主日礼拝

ひたすら主に仕える

説教「ひたすら主に仕える」副牧師 川島章弘
旧約聖書 イザヤ書第50章10-11節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一第7章25-40節

すべてのキリスト者に関わること
 私が主日礼拝を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めていて、本日で7章を読み終えます。7章ではキリスト者の結婚について語られていて、本日の箇所でもその大部分は25節の冒頭から分かるように、「未婚の人たち」の結婚について語られています。そのように言われると、独身の方はともかく、結婚されている方は自分には関係ないと思われるかもしれません。しかしそれは間違っています。間違っているというより、この箇所に隠されている宝を見出し損ねているのです。
 25節冒頭に「未婚の人たちについては」と記されているので、コリント教会の人たちは、未婚の人たちが結婚すべきかどうかをパウロに質問したのだと思います。その質問に答えつつ、しかしパウロがこの箇所で本当に見つめていることは、キリスト者はどのように生きるべきなのか、ということです。ですから独身の方であろうと、結婚している方であろうと、すべてのキリスト者に関わることが見つめられているのです。しかもそれは、この社会で当たり前と考えられている生き方とは大きく異なった生き方です。私たちはこの箇所を通してそのことを受けとめ、この箇所に隠されている宝を見出していきたいのです。

結婚しないほうが良い
 最初にこの箇所の全体を概観すると、大きく三つの部分に分かれます。聖書協会共同訳でも三つの段落に分かれています。25~35節までは、「未婚の人たち」の結婚について語られています。続く36節から38節も、未婚の人について語っているのですが、さらに特殊な場合について言及しています。実はこの36~38節は、この手紙の中でも解釈が最も難しい箇所の一つで、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳はすべて解釈が異なっています。それほど色々な解釈のある箇所ですが、私自身は聖書協会共同訳の解釈が良いように思います。ここでパウロが言おうとしていることは、当時の社会において、婚期に達している未婚の女性に対して、その父親ないし後見人が、「そのままではふさわしくない」と思うなら、つまり結婚させたほうが良いと思うなら、結婚させたら良い、ということです。そのように語った上でパウロは、38節の終わりにあるように、「結婚しないほうがもっとよい」と言っているのです。
 39、40節では、未婚の人ではなく、夫と死別した女性の結婚について語られていて、パウロは39節で「夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主にある人に限ります」と言っています。このように訳すと、再婚の相手はキリスト者に限ると言われているように思えます。原文を訳すのが難しいのですが、「新改訳2017」という聖書では、「ただし、主にある結婚に限ります」と訳されていて、この訳のほうが原文に近いように思います。つまり再婚の相手はキリスト者に限ると言われているのではなく、キリスト者であろうと、そうでなかろうと、その結婚が主にある結婚に限ると言われているのです。それは、その結婚が単に自分たちの意志によるものではなく、神様の導きによるものと信じて結婚する、ということです。そのように語った上でパウロは、やはり40節で「しかし、私の考えによれば、そのままでいるほうがずっと幸せです」と、つまり再婚しないほうが良い、と言っているのです。
 一番長い部分である25節から35節においても、パウロは「未婚の人たち」の結婚について、結論としては、26節後半にあるように「現状にとどまっているのがよい」、つまり結婚しないほうが良い、と言っています。ですからパウロは本日の箇所全体で、幾つかのケースを取り上げつつも、総じて結婚しないほうが良い、と言っていることになるのです。私たちはこのパウロの言葉をどのように受けとめたら良いのでしょうか。そしてなぜパウロは、このようなことを言ったのでしょうか。

主のご命令とパウロの意見
 まず、私たちがこのパウロの言葉をどのように受けとめたら良いのかを考えていきましょう。その手掛かりは25節にあります。「未婚の人たちについては、私は主の命令を受けていませんが、主の憐れみによって信任を受けた者として、意見を述べます」。先ほどお話ししたように、コリント教会の人たちはパウロに、未婚の人たちが結婚すべきかどうかを質問しました。それに対してパウロは、自分はこの問題について主イエスのご命令を受けていないので、自分の意見を述べると言っています。つまりパウロは主イエスのご命令と自分の意見をはっきり区別しているのです。もちろんだからと言って、ここで語られているのはパウロの個人的な意見だから耳を傾けなくて良いということではありません。「主の憐れみによって信任を受けた者として」、言い換えるならば、「主の憐れみによって使徒とされた者として」パウロは語っているからです。そのことをよく弁えた上で、私たちは主のご命令と使徒パウロの意見とを区別して受けとめる必要があります。それは、一つには、主のご命令に背くことは罪を犯すことであるのに対して、パウロの意見に従わないことは罪を犯すことではないということです。このことはパウロ自身が28節で、「しかし、あなたが結婚しても、罪を犯すわけではなく、おとめが結婚しても、罪を犯すわけではありません」と言っている通りです。

