「貪欲の墓にて」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:民数記 第11章1-34節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章14-21節
・ 讃美歌:128、436
タブエラ
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に聞いています。先月は第9章15節以下を読みました。そこには、主なる神様によってエジプトの奴隷状態から解放され、乳と蜜の流れる約束の地へと向けて荒れ野を旅しているイスラエルの民が、「臨在の幕屋」と呼ばれる幕屋、テントを覆っている雲に導かれて歩んでいったことが語られていました。幕屋を覆っていた雲が、出発すべき時を示し、行くべき方向を示し、そして留まるべき所をも示してくれたのです。この雲の導きが即ち主なる神様の導きでした。「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」と繰り返し書かれています。それが、荒れ野を旅するイスラエルの民の当初の姿だったのです。
ところが、その9章から聖書の頁をほんの一枚めくっただけの本日の11章には、彼らが主なる神様に不平不満を言ったことが語られています。1節の前半に「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った」とあります。不満の内容はここには語られていませんが、彼らが今旅しているシナイの荒れ野は、ところどころにあるオアシスを除いては、草一本生えていない厳しい所です。そこを旅していくのは大変であり、様々な苦しさ、つらさがあったことでしょう。しかし1節後半には、「主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした」とあります。主なる神様は彼らが不満の声をあげたことに対してお怒りになったのです。それは当然のことです。なぜなら彼らイスラエルの民が今荒れ野を旅しているのは、主なる神様が彼らをエジプトにおける奴隷状態から解放して下さったからであり、彼らは神様が約束して下さっている乳と蜜の流れる地へと旅をしているのだからです。つまり荒れ野の旅の苦しみは、エジプトで奴隷だった時の苦しみとは全く質の違うものです。エジプトでの苦しみは、希望の見えない、意味のない苦しみでした。しかし荒れ野の旅の苦しみは、大きな祝福への途上の苦しみであり、前途に希望がある、意味のある苦しみなのです。それなのに不平を言うのは、エジプトから解放して下さった主なる神様の恩を仇で返すようなことです。それゆえに神様の怒りの火が彼らに対して燃え上がり、宿営を焼き尽くそうとしたのです。2節にあるように、民はモーセに助けを求めました。モーセが主に祈ると、神様の怒りの火は鎮まりました。モーセは、「どうぞこの民の犯した恩知らずの罪をお赦しください」と、民の罪の赦しのための執り成しの祈りをしたのです。モーセの執り成しによって、主は怒りを収め、民を赦して下さったのです。主の怒りの火が燃え上がったこの地は「タブエラ」(燃える)と呼ばれるようになりました。これが3節までの話です。
主イエスによる執り成しを指し示す
これと同じような話が聖書には繰り返し出て来ます。イスラエルの民が恩知らずの罪を犯す。それに対して神様がお怒りになり、罰をお与えになる。しかし神様との間に立って執り成してくれる人の祈りによって民の罪が赦される、というパターンの話はあちこちにあるのです。これらの話によって聖書は私たちに、人間の罪と、その罪人を救って下さる神様の恵みの基本的な姿を教え示しています。私たちは、神様による救いの恵みを受けていながら、それにしっかり応えることができずに恩知らずの罪に陥っていく者です。イスラエルの民はエジプトの奴隷状態からの解放の恵みを忘れて不平不満に陥りました。私たちにとってそのエジプトからの解放に当たるのは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みです。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されたのです。そして神様は主イエスを死者の中から復活させて、私たちにも、復活して新しい命、永遠の命にあずかる約束を与えて下さいました。この復活と永遠の命こそ、私たちにとっての約束の地です。私たちは、この約束の地に向かって、荒れ野のようなこの世を旅しているのです。イスラエルの民の荒れ野の旅はそういう意味で私たちの信仰の歩みと重なります。そしてその荒れ野の旅の苦しさやつらさの中で、私たちも不平不満を覚えることがあります。神様の独り子である主イエスがまさに命を捨てて救いを与えて下さった、その恩を忘れて不平を言い、自分勝手な振る舞いに陥り、恩を仇で返すようなことをしてしまうのです。そのような恩知らずの罪に対して、神様はお怒りになります。しかし主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのは、恩知らずな罪人である私たちのために執り成して下さるためでもあったのです。もともとの罪の奴隷状態から解放して下さったのも、またその救いを受けたにも関わらず恩知らずの罪に陥っている私たちのために執り成しをして下さったのも、どちらも主イエス・キリストなのです。これらの話はどれもそのようにして、救い主イエス・キリストを指し示しているのです。
執り成しの務めを負うのは?
