夕礼拝

死んではない 眠っているのだ

「死んではない 眠っているのだ」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第40章27-31節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章18-34節
・ 讃美歌:6、327

 わたしたちが、イエス様がどのような方という認識を間違っていても、イエス様は、そのようなわたしたちの間違いを指摘するのではなく、振り向いてくださり、わたしたちの顔を見てくださり、言葉をかけてくださる。間違った認識だったはずなのに、本物が、真実の方が、近づいてその存在を明らかにしてくださり、言葉をもって、出会ってくださる。真理の方が、わたしたちを捉えてくださり、ことごとしらせてくださるのです。

 今日私たちが与えられた御言葉、マタイによる福音書第9章18節以下には、イエス様が、死んでしまったある指導者の娘を生き返らせたという奇跡と、その話にはさまれて、十二年間出血が止まらずに苦しんでいたある女性を癒されたという奇跡が書かれています。18節をもう一度聞いてみましょう。「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来」たとあります。この時のイエス様は、罪人と徴税人の食事をしておられました。その食事の席に洗礼者ヨハネの弟子たちきてイエス様に質問ぶつけたのがこの前の場面です。洗礼者ヨハネの弟子たちは、罪人と徴税人と食事をしているイエス様と弟子たちに「わたしたちは今、我々の罪のために、主なる神に嘆き憐れみを求めないといけなくて、そのためにみな断食しているのになんでしないのか」と問うたのです。それに対して、イエス様は、この者たちは、わたしとともにあり、罪赦されており、だから今は喜びの時なのだ、だから喜びを持って生きる新しい生活が始まっているのだということを、イエス様は譬え用いて説明ました。罪人たちが、イエス様と出会い、言葉をかけられ、悔い改めて、自分に従うものとなった。それはあの失われた羊がもどってきた喜びのように、放蕩息子を祝った父のように、喜びの溢れる、宴会がそこに開かれていたのです。その時に、絶望の中にいる、暗い男が、この宴会の席に飛び込んできたのです。それが、娘を今しがた失ってしまった、18節にでてくる指導者です。彼は指導者であり、一人の娘の父です。娘が亡くなった理由を聖書は語っていませんが、彼の娘はたった今なくなったと言われています。その彼が、イエス様の前に出てきて、突然ひれ伏して言ったのです。『わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」と。

 この指導者と呼ばれる男は、なぜイエス様の所に来きたのだろうか。これがわたしたちの最初の問です。この指導者は、今しがた娘が死んだばかりです。なぜ彼は、イエス様の所に行こうと思ったのでしょうか。普通ならば、「娘は死んだ、もうどうにもできない。悲しい。おしまいだ。いったいなぜなんだ。なぜ娘が死なねばならないのか。理由はわからん。ただただ悲しい。どうしようもない。」わたしだったら、そう思います。彼も、それほどの悲しみの中にあったはずです。しかし、彼は、自分の意志でイエス様の所にきた。それは偶然通り掛かってそこにきたということではなく、イエス様のことをなんらかの形で知っていて、そこに来たのです。おそらく彼はイエス様についてのうわさを聞いていたのでしょう。彼は、悪霊を追い出す人で、病を癒やすことができる人。そのように聞いていたでしょう。しかし、イエス様はこれまでの旅の中で、死人を蘇らせたという奇跡を行ったことはありませんでした。それなのに、なぜ、この男は、「おいでになって手をおいてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」とイエス様に死んだ娘を生き返らせることをお願いしたのでしょうか。病を癒すことができることや悪霊を追い出すことができるということが、人を生き返らせるということを、意味しているわけではないのです。彼が、こういったのは、ある噂を聞いていたからだと思います。「あの、死なずに天に上げられた預言者が再来した。」という噂です。その預言者とは、旧約聖書に出てくるエリヤです。この当時、イエス様のことを「エリヤ」と呼んでいる人が、いたのです。それは、このマタイによる福音書の16章14節で書かれています。イエス様が弟子たちに「人々は人の子のことを何と呼んでいるのか」という聞いた時、弟子たちが「ある人々はエリヤと呼んでいます」と答えていました。その預言者エリヤは、旧約聖書の列王記上の17章で、とある女主人の息子を、蘇らせています。イエス様が、その預言者エリヤの再来だと噂されていたのです。イエス様がエリヤの再来というのは、勘違いではありますが、彼はある意味、エリヤが再来するという預言、神様の言葉を信じて、ここまで来ました。しかし、彼はそのように神様の言葉を深く信じているという理由でイエス様の前に来たのではありません。単純に、娘が死んだからです。なにか自分に罪の自覚があって、悔い改めてここにきたということでもありません。彼は、娘が亡くなったから来たのです。わたしは、この男の気持ちを想像しました。自分には小さな息子がいますが、その息子が死んでしまったら、どう思うか。ただ悲しいというだけでなく。圧倒的な死の現実に打ちのめされて、絶望します。そして、息子を見て、再び息ができるようになるのならば、なんでもすると言うと思います。神様が定められた時に命を取り去られたと信じていても、「神様、どうか今蘇らせてください。お願いします」と絶対に祈ると思います。このように、死の直後は、この死に屈服するか、抗うためになにかできないか、そのためならなんでもするという思いにだれもがなると思います。この指導者の男は、「エリヤ再来の預言」を思い出し、そのイエスと呼ばれる人がエリヤであろうとなかろうと、少しでも可能性があるのならば、そこにかけたいと思い、イエス様の所にいったのでしょう。その気持ちは十分理解できます。そのようにして、イエス様の前にきて、預言者であり神の人であるエリヤだと思い、ひれ伏して「娘はたった今死にました。おいでになって娘に手をおいてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言ったのです。この時の彼の理解は、間違っていたんです。エリヤの再来は洗礼者ヨハネです。また、列王記上によれば、エリヤが男の子をよみがえらせた時は、実際には、手を触れて、よみがえらせたのではなく、主なる神様に祈って、そのエリヤの声に耳を傾けられた主が、その子の命をもとにお返しになったと書かれています。イエス様が、8章で重い皮膚病を患っていた人を癒やした時、手で触れて、「よろしい清くなれ」といって癒やしておられました。彼はこのイエス様の姿と、エリヤの話しが混じって、勘違いしたままイエス様の前にきて、お願いしたのです。

