【2026年5月奨励】「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。」

  • コリントの信徒への手紙一 第12章1-3節
今月の奨励

「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。」牧師 藤掛順一
新約 コリントの信徒への手紙一第12章1-3節

最も身近な存在である聖霊を信じる
 5月24日にペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。それは弟子たちに聖霊が降った日です。聖霊を受けた彼らは力を与えられて、イエス・キリストによって成し遂げられた「神の偉大な業」(使徒言行録2・11)を語り始めました。キリストによる救いの知らせ、福音の伝道が始まったのです。それを聞いた人々が洗礼を受け、この世に、キリストの名による洗礼を受けた者たちの群れである教会が誕生しました。ペンテコステは聖霊によって教会が誕生した日です。そのペンテコステを迎えるこの5月、私たちは、聖霊のお働きをしっかりと見つめていきたいと思います。私たちは、父と子と聖霊の三者でありつつお一人であられる三位一体の神を信じています。そして私たちが受けた洗礼は、父と子と聖霊の名によるものです。このように聖霊は、父なる神、独り子なる神キリストと並ぶ神であり、私たちの信仰生活に深く関わっているわけですが、聖霊のことがよく分からない、イメージしにくい、と感じている人も多いようです。そこで、聖霊のお働きを語っている代表的な箇所を5月の聖句としました。ここを読むことによって、聖霊をさらに身近な存在として覚えると共に、聖霊を求める信仰を深められていきたいと思います。
 信仰をもって生きている私たちは皆、聖霊のお働きを受けています。そのことをはっきり語っているのが、5月の聖句とした3節の「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」です。私たちが「イエスは主である」と言っているならば、つまり「主イエス・キリスト」を信じているならば、既に聖霊のお働きを受けているのです。聖霊は私たちに、イエス・キリストを信じる信仰を与え、「イエスは主である」という信仰の告白を与えて下さるのです。その信仰を告白した者に洗礼が授けられるのですから、私たちが洗礼を受けて教会に連なっているのは聖霊のお働きによることです。だから聖霊は、全ての信仰者にとって、本来最も身近な存在なのです。聖霊は、イメージしたり感じたりする前に、先ずこのことを信じることが大切なのです。

「イエスは呪われよ」と言っている人々の中で
 しかしこの5月の聖句は3節の後半です。前半に語られていることにも目を向けたいと思います。「そこで、あなたがたに言っておきます。神の霊によって語る人は、誰も『イエスは呪われよ』とは言わず、」とあり、これに続いて「また、聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」と言われているのです。つまり3節には、「イエスは主である」という信仰の告白の言葉と、「イエスは呪われよ」という信仰に敵対する言葉が共に語られています。そして前半には、「神の霊によって語る人」は「イエスは呪われよ」とは言わない、と語られています。ということは、神の霊によって語っていない人は、「イエスは呪われよ」と言っているのです。神の霊を受けていない多くの人たちが「イエスは呪われよ」と言っている中で、神の霊は、それとは違う言葉を私たちに与えるのです。それが「イエスは主である」という信仰の言葉です。その言葉は、聖霊によらなければ誰も語ることはできない、と後半に語られているのです。このようにこの3節において見つめられているのは、多くの人たちが「イエスは呪われよ」と語っているこの世において、聖霊を受けた私たちだけは「イエスは主である」という信仰の告白を与えられている。それは「霊の賜物」(1節)であり、「神の霊」「聖霊」が働いて下さらなければ誰もこの信仰の言葉を語ることはできない、ということなのです。
 多くの人たちが「イエスは呪われよ」と言っている、とはどういうことなのでしょうか。2節にこうあります。「知ってのとおり、あなたがたは、まだ異邦人だったとき、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれました」。あなたがたは以前は「ものの言えない偶像のもとに連れて行かれ」ていた。その時にはあなたがたも「イエスは呪われよ」と言っていたのです。「イエスは呪われよ」という言葉は、「ものの言えない偶像のもと」において語られているのです。偶像の下にいる人たちは、「イエスは呪われよ」と言っているのです。それはどうしてでしょうか。