しかしここで私たちが見つめておきたいのは、民の指導者であったモーセが民の罪のために執り成しをした、ということです。そこに、神の民の先頭に立つ指導者の役割、務めが示されています。私たちに当てはめて考えるなら、根本的に罪の赦しを実現し、与えて下さるのは主イエス・キリストですが、民の先頭に立つ指導者も、その赦しを神様に祈り求めることによって民のための執り成しをする、あるいはその一翼を担う者だ、ということです。それが、神の民の群れである教会において先頭に立つ指導者、つまり牧師や伝道師、そして長老の役割であり務めです。神の民の先頭に立って歩む者は、何よりも先ず民のために執り成し祈る者でなければならないのです。しかしさらに言えば、この執り成しの祈りは牧師、伝道師、長老のみの務めなのではありません。私たちプロテスタント教会は、神の民の群れの中にいわゆる聖職者という特別な立場はない、と考えています。いわゆる「万人祭司」の教えです。それは、全ての信徒はお互いのために執り成し祈る祭司の役割を果たす、ということです。モーセがここでしている執り成しの祈りは、私たち一人一人が、お互いの罪の赦しのためになすべきことでもあるのです。
信仰を喜べなくなった人々
さて4節以下には、基本的には3節までと同じパターンの話がもう一つ語られています。しかし4節以下は、いろいろな要素が加えられてかなり長い話になっています。その発端はやはり民の不平不満ですが、それがどのように起ってきたかが4節にこのように語られています。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った」。ここから分かるのは、荒れ野を旅していたイスラエルの民の中に、雑多な他国人が混ざっていたということです。その人々が先ず不平を言い出したのです。他国人とは、神の民であるイスラエルに属さない人たちです。主なる神様による救いも、また約束も、彼らにとっては他人事なのです。つまり、主なる神様による救いにあずかる、という信仰によって結び合っている仲間ではない人々です。そういう人々もイスラエルの民と共にエジプトから出て来たのです。その人々がこのように言い出しました。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」。要するに、エジプトにいた頃の方がよかった、というのです。雑多な他国人たちは、エジプトで奴隷とされてはいなかったのかもしれません。肉や魚、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくを好きなだけ食べていたのかもしれません。それに比べてこの荒れ野には何もない、と不平を言ったのです。しかし問題は、その他国人たちの不満が、イスラエルの人々にも伝染したことです。彼らも「エジプトにいた頃の方がよかった」と言い出したのです。エジプトで彼らは奴隷であり、希望もなく意味のない苦しみを重ねており、ここに並べられているような食べ物を自由に腹一杯食べていたはずはないのに、今の苦しさのゆえに、「あの頃の方がマシだった」と言い始めたのです。それは自らを、神様による救いの恵みを受けていない、神様の民とされていない人々と同じ立場におとしめることです。神様の救いのみ業を、意味のない、かえって迷惑なこととしているのです。まことに情けない、あってはならないことです。しかし先ほども申しましたように、その情けない、あってはならないことが、私たちにもしばしば起るのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、主に従って生きる信仰の生活を喜べなくなり、それをむしろ重荷と感じてしまい、信仰など持たなかった方がよかった、楽だった、という思いに捕えられてしまうことが、私たちにもあるのではないでしょうか。何故そのように思ってしまうのか。それは信仰の生活における苦しみのためだと一応は言うことができます。信仰を持てば苦しみが無くなる、などということはありません。私たちが信仰者として生きていくこの世は、楽園ではなくて荒れ野です。そしてイスラエルの民がそうだったように、神様の救いにあずかり、信仰を与えられることによって、かえって荒れ野へと導かれるということは多々あるのです。信仰者になったことによって、それまでとは別の苦しみが生じてきて、そのために与えられた信仰を喜べなくなるということが起るのです。
貪欲のゆえに
しかしここで、彼らの不平不満の言葉をさらに詳しく見ていきたいと思います。彼らは「荒れ野には食物がない、このままでは飢え死にしてしまう」と言っているのではありません。今我々にはマナばかりで、他のものが何もない。肉や魚、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが食べたい、と言っているのです。「マナ」とは、主なる神様が、荒れ野を旅していく彼らを養い支えるために毎日与えて下さっていた天からのパンです。それについては7?9節に語られています。彼らはこのマナによって、生きていくのに必要な食物を与えられ、神様によって養われていたのです。神様は彼らを、荒れ野で飢え死にさせようとしておられるわけではないのです。ところが彼らは、神様が今与えて下さっている養い、恵みに満足できないのです。それ以上のものを求めて、エジプトでの生活を懐かしんでいるのです。