主日礼拝

疑いからの解放

説教「疑いからの解放」牧師 藤掛順一
旧約聖書 エレミヤ書第8章4-13節
新約聖書 マタイによる福音書第21章18-22節

マタイ福音書21章
主日礼拝において今私たちは、マタイによる福音書の第21章を読み進めています。ここには、主イエスが、そのご生涯の最後に、エルサレムに来られたことが語られています。21章の始めのところには、主イエスが、ゼカリヤ書9章の預言の成就として、ろばの子に乗ってエルサレムに入られたことが、12節以下には、その主イエスが、エルサレムの中心である神殿の境内でなさったことが語られていました。主イエスがエルサレムに来られたこと、それによって起ったことがこの21章に記されているのです。

いちじくの木を呪う
本日ご一緒に読むのは、この21章の18節から22節です。ここには、主イエスがいちじくの木を呪ったら、その木がたちまちのうちに枯れた、ということが語られています。18節のはじめには「朝早く、都に帰る途中」とあります。その前の17節に語られていたように、エルサレムに来られ、神殿で売り買いしていた人々を追い出した主イエスは、夜は都を出てベタニアという村に泊まり、翌朝早く再び都へと向かわれたのです。その途中、空腹を覚えて、道端のいちじくの木に実がないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。それで「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、その木はたちまち枯れてしまったのです。この話は私たちを困惑させます。おなかのすいた主イエスが、実が実っていない木に八つ当たりした話のように思えるからです。マルコによる福音書の並行箇所を読むと、「いちじくの季節ではなかったからである」と書いてあります。いちじくが実る季節でもないのに、実がないからといって腹を立てて木を呪って枯らすなんて、理不尽この上ないことです。こんな話を読むとみんな、主イエスに幻滅を感じてしまいそうです。しかし不思議なことに、マルコ福音書も、またマルコを下敷きにしたマタイ福音書も、この話をカットせずに残しています。福音書は、主イエスこそ神の独り子であり救い主だ、ということを宣べ伝えるために書かれているのですから、人々が主イエスに幻滅を感じてしまうような話は書かない方がよかったのではないか、とも思われます。でも、マルコもマタイもこの話を残しているのです。それは彼らが、この話を、主イエスを信じる信仰において意味のある大事な話だと思ったからでしょう。いったいこの話にどんな意味があるのでしょうか。この話は私たちに何を語りかけているのでしょうか。

主イエスをどう迎えたか
そのことを考えるための土台となるのは、最初に申しましたように、この第21章には、主イエスがエルサレムに来られたことと、それによって起ったことが語られている、ということです。主イエスは、ダビデの子であるイスラエルの王として、ダビデが築いた都であるエルサレムに来られたのです。その主イエスを人々がどのように迎えたのか、そしてエルサレムに来られた主イエスが、その中心である神殿に入って何をなさり、またそこで何をお語りになったのか、をこの21章は語っており、その中にこのいちじくの話も置かれているのです。そのことを見つめることによって、この不可解なつまずきに満ちた話の持つ意味が見えて来ます。主イエスは、神から遣わされた救い主として、神の民の都エルサレムに来られました。その主イエスをどのように迎えるのかを、エルサレムの人々は問われたのです。しかしエルサレムの人々は、主イエスを神からの救い主として迎えようとはしませんでした。「ダビデの子にホサナ」と叫んで喜び迎えた群衆がいたことは語られていましたが、その後、主イエスはエルサレムの中心である神殿の境内で、商売をしていた人たちを見てお怒りになったのです。また神殿の境内で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスをほめたたえましたが、神殿の責任者である祭司長や律法学者たちはそのことに文句を言ったのです。これらのことは、彼らが主イエスを神から遣わされた救い主として迎えていないことを示しています。主イエスがいちじくの木に実を捜したけれども、実は実っていなかったという話は、エルサレムの中心である神殿において、人々が主イエスを救い主として迎えようとしなかったことを、象徴的に描いているのです。

