夕礼拝

神の怒り

「神の怒り」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第78篇 30節-39節
・ 新約聖書;ルカによる福音書、第3章 7節-18節 ルカによる福音書、第2章 41節-52節

 
序 荒れ野で神の言葉を受けた洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。この悩みと苦しみにとらわれた暗闇の世界についにメシアが来られる。このお方の到来に備えて、わたしたちは自らの生き方を吟味し、神の言葉に照らして、自分の歩みを整えなければならない。ヨハネはそのことを伝えるために立てられた神の使いであります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ために神から遣わされたのです。さらに言えば、そのことだけを証しするために遣わされたのでした。そのほかのことや、自分のことを宣べ伝えるのではない、ただこれからやって来られる救い主を指し示すこと、それだけがこの使いに託された務めです。
 ではここで「主の道を整える」こと、「主の道筋をまっすぐにする」こととは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。
 
1 ヨハネがここではっきり示しているのは、「神の怒り」の前に恐れ戦き、悔い改めて、その悔い改めにふさわしい実を結べ、ということです。聖書を読んでいて明らかなのは、そこに「神の怒り」ということが記されているということです。伝道者を養成している東京神学大学では毎日朝の10時からチャペルで礼拝が行われています。わたしがまだ神学校の学生だった頃、ある日のチャペル礼拝で先生が、わたしたちは神の怒りについての説教をあまりしてこなかったのではないか、と語っておられました。「神の怒り」―それは明らかに聖書の中で語られているのに、わたしたちはそれを敬遠してしっかりと受け止めてこなかったのではないか、説教者の立場から言えば、愛と慈しみの神とうまく結びつかないような感じがして避けてきたのではないか、あるいは教会員も含めて、怒りの神はイエス・キリストの出来事においてもはや解決された過去のものとなっているのだ、もはやわたしたちが直面すべきものとしてまともに受け止める必要のないものなのだ、そう思っている節があるあるかもしれません。いや、それだけではありません、聖書に触れていない現代人には、そもそも「神の怒り」ということ自体があまりピンとこない、何のことのなのかよく分からない事柄なのかもしれません。神の怒りが迫っていると言われても、単調な生活を毎日送っている中で、リアリティーをもって神の怒りを感じることができなくなっているのかもしれません。
 教会の前にある説教題の掲示板は、次の週の説教題を掲げています。日本の教会はこのようにして説教に題をつけ、しかもそれを教会の前に掲げる習慣を持っています。わたしは、これはいい習慣だと思っています。それは教会の前を通る人々への呼びかけとしての意味を持っているのです。ですから教会の外の人々が関心を持つような、呼びかけとなるような題をつけようと心がけています。今日の説教題をわたしは「神の怒り」としました。それは神の怒りというものの現実味をあまり感じなくなっている現代人がこの呼びかけの題に触れて、かえって物珍しさ、興味を引き起こされることを期待したからであります。同時にわたしたち自身もまた、愛と赦しの神について聴くことに慣れきってしまうのでなく、神の怒りについて語る御言葉にも余すところなく聴く者とされたいと思ったのです。そのことが神の愛を本当に知るために、必要なことだとも思うのです。
 先ほど現代人には神の怒りがあまりピンとこないかもしれない、と言いました。しかし「神の怒り」ということを真剣に考えた人もいました。三木清という哲学者は「神の怒り」ということについて深く考えた人でした。この人は弥陀の慈悲を説いた親鸞をことのほか愛したといわれていますが、「神の怒り」について次のような文章を残しています。「Ira  Dei(神の怒)、-キリスト教の文献を見るたびにつねに考えさせられるのはこれである。なんという恐ろしい思想であろう。またなんという深い思想であろう。神の怒はいつ現れるのであるか、-正義の蹂躙された時である。怒の神は正義の神である。・・・愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。切に義人を思う。義人とは何か、-怒ることを知れる者である」。
 昔は世にある恐いものといえば「地震、雷、火事、親父」だと言われていました。その中で「親父」が抜け落ちてきたと言われて久しいわけですが、実はもっと前から抜け落ちていたものがあったのではないか、とわたしたちは思わされます。それが「神の怒り」なのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは、自分たちが神に選ばれた特別な民、アブラハムの子孫なのだから、神の慈しみと守りから自分たちが漏れることなどありえないと高をくくっていた、そういう人々の魂を激しく揺さぶったのです、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(7-8節)。神の自由な選びの中で、何のとりえもないにも関わらず選ばれた神の民、それがイスラエルであったはずです。それなのにいつしか人々は自分たちは選ばれるにふさわしい条件を備えていたから、恵みを受けるにふさわしい素質があったから、神に選ばれたのだと思うようになっていったのではないでしょうか。その時その時、一回一回示される神の言葉の前に自分を照らし出され、御言葉の前に驕り高ぶっていた自分を打ち砕かれ、悔い改めに迫られる、ということをあまりにもなおざりにするようになっていたのではないでしょうか。石ころからでもアブラハムの子を造り出すことのできる自由を持った神を主として認めることをせず、自分たちの管理できるもの、自分たちの自由になるものとして手元に置こうとする時、わたしたちは実は自分を神とする罪を犯してしまっているのです。
 その結果、イスラエルの民の間に広がっていたのは、神の恵みは自分たちから離れることはない、という傲慢な思いと、律法をひどく軽んずる行いであったようです。下着や食べ物といった所有物を独り占めし、貧しい者ややもめ、孤児が無視されました。そのようにして貧しい者ややもめ、孤児を大切にするように、という律法を軽んじたのです。徴税人はあの改心前のザアカイのように、規定以上に取り立てて、不正を重ねていました。そのようにして主の道筋を曲げたのです。兵士たちは金をゆすり取ったり、だまし取ったりすることで主の道をかき乱したのです。そのように、神の御心を傷つけてばかりいるにも関わらず、自分たちはアブラハムの子なのだから、神の選びと救いから漏れることはないと、高をくくっているところに、自分を神としている罪がある、とヨハネは追及したのです。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と警告を発したのです。
 それは激しく魂を揺すぶられる体験であります。この教会の教会学校は先日横浜動物園に行きましたが、そこで予想を超えるような大雨に見舞われました。傘をさしても防ぎきれない、全身ずぶ濡れになるほどの大雨です。そのように突然襲ってきて激しい動揺と恐れの中にわたしたちを叩き込むのが神の怒りです。ある神学者の語った説教に「地の基、揺れ動く」というのがありますが、まさにわたしたちが大丈夫だと思って安心していた地盤が激しく揺さぶられ、地割れが生じる、液状化現象が起こって地盤がふにゃふにゃになる、その地割れの深淵から目をおおいたくなるようなわたしたちの罪の有り様が顔をのぞかせている、それが神の怒りに触れた時、わたしたちが示されるものなのです。わたしたちがどんな実を結んでいるか、が問われます。木の枝は接木しても、幹が悪ければ良い実を実らせることはできません。また幹がどんなに良くても、根っこが悪ければ幹も枝も生きることができません。それと同じように、わたしたちの心の根っこがどこに向かって下ろされているか、わたしたちがどこに心を向けて生きているかがいつも問われているのです。

