主日礼拝

おもいやり

「おもいやり」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第46編1-11節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第1章23-24節  
・ 讃美歌:210、353、540

 本日の説教の箇所を、コリントの信徒への手紙二の1章23節から24節と致しました。新共同訳聖書では、この23節から始まる段落は、2章の4節までつなげて書かれています。この段落をあえて区切ったのは、実は、このとても短い23節と24節に、パウロの信仰者としてのとても重要な反省が描かれているからです。そしてまたそこには、パウロがコリント教会の信仰者に対して伝えなくてはいけない重要な事柄が示されています。この手紙は、コリントの教会の人々に書き送られた手紙ですが、今日、私たちはこの手紙を手に取り読んでおります。パウロは、当時この手紙をコリントの人だけに向けて書いた個人的な手紙と考えていかも知れません。しかし今この手紙は全世界で聖書として読まれています。もはやこの手紙は個人的なやりとりをしている手紙でなく、わたしたちにキリスト者全員とって、大変意味のある手紙となっています。ですから、今日私たちはこの手紙の言葉を、ただパウロとコリントの信徒のやりとりとしてではなく、神様がわたしたちに向けられた言葉として聞いていきたいと思います。

 1章23節を見て、わたしたちは驚かされることがあります。それは「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが」というパウロの言葉です。この言葉は大変インパクトのある言葉です。神様を証人にまでして、そして自分の命にかける。それほどの重要な事柄あったのでしょう。そして誓いとは一体何なのかということが気になります。まずその誓いが何に関係しているのかと言うと、それは単純な事柄と関係しています。それはパウロがコリントに行くか行かないかということです。「なんだそんなことか」と思う人もいるとおもいます。たかが教会を訪問するか、しないかという問題で、いちいち命をかけてちゃ、いくつ命があってもたらなくなりそうだと思ってしまいます。では、なぜ、パウロはこのコリントに行くか、行かないかということに対して、神様に誓い、命にかけて誓うとまで言ったのでしょうか。
 その誓いの背後には、色々な事情があったことが推測されています。パウロがコリントに行く事で、コリントの教会では喜ぶ人もいるが、パウロが来ることをあまり望んでいない人もいたようです。それは、この手紙の1章17節に書いてあるように、パウロのことを『「然り、然り」が同時に「否、否」となる』ようなことを言っている、言い換えると、パウロのことを「二枚舌を使うような信頼出来ない人である」と、そのように考えている人がどうやら教会の中にいたようです。 パウロの訪問の日程に不満なのか、訪問する教会の順番に不満なのかはわからないが、パウロが自分勝手にその訪問を計画したと考え、その計画に対してと、計画を立てたパウロに対して、快く思わない人がいたようです。
 しかし、パウロは、この計画は自分勝手な思いや考えで立てたのではないことを、今日読んだ御言葉の前の段落で弁明しています。 パウロは、自分勝手に計画したのではなく、神様に頼ったうえで、イエス様に祈りながら決断した事柄であると考えていました。だからこの計画は、イエス様によって「然り」な事柄なのだから信じて欲しいと考えていたのです。
 このパウロのように「わたしの計画は、イエス様によって保証されている」などと宣言できる人は、わたしたちの中にいるでしょうか。だれもこんな宣言をできないと考えるのが通常でしょう。この宣言は「わたしの計画は絶対に間違いない」と言い切っているのと同じです。人が決断することで、絶対に間違いのないことなどありえません。パウロだって同じはずです。パウロであっても間違いを犯します。では、パウロのこの計画に対する自信はどこからくるでしょうか。パウロは、そう言い切れる理由は、イエス様にあるといいます。イエス様こそが、正しい人であり、神様の御心をすべて知っておられる方なので、その方にこの計画のことを祈り、この計画を委ねたのだから、たとえ自分パウロが間違った計画を立てていたとしても、イエス様が正しく修正し、導いて下さると、パウロはそう確信していたのです。