つまり彼らは、神様が日々与えて下さっている養い、導き、恵みを喜ぶのでなく、自分の欲望、望みや願いが叶うことばかりを求めているのです。つまり彼らが信仰の生活を喜べなくなり、それを重荷と感じてしまったのは苦しみのためだと先ほどは一応言いましたが、むしろ正確にはそれは、自分の欲望を満たしたいという貪欲のためなのです。貪欲に陥ると、欲望が満たされないという不平不満が募るのです。そして、信仰を喜べなくなり、重荷に感じてしまうのです。信仰をもってこの世を生きることに困難や苦しみがあることは事実です。しかし神様はその困難や苦しみの中でも、私たちを養い、導いて下さるのです。だから苦しみによって信仰の旅路を歩み続けられなくなることは本当はないのです。私たちが、神様の養いに、今与えられている恵みに満足できなくなり、自分の欲望によって今与えられているより以上のものを求める貪欲に陥る時に、不平不満が生じ、信仰は重荷と感じられていくのです。
執り成しをする者の苦しみ
イスラエルの民の不平不満に対して、主なる神様は当然激しく憤られました。そのために、主と民との間に立って執り成しをするモーセは大いに苦しみました。11節以下の彼の言葉には、執り成し手として立てられた者の苦しみ、つらさがひしひしと感じられます。「あなたは、なぜ、僕を苦しめられるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。わたしがこの民すべてをはらみ、わたしが彼らを生んだのでしょうか。あなたはわたしに、乳母が乳飲み子を抱くように彼らを胸に抱き、あなたが先祖に誓われた土地に連れて行けと言われます。この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか。彼らはわたしに泣き言を言い、肉を食べさせよと言うのです。わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。どうしてもこのようになさりたいなら、どうかむしろ、殺してください。あなたの恵みを得ているのであれば、どうかわたしを苦しみに遭わせないでください」。このモーセの言葉は私たちに、他者のために執り成しをするということがいかに大変なことであるかを教えています。それは神様によって他の人を重荷として負わされるようなことなのです。「この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか」というように、自分の力に余る無理難題を押しつけられるようなことなのです。他の人のために執り成しをすることには、そのような大きな苦しみが伴うのです。その苦しみを、主イエス・キリストが私たちのために負って下さいました。主イエスは罪人である私たちのための執り成しをするために、十字架にかかって死んで下さったのです。「なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか」というモーセの言葉は、そのまま十字架にかけられた主イエスの言葉だと言うことができます。主イエスが私たちという重荷を背負い、私たちの罪が赦されるために執り成しをして下さったおかげで、私たちは今、神様の恵みにあずかり、その民として生きることを許されているのです。それゆえに、教会の先頭に立つ指導者は、教会の人々のための執り成し手としての務めを、その苦しみと重荷を引き受けることが求められているのだし、さらに私たち信仰者は一人一人が、お互いのための執り成しをするという重荷を背負うことを求められているのです。
主の怒りのしるしである豊かさ
貪欲によって不平不満に陥っているイスラエルの民に対して、主がなさったことが18節以下に語られています。「民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一か月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ」。主は、「あなたたちの欲望を叶える」とおっしゃったのです。しかも一日や二日ではなく、一か月に及ぶまで肉を食べさせてやる、もう肉なんか見たくないと吐き気を催すまで…。31節以下でそのお言葉は実現しました。うずらの大群が宿営の周囲に落ち、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上二アンマ、つまり約90センチの高さになったのです。見渡す限りうずらの原です。人々はそれを終日終夜、そして翌日も集めたのです。彼らが望んでいた肉が、このようにしてまさに掃いて捨てる程に与えられました。そして彼らがそれをたらふく食い、「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに」、主は激しい疫病で民を打たれました。つまりこの大量のうずらは、主の裁きだったのです。貪欲によって不平不満に陥っている者を、主はその欲望を満たすことを通して裁き、滅ぼされたのです。自分の欲望が満たされ、願いが叶えられることは、神様の祝福の印とは限りません。かえってそれは、私たちの貪欲に対する主の怒りであり、それによって滅ぼされていく、ということもあり得るのです。このことは、今私たちの社会が抱えている様々な問題に当てはめることができるのではないでしょうか。例えば原発の事故にしても、私たちが豊富な電力による経済的発展、豊かさを求める貪欲に生きてきた、その願いが叶えられ、原発大国となることができたのです。そしてそのために、あの事故によるとりかえしのつかない状況が起ったのです。
