主日礼拝

祈ることができる幸い

「祈ることができる幸い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章5-15節  
・ 讃美歌:14、120、512

祈ることができる幸い?
 「祈ることができる幸い」という題でお話をします。しかしお話をする前に私はむしろ皆さんに問いかけてみたいという思いがあります。「祈ることができる幸い」というこの題は、皆さんの耳にどのように響いているのでしょうか。この題を皆さんはどう感じておられるのでしょうか。
 洗礼を受け、クリスチャンとして歩んでおられる方々の多くは、「ああその通りだ、祈ることができることは本当に幸いなことだ」と思っておられるのではないかと思います。つまりこの題はクリスチャンにとっては特に不思議でも何でもない、当然のことなのです。でも中には、自分は洗礼を受けているけれども、「祈ることができる幸い」ということはあまり意識していない、教会の礼拝や集会では必ず祈りがなされるし、祈ることが大事だ、ということはよく言われるけれども、正直なところ祈ることが幸いだとはあまり思ったことがない。むしろ「祈らなければならない」という義務感が先に立ってしまって、そこに幸いや喜びはあまり感じていない、と思っている人もいるだろうと思います。クリスチャンだからといって、「祈ることができる幸い」をはっきりと感じているとは限りません。まして、教会に通っているけれどもまだ洗礼を受けてはおられない方々はそうでしょう。礼拝で聞く聖書のお話しにはいろいろ感銘を受けるが、祈ることはしたことがないし、それが幸いだというのはよく分からない、という方が多いだろうと思います。そしてさらに、今日初めて教会の礼拝というものに出席した方や、教会に来られて間もない方、つまりキリスト教の教えにあまり触れたことのない方々には、「祈ることができる幸い」という題はピンと来ないのではないでしょうか。そもそも「祈ることができる」ってどういうことかが分からないし、そこに「幸い」がどう結びつくのかも分からない、という方が多いのではないだろうか。こういう題を掲げておいてこんなことを言うのは無責任かもしれませんが、正直そう思っています。でも、この題を見て、ここに自分の全く知らない新しい幸いが、幸せがあるのではないか、そういう漠然とした憧れを抱いてこの礼拝に来られた方がもしおられたら、それは本当に嬉しいことです。

大切なこととして願い求める
 最近どこかで、「あなたは今何を祈るか」という問いかけがなされているのを読みました。それは具体的には、「東日本大震災を経た今、あなたは、私は、何を祈るか」という問いです。この問いには、祈ることが世間において普通どのように理解されているのかが特徴的に現れていると思います。つまり、何「を」祈るかという、祈りの内容にもっぱら関心が集まるのです。そこにおいて「祈る」ことの意味は、「大切なこととして願い求める」というようなことでしょう。ですから先ほどの問いは「東日本大震災を経た今、私たちは何を大切なこととして願い求めていくべきなのだろうか」という意味なのです。「祈る」とは「大切なこととして願い求める」ことだ、それが私たちの生きている日本の社会における一般的な捉え方なのだと言えるでしょう。つまり「祈る」とは「祈願する」ことなのです。日本において、多くの人々が祈る姿が見られるのはお正月の初詣です。そこでなされていることはまさに「願い求めること、祈願」です。新しい年の自分や家族の幸せや、願っていることの実現を求めて祈りがなされているのです。そういう祈りにおいて大事なのは祈る内容であって、誰に向かって祈るかではありません。初詣に行った人に、「何をお祈りしたの」と問うことはあっても、「誰にお祈りしたの」と問う人はいません。「何を」祈るかが大事なのであって、「誰に」祈るかは問題でない、意識にも上らないのです。それは当然です。「祈る」ことが「大切なこととして願い求める」という意味であるならば、祈る相手がどのような存在であるかは問題ではないのであって、自分が何かを大切なこととして願い求めていれば、それだけでもう「祈り」が成り立っているのです。まさにそこにこそ、祈ることが「できる」とか、それが「幸い」であるという言い方に対する違和感の原因があります。「大切なこととして願い求める」という思いだけで祈りが成り立つのですから、祈ることが「できない」などということはないわけです。そしてそのように何かを願い求めていることが「幸い」だとも思わないのです。願い求めていることがあるということは、苦しみや悲しみ、満たされない思いがあるからで、それはむしろ不幸なことではないかとさえ思われるのです。「祈らなければならない不幸」の方がむしろピンと来るのです。

