【2026年3月奨励】「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。」

今月の奨励

2026年3月の聖句についての奨励(3月4日 昼の聖書研究祈祷会)
「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。」(13節 聖書協会共同訳) 牧師 藤掛順一

ペトロの手紙一第4章12〜19節

レント(受難節)を歩む私たち
 2月18日(水)からレント(受難節)に入っています。3月29日の今年度最後の主の日が「棕櫚の主日」であり、その週が「受難週」、そして4月5日、新年度最初の主の日がイースター(復活祭)です。この3月、私たちは、主イエス・キリストの苦しみと十字架の死を覚えるレントの時を歩んでいくのです。そのことを覚えて、ペトロの手紙一第4章13節を今月の聖句としました。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。」という勧めの言葉です。主イエス・キリストの苦しみと死を覚えて歩むとは、この聖句に語られているように、キリストの苦しみにあずかって歩むことです。それは当たり前のことでありつつ、私たちが忘れてしまいがちなことでもあると思います。キリストの苦しみを「覚える」ことと、自分がそれに「あずかる」ことが別のことになってしまう、主イエスが私たちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことを時々思い出して感謝はするけれども、自分がそれにあずかって共に苦しむようなことは考えていないし求めてもいない、いやむしろそういうことは避けようとしている、というところが私たちにはあるのではないでしょうか。そのような私たちにこの聖句は、キリストの苦しみにあずかることを喜びとし、それを求めていくことを勧め、求めています。この3月、受難節を歩んでいく私たちが、襟を正して聞くべきみ言葉であると思います。

キリストの苦しみにあずかるとは
 しかしキリストの苦しみとはそもそもどのような苦しみだったのでしょうか。捕えられ、死刑の判決を受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘付けられ、そして殺されたということはもちろんとてつもない苦しみですが、それら全ては、私たちの罪を背負って下さったことによる苦しみです。神の子であり、ご自身は何の罪もない方である主イエスが、私たちの罪を代わって背負って十字架の死刑を受けて下さったのです。他者の罪を負う苦しみこそ、キリストの苦しみの根本なのです。そのキリストの苦しみにあずかることが勧められ、求められているのです。それは私たちも、他者の罪を自分の身に負って苦しむということです。主イエスが私たちのためにして下さったように、他の人の罪による苦しみを背負うことによって、その人の罪を赦すのです。キリストの苦しみにあずかるとはそういうことです。主イエスは、父なる神のみ心に従って、私たちの罪を背負って苦しみを受け、死ぬことによって私たちを赦して下さいました。しかもそのことをご自分の意志によって、自発的に、言い換えれば喜んでして下さったのです。だから私たちも、主イエスの苦しみにあずかって、他の人の罪のための苦しみを負い、相手を赦すことを自発的に、喜んでしていくのです。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。」というみ言葉はそういうことを私たちに勧めているのです。

信仰のゆえに受ける苦しみが見つめられている
 13節をそのように読むことが、受難節を歩んでいく私たちには求められていると思います。しかしこの手紙の文脈の中でこの13節を読むと、それとは少し違うことが見えてきます。12節には、「愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません」とあります。それに続けて13節が語られているのです。このみ言葉は、私たちの信仰の歩みに「火のような試練」、つまり大きな苦しみが降りかかる、という現実を見つめています。主イエス・キリストを信じて生きることには苦しみが伴うことをこの手紙は見つめているのです。そのことは例えば4章3、4節にこのように語られています。「かつてあなたがたは、異邦人の好みに任せて、放蕩、情欲、泥酔、馬鹿騒ぎ、暴飲、律法の禁じる偶像礼拝にふけってきましたが、もうそれで十分です。あなたがたがもはやそのような度を越した乱行に加わらないので、あの者たちは驚き怪しみ、そしるのです」。つまり、主イエスを信じる信仰者になった者たちが、それまで周囲の人々と同じようにしていた「乱行」にもはや加わらなくなり、新しい生活をするようになったので、人々は驚き、あいつらはおかしくなった、と怪しみ、そしる、つまり悪口を言うのです。信仰によって私たちの生き方が変わるので、周りの人々から変な目で見られ、悪口を言われるのです。本日の箇所の14節にはそのことが、「キリストの名のゆえに非難される」と言われています。このようにここには、主イエス・キリストを信じて生きる信仰者が、信仰のゆえに受ける苦しみが見つめられているのです。その苦しみは、「あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練」です。それらに負けずに主イエスを信じ続けるのか、それともその試練に負けて信仰を捨ててしまうのか、あるいは信仰を心の中だけのことにして、自分が信仰者であることを隠すのか、この試練によって私たちはそのように試みられ、試されるのです。「同調圧力」の強い日本の社会の中で信仰者として生きている私たちは誰もがこういう試練を味わっていると言えるでしょう。

