていましたが、ハガルとイシュマエルが彼らと別に歩むことになり、家庭の不和の原因が取り除かれたことも21章に語られていました。さらに、説教では取り上げませんでしたが、ゲラルの王アビメレクと誓いを交わし、ベエルシェバで井戸を獲得したことも語られていました。井戸を得るというのは、生活の基盤である水を得るということです。このように、21章において、アブラハムの歩みは、様々なことを整えられて、最も充実した時期を迎えたのです。後は息子イサクの成長を楽しみに生きればよい、という満ち足りた状況に、アブラハムはあったのです。
ところがそのアブラハムに、神様は厳しい試練をお与えになります。2節「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」。「焼き尽くす献げ物」とは、動物を殺して文字通り焼き尽くして神様に献げ物とすることです。待ちに待ってやっと与えられた一人息子イサクを、自分の手で殺していけにえとして献げよ、と神様はお命じになったのです。それは1節によれば神様がアブラハムを「試された」のです。神様からの試み、試練によって、満ち足りていた歩みは一転して、アブラハムは最も厳しい人生の正念場を迎えたのです。
この神様からの試みの内容を深く見つめなければなりません。今読んだ2節で神様は、「あなたの愛する独り子イサク」と言っておられます。アブラハムにとってイサクがどのような存在かを神様はよくご存知なのです。しかもイサクはアブラハムにとって、「目に入れても痛くない一粒種」というだけではない、もっと深い意味を持った存在でした。このイサクこそが、アブラハムに与えられた神様の約束を担っていたのです。彼が75歳にして故郷を離れ、行く先を知らずに旅立ったのは、彼の子孫が大いなる国民となり、神様の祝福の源となり、地上の全ての人々が彼らによって祝福に入る、という神様の約束によってでした。しかしその時アブラハム夫妻には子供がいませんでした。子孫が祝福の源となるという約束の実現の第一歩として、25年待った末にようやく与えられたのがこのイサクだったのです。つまりイサクは、アブラハムが信じ、依り頼んできた神様の約束が実現へと向かう唯一の道であり、そこに彼の過去と現在と将来の全ての歩みの意味が集中しているのです。イサクを失うなら、彼のこれまでの歩みも、現在の生活も、将来の希望も、全てが音をたてて崩れ去ってしまうのです。そのイサクを殺して献げよと神様はお命じになったのです。これはもはや、厳しい試練という言葉ではすまされないことです。神様の約束そのものの否定に等しい。アブラハムがあの旅立ち以来、いろいろと迷いながら、紆余曲折を経ながら歩み続けてきた信仰の道筋が、ここで断ち切られてしまい、もはや歩む道がなくなってしまう、そんな事態に彼は直面したのです。ですからこの22章で起っていることは、これまでアブラハムが体験してきた困難とは質が違うものです。これまでの歩みにおいては、困難の中で神様の約束を信じて、神様を信頼して歩むことが求められていました。しかしなかなかそれを信じ切ることができずに、人間の力や工夫に頼る姑息な歩みに陥り、失敗を繰り返してきたのです。しかしこのたびは、その約束そのものが神様ご自身によって否定されてしまうのです。ですからアブラハムはここで、神様が分からなくなってしまう、そのお姿が見えなくなってしまうという体験をしたのです。神様からの試みとはそういうものです。それによって、それまで見えている、分かっていると思っていた神様が見えなくなり、分からなくなってしまう。だからどうしたらよいのか分からなくなってしまうのです。
アブラハムの戦い
この試みの中でアブラハムはどうしたのでしょうか。3節以下の記述は全く淡々としており、私たちを驚かせ、戸惑わせます。この試みの中でのアブラハムの心の動き、感情を示す言葉が一つもないのです。彼は神様の命令を何事もなかったかのように忠実に実行に移していきます。しかし私たちはだからといってこれを、アブラハムの心に何の戦いも悩みもなかった、と受け取ってはならないでしょう。むしろその背後に、言葉に言い表すことのできないような苦悩の中での戦いが隠されていることを感じ取るべきでしょう。それはどのような戦いだったのでしょうか。それを理解するためのヒントになるのが、この箇所におけるアブラハムの数少ない言葉です。彼はこの出来事の中で、三度同じ言葉を発しています。この翻訳では分かりにくいのですが、まず1節の、神様からの「アブラハムよ」という呼びかけに答えた「はい」という言葉です。それから7節の、イサクの「わたしのお父さん」という呼びかけに対する「ここにいる。わたしの子よ」という答えです。