 この宴の時に、イエス様と共にいた弟子たちは、この男のことをどう思ったのでしょうか。わたしがその場に居合わせたのならば、「この喜びの宴の時に、なんだ、いきなり、まったくイエス様に関係のない奴が、身内の死を知らせてきた。喜びの時なのに、悲しみの出来事をもってきた。しかも、イエス様をエリヤと勘違いしているようだ。この男は、なにか悔い改めているわけでもないし、イエス様に従おうとしてここに来ているわけでもない。それに、『おいでになってください』だと。まさかイエス様をここから連れて行こうとしているのか。イエス様は、この悔い改めた罪人たちを喜んで食事をしていて、今は喜びの時だから、この願いは断るだろう」とわたしならそう思います。しかし、イエス様は、この男の言葉を聞いて、立ち上がられました。そしてイエス様は、この男についていかれました。イエス様は、この男を憐れまれました。ただ憐れまれたので、立ち上がられたのです。娘の死を目の当たりにして、深い絶望と死の圧倒的な力に脅かされ、頭の片隅にあったエリヤが再来したという間違った噂を信じて来た、この小さな男を、憐れまれたのです。この男は、イエス様のことを、この聖書の描写では、全然見ていません。ひれ伏して、話していたし、連れて行くということは、彼が前を歩いていた。彼は、イエス様が本当にエリヤかどうかということを探ることもせず、またイエス様がどのようなお方なのかということを、ちゃんと知ろうともしていない。イエス様は、ただ娘を救って欲しいという願いだけで自分のもとに来た彼を憐れまれ、その願いを受け止められ、彼について行かれたのです。イエス様は、戻ってきた罪人との喜びの交わりにいたのですが、死の力と絶望にのみ込まれている一人の男を救うことを、お選びになったのです。そして、死んだ娘の方に、つまり死の力がもっとも濃く表れている、そして死の圧倒的な力に影響され支配されている人々が集まる所に、進まれました。これは、わたしたちにとっても、慰めなのです。わたしたちが、死の圧倒的な力を前にして、パニックなって、イエス様に頼ろうとする。イエス様に頼っていると言いながら、死がおもすぎて、苦しくて下しかみれない、死んだ人の方しかみれなくなっているわたしたちの姿、嘆いている様子、それをイエス様は、知ってくださり。本心からイエス様の方をみれていないのに、イエス様のほうが動き出してくださるのです。私たちがきちんとイエス様に頼むことができたかどうか、それらをイエス様の憐れみがうわまって、イエス様がその問題である死の方に突き進んでくださるのです。そして、イエス様は、死んだ少女の所に行かれ、少女に触れて、少女が一時的に支配されていた死の力から解き放てくださったのです。