 そのように、計画に対して自信と確信を持っていたパウロですが、彼はこの計画を実行しません。計画を立てたのですが、コリントに行かなかったのです。わたしたちはそんなパウロの様子を見ると、「そんなに自信があるのならば、早くその計画を実行すればいいじゃないか」とそのように思ってしまうと思います。おそらく、コリントの人の中でも、そう考えていた人がいたのでしょう。パウロは、そのことについても弁明をしています。23節「わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」と言っています。パウロは、コリントの人たちへのおもいやりによって、コリントに行く計画をいまだに、実行していないのです。わたしたちが、コリントの人たちの立場であったとしたら、「行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」というその「おもいやり」とはなんだと考えると思います。またそこで、わたしたちは、パウロになにか「思いやられなければいけないこと」をしたのかと、考えるでしょう。この手紙を受け取ったコリントの人々も、そう思ったと思います。
 実はコリントの人々には「思いやられなければいけないこと」は、多々ありました。それは教会の中で起こっていた問題です。そのために、コリントの人々は、パウロから何度も手紙をもらっています。またそのために実際にコリントに直接きて怒られています。コリントの信徒への手紙一では、コリント教会の中で派閥をつくり、教会が分裂してしまっている問題が指摘され、また教会員同士が互いに愛し合うことなく、批判しあっている現状があったと書かれてあり、そのことでパウロに叱られ、そのために手紙を通して、愛によって一致しなさいと勧めをされていました。今までコリントに訪問してきたのも、そのような問題に対して直接、叱って対処するためだったのです。
 パウロは伝道者です。ですが、決してただ福音を宣べ伝えるということだけをしていたのではありません。パウロは、同時に教会を建てるということを考えていました。それは文字通りにただ教会堂を建てるということではありません。 神様の御言葉を通して、キリスト者一人ひとりが、キリストの体として、イエス様を通してなされた十字架の救いと復活の恵みを自覚し、悔い改めて、感謝し、イエス様と結びつき、神様と共に歩み、神様を信じ頼り委ねて生きる。そのように教会に集う信仰者全体が、それを信じて生きる。それは言葉を換えると、信仰者一人ひとりが神様のものになるということです。それが「教会が建つ」ということです。この「教会が建つ」状態を、阻む考えや、間違った方向に導く教え、教会を建たなくさせる悪い慣習に関しては、パウロは時に、勧告をしなければなりません。今回の訪問でも最初は、パウロは勧告をするために行くと考えていたのでしょう。しかし、この手紙を書く時までに、彼の中で反省があったのだと思います。コリントで起きた問題に対して、直ぐにでも訪問して叱ったほうが良いパウロは考えていたのでしょう。しかし、パウロはその考えを改めました。それはなぜなのかというと、この「おもいやり」という言葉に、その理由があらわれています。この「おもいやり」という言葉は、原語を見ると、「許す」と訳すこともできる言葉です。パウロは、今までは、間違った行いをしている教会を見ると、それは間違いで直ぐにやめなさいと勧告することが大事だと考えていました。その勧告で、教会が正しい方向に向き直ると思っていたのでしょう。しかし、パウロは、何度の訪問や、何回かの手紙で同じように勧告しても、一向に良くならない教会の姿を目の当たりします。その時、パウロは、その相手である教会が悪いのだと考えるのではなく、自分の方に問題があるのではないかと考えたのです。そのようにして自分を見つめなおすと、自分には相手を「許す」という気持ちなしに、「なになにすることはやめなさい」と勧告ばかりしていたということに気づいたのです。実は、わたしたちも時に同じことしてしまっていると思います。教会中でも、正しくないことをする人と遭遇します。その時、わたしたちは直ぐにそれを、正そうとして、注意をしたりもします。そのような勧告することや注意をしたりすることは、ダメなことではありません。しかし、そのように直ぐ注意するわたしたちは、自分がダメだった頃に、じつは許されて生かされていたことを忘れています。