もう一つは11節の、主の御使いの「アブラハム、アブラハム」という呼びかけに対する「はい」という答えです。いずれも呼びかけに対する答えであるこの三つは原文においては実は同じ言葉であって、訳せば「わたしはここにいます」となります。以前の口語訳聖書はそれを生かして訳していました。アブラハムはこの出来事の中で、「わたしはここにいます」と三度繰り返し語っているのです。この言葉が、彼の心の内における戦いを暗示していると言えると思います。それは一言で言えば、逃げ隠れしない、という戦いです。逃げ隠れせずに、神様のみ前に、また神様の命令によってこれから自分が手をかけて殺そうとしている息子イサクの前に立とうとする戦いです。厳しい試みの中で、神様の約束を見失い、神様が見えなくなり、分からなくなり、歩むべき道をも見失ってしまったアブラハムですが、なおそこで、見えなくなってしまった、分からなくなってしまった神様の前に立とうとしている、そういう姿をこの言葉に見ることができるのです。このアブラハムの姿は、創世記第3章における最初の人間アダムの姿と対照的です。アダムは、神様の命令を破り、食べてはいけないと命じられていた木の実を食べてしまいます。そのアダムに神様が「あなたはどこにいるのか」と問うた時、彼は、神様の顔を避けて身を隠したのです。神様のみ前に立とうとしなかったのです。しかしアブラハムは、この試みの中で、逃げ隠れせずに神様の前に立ち続けようとしています。それが彼の戦いでした。自分が歩んできた信仰の道の全てを否定し、過去も現在も将来をも奪い取ろうとしている神様の前に、彼は立ち続けようとしたのです。
神のまなざしの中で
息子イサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに対して彼は8節で、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えています。この「備えてくださる」という言葉は、「見る」という言葉です。直訳すれば、「彼がご覧になるであろう」となります。つまりこれは、神様ご自身が見ていて下さる、そのまなざしの中で全てのことを備えていて下さる、ということです。アブラハムは神様の前に立ち続けようとした、それは、この神様のまなざしの中に立ち続けようとしたのです。自分自身は、試みの中で、神様のことが見えなくなっている、分からなくなっている、しかし神様は、自分を、また息子イサクを、見つめていて下さる、そのまなざしの中に置いていて下さる、そして全てのことを備えていて下さる、その神様のまなざしに彼は全てを委ねたのです。それは言い換えれば、神様の摂理を信じたということです。摂理と訳される言葉の原語は直訳すれば「前もって見る」となります。前もって見るのは私たちではありません。神様です。私たちは、これから起ることを前もって見ることなどできませんが、神様がそれを見ておられる、そのまなざしの中で、全てのことを備えておられる、その神様の備えを信じることが、摂理を信じることです。彼が神様の命令に淡々と従っていったように見えることの背後には、この摂理を信じるための戦いがあったのです。創世記の記述は、彼のその根本的な戦いにのみ目を向けています。その他の、表面的な苦しみやそれとの戦いについては語っていないのです。それはなぜかというと、もしもそのような苦しみや嘆きを見つめ、例えばアブラハムが、息子を殺さなければならないことを一晩中泣き悲しんだ、などと語ったならば、アブラハムが戦った根本的な戦い、神様のまなざしの中に立ち続け、神様が見ておられること、備えておられることを受け入れ、それに身を委ねようとする戦いがぼやけてしまうからです。聖書は、私たちの思いを、アブラハムのこの戦いにこそ向けようとしているのです。それは、この戦い、神様のことが見えなくなり、分からなくなってしまう試みの中で、なお神様のまなざしの前に立ち続け、神様の見ておられること、備えておられることを受け入れていく、つまり摂理を信じて生きるための戦いが、私たち一人一人にも必要だからです。この戦いなしには、信仰の歩みにおいて襲ってくる試練を克服することはできないのです。 試みは何のために与えられるのか 私たちはある程度の期間を信仰者として生きてくると、次第に、自分の信仰の道筋が見えてくるように感じます。このように歩んでいくことが信仰の歩みなのだと自分なりに納得するようになります。アブラハムも、21章までの体験を経て、そのような思いでいたのではないでしょうか。しかし神様は、私たちがそのように満ち足りて、自分の信仰の道が見えている、と思うような時にこそ、大きな試練をお与えになります。