 その、死の現実へと進んでいく道の途上で、イエス様はある女性と出会われています。しかし、今回もイエス様からでなく、その女性の方からです。彼女は、血を流し続ける病、これは婦人病なのですが、血が止まらない病を患っていました。おそらく彼女が大人になってからの12年間ずーと血が流れ続けていました。ただ血が流れて、大変というだけでなく、出血が止まらないというのは、その女性が宗教的にいつも汚れた状態にある、ということを意味していました。共同体から隔離されていて、社会における彼女の位置は、徴税人や罪人たちとある意味で似たようなものでした。神様の祝福から遠く、神様のもとでの祝いや喜びとは無縁な者とされてきたのです。その孤独な彼女が、病を癒されるイエス様の噂を聞きつけて、イエス様に会いにきたのでしょう。自分を苦しめるこの病を治すことができるのは、この方だろうという望みもってここにきました。しかし、彼女はイエス様に声をかけることもできず、自分の存在をイエス様にしってもらおうとして自分を明らかにすることもできませんでした。それは自分が汚れているから、自分はこのような方とは本来一緒にいてはいけないからと思っていたからもしれません。ですから、彼女は、イエス様の後ろに近づき、服の房に触れました。なぜ、彼女が服の房に触れたのかは、21節に書いてあります。『「この方の服にさえ触れさえすれば、治してもらえる」と思ったからである』とあります。そういう彼女の思いは、迷信的なことです。服に触れるだけで病気が癒されるというのは、あのお地蔵さんに触れれば、癒やしがあるということと変わりありません。イエス様のお与えになる癒やしや救いとはそういうものではないのです。ここでは、イエス様が振り向いて彼女に「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた、そのときに彼女は癒されたのだと語っています。彼女が癒されたのはイエス様の服の房に触れたことによってではなく、み言葉によってだったのだということがここで、強調されています。 

 ここでの「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉は何を語っているのでしょうか。ここで言う「信仰」とは何でしょうか。この長血の女性は、イエス様の服の房に触れさえすれば治してもらえると思った、イエス様に対するそのような素朴な信頼が信仰なのでしょうか。彼女はそのイエスの力を疑わずに信じた。その信仰が彼らを救った。だからあなたがたもそのような純粋な信仰を持てと言われているのでしょうか。しかし、あの指導者の男にしても、この長血の女性にしても、果してそのような確固たる信仰を持ってイエス様のもとに来ていたでしょうか。イエス様が手を置けば死んだ娘が生き返る、それは彼の信仰と言うよりも、悲しみ、絶望の中での切なる願いです。彼女がイエス様の服の房に触れたのも、そうすれば病気が治ると確信していたというよりも、正に溺れる者が藁をもつかむ思いで、イエス様の癒しを願った、ということなのではないでしょうか。彼らはいずれも、確固たる信仰を持った模範的な信仰者などではないのです。むしろ彼らは、この世の様々な苦しみ悲しみ嘆きに翻弄され、その中でずたずたになっているのです。彼らはその中から、イエス様に「助けてください」と必死の思いで願ったのことです。そのような彼らの切なる願いを、イエス様が受け止めて下さったのです。そしてそれを「あなたの信仰」と呼んで下さったのです。エリヤだと勘違いしていてイエス様のことを見ていたあの男も、その勘違いかどうかではなく、ただ切に願ったことを、イエス様が憐れみをもって、信仰として受け取ってくださったのです。この女性は十二年間苦しんできた病気を癒されました。指導者の娘は死から生き返らせていただきました。それは彼らが自分の信仰によって得た救いではなくて、罪人たちを招いて祝宴にあずからせて下さるイエス様の恵みによることでした。イエス様はその恵みを与えるために、祝宴の席から立ち上がり、悲しみ苦しみ嘆きの中にいる人々のもとに来て下さったのです。わたしたちのもとに今、イエス様は来てくださっています。死の圧倒的な力、病の破壊的な力に、愕然としているわたしたちのもとに来てくださっています。今、どんなにブサイクでもいい、間違っていてもいい、顔をあげられなくてもいい、ただイエス様に近づき、願いましょう。救ってくださいと、ただその一言でいいのです。その小さな、愚かな、間違いだらけの思いをも、「あなたの信仰」といってくださり、救いを受けるふさわしい、「あなたの信仰」とイエス様はいっておられます。「あなたの信仰があなたを救った」というみ言葉は、私たちを、自分の信仰にではなく、主に望みを置く者とすることによって、力強く生かすのです。今、恐れの中にあるわたし、深い絶望感、空虚な思い囚われているわたしは、ただ、今、一歩イエス様に近づき、祈るのです。必ず、イエス様はこたえてくださります。

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