夕礼拝

神は人を分け隔てない

説教「神は人を分け隔てない」副牧師 川島章弘
旧約聖書 エレミヤ書第31章31-34節
新約聖書 使徒言行録第10章34-48節

乗り越えなければならないこと
 使徒言行録10章を読み進めています。前回は33節までをお読みしました。そこではヤッファにいた使徒ペトロが、カイサリアにいる異邦人コルネリウスの家を訪ねた出来事が語られていました。しかしそれは決して簡単に実現した出来事ではありません。前回お話ししたように、特にペトロの側に、つまりキリスト教会の側に乗り越えなければならないことがあったからです。そのことをペトロ自身が語っているのが28節です。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました」。当時のキリスト者は、ペトロを始め、ユダヤ人からキリスト者となった人たちで、なおユダヤ人としての生き方や考え方から完全に自由になっていませんでした。そのペトロにとって、外国人、つまり異邦人と交際したり、その家を訪問したりするのは考えられないことであったのです。

神に完全に言い逆らう
 ペトロにとって、それがどれほど考えられないことであったかを示しているのが、13節以下の神様とペトロの押し問答です。ペトロは四隅でつるされた大きな風呂敷の中に、「あらゆる四つ足の獣、地を這うもの、空の鳥が入って」いる幻を見た後、「屠って食べなさい」という神様の語りかけを聞きました。それに対してペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません」と答えました。するとまた「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という神様の語りかけが聞こえたのです。こういうことが三度あった、と言われています。それは、ペトロが三回神様に言い逆らったというより、完全に言い逆らったことを意味します。そしてペトロが神様に完全に言い逆らうほど絶対できないこととは、単に汚れた生き物を食べることだけでなく、むしろ異邦人の家を訪ね、交わりを持つことであったのです。異邦人の家を訪ね、交わりを持たなければ伝道はできません。つまりペトロは異邦人への伝道を絶対にしたくない、と思っていたのです。それは、救いに関してユダヤ人と異邦人を差別していたということです。異邦人もイエス・キリストの名によって救われるべきだと想像できなかったのです。

ためらわないで
 しかし神の天使の言葉に従ってコルネリウスが派遣した人たちがヤッファのペトロのもとにたどり着いたとき、聖霊がペトロにこう語りかけました。20節です。「ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」。前回もお話ししたように「ためらわずに」と訳された言葉は、「疑わずに」とか「差別せずに」とも訳せます。聖霊はペトロに、ためらわずに、疑わずに、差別することなく、神様の御心に従い、コルネリウスの家に向かいなさい、と語りかけたのです。この聖霊の働きによって、ペトロは自分のためらいや疑いから解放され、差別や偏見を取り除かれて、神様の御心に従い、カイサリアのコルネリウスのところに向かったのです。

ユダヤ人キリスト者と異邦人が初めて共に神を礼拝する
 コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めてペトロたちを迎えました。そして33節の終わりでコルネリウスはこのように言っています。「今、私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前に出ているのです」。コルネリウスの目の前には、おそらくペトロがいたでしょう。しかしコルネリウスは「ペトロの前に出ている」とは言いません。「神の前に出ている」と言うのです。それはもちろん、ペトロを神様だと思っているということではありません。ペトロを通して神様の言葉を聞こうとしている。神様がペトロに命じられたことを残らず聞こうとしている。だから「神の前に出ている」、神様の御前に出ていると言っているのです。それは、ここで礼拝が行われようとしていた、ということにほかなりません。ここには異邦人であるコルネリウスとその親類や親しい友人がいました。ペトロに同行したヤッファの教会のメンバーもいました。本日の箇所の45節に「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆」とあるように、その人たちはユダヤ人でキリスト者となった人たちです。ですからコルネリウスの家で、ユダヤ人キリスト者と異邦人が、初めて共に神様の御前に出て、神様を礼拝し、ペトロを通して神様の言葉を聞こうとしていたのです。