自分が自分なりに納得して、このように歩んでいけばよいのだ、と思っていた信仰の道が、神様ご自身によって否定され、その道が見えなくなってしまい、神様のことが分からなくなってしまうような試みをお与えになるのです。そのような試みによって神様は、私たちが信仰においていつのまにか作り上げている、自分の思いという範囲、限界の壁を突破させて、より深く広い信仰へと導こうとしておられるのです。神様からの試みはそのために与えられるのです。そのことが起るために、私たちは試みと正しく戦わなければなりません。正しい戦いをしないと、試練によって神様を見失い、そのまま救いから落ちていってしまうことにもなります。そういう意味で試練は信仰の危機でもあります。しかしそれは同時に、信仰が本物になるための機会でもあるのです。試練において、私たちは信仰の正念場を迎えるのです。
試みと正しく戦うために
試練と正しく戦うためには、常日頃からその訓練を積んでいなければなりません。それは、常に神様のまなざしの中に立ち続け、神様が見つめ、備えていて下さるものを受け入れていく、つまり摂理を信じるための訓練です。その訓練がなされているかどうかは、私たちの祈りの言葉に表れます。私たちは「これこれのことのために神様力をお貸し下さい」と祈ることがあるのではないでしょうか。しかしそのような祈りによって、試練と正しく戦うことはできるでしょうか。そもそも私たちの信仰は、私たちが神様の力を借りて何かをすることでしょうか。勿論私たちは、神様の力を借りて金儲けをしようとか、立身出世をしようなどと考えてはいません。しかしたとえ私たちのしようとしていることが、もっと高尚な、世のため人のためになることであっても、私たちが何かをするために神様の力を借りようとするところには、自分の歩むべき信仰の道筋は自分に見えており、分かっている、ただその道を歩んでいくための力が足りないから、神様に助けてもらうのだ、という思いがあります。しかし私たちがそのように祈ることができるのは、物事がそこそこ順調に行っている時だけです。ひとたび本当の試みに直面し、人生の正念場を迎えた時には、そのような祈りは何の力をも持ちません。もしもアブラハムがこの時そのような祈りを祈っていたなら、この試みと戦うことはできず、彼の信仰は結局挫折し、失われてしまったでしょう。自分が何かをするために神様の力を借りる、という祈りでは、信仰の試練を乗り越えることはできないのです。試練に直面して信仰を捨ててしまうということが起るのは、多くの場合、その人たちの信仰が、神様の力を借りて自分の思い描いている何かをしていこう、という姿勢だったからです。それは他人事ではありません。同じことは私たちの誰に、いつ起っても不思議はないのです。試練と正しく戦い、それに打ち勝って本物の信仰に生きる者となるために、私たちの祈りは変わらなければならないのです。「神様力をお貸し下さい、強めて下さい」という祈りから、「神様あなたが見つめておられ、備えていて下さる道を、私たちに示し、歩ませて下さい。私たちが道を見失い、あなたを見失う時にも、あなたが私たちを見つめておられ、私たちに備えていて下さるものを受け入れて歩むことができるようにして下さい」、という祈りに変えられていかなければならないのです。
死者の復活を信じる
アブラハムのこの戦いを、新約聖書ヘブライ人への手紙第11章17節以下はこのように語っています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。最後の19節に、「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」とあります。これを誤解してはなりません。これは、アブラハムは神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じていたから、イサクを殺しても大丈夫だと思っていた、ということではありません。彼は神様が自分の信仰と希望の全てを打ち砕くような命令をお与えになったことで、神様が見えなくなり、分からなくなったのです。しかしその中でなお、神様は約束なさったことを成し遂げて下さる方だと信じ、自分には分からない、見えないみ心に、つまり摂理に、イサクの命も含めた全てを委ねたのです。それは言い換えれば、神様の約束がどのように実現するのか、その実現の姿を自分で思い描くことをやめたということです。死者を復活させることができる神を信じるとはそういうことです。私たちは、死者の復活を、自分の思いや常識によっては、いや私たちが持つ信仰によってすら、思い描くことはできません。どのようなことが起るのかを自分で思い描くことをやめ、つまり自分で見ようとすることをやめて、神様のまなざしの中にそれが見つめられており、備えられていることを信じることによってこそ、復活を信じることができるのです。神様の摂理を信じるというのもそれと同じことです。その信仰によってのみ、私たちは厳しい試練に打ち勝ち、本物の信仰を得ることができるのです。私たちの信仰の思いが、この世の論理や常識、あるいは自分の理解や納得の範囲の中に留まっている限り、試練と正しく戦うことはできないし、ましてそれに勝利することなどできはしないのです。
