【2026年6月奨励】「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

  • 使徒言行録 第4章5-22節
今月の奨励

2026年6月3日 昼の聖書研究祈祷会
奨励「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 牧師 藤掛順一
新約聖書 使徒言行録第4章5-22節

伝道の開始と教会の誕生は同時
 この6月は、14日に伝道礼拝が行われます。また28日の夕礼拝は青年伝道夕礼拝です。また今週の金曜日、5日には、「コロナ禍」以降中止となっていた「お昼休み教会コンサート」が再開されます。また5月に第二回が行われた「地域食堂Shiloh」も6月には第三回となり、これから基本的に毎月行っていこうとしています。伝道のための活動をこのように活発に行うことができていることを喜んでいます。教会の第一の使命は伝道です。私たちは、主イエスから託された伝道の働きをしっかり担って歩みたいのです。そのことを覚えて、6月の聖句を選びました。
 伝道は、主イエスが弟子たちにお命じになったことですが(マタイ28・19)、それが実際に始まったのは、私たちが5月に祝ったペンテコステ(聖霊降臨日)からです。弟子たちは、聖霊を受けたその日から、主イエスこそ神が遣わして下さった救い主であると力強く宣べ伝え始めたのです。それを聞いた人々が洗礼を受け、教会が誕生しました。つまり伝道の開始と教会の誕生は同じ時の出来事です。そして教会は誕生と共に、使徒たちを中心に主イエスによる救いの福音を伝道していきました。伝道の開始と共に教会は生まれ、教会はその最初から、伝道を第一の使命としてきたのです。

私たちの言葉が自然に伝道の言葉となる
 使徒言行録3、4章には、生まれたばかりの教会の伝道の様子が生き生きと描かれています。エルサレム神殿の「美しい門」のところで、ペトロとヨハネによって、生まれつき足が不自由だった人の癒しの奇跡がなされました。それに驚いて集まって来た人々に、ペトロが神殿の境内で説教しました。ペトロは、この人が癒されたのは、あなたがたが十字架にかけて殺したが、神が復活させて下さった主イエスの名によってだ、と語りました。つまり彼らは、主イエスの十字架と復活によって神が実現して下さった救いを宣べ伝えたのです。しかしこのことは、神殿の祭司たちやサドカイ派の人々を苛立たせました。彼らは、復活などない、と言っていたからです。それでペトロたちは捕えられ、留置されました。翌日彼らは、ユダヤ人の議員、長老、律法学者、そして大祭司一族の前に立たされ、尋問を受けました。そのことが本日の箇所、第4章5節以下に語られています。伝道によって起った最初の迫害です。この迫害の中でペトロが聖霊に満たされて語った8節以下の言葉も、主イエスを宣べ伝える伝道の言葉でした。伝道はこのように、捕えられ、尋問される、という迫害の中でもなされていったのです。それは、「どんな困難な状況においても伝道しなければならない」という使命を彼らがしっかり果たした、ということではありません。ペトロたちは、捕えられて尋問され、それに答えたのです。その言葉が、主イエスによる救いを証しする伝道の言葉となったのです。主イエスを信じて生きているなら、そこで起こる様々な出来事の中で私たちが語る言葉は、自然に、伝道の言葉となるのです。

見聞きしたことを語る
 どうしてそうなるのか、その秘密を語っているのが、今月の聖句とした20節です。「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」。ペトロたちは、自分たちの見たことや聞いたことを話したのです。目撃したことを証言したのです。そうしたらそれが伝道の言葉となった。伝道とは本来そういうものです。伝道するというのは、何かの「考え」や「思想、主義主張」のようなものを「説明」して人々に「理解」してもらうことではありません。見聞きしたこと、つまり自分が体験したことを語ることが伝道です。だからそれは「証し」とも言われるのです。見たことや聞いたことを話すことは、特別な能力がなければできないことではありません。誰にでもできるし、誰もがしていることです。だから伝道は、信仰者なら誰にでもできることだし、誰もが自然にしているはずのことなのです。
 勿論このことには前提があります。ペトロたちは、主イエス・キリストによる救いを見聞きしたのです。だからそれを語ることができたのです。主イエス・キリストによる救いを見聞きしていなければ、どんなに弁舌の才があり、人を説得する力のある人であっても伝道はできません。伝道の言葉を語ることができるかどうかは、主イエス・キリストによる救いを見聞きしているかどうかにかかっているのです。