ペトロの驚き
 そのようにユダヤ人キリスト者と異邦人が共に集った初めての礼拝で、ペトロが語った説教が、本日の箇所の34~43節です。その開口一番ペトロはこのように言いました。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。これはペトロの驚きの言葉です。この言葉を直訳すると、「本当に私は分かりました。神は人を分け隔てなさらないことを」となります。もちろんペトロは、神様が人を分け隔てなさらない方であることを知らなかったわけではありません。知っていました。しかしユダヤ人と異邦人の区別だけは別だ、と思っていたのです。神様ご自身がユダヤ人と異邦人を区別されているはずだ、と思っていたからです。しかしペトロは神様の御心を示され、聖霊によってその御心に従うことを通して、「神様は本当に人を分け隔てなさらない」ことを、「どの民族の人であっても」、つまり異邦人であっても、「神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」ことを、今やっと分かったのです。ペトロは使徒であり、しかもその筆頭でした。しかしその彼が、このときやっと、「神様は本当に人を分け隔てなさらない」ことを心からよく分かったと、その驚きを告げているのです。
 このペトロの驚きは自分が変えられたことへの驚きです。数日前まで、異邦人は汚れていると差別していました。しかもそれを差別だとすら思っていませんでした。自分は異邦人には絶対伝道できないし、したくないと思っていました。それなのに今、ペトロは異邦人と共に礼拝を守り、異邦人にみ言葉を語っています。その礼拝の中で、そのようにして自分が変えられたことへの驚きを、しかも自分の力ではなく、聖霊によって変えられたことへの驚きを、ペトロは語らずにはいられなかったのです。

表面的なことで人を判断する
 「神は人を分け隔てない」。それは、別の言い方をすれば、「人間の間に区別はない、皆平等である」ということです。このことは、現代の民主主義社会の土台にある基本的な原理であり、多くの人にとって、人間が皆平等であり、差別や偏見は間違っているというのは当たり前のことです。そのため私たちはペトロほどの驚きを持って、「神は人を分け隔てない」ことを受けとめられていないかもしれません。しかし当たり前であることと、それを私たちが本当に分かっていることとは別のことです。「人を分け隔てる」と訳された言葉は、もともと「顔で人を判断する」という意味の言葉です。それは、表面的なことで人を判断する、ということにほかなりません。つまりここでペトロは、神様は人を表面的なことで判断なさらない、と語ったのです。私たちも人を表面的なことで判断してはいけない、と分かっているつもりでいます。しかし実際、私たちはしばしば人を表面的なことで、たとえば生まれや学歴や社会的地位などで判断しています。当初ペトロが、コルネリウスが異邦人というだけで、その家を訪ねることを拒んだように、私たちもその人自身とちゃんと関わってもいないのに、表面的なことで判断して、その人のことを決めつけてしまうことがあります。あるいはある人と関わって、良い印象を受けるにせよ、悪い印象を受けるにせよ、その理由を生まれや学歴や社会的地位だけに求めてしまったりもします。もちろん生まれや学歴や社会的地位に意味がないと言っているのではありません。しかしもしそれらだけで相手を判断したり、相手との関わりを決めたりするなら、つまりここの生まれ、このような学歴、このような社会的地位の人とは付き合わないというように考えるなら、それは人を表面的なことで判断し、差別しているのです。それでいて私たちは、ペトロがそうであったように、それが自分の差別や偏見であることに気づけません。自分は差別や偏見を持っていないとすら思っています。しかしそのように思っている私たちが表面的なことで人を判断している。差別や偏見を抱えているのです。「平等」が社会の基本的な価値観となっている現代を生きる私たちも、実は「神は人を分け隔てない」ことがよく分かっていないのです。

共に神様を礼拝することによって
 私たちがそのことを分かるとしたら、「人は皆平等」という思想を学ぶことによってではありません。自分の努力や頑張りで差別や偏見を取り除こうとすることによってでもありません。私たちに身についた生き方や考え方は自分の力で取り除いたり、変えたりできるほど簡単なものではないからです。私たちが「神は本当に人を分け隔てない」と分かることができるとしたら、ペトロとその同行者たちが、コルネリウスとその親類や友人たちがそうしているように、共に神様の御前に出て、神様を礼拝し、神様の語りかけを聞くことによってなのです。

