「主に喜ばれるために」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 申命記 第24章5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第7章32-40節
・ 讃美歌 ; 323、440、509
パウロの意見
礼拝において、コリントの信徒への手紙一の第7章を読んで参りまして、本日がそのしめくくりとなります。この第7章の主題は、結婚についてでした。コリント教会から寄せられた質問に答えて、イエス・キリストを信じる信仰において、結婚をどう位置づけたらよいかという問題について、既に結婚している人の場合と、まだ独身である人の場合とに分けて語ってきたのです。25節以下は、未婚の人、独身である人に対する教えでした。パウロはその教えを語るに当って25節で、「わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」と言っています。つまりここで語ることはパウロの意見であって、主の指示、つまり主イエス・キリストからの命令ではないということです。そういう意味でここに語られていることは絶対的な教えではありません。別の考え方もあり得るのです。つまりパウロはここで、信仰者がすべからく守るべき普遍的な掟を語っているのではありません。そのことが本日の35節にもこのように言い表されています。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく」。これは私たちを束縛する掟ではなくて、私たちのためを思って語られている意見である、ということを念頭に置いてこの部分を読まなければなりません。しかしだからといって、この部分は軽く扱ってよいとか、無視してよいというものではありません。この意見を述べているのは、「主の憐れみにより信任を得ている」使徒パウロです。私たちはその意見をよく聞き、そこに語られていることの意味を真剣に受け止めていくべきなのです。
思い煩わないでほしい
未婚の人たちに対してパウロが勧めていたのは、どちらかと言えば結婚しないで独身のままでいた方がよい、ということでした。それは、結婚することが信仰者として避けるべき罪であるからではない、ということは、これまでの所に繰り返し語られてきました。結婚することは罪ではないのです。それでは何故結婚しない方がよいのか、その理由の一つが本日の32節です。彼はここで「思い煩わないでほしい」と言っています。結婚は思い煩いを生む、ということをパウロは見つめているのです。その思い煩いとはどういうものでしょうか。確かに、結婚して家庭を持つことによって、独身の時にはなかった様々な思い煩いが生まれます。生活のこと、夫婦の関係のこと、そして子どもが生まれれば子育てのことなど、思い煩いの種は尽きないと言えるでしょう。しかしパウロがここで見つめている思い煩いはそういうものではありません。32節のつづきにこう語られています。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」。ここに、「心を遣う」という言葉が何度も出てきますが、これが実は原文においては、「思い煩う」と同じ言葉なのです。ですから、「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに思い煩うが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に思い煩い、心が二つに分かれてしまう」と読んでもよいのです。そしてもう一つ、この34節の「心が二つに分かれてしまう」という言葉も、「思い煩う」と同じ言葉をもとにしているものです。つまり思い煩うとは、心が二つに分かれてしまうことなのです。思い煩いというのは確かにそういうものでしょう。いろいろなことで心配し、どうしよう、どうしよう、と心が乱れてしまうことが思い煩いです。パウロは、結婚においてそのように心が二つに分かれてしまうことを見つめているのです。何によって心が分かれてしまうのか、それは生活の上の問題のためではなくて、誰に喜ばれようとして生きるか、ということにおいてです。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣うが、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う、つまり、主に喜ばれようとするか、妻に喜ばれようとするか、ということの間で、心が二つに分かれるのです。それは男だけではありません。34節には、独身の女はやはり主のことに心を遣うが、結婚した女は、夫に喜ばれようと心を遣うようになることが見つめられています。男も女も、独身である時は、主に喜ばれることを願って、主のことのみに心を遣って生きることができる。しかし結婚すると、相手のこと、家庭のこと、子どものことなどに心を遣うようになる、それによって、心が、主のことを思う思いと、家庭のことを思う思いとの二つに分かれてしまう、それが、パウロがここで見つめている思い煩いなのです。