パウロも、自分が許されるものであるということを、忘れていました。彼は元々キリスト者を迫害する人でした。ただ一人のユダヤ人であり、律法に従うだけであって、自分は正しいのだと思い、神様の御心に真っ向から反対していました。ですが神様は、パウロに対して、彼がキリスト者を迫害している最中も、その前からも、彼を赦しておられた。そのかん、長い間、ずーっと神様は忍耐をして、パウロが神様の方を向く、その時を持っておられました。そして、最もふさわしい時に、主イエスキリストと出会わせ、彼を主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者になさいました。わたしたちも、この同じ神様の忍耐とゆるしに与って、キリスト者となりました。パウロは自分がこのように神様に忍耐されてゆるされたものであったことを思い出し、すぐさまコリントに行く計画を中断しました。なぜならば、コリントの人々に、まず自分がこの「ゆるされた」という経験を持っているということを知って貰いたかったからです。ですから、パウロは直ぐにコリントにいくのではなく、このようにして手紙を書き送りました。神様を証人にして、命にかけて誓いたかったのは、この「ゆるし」を神様から頂いている、そのゆるしをわたしは持っているということです。わたしたちも、そのゆるしを、頂いております。イエス様が十字架で血を流しながて、死をも忍耐してくださった。そのことを通して与えられた、「ゆるし」にわたしたちは生かされています。このゆるされている経験から、わたしたちは人をゆるします。パウロは自分がゆるされているから、同時に自分は許さねばならないものであることを知りました。わたしたちも同じです。
 パウロは24節で「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはない」といっています。ゆるしのない勧告や注意は、人を支配することになるでしょう。ただ人を注意したのであれば、注意された人は恐れによって、その勧告に従うだけです。それは、恐れによって支配していると言えるでしょう。信仰の事柄でもそうです。ただ単に注意したのであれば、注意された人は、今度は注意されるのは嫌だから、怒られるのは嫌だから、怖いから従おうとするだけです。ゆるされたものとしての自覚がない者の注意は、人を支配するものになってしまいます。パウロはそのことに気付き、悔い改めて、わたしはあなたがたの信仰を支配するつもりはないと弁明しました。パウロは信仰を支配するつもりはなく「むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。」と言っています。わたしたち信仰者は、教会においてなにをするのかと言えば、信仰の支配者になるのではなく、隣人の喜びのために働くのです。ではその喜びのためとはどういうことでしょうか。喜びとは、根本的には、神様がわたしたちを赦し、救って下さったということ関係しています。わたしたちを「赦す」ためにイエス様は十字架にかかってくださり、またイエス様が復活させられたことによって、わたしたちに永遠の命に与ること約束してくださり、わたしたちに希望をも与えて下さいました。この神様の恵みが、わたしたちの喜びです。このゆるしと救いの福音を耳にする時にわたしたちは喜びます。ですから、わたしたちが「喜びのために働くこと」とは、「福音を隣人と共有する」ということです。福音を喜ぶことができるのは、その福音を信じているからでしょう。ゆるしと救いと復活の希望を信じているから、わたしたちは喜ぶことができます。兄弟姉妹と喜ぶことができるのは、兄弟姉妹が福音を信じているからです。それは言葉を換えると、信仰に基づいて立っているということでしょう。
 福音を共有したくても、その人が、信仰に基づいてしっかりと立っているのでなければ。それはできることではありません。信仰がぐらついている時、わたしたちは神様の御言葉をしっかりきくことができなくなります。もし、兄弟姉妹が、信仰にしっかり立てていないのであれば、そこでゆるしと寛大さをもってサポートする。その働きも、「喜びのために働く」ということの一つでしょう。信仰にしっかりと立った者同士で、はじめて、共に励まし合い、共に福音を聞き、お互いの喜びを増していくことができるのです。