誰に祈るのか
 「祈ることができる幸い」という感覚は、祈る相手を意識するところに初めて生まれます。「何を」祈るかではなくて、「誰に」祈るかを見つめていく時にこそ、「祈ることのできる幸い」は見えて来るのです。それは言い換えれば、祈りが、祈る相手との対話となる、ということです。「大切なこととして願い求める」ということだけで成り立つ祈りは、対話ではありません。それは願い求める自分のみで成り立つ独り言であって、相手はなくてもよいのです。「あなたは今何を祈るか」という問いにおける祈りには、相手はいりません。独り言でよいのです。そこに、聖書が教える祈りとの違いがあります。聖書においては、祈りはあくまでも対話です。対話は、相手がいなければ成り立ちません。独り言では祈りにはならないのです。ですから、「何を」祈るかの前に、「誰に」祈るのかが問題なのです。「誰に」祈るのかがはっきりしないと祈ることが「できない」のです。「祈ることができる」とは、祈る相手がはっきりと意識され、その相手と自分との間に対話が成り立つことです。祈る相手とは勿論神様です。神様がどのような方であるかが明確に意識され、神様と自分との間に対話が成り立つことによって、「祈ることができる」ようになるのです。それが「幸い」であることの理由もそこにあります。この幸いは、神様との間に対話が成り立つ、つまり神様とコミュニケーションを取ることができる幸いです。神様とコミュニケーションを持つ、キリスト教的には「交わりを持つ」などと言ったりしますが、そこにこそ、信仰を持って生きる者の幸いがあるのです。聖書の教えにおいて、信仰とは、神様とコミュニケーションを取って、対話しつつ、交わりを持って生きることです。自分一人で何かを考えて、独り言を言っていることは信仰ではないのです。信仰とは神様と共に生きることです。それゆえに祈ることは信仰の中心であり、そこにこそ信仰を持って生きる者の幸いがあるのです。クリスチャンになっていても、祈ることの喜びを感じていない、従ってあまり祈っていないという人は、信仰をもって生きることの本当の幸い、喜びをまだ知らないのです。

あなたがたの父
 「祈ることができる」とは、祈る相手がはっきりと意識され、その相手と自分との間に対話が成り立つことだと申しました。聖書はそういう祈りを教えているのです。ならば私たちが聖書に導かれて祈る相手である神様とは、どのような方なのでしょうか。私たちはどのような神様と祈りにおいて対話するのでしょうか。本日ご一緒に読む新約聖書の箇所、マタイによる福音書の第6章5節以下において、イエス・キリストがそのことを語って下さっています。ここは、祈りについての教えです。その中で主イエスは、あなたがたが祈る相手である神はこのような方なのだ、あるいは、あなたがたはこのような神に祈ることができるのだ、と言っておられるのです。そのことが最もはっきりと現れているのは8節です。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあります。主イエスはここで先ず、あなたがたが祈る相手である神は「あなたがたの父」なのだと言っておられます。そのことは本日の箇所には繰り返し語られています。9節以下で、「だから、こう祈りなさい」と教えて下さったいわゆる「主の祈り」も、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけから始まっています。あなたがたは、天の父である神に向かって、神の子として祈ることができるのだ、それが主イエスの祈りについての教えの基本なのです。