実のないいちじく
当時の人々が、このいちじくの木の出来事から直ちに連想したであろう旧約聖書の箇所が、本日共に読まれたエレミヤ書第8章の13節です。そこには、「私は彼らの収穫を集める−−主の仰せ。しかし、ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはなく、葉はしおれている。私が彼らに与えたものは、彼らから消え去っていた」とあります。もう少し前の4節から読んでいただけば分かりますが、ここには、主なる神に背いているイスラエルの民に、神が「立ち帰れ」といくら呼びかけても、つまり悔い改めを求めても帰って来ようとしない様子が語られています。「私は彼らの収穫を集める」という言葉は、民の悔い改めを期待している主なる神の思いを語っています。しかし、「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない」。神が求めた悔い改めの実が実っていないのです。主イエスが来られた時のエルサレムの人々の姿もそれと同じでした。そしてそれは、その時のエルサレムの人々だけのことではありません。この話が記されているということは、福音書を書いた人たちが、この話を自分たちのこととして受け止めたということです。自分たちは、救い主として来られた主イエスをしっかりお迎えすることが出来ているだろうか、主イエスが求めておられる実を実らせているだろうか、という問いを、彼らは自分への問いかけとして受け止めたのです。私たちも、この話をそのように読まなければなりません。神がこの世に遣わして下さった主イエスをどのようにお迎えしているかは、私たちにも問われているのです。つまり主イエスは私たちにも、実を求めておられるのです。

もう一度来られる主イエスを迎える
それだけではありません。私たちが問われているのは、およそ二千年前にこの世に来て下さって、十字架の死に至るご生涯によって救いのみ業を成し遂げて下さった主イエス・キリストをどのようにお迎えしているか、ということだけではありません。十字架につけられて死んだ主イエスを、父なる神は復活させて下さいました。主イエスは復活して、もはや死に支配されることのない永遠の命を生きておられるのです。そして主イエスは天に昇り、今は父なる神のもとにおられます。その主イエスが、そこからもう一度来て下さって、私たちの救いを完成して下さることを、神は約束して下さっているのです。復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、もう一度来て下さることによって、私たちにも、復活と永遠の命が与えられる。この神の約束を信じて、主イエスがもう一度来られること、いわゆる主の再臨を待ち望むことが私たちの信仰です。つまり私たちにとって主イエス・キリストは、二千年前にこの世に来て下さった救い主であるだけではなくて、これから来て救いを完成して下さる方なのです。私たちは、もう一度来て下さる主イエスをこれからお迎えするのです。その準備が出来ているのか、主イエスがもう一度来られる時にお求めになる実を実らせているのか、そのことを私たちは問われているのです。
ちょっと突拍子もないことですが、こんなことを想像してみていただきたいと思います。よく、外国の首相とか大統領が来日したというニュースが流れます。それは私たちにとって、自分には関わりのない話です。しかしもし、その人が自分の家に来るとなったらどうでしょうか。国賓として来日した人が、日本の一般の人の家を訪ねてみたいとリクエストしたので抽選したらあなたの家が当りました、なんていうことになったらどうでしょう。これはもう他人事ではすみません。どう迎えるか、どんなもてなしをするかを真剣に考えなければならなくなります。こんな話をするのは、主イエスがこの世に来られたことを私たちは、どこかの首脳が来日した、というニュースと同じように受け止めてはいないか、と思うからです。主イエスは私たちの救い主として来て下さった神の子ですから、どこかの首脳の来日よりは有難いことだと思っているかもしれませんが、でもその主イエスが自分のところに来るとは思っていない、自分の生活に直接影響が及ぶとは感じていないのではないでしょうか。しかし主イエスは、これから、もう一度来られるのです。そして私たち一人ひとりが、その主イエスをお迎えすることになるのです。つまり主イエスがもう一度来られる、いわゆる主の再臨を覚えることは、主イエスが二千年前にこの世に来られたことを覚えるのとは全く別のことです。それは、あまり適切なたとえではないかもしませんが、自分には関係ないと思っていた国賓が、自分の家を訪ねて来るようなことなのです。私たち一人ひとりが、その主イエスをどうお迎えするかを問われているのです。このいちじくの木の話は、そういうことを私たちに意識させるために語られているのです。だからこれは、主イエスがいちじくの木に八つ当たりした、などという話ではありません。この話によって私たちは、もう一度来て下さる主イエスをお迎えすることに備える信仰を整えることを求められているのです。