どちらもなすべきこと
ここではっきりさせておかなければなりませんが、パウロは、結婚している男や女が、妻や夫を喜ばせようとして心を遣うことを罪だと言っているのではありません。結婚しても、妻や夫を喜ばせることなど考えてはいけない、いつも主イエスのみを喜ばせるようにしなければならない、と言っているのではないのです。結婚において、相手を、自分の妻や夫を喜ばせ、そのために尽くそうとすることはむしろ当然の義務です。そのことは、旧約聖書の時代から語られていた、神様のご意志なのです。本日読まれた旧約聖書の箇所、申命記24章5節はそのことを語っています。「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない」。結婚して一年間は、あらゆる公務から解放されて、もっぱら妻を喜ばせるために用いる。私たちの社会も、一年とまでは言わなくても、せめて1か月でも、こんなことを考えるようになったらすばらしいと思うのですが、それはさておき、結婚するというのは、ある意味でこのように、妻を、また夫を、喜ばせるための生活に入ることです。それが、結婚する者に神様から与えられている義務なのです。パウロはそのことをよく知っており、意識しています。7章3節で「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と教えていたのも、そのことの現れであると言えるでしょう。結婚した者が、相手を喜ばせ、相手のために生きようとすることは罪であるどころか、神様から与えられた義務なのです。そしてそれと同時に、主イエスを喜ばせ、主に仕えて生きることも、信仰者の当然の義務です。信仰者になるということは、主イエスの僕となり、主に仕える者となることだからです。それゆえにこれは、どちらもなすべきことなのです。どちらかが正しいことでもう一つは間違ったこと、罪なのではありません。どちらも正しい、なすべき二つのことを背負うことになる、それが結婚です。その二つの、どちらもなすべきことの間で、心が二つに分かれてしまう、そこに思い煩いが生まれるのです。主に喜んでいただき、主に仕えようとすることと、夫や妻、家族を喜ばせていくこととの間に、時として食い違いが起こり、矛盾が起こる。その矛盾に苦しむことが起こっていくのです。パウロが28節で「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう」と言っていたのは、一つにはそういうことなのです。そういう思い煩いは、信仰者どうしの結婚においても起こってきますが、相手が未信者である場合にはなおさら大きくなるでしょう。パウロは、このような思い煩いはできるだけ少ない方がよい、そのために一番いいのは独身でいることだ、と言っているのです。「あなたがたのためを思ってのことだ」というのはそういうことです。従ってそれは決して、人を束縛する掟ではありません。パウロの教えの目的は、結婚することがいいとか悪いとか言うことではなくて、35節の後半にある、「品位ある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるため」ということなのです。
結婚してもよいが、独身でいることはもっとよい この、「品位ある生活をし、ひたすら主に仕える」ということこそ、パウロが、結婚している者にも、未婚の者にも共に求めていることであるわけですが、その内容に入る前に、36節以下の教えについて見ておきたいと思います。これは、ある具体的な事情を念頭に置いて語られている勧めであるわけですが、その事情がどのようなことだったのかについては、いろいろな説があってはっきりしていません。その解釈によって、翻訳の仕方も変わってきてしまうわけで、ここは、コリントの信徒への手紙一の中でも最も解釈、翻訳が難しい所の一つなのです。今私たちが使っている新共同訳の翻訳では、36節はこうなっています。「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい」。これは大変わかりにくい訳ですが、それはこの訳が、ある非常に特殊な状況を前提としているからです。つまり、ある人がある女性と婚約しているが、結婚はしないという誓いを立てている、あるいは、結婚しているが、肉体的関係は持たないという誓いを立てている、という状況です。これは私たちには理解できない状況ですが、この当時にはそういうことがあったらしいのです。それを「霊的結婚」などと呼んでいたようですが、そういう関係にある者が、誓いを破って肉体的関係にまで至ってしまいそうになる、そういう思いを抑制できない時には、普通の結婚をすればよい、それは罪ではない、しかしそうならずにおれるならそれはさらによい。新共同訳はここをそのように解釈し、訳しているのです。しかしこれは今申しましたようにまことに特殊な事情を前提とした解釈となります。それに対して、以前の口語訳聖書においては、32節はこうなっていました。「もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい」。この訳には「誓い」という言葉は出てきません。つまり「霊的結婚」というような特殊な状況ではなく、ある男がある女に情熱を抱いて結婚したいと思った場合、という一般的な状況を前提としているわけです。しかしこの読み方では、相手の女性に情熱を抱いて結婚したいと思うことは基本的には適当でないが、やむを得なければ仕方がない、ということになるわけで、それは繰り返し申してきたパウロの結婚理解とは違うことになります。パウロが教えているのは、結婚したいという思いをがまんして独身でいることが尊い、ということではないのです。このように、口語訳も新共同訳も今一つすっきりとしないのです。そこにもう一つ別の解釈があります。それは、昔の文語訳のとっていた解釈であり、現在出ている聖書では、新改訳聖書がそうなっていますが、その解釈では、自分自身の結婚のことではなくて、娘を嫁がせる親に対する教えが語られていると理解されています。新改訳聖書のこの部分を読んでみます。「もし、処女である自分の娘の婚期を過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行うことができる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです」。こういうふうに読むこともできるのです。私たちはこれを読むと、これはこれでまたひどい話だ、と感じます。娘を嫁がせるか嫁がせないかを親が一存で決めてしまう、娘の意志はどうなるのか、と思うのです。しかしこれは、およそ二千年前のこの時代においてはむしろ当然のことでした。結婚は、今日のような、両性の合意に基づく、などというものではなくて、娘の結婚相手は父親が決める、本人の意志などは問題にされない、というケースが殆どだったのです。それゆえにこそ、パウロがこの第7章で語っているように、未信者と結婚している夫婦が沢山おり、そしてその夫婦において、信仰のゆえに相手との関係を避けるようなことが頻繁に起こっていたのです。今日の私たちのように、基本的に本人どうしが合意して結婚するという場合には、このようなことはあまり考えられないことです。そういう事情を私たちは理解しなければなりません。この教えは、そのような中で、いろいろな事情で婚期を過ぎた娘を、親が、世間体や体面を気にして結婚させなくてもよい、独身でいることにも大きな意味があるのだ、ということを語っていると理解することもできるのです。このようにここは大変解釈が難しいところですが、いずれにしても語られていることは、結婚することは決して罪ではないが、独身でいることの方がもっとよい、ということです。
品位ある生活
さてそこで、もう一度戻って、35節の「品位ある生活をし、ひたすら主に仕える」ということについて考えたいと思います。「品位ある生活をし」という言葉は、直訳すれば「美しい姿で」となります。パウロは、キリストを信じて生きる信仰者の生活が、美しい姿になることを願っているのです。その美しさとはどのようなものでしょうか。それは、思い煩いがないことです。心が二つに分かれていないことです。主に仕え、主に喜んでいただくことに集中している姿です。それが、「ひたすら主に仕える」ということです。「ひたすら」という所を、口語訳聖書では「余念なく」と訳していました。心がいくつにも分かれて、あちらへもこちらへも引っ張られていってしまうことなく、ひたすら、まっすぐに主イエス・キリストに仕えて生きる。そこに、信仰者としての美しい姿があるのです。そのような美しい姿で生きるためには独身でいた方がよい、独身の方が、常に主に喜ばれることを求め、主のことに心を用いることができるから、というのがパウロの意見です。パウロ自身はそのような思いによって、独身を貫きながら、主に仕えているのです。
主に仕える
しかしそこでさらに見つめるべきことは、「主に仕える」ことの内容です。ここでパウロが「ひたすら主に仕えさせる」と言っている、その「仕える」という言葉は、新約聖書の中でここにしか出てこない、特別な言葉です。普通に使われる「仕える、奉仕する」という言葉ではないのです。その言葉の成立ちを見てみると、「品位ある」という言葉の場合と同じく、「美しい」という意味を表す言葉がまずあり、それに、「傍らに座っている」という言葉がつけ加えられているのです。ですからこの「仕える」は、「美しく傍らに座っている」という意味の言葉であると言うことができます。主イエスの傍らに美しく座っている、あるいは、主の傍らに座っている姿こそ美しい、そういうことをこの言葉は示しているのです。そうするとこれは、「ひたすら主に仕える」と言った時に私たちが普通に思い浮かべるイメージとはかなり違ったことです。私たちは、「ひたすら主に仕える」という時には、自分の時間をすべて費やして、寝る間も惜しんで、主のための奉仕の業に励む、様々な奉仕の働きを負って忙しく動きまわる、ということを思い浮かべるわけです。