必要なものをご存じである方
 神が私たちの父であられるというのは、私たちのことを本当に愛していて下さり、養って下さり、守って下さる方ということです。そのことは「願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という言葉によって示されています。父である神は、子である私たちが願い求める前から、私たちに必要なものを全てご存知なのです。ご存知であるというのは、その必要なものを必要な時にちゃんと与えて下さる、ということです。人間の父も、父だけでなく母もですが、子供のことを本当に愛しており、子供が願わなくても、今この子に何が必要なのかをいつも考えており、その必要なものを必要な時に与えるものです。必要でないもの、子供のためにならないものは、どんなに子供が欲しがっても与えない、それが本当に子供を愛している親です。私たち人間の親は、そのようでありたいと願いつつも、間違ってしまうことがあります。本当に必要なものではなく、よくないものを一生懸命与えてしまったり、欲しがる子供に根負けしてつい甘やかしてしまったり、また与えるべき時を間違えてしまうことがしばしばです。しかし天の父である神様は、私たちに本当に必要なものを正しくわきまえておられ、そしてそれを本当に必要な時に与えて下さるのです。そのように、私たちのことを本当に愛して下さっているのです。私たちはそのことが分からないことがあります。子供が、親に何かをおねだりして、でも買ってもらえなくて親を恨んでしまい、お父さんもお母さんも自分のことを愛してくれていないんだと思ってしまうように、神の愛を疑い、むしろ神は自分に意地悪をしていると思ってしまうことがあるのです。特に、いわれのない苦しみ、いわゆる不条理を体験する時に私たちは、神が自分を愛しているなんて嘘だ、神の愛などいったいどこにあるのか、と感じます。そういう苦しみの中にある人に対して軽々しく、「神様はあなたに一番必要なものを与えて下さっているのだ」などと言うべきではないでしょう。それは他人が言うべきことではなくて、本人がそのことを知る時が来るのを待つしかないのです。しかし一つだけ言えるのは、神様は、独り子であるイエス・キリストを私たちに与えて下さった方だ、ということです。神の子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。私たちが罪の支配から解放されて、神様をも隣人をも愛する者として生きるために、神様は独り子の命を犠牲にして下さったのです。そこに、私たちを子として愛し、本当に必要なものを与えて下さった神の愛があります。主イエスがここで、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とおっしゃり、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけて祈ることを教えて下さっていることの前提には、これからご自身が私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さろうとしていることがあるのです。

異邦人の祈り
 このように主イエスは、「あなたがたは、本当に愛して下さっており、必要なものを与えて下さる父である神に祈ることができるのだ」と言っておられるのですが、そのことは、そうでない祈りとの対比の中で語られています。7節に「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」とあります。異邦人というのは、神様の民であるユダヤ人でない人々のことで、この文脈で言えば、自分たちを本当に愛して下さっており、必要なものを与えて下さる父である神を知らない人々です。その人々の祈りは「くどくどと述べる」「言葉数の多い」祈りとなっているのです。それはここに語られているように「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」からです。くどくどと、言葉数多く祈るというのは、要するに熱心に何度も何度も祈り、お願いする、ということです。そうすれば聞き入れられる、つまり願いが叶うだろうということです。簡単に言えば、一度だけお願いするよりも、何度もお願いした方が叶えられるのではないか、ということです。それは「祈願」において普通になされていることです。日本にも「お百度を踏む」という言い方があって、本当に叶えてもらいたい願いのある人は百度お参りをするのです。そのくらいすれば、神仏にも思いが通じるだろうということです。主イエスは、そのような祈りは異邦人の祈り、まことの神を知らない者の祈りだ、あなたがたは彼らのまねをしてはならない、とおっしゃり、その理由として先程の8節の「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」が語られているのです。

神との信頼関係
 異邦人の祈りとあなたがたの祈りとの違いの根本は何でしょうか。「あなたがたは異邦人のようにくどくどと言葉数多く祈る必要はない。なぜならあなたがたは、必要なものを全てご存知である父である神に祈っているからだ」と主は言っておられます。つまり両者の違いの根本は、祈っている相手である神との信頼関係です。何度もお願いしないと聞き入れてもらえないのではないか、という思いで言葉数多く祈る、それは、祈っている相手である神を信頼できていないのです。神が自分のことを本当に愛しているのかどうか、確信が持てないのです。いやそもそもその神と自分との間につながりがない、言ってみれば面識がないのです。面識のない偉い人に何かをお願いしているようなもので、だから何度もしつこいぐらいにお願いして、自分のことを覚えてもらい、自分の願いを知ってもらわないとならないのです。それが異邦人の祈りです。その祈りは、祈っている相手との面識、交わりがないという点で、「大切なこととして何かを願い求める」という自分の思いのみによって成り立つ祈りと同じです。祈っている相手を意識しておらず、面識もなく、従って勿論信頼関係もないのです。それに対して、主イエス・キリストが教えておられる祈りは、祈る相手である神様をはっきりと意識している祈りです。私の弟子であるあなたがたは、自分のことを本当に愛していて下さり、何が必要なのかを全てご存知であり、それを必要な時に与えて下さる天の父である神を知っている、その神と面識を持っており、その方との信頼関係の中で祈ることができる、そこにあなたがたの幸いがあるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