主の山に備えあり
アブラハムがいよいよイサクを殺して献げようとした最後の瞬間に、神様は彼を呼び、「その子に手を下すな。何もしてはならない」と言われました。イサクの命は間一髪で救われたのです。しかしアブラハムの心の中では、イサクは既に神様に献げられています。アブラハムにとってイサクは既に神様のものとなっているのです。ですからこのことは、神様がアブラハムに、イサクをもう一度与えて下さったということです。イサクの誕生がそもそもそういう恵みの出来事でした。人間の常識ではもはやとうてい子供が与えられるはずはない彼ら夫婦に、神様が恵みによってイサクを与えて下さったのです。それと同じ恵みの出来事がここでもう一度起ったのです。私たちが持っているものも全て、実はこのイサクと同じように、神様が恵みによって与えて下さったものです。私たちの命も、家族も、仕事も、財産も、全てがそうなのです。私たちはしばしばそのことを忘れて、それらを自分のものであると思い、自分の権利として主張しようとします。神様はその私たちに試練を与えることによって、全ては神様の恵みによって与えられているものであることを思い起こさせ、神様の力を借りて自分の思い描く何かをする、という信仰ではなくて、全てを与え、全てを備えていて下さる神様のまなざしの前にしっかりと立ち、自分の思いではなく、神様が備えて下さっていること、つまり摂理に従う信仰へと導いて下さるのです。それは、アブラハムがこの試練との戦いの中で与えられた、「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)、「主の山に備えあり」という信仰を私たちも告白する者となる、ということです。「主の山に備えあり」と信じて生きる者は、試練に負けることはないのです。
独り子さえ惜しまず
しかしここにはもう一つ、もっと大事なことが示されています。それは、このアブラハムの戦いを本当に戦っているのは、実は神様ご自身なのだ、ということです。12節に「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」とあります。また16節にも、「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので」とあります。これらのことは実は、神様ご自身が私たちのためにして下さったことなのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章の32節です。そこにこのように語られています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。神様ご自身が、私たちのために、その御子をさえ惜しまず死に渡して下さったのです。アブラハムがここで与えられた試練を、神様ご自身が引き受け、背負って下さったのです。アブラハムは、最後の最後に、息子イサクの代わりに献げる雄羊を与えられました。主の備えによってイサクは死なずにすんだのです。しかし主イエス・キリストは、誰も代わってくれる者もなく、十字架につけられて死なれたのです。アブラハムが戦った、そして私たちもそこへと召されている試練の中での信仰の戦いを、主イエス・キリストにおいて神様ご自身が戦い、戦い抜いて下さったのです。私たちの信仰の戦いは、この主イエス・キリストにおける神様の戦いによって支えられています。それゆえに私たちは、試練との戦いの中で、「主の山に備えあり」と確信をもって言うことができるのです。私たちのために主の山に備えられている身代わりの羊、それは神様の独り子主イエス・キリストです。主イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに、神様は御子と一緒にすべてのものを私たちのために備え、与えて下さることを私たちは信じることができるのです。御子をさえ惜しまず死に渡して下さる神様の愛から、私たちを引き離すことができるものはもはや何もないのです。この愛に支えられて、私たちは試みと戦っていくのです。