あなたがたの益のため
 もう一つには、私たちはこのパウロの意見を、そのまま自分たちの状況に当てはめることはできないということです。コリント教会という具体的な一個の教会における、未婚の人たちが結婚すべきかどうかという問題を、そのまま私たちの教会に当てはめるのはあまりに乱暴です。ですから今、結婚を考えておられる方が、あるいは将来、結婚したいなぁと思っておられる方が、この箇所を読んで、結婚しないほうが良いんだ、と落ち込む必要はまったくありません。逆に独身のまま生きていきたいと考えておられる方々が、この箇所を読んで、パウロは自分の生き方を後押ししてくれていると喜ぶのも正しいとは言えません。何よりもパウロ自身、自分の言葉がそのように読まれることを望んでいません。だからパウロは35節で「このように私が言うのは、あなたがたの益のためであって、あなたがたを束縛するためではありません」と言っているのです。この箇所を読んで、結婚しないほうが良いと落ち込むことも、独身で生きることを後押ししてくれていると喜ぶことも、結局パウロの言葉に束縛されているに過ぎません。それはパウロが望んでいることではありません。パウロが望んでいるのは、「あなたがたの益」、つまりコリント教会の人たちの益です。その益とは、いわゆるご利益とは違いますが、コリント教会の人たちがより有益に、より良く生きることです。パウロは主イエスから答えの与えられていない問題について、コリント教会の人たちの顔を思い浮かべつつ、彼ら彼女たちがより良く生きるためにどうしたら良いのかを必死に考えたのだと思います。必死に考えた末に、パウロは未婚の人たちは結婚しないほうが良い、という意見を述べているのです。ですから私たちはここでパウロの言葉そのものに束縛されるのではなく、パウロがコリント教会の人たちの、そして私たちの益を望んでいる、私たちが本当により有益に、より良く生きることを望んでいることを受けとめたいのです。

終末
 では、なぜパウロはこの箇所で未婚の人たちは結婚しないほうが良い、と言っているのでしょうか。まず勘違いしてはならないのは、パウロは決して結婚を軽んじているわけではないということです。これまで見てきたように、むしろパウロは神様の祝福のもとにある結婚を重んじています。そのことを踏まえた上で、26節のパウロの言葉に注目したいと思います。「現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているのがよいと思います」。パウロは「人は現状にとどまっているのがよい」と言います。その理由が、「現在迫っている危機のゆえに」と言われています。現在、危機が迫っているゆえに人は現状に留まり、未婚の人たちは結婚しないほうが良い、と言われているのです。また29節の前半ではこのように言われています。「きょうだいたち、私がこう言うのは、時が縮まっているからです」。さらに31節の終わりでは、「この世の有様は過ぎ去るからです」とも言われています。つまりここでパウロが見つめているのは「終末」、「世の終わり」です。「終末」や「世の終わり」と言われると、小説や映画の影響もあり、世界が崩壊するようなおどろおどろしいイメージを持たれるかもしれません。しかし聖書が語る「終末」「世の終わり」とは、そのようなイメージとはまったく異なるものです。聖書は終末に神様のご支配が完成することを告げています。すでに神様の独り子イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架で死なれ復活されたことによって、神様のご支配は始まっています。しかしそのご支配は、私たちのこの目で見ることはできません。私たちはキリストの十字架と復活によって、目には見えなくとも、すでに神様のご支配が始まっていることを信じて歩んでいるのです。しかし終末には、そのご支配が、誰の目にもはっきりと分かる仕方で完成します。それは別の言い方をするなら、私たちの救いが完成するということです。私たちはすでにキリストの十字架と復活によって罪を赦され、救われていますが、その救いもまた、私たちの目に見えるものでも、あるいは実感できるものでもなく信じることです。しかし終末には、その救いが完成し、私たちは復活と永遠の命にあずかるのです。

終末を身近に意識して生きる
 ですから本日の箇所でパウロは、何よりもこの終末を意識して生きることを見つめています。すでにキリストによって実現した救いが、終末に完成することを意識して生きることから、すべてを考え、意見を述べているのです。パウロは「時が縮まっている」とも言っています。それは終末が近いということですが、しかしそれは必ずしも時間的な近さを意味しません。なぜなら主イエスは、「世の終わりは、いつ来るか分からない」とおっしゃったからです。だからその近さとは、むしろ終末を「身近に」意識して生きるということであり、さらに言えば、終末を待ち望んで生きるということです。この社会では、「終末」や「世の終わり」は、できれば来ないで欲しい、と恐れられているのではないでしょうか。しかしキリスト者にとって、終末は救いの完成のときであり、そのとき私たちは復活と永遠の命にあずかり、主イエス・キリストといつまでも共にいるようになります。だから私たちは終末を恐れるのではなく、待ち望んで生きるのです。