自分のための神、ものの言えない偶像
 偶像とは、人間が目に見える形に作った神ですが、その本質は、目に見える具体的な像を造るかどうかではありません。偶像礼拝を戒めている十戒の第二戒は、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」です(出エジプト20・4)。以前の口語訳にあった「自分のために」が、新共同訳ではなくなっていましたが、聖書協会共同訳でそれが復活したことを喜んでいます。ここの原文には「自分のために」という言葉があるのです。そしてそれは偶像の本質を言い表す大事な言葉です。つまり偶像とは「自分のため」の神なのです。自分の願いを叶えてくれる、自分に都合のよい神、自分が必要な時だけ拝むことができ、必要のない時には引っ込んでいてもらうことができる神、それが偶像です。それは目に見える像を作ることとは必ずしも関係ありません。像は拝んでいなくても、神を「自分のための神」として捉えているなら、つまり神とは自分の願いを叶えてくれるもので、神を拝む意味はそこにあると考えているなら、それは偶像を造っているのと同じなのです。そしてこの「自分のための神」である偶像のもう一つの特徴は、「ものの言えない」ということです。偶像はものを言うことができません。それは、偶像は「モノ」に過ぎないから言葉を発することができない、というだけのことではありません。「ものを言う」とは、私たちに対して、苦言を呈したり、罪を指摘したり、悔い改めを求めることです。要するに私たちにとって耳の痛いことや意に沿わないことを言う、ということです。「自分のための神」はそういうことは決して言いません。自分のための神は自分に都合のよいことだけを語るのです。つまり「自分のため」と「ものの言えない」は根本において一つであり、それが偶像の特徴なのです。

生きておられ、ものを言う方である主イエス
 しかし主イエス・キリストは「自分のための神」ではありません。私たちの願いを叶えてくれるだけの都合のよい神ではなくて、ご自身の意志によって、私たちの思いや願いとは違うみ業をなさる神です。私たちが必要だと思う時だけお出まし願えるような方ではなくて、常に共におられ、私たちの思いや行いを見ておられる方です。また主イエス・キリストは「ものの言えない」方ではありません。私たちにやさしい言葉をかけるだけではなくて、一番弟子のペトロに対しても、時として「サタン、引き下がれ」(マタイ16・23)とおっしゃる方なのです。主イエスは時として私たちの罪を指摘し、厳しく叱責し、悔い改めを求めるのです。もちろんその土台には、主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことがあります。主イエスは私たちを罪人として断罪して滅ぼそうとしているのではなくて、そのことを通して私たちを神のもとに立ち帰らせ、神との正しい関係を回復させて、救いにあずからせようとしておられるのです。まことの救い主であられる主イエスは、私たちにとって、自分の都合のよい時だけ取り出して拝み、必要のない時には引っ込んでいてもらうことができるような「自分のための神」ではありません。主イエスは生きておられる神として常に私たちに「ものを言う」方なのです。

「イエスは呪われよ」と言っていた私たち
 従って、自分のための、ものの言えない偶像を拝むことと、主イエスを信じて生きることは両立しません。主イエスを信じて生きる者は偶像の下で生きることはできないし、偶像を拝んでいる者にとっては、自分の思い通りにならず、自分の意に沿わないことを語る主イエスは敵なのです。だから、ものの言えない偶像のもとにいる人々は「イエスは呪われよ」と言うのです。自分の願いを叶えようとせず、意に沿わないことを言うイエスなど糞食らえ、ということです。この世の多くの人々がそのように思って生きているのです。2節には「誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれました」とあります。この世には、私たちを自分のための神、ものの言えない偶像のもとへ連れて行こうとする誘惑が満ちています。自分の願いを叶えてくれる自分のための神、自分の意に沿わないことは決して言わない神の方が魅力的に感じるのです。だからこの世の多くの人々は偶像の神のもとで「イエスは呪われよ」と言っているのです。かつて私たちもそうでした。生まれつきの私たちは皆、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれ、「イエスは呪われよ」と言っていたのです。

異邦人から神の民への人生の大転換
 しかし、かつてそのように言っていた私たちが今、「イエスは主である」と言う者となっています。私たちは、人生の大きな転換を体験しているのです。自分の願いを叶えてくれる自分のための神、自分の意に沿わないことは決して言わない都合のよい神のもとを離れて、自分の願いを叶えてくれるわけではない、ご自分の意志によって行動し、私たちの罪を指摘して悔い改めを求める方であるイエス・キリストを、自分の主として受け入れ、従っていく者となる、という大きな転換です。私たちが自分の決心、決断によってそのような転換をしたのではありません。それは聖霊の働きです。聖霊によって、「イエスは呪われよ」と言っていた私たちが「イエスは主である」と言う者へと変えられたのです。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」という3節後半だけを読むと、神を信じることとは無縁に生きていた、つまり主イエスを信じてもいないが敵対してもいない無色透明だった私たちが、聖霊によって「イエスは主である」ことを知らされ、信じるようになった、と思ってしまいがちです。しかし前半を共に読むならば、「イエスは主である」という信仰の言葉は、何も信じておらず無色透明だったところに与えられたのではなくて、自分のための、ものの言えない偶像の下で「イエスは呪われよ」という思いで生きていた私たちが、聖霊によって人生の大転換を与えられて、この信仰の告白を与えられたのだ、ということが分かるのです。
 そのような人生の大転換が起っていることを語っているのが、「あなたがたは、まだ異邦人だったとき」という2節です。あなたがたは以前は異邦人だった、しかし今は異邦人ではなくなった、と言っているのです。異邦人ではなくなって何になったのか。「神の民」になったのです。異邦人とは神の民でない人々のことです。異邦人から神の民へという大きな転換が、「あなたがた」つまり信仰者たちには起ったのです。かつて異邦人だった私たちは、ものの言えない偶像のもとで、「イエスは呪われよ」と言っていました。しかし今は神の民となり、「イエスは主である」という信仰に生きている。その大転換をもたらしたのが聖霊です。聖霊の働きによって私たち信仰者は、新しい人生を歩み始めているのです。