主イエスの名による救いの体験
 ということは、ペトロたちが語った(証しした)言葉を読むことによって、彼らが主イエス・キリストによる救いをどのように見聞きしたのかを知ることができます。本日の箇所においてそのことを見てみたいと思います。ペトロは10節以下でこう言っています。「皆さんもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリストの名によるのです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられ/隅の親石となった石』です。この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。彼が見聞きしたのは、「主イエス・キリストの名」が、生まれつき足が不自由だった人を癒した、ということです。それはペトロ自身が行った奇跡ですが、しかし彼はそれが自分の力によって実現したのではないことをはっきり知っています。「主イエス・キリストの名」こそがこの人の癒しを実現した、ということを彼は体験したのです。つまり奇跡を行った本人であるペトロも、主イエスの名によって神がして下さった癒しの出来事の目撃者なのです。
 私たちも、ペトロが目撃したのと同じことを目撃しています。私たちが洗礼を受けて信仰者となったというのは、「主イエス・キリストの名」による救いのみ業が私たち自身に起った、ということです。私たちも、その救いを自分自身のこととして目撃し、体験したのです。その体験を語っていくなら、私たちの言葉は伝道の言葉となるのです。つまり、洗礼を受けた人なら誰でも、伝道の言葉を語ることができるのです。

神の救いのみ業を担わせていただく喜び
 さらにペトロはこの時、「主イエス・キリストの名」による癒しのみ業が実現したことを目撃しただけでなく、その神のみ業の実現のために自分が用いられた、という体験をしました。それはまことに素晴らしい、喜ばしい体験です。それゆえに、捕えられ、尋問を受ける中でも、彼の言葉は喜びに満ちており、だからこそ力強い伝道の言葉となったのです。
 これと同じことを、牧師、伝道者は度々体験させていただいています。何の力もなく、清くも正しくもない自分が、「イエス・キリストの名」による神の救いのみ業を、そのほんの一端であっても、担う者とされるのです。それは本当に素晴らしい、喜ばしい体験です。そのような体験によってこそ、伝道者は育てられ、成長していくのです。このような体験を与えられる牧師、伝道者としての務めへと召されたことを私は本当に喜び、感謝しています。

主イエスの十字架と復活による救いを体験し、語る
 さてペトロは「イエス・キリストの名」による神の救いのみ業を見聞きしたわけですが、そのイエス・キリストとは「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中から復活させられたナザレの人イエス・キリスト」です。つまり彼は、イエス・キリストがユダヤ人たちによって十字架につけられて殺されたけれども、神がそのイエスを死者の中から復活させた、ということを見聞きしたのです。そのことは「あなたがた家を建てる者に捨てられ/隅の親石となった石」という詩編118編の言葉において既に語られていたことでした。人々に捨てられ、十字架につけられて殺されるイエスを、神が復活させ、救いの土台の石として下さることは、神のご計画、み心によることであり、そのことが主イエスの十字架の死と復活において実現した、ということを彼は目撃したのです。
 私たちも、それと同じ救いを自分のこととして体験しています。洗礼を受けたというのはそういうことです。洗礼を受けることによって私たちは、主イエスの十字架の死にあずかります。主イエスが私たちの罪を全て背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さって、罪を赦して下さった、その救いにあずかるのです。そして父なる神は、主イエスを死者の中から復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。洗礼を受けることによって私たちは、この主イエスの復活にもあずかり、新しい命、永遠の命を生き始めます。洗礼を受けた私たちは、主イエスの十字架と復活による救いを自分のこととして体験しているのです。そのことは私たち自身の「実感」とはなっていないことが多いかもしれません。洗礼を受ければ直ちにそういう実感が生まれるわけではありません。しかし、パウロはローマの信徒への手紙第6章11節でこう語っています。「このように、(洗礼を受けた)あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」。「考えなさい」とは「信じなさい」ということです。洗礼を受けた私たちは、自分がキリストの十字架の死にあずかって罪に対しては既に死んだ者となり、キリストの復活にあずかって新しく生き始めていることを信じて歩んでいくのです。それを信じて歩む中で、主イエスの十字架の死と復活による救いの、つまり「イエス・キリストの名」による救いの実感も次第に与えられていきます。そして私たちも、主イエスの十字架の死と復活によって実現した神の救いを証しする伝道の言葉を語る者とされていくのです。