主イエスが来られるのを待つ信仰
もう一度来て下さる主イエスをお迎えすることに備えるために、どのような信仰が求められているのでしょうか。主イエスが来られた時に何の実も実らせていないようなことになったら、この木と同じように主イエスに呪われて、たちまち枯れてしまう、つまり滅ぼされてしまう、そういう警告がここに語られているのでしょうか。そういう面も確かにあるでしょう。主イエスがこのいちじくの木を呪い、枯れさせたということには、私たちが告白している使徒信条にある「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という、主イエスの再臨における最後の審判が見つめられていることは確かです。復活して生きておられる主イエスがもう一度来られる時に、今は隠されていて目には見えない神のご支配が露わになり、そして主イエスによって審きがなされて、救われる者と滅びる者とが最終的に定められるのです。もう一度来られる主イエスをお迎えするために準備を整えるとは、一つには、この主イエスによる審きに備えて、悔い改めて、神に従う生活を築いていく、ということです。けれども、そのことだけだったら、主イエスがもう一度来られることに備える私たちの信仰は、神の審きへの恐れに満ちたものとなります。主イエスがもう一度来られることをびくびく恐れながら待ち、できれば来ないでほしい、と思うことになります。それは正しい信仰のあり方ではありません。主イエスがもう一度来て下さることによって実現する救いの完成を喜びをもって待ち望むことこそ、正しい信仰のあり方なのです。

主イエスの励まし
そのような信仰への励ましが、本日の箇所の後半、20節以下に語られているのです。20節以下には、いちじくの木がたちまち枯れてしまったことに驚いた弟子たちに、主イエスが、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなことができる」とおっしゃったこと、さらに、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とおっしゃったことが語られています。いちじくの木の話とこれらのお言葉の繋がりはちょっと分かりにくいですが、一つ確かなことは、これらのお言葉は弟子たちを恐れさせる警告ではなくて、むしろ励ましの言葉だということです。主イエスは、「お前たちも気をつけないとあのいちじくの木のようになるぞ」とおっしゃったのではなくて、「あなたがたも信仰を持って疑わないなら、私と同じような大きな業ができる」とおっしゃったのです。つまりいちじくの木の出来事を通して主イエスは弟子たちに、審きを恐れてびくびくしながら生きるのではなくて、「信仰を持ち、疑わない」で生きること、あるいは、「信じて祈る」ことを教え、励まそうとしておられるのです。
主イエスはどのように弟子たちを励ましておられるのでしょうか。「信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起ったようなことができる」。それは、私たちも、実を実らせていない木を呪いの力で枯らすことができるようになる、ということでしょうか。また主イエスは、「この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる」ともおっしゃいました。山を動かして海に入らせる、そんなものすごい力を私たちが持つようになるのでしょうか。また、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」ともおっしゃいました。信じて祈ったら、欲しいものを何でも手に入れることができるようになるのでしょうか。ご利益で人をたぶらかすカルト宗教は、「信じれば病気も治るしお金ももうかる、そうならないのはまだちゃんと信じていないからだ、心に疑いがあるからだ、もっと徹底的に信じて、そのしるしとして徹底的に献金しなさい」と言うのです。「信仰を持ち、疑わないならば、こんなことができる」という主イエスの言葉はこのような教えとどう違うのでしょうか。