2 このようにしてヨハネは心を入れ換えて、主なる神のもとへ立ち帰るようにと人々に呼びかけました。神の律法の下へ立ち帰るように説いて廻ったのです。しかしそのような呼びかけを受けて民が神に立ち帰り、神の律法を右にも左にも逸れず歩むことが、はたしてわたしたちに本当にできることなのでしょうか。先ほどお読みいただいた詩編の78編には神の恵みの導きとそれにも関わらず繰り返される民の反逆がこれでもか、これでもか、と言わんばかりに繰り返されています。「彼らが欲望から離れず 食べ物が口の中にあるうちに 神の怒りが彼らの中に燃えさかり その肥え太った者を殺し イスラエルの若者たちを倒した。 それにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し 驚くべき御業を信じなかったので 神は彼らの生涯をひと息のうちに 彼らの年月を恐怖のうちに断とうとされた。 神が彼らを殺そうとされると 彼らは神を求め、立ち帰って、神を捜し求めた。 『神は岩、いと高き神は贖い主』と唱えながらも その口をもって神を侮り 舌をもって欺いた。 彼らの心は神に対して確かに定まらず その契約に忠実ではなかった」(30-37節)。
 神が造られたこの世界の中で、人間には神の前に生きるふさわしい生き方が示されています。しかしその生き方が崩され、世界が神の正義を曲げる力に覆われるとき、造られた世界そのものが立ち行かなくなってしまうのです。神の造られた世界を守るために、神は義を求められ、不正や不義には怒りをもって臨まれるのです。けれども神はそれにも増して人間を愛し、わたしたちと生きた向かい合う関係を結ぶことをよしとされるお方です。神の御心にかなう生き方をしようと思ってもできない、罪の奴隷になっているわたしたちを主は一番よくご存知です。このお方はそれでもわたしたちを見捨てず、わたしたちと関わり続け、責任をもってわたしたちの罪を引き受けてくださいました。裁く方が裁かれるお方としてこの地上に肉を取って来られたのです。
 主イエスは後におっしゃいました、「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16:16)。洗礼者ヨハネの役割は、やって来られるメシアを指し示すことのみです。旧約の他の預言者たちと同じように、けれども来るべきお方の最も近くに立って、来るべきお方を指さすのです。それでも、このヨハネも、来るべきお方について十分に理解しているわけではありませんでした。ヨハネが期待していた来るべきお方は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」という神の裁きを実行するお方でした。それゆえに、主イエスが来られて目や足の不自由な人が癒され、重い皮膚病が清められ、死者が生き返るのを見る時、ヨハネにはその意味が受け止めきれず、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(7:19)、と問わざるを得なかったのです。躓かざるを得なかったのです。
 確かに、来るべきお方は神の怒り、神の裁き、神の正義を実行されるお方です。麦と殻を選り分け、篩い分け、裁きを行われるお方です。しかしこのお方はその裁きを自らが担い、引き受けられる、という仕方で神の正義を貫かれるのです。そしてそうなさるのはご自分の契約の相手として向かい合ってくださっているわたしたちのために、神がとことんまで関わりを持たれ、責任を持ってくださるからです。神はそこまで人間であるわたしたちを愛し、真剣に愛し、責任とご自身の栄光をかけてわたしたちと向き合い、わたしたちを愛し抜いてくださるのです。