この世の有様は過ぎ去る
 終末を身近に意識し、待ち望んで生きるとは、「この世の有様は過ぎ去る」ことを意識して生きることでもあります。この世は終わります。この世の延長上に神様のご支配の完成があるのではなく、この世が終わって、神様のご支配が完成するのです。それは裏返せば、この世では神様のご支配が完成していないということであり、だからこの世界には悲惨な現実が溢れ、私たちも多くの苦しみや悲しみを味わいながら生きています。それゆえパウロは終末を身近に意識することを、「現在迫っている危機のゆえに」とも言っているのでしょう。当時のコリント教会に特定の危機が迫っていたというより、すべての教会は、すべてのキリスト者は、この世にあって、終末に向かう歩みにおいて、危機を経験せざるを得ない、困難や試練に直面せざるを得ないのです。しかし危機と困難と試練に満ちたこの世は必ず終わり、神様のご支配が完成します。そのことを意識して生きることが終末を身近に意識し、待ち望んで生きることなのです。

この世に埋没することなく生きる
 このように終末を身近に意識し、待ち望んで生きることは、コリント教会の人たちだけでなく、すべてのキリスト者の生き方であり、つまり私たちの生き方です。このように生きることこそ、私たちがより有益に生き、より良く生きることです。そしてこのキリスト者の生き方は、この社会で当たり前と考えられている生き方とは大きく異なったものなのです。
 それを具体的に語っているのが29節の後半からで、このように言われています。「これからは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、この世を利用する人は利用しない人のようになりなさい」。「妻のある人はない人のように」とは、妻あるいは夫と離婚しなさいと言っているのでも、妻あるいは夫との結婚生活を大切にしなくて良いと言っているのでもありません。それではこれまでパウロが語ってきたことと矛盾します。そうではなく世の終わりに、いえどちらかが死を迎えるときに、結婚生活も終わることを意識し、その生活に埋没せずに生きなさいと言っているのです。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように」というのも、終末を身近に意識して生きるなら、もう泣いたり喜んだりしてはならない、ということではありません。私たちの人生には喜びがあり悲しみがあります。しかし世の終わりを意識して生きるなら、その喜びや悲しみに完全に支配されてしまうことはないことを見つめているのです。特に私たちは人生の中で、悲嘆に暮れて、涙を流すしかないときがあります。拭っても拭っても涙が溢れるときがあります。しかしその涙は、必ず拭い去られる。世の終わりに神様が私たちの目から涙をことごとく拭い去ってくださるからです。だから私たちは人生の中でどれほど悲嘆に暮れようとも、なお絶望することなく歩んでいくことができるのです。「物を買う人は持たない人のように」というのも、物を買うことも持つこともせずに生きなさい、ということではありません。しかし今、私たちがどれだけ物を持っていたとしても、世の終わりに、いえ世の終わりを待たずとも死を迎えるときに、私たちはそれらをすべて手放さなくてはなりません。だから自分が持っている物に固執し、それを握りしめて、それを支えとして生きるのではなく、終末の救いの完成に希望を置き、それを支えとして生きなさいと言っているのです。このように生きるのが、「この世を利用する人は利用しない人のようになる」ということです。それは、この世と関わらずに、世捨て人のように厭世的に生きるということではありません。そうではなくこの世にあって、この世の様々な責任を果たしつつ、しかしこの世に埋没せずに生きるということです。終末を身近に意識して生きる私たちは、この世に埋没せずに生きていきます。そのように生きる私たちは、なお苦しみや悲しみの多い日々の歩みの中にあっても、決して絶望することなく、希望を持って忍耐して生きることができるのです。