主イエスが来られたことによる恵み
先ほどのいちじくの木の話と同じように、このみ言葉も、21章の文脈の中で読まなければなりません。主イエスがエルサレムに来たこと、それによって起ったことをこの21章は語っているのです。12節以下には、主イエスが神殿の境内で、売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆されたことが語られていました。主イエスはそこで、「『私の家は、祈りの家と呼ばれる』と聖書に書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」とおっしゃいました。祈りの家であるべき神殿が、人間の欲望を満たす場になってしまっている、神への礼拝がなされるべきところで、神がないがしろにされ、人間の思いが支配している、それこそが、神から遣わされた主イエスを正しく迎えていない、つまり「いちじくの木に実がない」エルサレムの人々の姿であって、そのことに対して主イエスは激しくお怒りになったのです。そしてこのことに続いて語られていたのは、主イエスのもとに、目の見えない人や足の不自由な人たちが来て、主イエスが彼らを癒されたということでした。また、子供たちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスをほめたたえたということでした。この人たちはいずれも、神を真実に礼拝する者となったのだ、ということを先週の説教でお話ししました。律法には、体に障がいのある人は神のみ前に出て礼拝をすることができないと言われていたのです。主イエスはそのような人々を癒して、彼らが喜びと感謝をもって神を礼拝することができるようにして下さったのです。また、当時は一人前の人間扱いされていなかった子どもたちが、「ダビデの子にホサナ」と叫んで、心から主イエスをほめたたえて礼拝をしたのです。祭司長や律法学者たちは、子どもたちがそのように賛美の声をあげていることに文句を言いました。祈りの家であるはずの神殿が強盗の巣になってしまっていることがそこにも現れています。そのような神殿に、主イエスが来られたことによって、それまで礼拝に連なることができなかった人々が癒されて、喜びをもって神を礼拝をすることができるようになったのです。「ダビデの子にホサナ」と叫んで主イエスをほめたたえる声が神殿に響き渡ったのです。つまり主イエスが来られたことによって、神殿が、その本来の意味である祈りの家、礼拝の場へと回復されたのです。いちじくの木の話は、主イエスが来られたことによって、その主イエスを神からの救い主として相応しく迎えようとしない人間の罪が明らかになったことを示しています。しかしそれと同時に、主イエスが来られたことによって、真実な礼拝が、賛美が、人々の間に回復された、そのことをもこの21章は語っているのです。

疑わずに信じる者となる
21節以下で主イエスが語っておられるのは、主イエスが来られたことによって実現したこの恵みによる励ましです。「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」とあります。主イエス・キリストがこの世に来て下さったことによって、私たちは神による救いを信じて疑わない者とされるのです。それは神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによってです。このことを見つめることによってこそ私たちは、罪人である私たちを赦し、救って下さる神の恵みを、疑わないで信じることができるのです。「疑う」というのは、心が二つに分かれてしまう、ということです。神の恵みのご支配を信じる信仰と、人間の罪が支配しているこの世の現実の間で、私たちの心は二つに分かれ、疑いに陥るのです。しかし主イエスの十字架の死と復活によって、神は人間の罪とそのもたらす死に勝利して下さいました。そして復活して天に昇った主イエスが、もう一度来て下さって、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さり、救いを完成して下さることを約束して下さったのです。私たちは、既に来て下さった主イエスの十字架と復活によって救いの実現を示されると共に、もう一度来て下さる主イエスによってその救いが完成する、その約束を与えられているのです。それによって私たちは、人間の罪に満ちているこの世の目に見える現実の中で、疑いから解放されて、神の救いを信じて歩んでいくことができるのです。人間の罪が猛威を振るっていることばかりが目に入るこの世の現実の中で、私たちが、目に見えない神を信じ、神を礼拝し、賛美し、信じて祈る者となる、そのことこそ、「山が動いて海に入る」ような驚くべきみ業なのではないでしょうか。

信じて祈るならば
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」というみ言葉も、祈れば何でも欲しいものが手に入る、ということではありません。私たちが主イエスによる救いを信じて祈る者となる時、私たちの祈りは、主イエスが教えて下さった「主の祈り」を中心とするものとなるのです。主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って主の祈りを教えて下さいました。信じて祈るとは、父なる神が、私たちに必要なものを全てご存知であり、それを与えて下さると信頼して祈ることです。そこにおいて私たちは、「願わくばみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈る者となるのです。その私たちの祈り願いは決して裏切られることなく、私たちの思いを超えて豊かに実現するのです。

既に来て下さり、もう一度来られる主イエス
私たちは、主イエスが既に来て下さり、十字架と復活による救いを実現して下さったことと、将来もう一度来て下さり、救いを完成して下さることとの間の時を生きています。既に来て下さった救い主イエスをお迎えし、もう一度来て下さる主イエスによる救いの完成を待ち望むことの中で、山が動き、頑なな私たちが疑いから解放されて、神を礼拝し、賛美し、信じて祈る者とされるのです。

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