願う前から
 その信頼関係を明確に表しているのが、「願う前から」という言葉です。私たちがお願いする前から、父である神は私たちに必要なものをご存知であり、それを用意し、与えて下さるのです。「だったら祈らなくてもよいということではないか」と思うかもしれませんが、それは天の父である神様との信頼関係を無視した考えです。愛してくれている、祈ってお願いしなくても必要なものを与えて下さる、そういう信頼関係があるからこそ、私たちはその神様に向かって安心して、どんなことでも、語り掛けていくことができるのです。神様と対話することができるのです。コミュニケーションを取れるのです。人間関係だってそうでしょう。信頼しているから口をきかなくてもよい、ということではありません。信頼があるからこそ、豊かに語り合うことができるのです。そしてそこに、大きな喜びが与えられるのです。「祈ることができる幸い」とは、この、神様との信頼に満ちた語り合い、交わりの喜びなのです。

偽善者の祈り
 さて本日の聖書箇所の前半、5節以下には、祈りについての主イエスのもう一つの教えが語られています。そこにおいても、間違った祈りとの対比がなされています。5節以下で見つめられているのは「偽善者」の祈りです。偽善者の具体的な姿がこのように描かれています。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。自分が祈っている姿を多くの人々に見せようとするのです。なぜそんなことをするのかというと、当時、祈ることは立派な宗教的行為として人々に尊敬されていたからです。つまり彼らは、人に見せて、褒められ、尊敬されるために祈っているのです。5節の終わりに「彼らは既に報いを受けている」とあるのは、人に褒められ、称賛を受けるという人からの報いだけで満足してしまっており、神からの報い、つまり神との関係をないがしろにしている、ということです。偽善者とはここでは、人の目、人の評価ばかりを気にして、神様のことを見ていない、神様との関係に生きていない人ということなのです。そこでは、祈りにおいても心は神にではなく人に向かっています。つまり祈りになっていないのです。あなたがたの祈りはそのようであってはならない、と主イエスは言っておられます。そして6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。自分一人の部屋で祈れ、と主イエスは言っておられます。それは人の目のない所、ということです。人の目を避け、ただ神様だけが見ておられるところで祈りなさい、それは、心が人の方に向かうのでなく、神様に向かい、神様との対話、交わりが生まれるためです。

神の眼差しと人の目
 ここに教えられているのも、根本的には先程と同じように、神様との信頼関係の中で祈ることです。神様との信頼関係は、人の目を気にしている所では得られません。父である神様は「隠れたところにおられる」のです。それは、誰も見ていない、人の目から解放されている所でこそ、神様が私たちに出会い、語りかけて下さるということです。その神様は、「隠れたことを見ておられるあなたの父」でもあります。神様は、人に見せている私たちの姿ではなくて、誰も見ていない、人の目には隠されている姿を見ておられるのです。良いことも悪いことも全てです。それはとても恐ろしいことでもありますが、しかしその神様は独り子イエス・キリストを私たちのためにこの世に遣わして下さり、その十字架の死によって罪を赦し、救いを与えて下さった方です。独り子をも与えることによって私たちをご自分の子として迎えて下さる深い愛と憐れみの眼差しで、神は私たちを見つめておられるのです。私たちはこの神の愛に信頼して、自分の弱さも罪も、全てをさらけ出して祈ることができます。それが神様との信頼関係ということです。そして神様との間にそういう信頼関係があるなら、人の目、人の評価を気にして一喜一憂することはなくなるのです。人に見てもらおうとして何かをする必要はなくなるのです。人が褒めてくれようが、けなされようが、神様は天の父としての愛の眼差しをもって私たちを見つめて下さっています。この父なる神様の愛に信頼して生きることができるなら、私たちは、人の目に左右されることから解き放たれます。人間関係の中で揺れ動く私たちの人生に、ぶれない軸が与えられるのです。これもまた、神様に信頼して祈ることができるところに与えられる幸いなのです。

祈ることができる幸い
 何かを大切なこととして願い求めるだけの独り言の祈りは、私たちの人生を新しくすることはありません。独りであれこれ考えていても変わることはできないのです。独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死によって私たちの天の父となって下さった方を祈る相手としてしっかり見定め、この父なる神に語りかけ、この方との交わりに生きるようになることによってこそ、私たちの人生は新しくなります。願う前から私たちに必要なものをご存知であり、それを与えて下さる父なる神の愛に信頼して、どんなことでも神に語りかけ、願い求め、ある時は文句を言い、愚痴をこぼし、しかし神のみ心を常に求めつつ神と共に生きていく、そういう幸いがそこに与えられていきます。それこそが、祈ることができる幸いなのです。

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