主に喜ばれるために、主のことに心を遣う
 さらにパウロは、未婚の人たちが結婚すべきかという問いに関わらせて、終末を身近に意識し、この世に埋没せずに生きることについて語っています。それが32節以下です。「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を遣い、心が分かれてしまいます。独身の女やおとめは、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を遣います」。ここでパウロは、結婚している人が、そのパートナーに喜ばれるために心を遣うのは間違っている、と言っているのではありません。それはむしろ当然のことです。結婚生活を大切にすることは、相手の喜びに心を配ることでもあるからです。しかしそこにはある葛藤が生じます。主に喜ばれるために、また「体も霊も聖なる者になろうと」して、つまり神様の御心に従う者になろうとして主のことに心を遣うことと、パートナーの喜びに心を遣うこととの間で、ある葛藤や対立が生じるのです。パートナーの喜びに心を遣うあまり、主のことに心を遣うことがおろそかになることが起こるからです。28節でパウロが、「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう」と言っているのは、このことを指しているのです。しかし考えてみれば、このことは結婚にだけ当てはまるのではありません。私たちは独身であっても結婚していても、主に喜ばれるために、御心に従う者となるために主のことに心を遣うよりも、自分のことに、自分の仕事や学業や趣味、家族や友人のことに、つまりこの世のことに心を遣って生きています。この世のことを優先して、主のことに心を遣うことを後回しにしているのです。しかしそのように生きることこそ、この世に埋没して生きることにほかなりません。確かに私たちはこの世にあって、この世の様々な責任を果たして生きていきます。その意味で私たちはこの世のことに心を遣って当然と言えば当然です。しかし終末を身近に意識して生きる私たちが何よりも優先すべきなのは、主に喜ばれるために主のことに心を遣うことなのです。そう言われると、自分のこと、この世のことはしぶしぶ後回しにして、主のことに心を遣って生きなければならない、と命じられているように思えるかもしれません。しかしこの生き方は、そんな消極的なものではありません。私たちの本当の喜びは、神様に喜ばれるために神様のことに心を遣って生きるところにこそ与えられるからです。私たちはこの世のことに心を遣って生きるとき、喜びよりもむしろ不平や不満を抱くことが少なくありません。喜びが与えられても、それは一時的なものであることもしばしばです。しかし神様に喜ばれるために、神様のことに心を遣って生きるとき、神様がそのように生きる私たちを喜んでくださいます。弱さと欠けばかり、罪を犯してばかりの、どうしようもない私たちであっても、なかなか御心に従うことのできない私たちであっても、神様に喜ばれるために、神様のことに心を遣って生きようとする私たちを、神様は心から喜んでくださるのです。神様が喜んでくださる人生を生きようとするところにこそ、私たちの本当の喜びが、失われることのない喜びがあるのです。

ひたすら主に仕える
 そのようなキリスト者の生き方を一言で言い表しているのが、35節の後半です。「むしろ、あなたがたが品位を保ち、ひたすら主に仕えるようになるためなのです」。この箇所でパウロが本当に言いたいことは、独身のままでいることよりも、コリント教会の人たちが、そして私たちが「品位を保ち、ひたすら主に仕え」て生きることです。「品位を保ち」とは、パウロが終末を身近に意識して生きるキリスト者を言い表すときに用いる言葉で、「美しい姿で」という意味の言葉です。「ひたすら主に仕える」の「仕える」も、「美しく」「かたわらに」「座を占める」という意味の言葉です。つまりここで「ひたすら主に仕える」とは、主のために何かをするということではなく、しっかりと主の傍らに、主のもとに座を占め、留まり続けることです。この世のことに埋没して、この世のことに引っ張られて主のもとから離れるのではなく、しっかりと主のもとに留まり続けることこそ、「ひたすら主に仕える」ことなのです。そしてそのように「ひたすら主に仕える」ことこそ、主に喜ばれるために主のことに心を遣って生きることにほかならないのです。「ひたすら主に仕える」と言われて、自分は病や弱りのために、あるいは仕事や家族のために、教会の奉仕を担えないから、「ひたすら主に仕える」なんてとてもできない、と思われるかもしれません。しかしそうではないのです。もちろん奉仕を担えることは、救いの恵みへの感謝の応答であり、とても大切なことです。しかし奉仕が担えなければ、「ひたすら主に仕える」ことができないのでは決してありません。私たちはこの世に生き、この世の様々な責任を果たしながら生きています。仕事があり家族があり、また病や老いがあります。そのためにたとえ奉仕を担えなかったとしても、この世のことに埋没してしまうのではなく、しっかりと神様のもとに留まり続け、そこで神様の言葉を聞き続けることによって、私たちはひたすら主に仕えるのです。そのように終末を身近に意識しつつ、地上の生涯の終わりまで、ひたすら主に仕えて生きる私たちを、主のもとに留まり続け、主の言葉を聞き続ける私たちを、主なる神様は心から喜んでくださるのです。私たちはそのように生きたい。いえ、そのように生きられるように、神様は絶えず私たちをみ言葉によって導き続けてくださっているのです。

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