そして、なるほどそのような奉仕は独身の間でないとできない。結婚してからはそうそう全ての時間を主のため、教会のために用いることはできない、というふうにパウロの言うことに納得してみたり、あるいは年配の方々からは、自分たちが青年だったころは、毎日のように、入り浸りになるほどに教会に来て、まさにひたすら主のことに心を遣っていろいろな奉仕をしたり、語り合ったりしたものだ、それに比べて最近の青年は教会への思いが薄すぎるのではないか、というような、若い人へのお小言が生まれたりするのです。しかし、パウロがここで、「ひたすら主に仕える」と言っているのはそういうことではありません。それはむしろ、「主イエスの傍らに美しく座っている」ことです。つまり、主のみもとに常に留まり、そのみ言葉に一心に聞き入っていることです。そこにこそ、本当に美しい、品位ある生活があるのです。
このことは、ルカによる福音書第10章38節以下の、いわゆる「マルタとマリア」の話を思い起こさせます。主イエスの一行がある家に客となった。その家のマルタとマリアという姉妹の内、マルタは、主イエスの一行への接待のために忙しく立ち働いていた。しかしマリアは、主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。マルタが、マリアは私にばかりもてなしをさせています、手伝うようにおっしゃって下さい、と主イエスに言うと、主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたのです。「多くのことに思い悩み、心を乱している」これは、心が分かれて思い煩っている、ということです。マルタは、主イエスのために忙しく立ち働いているつもりでいましたが、それが実は思い煩いにしかなっていなかったのです。本当に必要なただ一つのことは、主の傍らに座ってみ言葉に聞き入ることなのです。それこそが、本当に主に仕えることなのです。私たちはともすれば、マルタのように立ち働くことによって、主に仕えているような気になってしまいます。しかし主イエスが本当に求めておられることは、むしろマリアのように主の傍らに座ってみ言葉に聞き入ることなのです。パウロが「品位ある生活をし、ひたすら主に仕える」ということで見つめているのはこのことです。そのためには独身でいる方がよいと言っているのです。ですからこれは、結婚すると家庭のことがいろいろと忙しくなって主のための奉仕ができなくなる、という話ではありません。語られているのはもっと内面的なこと、本当に必要なことは何か、ということなのです。パウロは、結婚することによって、その本当に必要なことを見失ってしまい、主のもとに留まってみ言葉を聞くことができなくなって、心があちこちに分かれて思い煩いに陥ってしまうことがある、ということを見つめているのです。それがパウロの意見です。しかし、独身でありさえすれば、本当に必要なことを見失わずに生きることができる、というわけではありません。むしろこの頃は、仕事に集中するために独身でいる、というようなことが多いわけで、むしろ独身である者の方が、主のもとに留まってみ言葉を聞く生活から遠ざかってしまう、ということもあります。つまり問題は、独身であるか、結婚しているかではなくて、本当に必要なただ一つのことをしっかりとわきまえて生きているか、ということなのです。
本当に必要なことを見失わずに
7章の終わり、39節以下には、夫が死んで未亡人となった人の再婚のことが語られています。その場合には、望む人と再婚してもかまわない、ただし、相手は主に結ばれている者に限る、と言われています。再婚の場合には、親の意志によってではなく自分の意志で決めることができるのだから、主に結ばれている者、つまりキリストを信じる信仰者とのみ結婚しなさい、ということになります。しかしこの「主に結ばれている者に限る」というところも、実は別の読み方ができます。新改訳はこうなっています。「もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです」。こちらの方が実は直訳に近いのです。つまり言われていることは、再婚の相手はクリスチャンでなければならない、ということではなくて、どういう相手とであれ、その結婚が「主にあって」のものでなければならない、ということなのかもしれないのです。それはつまり、主イエス・キリストの傍らに座ってそのみ言葉に聞き入ることをただ一つの本当に必要なこととして大切にすることができるような結婚をしなさい、ということです。
そういうわけで私たちは、結婚するにせよ、独身であるにせよ、この本当に必要なただ一つのことを見失うことなく歩みたいのです。そこにこそ、品位のある、本当に美しい生活が生まれるのです。「美しい国」という言葉が虚しく語られる中で、この国がどんどん醜く殺伐とした状態になっていくことを感じずにはいられません。本当に美しい、品位ある、品格ある国は、私たちが主イエス・キリストの傍らに座って、そのみ言葉に聞き入りつつ、ひたすら主に仕えていく者となるところにこそ実現していくのです。