生まれ変わらせて下さる聖霊
 ですから聖霊は、私たちに、「イエス・キリストこそ神の独り子であり救い主である」ことを単に「分からせ、信じさせて下さる」方なのではありません。「分からせ、信じさせる」というのは、私たちの側の「認識」に関わることです。平たく言えば、私たちが主イエスとそのみ言葉、み業をどのように捉え、そこに神のどのような救いが実現していると考えるか、という話です。聖霊は、主イエスによる救いについての私たちの「捉え方、考え方」を導くのではありません。いやそれも導いて下さるけれども、聖霊は私たちをもっと根本的に新しくして下さるのです。異邦人だった私たちを神の民として下さるのです。聖霊の働きを受けることによって私たちの「捉え方、考え方」が変わるだけでなく、私たちの本質が、「自分は何者であるか」が変わるのです。それまでの私たちは、自分のための、ものの言えない神を求め、自分の意に沿わぬ神などいらない(呪われよ)と思っていました。それはつまり自分を主として生きていたということです。しかし今私たちは、「イエスは主である」という信仰に生きています。自分が主なのではなくて、イエス・キリストこそが主であり、自分は主イエスに従う者として生きているのです。自分の本質(自分は何者であるか)が、「異邦人」から「神の民」へと変わったのです。聖霊はそのように、私たちを根本的に新しくし、生まれ変わらせて下さるのです。

聖霊は洗礼という目に見える実りを生む
 この私たちの生まれ変わりのしるしが洗礼です。洗礼を受けることは、私たちがイエス・キリストを信じるという信仰の意志表示をする、というだけのことではありません。洗礼において私たちは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかり、罪に支配されていた古い自分が死んで罪を赦され、そして主イエス・キリストの復活にあずかって、新しい命に生き始めるのです。つまり主イエスの十字架の死と復活にあずかって、私たちも死んで復活するのです。主イエスと一体となることによって、主イエスが十字架と復活によって実現して下さった救いにあずかり、罪を赦されて新しく生まれ変わり、神の民として生き始めるのです。異邦人だった私たちが神の民となり、「イエスは呪われよ」と言っていた私たちが「イエスは主である」と言う者となったという人生の大転換が、洗礼において具体的に実現しているのです。それは私たちがそのように決意し、意志表示をすることで実現することではありません。それを実現して下さるのは聖霊なる神です。洗礼の中心は私たちの意志表示ではなくて、私たちを異邦人から神の民にして下さるという聖霊のみ業なのです。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まったことによって、人々は「イエスは主である」と信じて洗礼を受けました。聖霊が働くことによって、そこには洗礼という具体的な、目に見える実りが与えられるのです。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません」というみ言葉は、聖霊によらなければ誰も洗礼を受けることはできない、ということを語っているのです。

聖霊の働く場は教会
 そしてそれは、聖霊の働きによって教会が築かれる、ということです。ペンテコステは教会が生まれた日です。しかもその教会は、地上を歩む目に見える群れとして生まれたのです。そのことが今も、そして私たち一人ひとりにおいても起っています。自分のための神、ものの言えない偶像のもとで「イエスは呪われよ」という思いで生きていた異邦人だった私たちが、「イエスは主である」と告白して洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされ、キリストの十字架による罪の赦しと、復活による新しい命にあずかって、キリストの体である目に見える教会の一員とされているのです。聖霊はそのように私たち一人ひとりに働いて、私たちを目に見える教会に加わらせて下さるのです。つまり聖霊は、神がキリストの十字架と復活によって全ての人のために実現して下さった救いが、私たち一人ひとりに与えられ、私たちがその救いにあずかってこの世を具体的に歩んでいくことにおいて働いて下さっていますが、その聖霊が働く場は教会なのです。聖霊は私たちを教会へと導き、洗礼によって教会に連なる者として下さいます。そして教会において、「イエスは主である」という信仰を告白しつつ生きる者として下さるのです。私たちは教会においてこそ、聖霊が目に見える仕方で私たちに働いて下さっていることを体験していくのです。

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