結 来るべきお方、主イエスは聖霊と火で洗礼を授けると預言されています。先日の主日礼拝でヨハネによる福音書の対応する箇所を説教した際、教会員の方からご質問をいただきました。教会では今でも水による洗礼を授けているのだから、ヨハネの授けた洗礼と結果的には変わらないのではないか、というものでありました。わたしは旧日本基督教会の憲法には長老が説教を監督すると明記されていたというエピソードを思い出しつつ、長老のみならず、教会員の方も説教を一生懸命聴いて、率直な問いを投げかけてくださることに感心し、また感謝しました。  
 その上で、この主イエスの洗礼とヨハネの洗礼は決定的に違うと言わなければならないと思います。ヨハネの洗礼は悔い改めのしるしとしての洗礼です。しかし主イエスの洗礼はそれをも含みつつ、御子なるキリストがわたしたちの罪をご自分の命の中へと引き受けてくださった恵みの出来事に基づく洗礼です。神に反逆して生きざるを得ないわたしたちのために神が人となってくださり、その罪を引き受け、担いきってくださった、そのお方ご自身が制定し、その救いを保証してくださっている洗礼です。ペンテコステの日に、炎のような舌の形をもって降り、教会を生み出した、その聖霊と火による洗礼です。教会が授けるのは、この恵みの出来事を起こし、今も働きつづけ、わたしたちと向かい合い、関わり続けてくださる愛と義の神が、父と子と聖霊の名によって教会にお与えになっている洗礼なのです。水が注がれる時、そこにはヨハネの洗礼の時にはなかった罪への死とキリストの新しい命への復活、聖霊の降り、とこしえに神のものとされる恵みの出来事が起こっているのです。この神の恵みの中で、神の怒りも、神の正義も、神の愛の内に一つにされていることを知るのです。そうしてこそ、神の怒りも、わたしたちにとって何の割り引きも水増しもなく受け止められるべきものとなります。しかしそうすることができるのは、神ご自身がその怒りを担い、引き受けてくださったからにほかなりません。その時わたしたちはあの詩編23篇の詩人のように、神の鞭、神の杖もまた、わたしたちの慰めとなるということを知る者とされるのです。

祈り
 主イエス・キリストの父なる神様、地の基を揺り動かすようなあなたの怒りの激しさを今わたしたちは深く思います。その裁きには堪えられないことを深く思います。どうかわたしたちをあなたの御言葉の光の下に置き、まことの悔い改めを得させてください。しかしどうか主よ、あなたが肉を取ってこの世に降り、わたしたちの罪をご自身にお引き受けになるまで、とことんわたしたちを愛し、わたしたちと関わってくださる恵みの大きさを、いよいよ深く味わい知る者とならせてください。わたしたちの直面する試練や困難もまた、御子イエス・キリストの担われた悩みと苦しみのうちに引き受けられていることに、わたしたちの唯一の慰めを見出させてください。
 聖霊と火による洗礼をお授けになる、主イエス・キリストの御名によって祈り、願います、アーメン。

関連記事

TOP