 しかし、この話を聞くと「あぁ。わたしは、信仰に基づいてしっかりと立っているなんて言えない。そんなふうに、しっかりと信仰生活を送れていない。ましてや、となりの人をサポートすることなんてできない」と思う人がいるでしょう。信仰者と呼ばれるものは、だれでも、神様を信じきっていて、いかなる時も神様だけを見つめて歩むものだろうと、そうわたしたちは思います。確かにそれは、わたしたちの理想です。そのようになりたい、「いかなる時も神様だけを見つめて歩むもの」になりたい、とわたしたちは憧れます。しかし、「わたしは、神様のために熱心に生きてはいない、愛する人のためにもしっかりと仕えることもできない」とそのように嘆く、わたしたちの現実が有ります。そのようにわたしたちが嘆いてしまうのは、わたしたちが「神様のために隣人のために熱心に生きること」が「信仰にしっかりと立つことである」と勘違いしているからでしょう。
 わたしたちは、愛する人のために生きたいと思って、その人のためにとやっていたことが、逆にその人を傷つけ、悩ませることがあります。わたしたちは、神様のためにと熱心に生きていたが、いつの間にか、その熱心さだけに囚われ神様を忘れ、ただ熱心になっていることがあります。
 わたしたちは愛する人のために、熱心に生きていたが、その熱心さによって、相手をちゃんと見ることができなくなることがあります。 そんな時にわたしたちは、「わたしはこんなに愛しているのに、わたしはこんなに尽くしているのに、わたしはこんなに奉仕しているのに、あなたはなにも応えてくれないと」と心の中に、不平不満が出てきます。 この時はもう、相手を見ているのではなく、「熱心な自分」にしか目がいかなくなっています。そして、その熱心さはやがて、報われないという現実を前にして、枯れ果てて行きます。
 信仰にしっかりと立つというのは、このように熱心に信じ、生きることなのでしょうか。それは、違います。信仰にしっかりと立つというのは、自分がなにかをして、信仰という土台の上にしがみつくことではありません。わたしたちが、信仰の上に立てているのは、わたしたちの力や行いや成果によって立てているのではありません。わたしたちがしっかりと信仰の上に立つことができるのは、わたしたちが信仰という土台から落ちないように、支えてくださっている方のおかげです。支えてくださっている方は神様です。ルカによる福音書22章でイエス様はわたしたちのために「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように」と祈ってくださいました。子なる神様が、父なる神様に信仰がなくならいように祈ってくださったのです。そのイエス様の祈りに応えて、父なる神様はわたしたちを守ってくださっています。あらゆる誘惑、わたしたちの熱心さが、わたしたちをその信仰の土台から引き釣り下ろそうとしています。しかし、父なる神様はそのあらゆる誘惑やわたしたちの間違った熱心さからわたしたちを遠ざけてくださいます。そのために父なる神様は聖霊を送り、その聖霊なる神様は、今もわたしたちを守り、導き続けてくださっています。その神様の支えの根拠には、神様のゆるしがあります。神様がイエス様の十字架によってゆるし、わたしたちを、神様のもの、神様のこどもたちとしてくださったので、わたしたちは今支え、守られ、導かれているのです。
 わたしたちが、信仰にしっかりたつことできるのは、神様に頼るときです。自分の熱心さに頼ってれば、神様にゆるされたことも忘れ、隣人の信仰は愚か自分の信仰をさえ支えることはできなくなります。わたしたちは、神様にゆるされ、信仰を保たれています。ですから、大丈夫なのです。神様からゆるされているから、わたしたちはゆるすことのできる人へと、聖霊によってわたしたちは変えられていきます。わたしたちは、ゆるしを持って、兄弟姉妹と交わって行きます。そこには、神様のゆるしに基づいた、交わりがもたれます。その交わりはわたしたちにとって喜びです。なぜならば、兄弟姉妹のゆるしを目の当たりにした時に、同時に神様のゆるしをわたしたちは知ることできるからです。なぜならば兄弟姉妹のゆるしは、神様のゆるしに根ざしたものだからです。
 今日から、わたしたちは、兄弟姉妹をゆるし、またゆるされながら、神様のゆるしを味わい、共に神様にゆるされていること、支えられていること、守られていることを、恵みとして喜んで参りたいと思います。

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