平和を告げ知らせる
 共に神様の御前に出ている者たちへ、ペトロは36節でこのように語っています。「神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました」。少々複雑な文章ですが、神様がイエス・キリストを通してイスラエルの子ら、つまりイスラエルの人たちに御言葉を送ったことが、「平和を告げ知らせた」と言い換えられています。「イスラエルの人たちに」と言われていることが大切です。神様は主イエスを通して、ご自分の民であるイスラエルの人たちに平和を告げ知らせました。「平和」と言われると、戦争と平和というように、戦争と対となった言葉、戦争の反対語のように受けとめやすいので、「平安」と訳したほうが良いのかもしれません。もともとの言葉は「平和」とも「平安」とも訳せる言葉です。しかし「平安」と訳すことにも問題がないわけではありません。なぜなら私たちは「平安」と聞くと、心の平安というように、自分だけの平安を考えてしまいがちだからです。自分だけの平安を考えて、相手の平安を考えないのです。しかし「平和」であれば、そもそも自分だけで成り立つものではありません。相手がいるからです。自分だけが平和ということはありえません。自分と相手との関係が、相手と自分との関係が平和であるとき、初めて平和は成り立つのです。ですからここでは「平和」と訳すので良いと思います。神様が主イエスを通してイスラエルの人たちに告げ知らせたのは、心の平安ではなく、相手のいない平和でもなく、相手のある平和なのです。

神との平和、人との平和
 神様が主イエスを通して告げ知らせた平和とは何でしょうか。それは、神様と私たち人間との平和です。私たち人間は神様に背き、神様なしに自分の力で生きられると勘違いし、自分勝手に自己中心的に生き、神様との関係を、神様との平和を破壊しました。それが人間の罪です。神様は、人間の罪によって破壊された神様と人間との平和が回復されることを、主イエスを通して告げ知らせたのです。しかしそれだけではありません。神様と人間との平和が回復されるとき、人間同士の平和も実現します。しかもイスラエルの人たちの間だけで実現するのではありません。それまでは区別があると考えられていた、イスラエルの人たちと異邦人との間に平和が実現するのです。神様と人間との平和が回復し、人間同士の平和が、つまりイスラエルの人たちと異邦人との平和が実現することが、神様が主イエスを通してイスラエルの人たちに告げ知らせた平和であったのです。しかしイスラエルの人たちは、ユダヤ人は、その平和をなかなか受け入れられませんでした。ペトロですら、数日前までユダヤ人と異邦人の間に平和が実現したとは思ってもみなかったのです。しかし今や、「神は本当に人を分け隔てなさらないこと」が分かり、だからこそこう宣言しています。「このイエス・キリストこそ、すべての人の主です」。主イエス・キリストはイスラエルの人たちだけの主ではありません。異邦人だけの主でもありません。すべての人の主なのです。それはこのイエス・キリストにあって、どんな人も分け隔てられない、あらゆる差別や偏見は取り除かれるということにほかなりません。このイエス・キリストにあって、すべての人の間に平和が実現したということにほかならないのです。

主イエスの地上の歩み
 この平和はどのように実現したのでしょうか。ペトロは、神様が主イエス・キリストを通して、この平和を告げ知らせたと語りました。しかし主イエス・キリストはこの平和を告げ知らせただけでなく、この平和を実現したお方です。だからペトロは、唯一のまことの神様を信じ、畏れてはいても、このお方、つまりナザレのイエスについて知らない異邦人のコルネリウスたちに、ナザレのイエスによって神様が平和を実現してくださったことを語ります。38節で、まずその地上の歩みから語り始めます。「つまり、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒やされたのです。それは、神が共におられたからです」。主イエスの地上の歩みが極めて簡潔にまとめられていますが、目を向けるべきなのは、この主イエスの地上の歩みが、コルネリウスたちが信じている神様とどう関わっているかをはっきり語っていることです。神様が主イエスに聖霊と力を注いでくださり、また神様が主イエスといつも共におられたので、主イエスは多くのみ業を成し遂げられたと語られているのです。

主イエスの十字架と復活によって
 続けて、主イエスの十字架の死と復活が語られています。39節の後半からこのようにあります。「人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」。「木に掛けて殺しました」とは、具体的には十字架につけて殺したということです。しかし律法によれば、「木に掛けられた者は、神に呪われた者」(申命記21:23)とありますから、ここでは主イエスが神様に呪われて、死んでくださったことが見つめられています。本来神様に呪われるべきなのは、罪人である私たちでした。しかしその私たちの代わりに、私たちの罪をすべて背負って主イエスが神様に呪われて、死んでくださったのです。しかし主イエスは死なれて、それで終わりではありませんでした。神様が主イエスを三日目に復活させてくださったからです。ここでも主イエスが復活されたではなく、神様が主イエスを復活させた、と語られていることが大切です。コルネリウスたちが信じる神様は、人間の代わりに神様に呪われて十字架で死なれた主イエスを復活させてくださったのです。この主イエスの十字架の死と復活によって平和が実現しました。主イエスが私たち人間の罪をすべて背負って十字架で死んで復活されたことによって、私たちの罪が赦され、神様と私たちとの間に平和が実現したのです。そしてこの主イエスの十字架と復活によって、ユダヤ人と異邦人との間に、すべての人の間に平和が実現しました。主イエスにあって、どんな人も分け隔てられないということが実現したのです。