執り成し祈る者として
しかし私たちはこのことを信仰の問題として捉えなければなりません。先ほどから見ているように、貪欲とは、神様が今与えて下さっている恵み、養い、導きに満足せず、それ以上のものを求めることです。つまり貪欲の反対は「がつがつ欲しがらないこと」ではなくて、「神様が与えて下さる養いに満足すること」なのです。貪欲は、それを抑えようとして抑えられるものではなくて、神様が与えて下さるものに満足することを知ることによってこそ克服されるのです。つまり、神様の恵みを感謝し、喜んで生きる神の民、信仰者こそが、貪欲から本当に解放されて生きることができるはずなのです。それゆえに、貪欲に支配され、それゆえに不平不満に満ちているこの社会において、神様の恵みに感謝して生きることを知っている信仰者が存在していることの意味は大きいのです。信仰者は、世の人々に、貪欲から解放されて生きる喜びを示し、人々が貪欲から解放されるために神様に執り成し祈る役割を与えられているのです。
34節にあるように、この場所は「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」と呼ばれるようになりました。私たちは、約束の地へと歩む信仰の旅路において、貪欲を葬り、新しく歩み出していかなければなりません。私たち自身がもしも、他の人々と同じように貪欲に陥り、恵みを喜ぶのでなく不平不満ばかり言うようになり、主の裁きによって貪欲の墓に葬られてしまうなら、この社会が貪欲から救われる道は閉ざされてしまうのです。
民の指導体制
さてこの11章にはもう一つのことが語られています。先ほどのモーセの祈りに答えて、主なる神様が、イスラエルの民の長老たちのうちから七十人を、モーセの補佐役として立てて下さったことです。17節の後半にこうあります。「そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる」。つまりこの七十人は、モーセと共に民の重荷を背負い、執り成しをする者として立てられたのです。ともすれば貪欲に陥り、神様の恵み、養いを喜ぶのではなく、自分の欲望を追い求めていく民の罪が、その先頭に立ち、指導していく長老たちの執り成しによって背負われ、執り成され、正されていく、神の民におけるそういう指導体制を、主が整えて下さったのです。
そしてさらに24節以下には、立てられた長老たちに、モーセに授けられている霊の一部が与えられたと語られています。その霊を受けた彼らは「預言状態になった」と25節にあります。「預言状態」とは、神様の霊を受けて、み言葉を語る賜物を与えられた状態です。モーセと共に民の重荷を担うこと、貪欲に陥りがちな民のための執り成しをすることが彼らの使命です。その使命を果たすために、モーセに与えられていた神様の霊の賜物が彼らにも分け与えられたのです。民のための執り成しをするために立てられる指導者たちに、神様はこのように、神様の恵みを証しし、み言葉を語る賜物を、聖霊によって与えて下さるのです。
主の民すべてが預言者に
さらに26節以下には、臨在の幕屋にいるモーセのもとにまだ来ていなかった二人の長老たちにも霊が与えられ、預言状態になったことが語られています。モーセの従者ヨシュアは、長老たちの執り成しの働きは、モーセの下で、その指導によってこそなされるべきだと考えて、この人たちが預言することを禁じるようにモーセに願いました。民の指導体制における秩序を守らなければ、と彼は考えたのです。それに対してモーセは29節でこう言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。「主の民すべてが預言者になればよいと切望している」、それは、全ての信仰者が、神様の恵みを力強く証しし、み言葉を語り伝えていく者となることを望んでいる、ということです。モーセは、七十人の長老たちだけでなく、全ての信仰者が聖霊の賜物を与えられて、民の重荷を共に背負い、互いに執り成し祈りつつ生きる者となることを願っているのです。執り成しの祈りや働きは、特別に立てられた一部の指導者たちのみのものではありません。もちろん群れの先頭に立てられた指導者がそのことを特に努めなければならないのは言うまでもありませんが、願わしいのは、神の民の全てが、お互いどうし執り成し合いつつ歩むことなのです。それによってこそ、神の民は貪欲の罪から解放されていくのです。
しかしここでは、預言状態の賜物が続くことはなかった、と語られています。主が霊を授けて下さり、主の民すべてが預言者になる、そのことは、あのペンテコステの出来事において、聖霊が弟子たちに降り、教会が誕生したことによってこそ実現したのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第2章14節以下はそのことを、ヨエルの預言の成就として語っています。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。教会の誕生において、この預言が実現したのです。主が教会に与えて下さっているこの聖霊の賜物によって、私たちが互いに執り成し合い、重荷を負い合いつつ信仰の旅路を歩むことによって、私たちは貪欲から解放され、貪欲の墓を後にして、約束の地へと前進していくことができるのです。