この人による以外に救いはない
 ペトロはそれに続いて、「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と語っています。これも、彼が見聞きし、体験したことの証しです。私たちも同じことを体験しています。イエス・キリストによる以外に救いはない。私たちに救いを与えることができる名は、イエス・キリストの名以外にはない。どうしてそう言えるのでしょうか。それは、神の子、まことの神でありながら、人間となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方はイエス・キリスト以外にはおられないからです。それだけでなく、神が死者の中から復活させて下さったのもイエス・キリストお一人です。私たちはこの主イエスと結び合わされることによってこそ、罪を赦されると共に、死の力に対する神の勝利にあずかり、新しい命、永遠の命を生き始めることができるのです。洗礼において私たちが結び合わされている、十字架と復活の主イエス・キリストの名こそ、私たちに救いを与えることができる唯一の名なのです。ペトロが証ししたこのことを、私たちも体験しているのです。

無学な普通の人であっても
 ペトロが語ったことはこのように全て、彼が考えたことではなくて、見聞きしたこと、体験したことでした。だから彼は、迫害の中でも堂々と語ることができたのです。13節に「人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学な普通の人であることを知って驚き、またイエスと一緒にいた者であることも分かった」とあります。彼らは「無学な普通の人」です。二人共元々ガリラヤ湖の漁師だったのです。「語る」ことにおける特別な能力、才能があったわけではありません。しかし彼らは「イエスと一緒にいた者」でした。彼らは主イエスの弟子となって共に歩み、そのみ業とみ言葉を見聞きしたのです。そして主イエスの十字架の死と復活をも目撃したのです。正確に言えば、主イエスが捕えられ、十字架につけられた時に、彼らは主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったし、ペトロは主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったのです。しかし父なる神の力によって復活した主イエスが、彼らに出会って下さり、もう一度弟子として迎えて下さり、十字架と復活による救いにあずからせて、新しく生かして下さったのです。私たちも、洗礼において同じことを体験しています。このことを体験した者は、「無学な普通の人」であっても、つまり特別な能力やスキルなどなくても、自分に与えられた主イエスの名による救いを堂々と語ることができるのです。

神に聞き従うのか、人間に聞き従うのか
 大祭司たちや議員たちは、彼らの堂々とした証しになすすべがなく、「イエスの名によって一切話したり、教えたりしないようにと命じ」ることしかできませんでした(18節)。この脅しに対して彼らは、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください」と言いました。それに続いて語られたのが、「私たちは、見たことや聞いたことを語らないではいられないのです」という6月の聖句です。「神に聞き従うのか、人間に聞き従うのか」という厳しい問いの前に彼らは立たされています。私たちも、この世を信仰者として生きていく中で、そういう厳しい状況に立たされます。そこにおいて、「自分は人間にではなく、神に聞き従う」という道を貫き通すことは並大抵のことではありません。私たちの信仰の決意や忍耐力によってそれができるわけではありません。それが可能になるのは、「見たことや聞いたことを語る」ことにおいてのみです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを私たちが自分のこととして体験しているならば、それを語っていくことができるのです。洗礼を受けた者は、その救いを既に与えられ、その救いの中を生きています。その救いが私たちの「見たことや聞いたこと」、つまり実感となっていくように、そしてその見たことや聞いたことを私たちがそのままに語っていくことができるように、そしてその私たちの言葉が「伝道の言葉」となっていくように、と願いながら、この6月、礼拝を守り、み言葉を聞き、聖餐にあずかっていきたいのです。そしてその中でなされる伝道のための営みが主によって豊かに用いられることを祈りましょう。

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