神は人を分け隔てない
 私たちは誰もが神様に呪われて死ぬべき罪人でした。私だけは大丈夫ということはないのです。同時に私たちは誰もが、神様に呪われて死ぬべき罪人であったのに、主イエスの十字架と復活によって罪を赦され、神様との間に平和を与えられ、隣人との間にも平和を与えられました。それは私たちが罪を赦されるに値する何かをしたからでも、何か条件をクリアしたからでもありません。私たちは救われるにまったく値しないのに、まったく条件をクリアしていないのに、ただ神様の憐れみと愛によって救われたのです。そうであれば、私だけ救われて、あの人は救われない、などともう考えることはできません。あるいはあの人は救われるけれど、自分は救われっこない、などと考えることもできません。そうです。「神様は本当に人を分け隔てなさらない」。私たちは神様の前に出て、神様を礼拝し、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを告げられるとき、つまり福音を告げられるとき、「神様は本当に人を分け隔てない」ということが心から分かるのです。身にしみて分かるのです。そのとき私たちに本当の驚きが与えられます。「今やっと分かった。本当に神様は人を分け隔てない」、という驚きで満たされるのです。

罪の赦しにあずかるために
 ペトロは復活された主イエスが、「前もって神に選ばれた証人」に現れたことを語ります。その証人とは、主イエスが死者の中から復活された後、食事を共にした人たち、つまりペトロを筆頭とする使徒たちです。その使徒たちに主イエスが与えられた務めが42節にこのように語られています。「そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」。「生きている者と死んだ者との審判者」とは、世の終わりに再び来てくださる主イエス・キリストが、生きている者と死んだ者を、つまりすべての人を審かれる方であることを意味します。使徒たちがこのことを民に宣べ伝え、力強く証しするのは、何のためでしょうか。いわゆる「最後の審判」を恐れさせるためでしょうか。そうではありません。43節に「この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」とあるように、主イエスを信じ、主イエスの名によって罪の赦しを受けるためです。教会はこの使徒の務めを受け継いでいます。私たちの教会も主イエス・キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝え、力強く証ししていきます。それは、一人でも多くの方が主イエス・キリストを信じて、主イエスの名によって罪の赦しにあずかり、神様との間に平和を与えられ、隣人との間にも平和を与えられて生きるためなのです。

聖霊の働きを受けて
 ペトロが礼拝で説教を語っている最中に聖霊が降りました。あのペンテコステの日に、弟子たちに聖霊の賜物が注がれたように、このとき異邦人にも聖霊の賜物が注がれたのです。そこでペトロは47節でこのように言っています。「この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか。私たちと同様に聖霊を受けたのです」。そして、コルネリウスたちに、イエス・キリストの名によって洗礼を授けました。このようにしてコルネリウスは洗礼を受け、救いにあずかり、神の民の一員とされたのです。
 聖霊が注がれるのは、あのペンテコステの日だけでも、このカイサリアにおける礼拝においてだけでもありません。今日、この礼拝にも、聖霊は注がれています。その聖霊の働きによってこそ、私たちはみ言葉を通して神様の御心を示され、その御心に従う者へと変えられていきます。キリストの十字架の死と復活によって実現した平和を示され、「神様は本当に人を分け隔てない」ことが、驚きを持って分かってくるのです。そしてその驚きを味わったからには、私たちはその驚きを世の人々に伝えていきます。聖霊の働きを受けて私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様と私たちとの間に、またすべての人の間に平和が実現したことを、「神様は本当に人を分け隔てない」ことを宣べ伝え、力強く証ししていくのです。私たちは、一人でも多くの方が、この平和を実現するために十字架で死なれ復活された主イエスを信じ、主イエスの名によって罪の赦しにあずかり、神様との間に、また隣人との間に平和を与えられて生きるために仕えていくのです。

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