キリストの苦しみにあずかっていることを喜びなさい
 12節は、このような苦しみ、試練を「何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません」と言っています。このような苦しみに遭う時に、「とんでもないことが起った、こんなはずではなかった」と思ってはならない、ということです。信仰に生きる所にはこのような苦しみ、試練が必ずあるのだ、と言っているのです。それに続けて13節に、「かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい」と語られているのです。この文脈において13節は、あなたがたが信仰者として生きる中で現に体験している苦しみ、試練において、あなたがたはキリストの苦しみにあずかっているのだ、そのことをむしろ喜びなさい、という慰めの言葉です。13節から受け止めるべきなのは、キリストの苦しみに自分もあずかって、他の人の罪を背負い、赦すことを求め、喜びとしていかなければならない、ということであるよりも、この社会で信仰者として生きる中で私たちが体験しているいろいろな苦しみ、試練において、私たちは主イエス・キリストの苦しみにあずかっているのだ、ということです。主イエス・キリストを信じて、キリストの体である教会の一員としてこの世を生きることにおいて、私たちは誰もが既にキリストの苦しみにあずかっているのです。そのことを喜びなさい、と13節は語っているのです。

キリストの栄光が現れるときに
 キリストの苦しみにあずかることはどうして喜びなのでしょうか。13節の後半には、「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです」とあります。ここに、その喜びの根拠が語られています。私たちは、神の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことによる救いを信じています。洗礼によって主イエスと結び合わされることによって、キリストの十字架による救いにあずかって生きているのです。そういう意味では私たちは、レントの期間のみでなく常に、キリストの十字架の苦しみと死とを覚えています。そこにこそ私たちの救いの根本があるからです。しかしそのことだけを見つめていたのでは、救い主イエス・キリストのことを十分に覚えていることにはなりません。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスは、既に復活して天に昇り、全能の父なる神の右に坐しておられるのです(マルコ16・19)。十字架の死において、主イエスご自身も死の支配下に置かれましたが、父なる神が、その全能の力によって罪と死に勝利して主イエスを復活させ、天に昇らせてご自分の右の座に着かせたのです(エフェソ1・20)。それは主イエスを「この世だけでなく来るべき世にある、すべての支配、権威、権力、権勢、また名を持つすべてのものの上に置かれました」(エフェソ1・21)ということでした。主イエス・キリストは今や父なる神の右の座において、全能の父である神のご支配を司っておられるのです。私たちも、この世界全体も、今やこの主イエスによる父なる神のご支配の下に置かれているのです。そしてその主イエス・キリストは、世の終わりにもう一度来て下さり、生きている者と死んだ者とを、つまり全ての人々をお審きになります(マタイ25・31〜46)。その「再臨」と「最後の審判」の時こそ、13節に語られている「キリストの栄光が現れるとき」です。主イエス・キリストの神としてのご支配・栄光は既に天において実現していますが、私たちが生きているこの世界において、それはまだ目に見えるものとはなっていません。主イエスが「名を持つすべてのものの上に置かれ」ていることを、私たちは信じるしかないのです。しかし再臨の時には、主イエスの神としてのご支配、その栄光が、誰の目にもはっきり分かるように現れ、完成します。その時、キリストと結び合わされた私たちにも、復活と永遠の命が与えられるのです。その時、コリントの信徒への手紙一の第15章20節以下に語られている以下のことが実現するのです。「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。死が一人の人を通して来たのだから、死者の復活も一人の人を通して来たのです。…まず初穂であるキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属する人たち、それから、世の終わりが来ます。その時、キリストはあらゆる支配、あらゆる権威と勢力を無力にして、父なる神に国を引き渡されます。…最後の敵として、死が無力にされます」(コリント一15・20〜26)。主イエスの再臨において、神のご支配が完成し、最後の敵である死が滅ぼされ、私たちも復活と永遠の命を与えられて救いの完成にあずかることを聖書は告げているのです。主イエス・キリストのことを覚えるとは、主イエスが私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことだけではなくて、主イエスの復活と昇天において父なる神が罪と死に勝利して下さったことを覚え、そして将来の主イエスの再臨において完成することが約束されている救いをもしっかり覚えて、それを待ち望むことです。このように主イエスによる救いの全体を見つめ、覚えていく時に私たちは、主イエス・キリストの苦しみと死が、父なる神による復活と昇天を経て、世の終わりにキリストの栄光が現れることへと、つまりキリストの再臨における神のご支配の完成、即ち私たちの救いの完成へと繋がっていることを信じることができるのです。このようにキリストの十字架の苦しみと再臨における栄光が繋がる時、キリストを信じることによって私たちがこの世で味わう様々な苦しみも、キリストの栄光が現れるときに私たちに満ち溢れる喜びに繋がるものとなるのです。キリストの苦しみにあずかることが喜びとなるのは、世の終わりにおけるキリストによる救いの完成、そこで現されるキリストの栄光を信じて待ち望むことによってなのです。

キリストの名のゆえに苦しみを受けるなら
 14節にこれらのことがまとめてこう語られています。「キリストの名のゆえに非難されるなら、あなたがたは幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」。キリストの名のゆえに、つまりキリストを信じる信仰のゆえに苦しむことは幸いです。その苦しみは、世の終わりに現されるキリストの栄光にあずかることへと繋がっているからです。私たちがそのことを信じて生きることができるようにして下さっているのは神の霊、聖霊です。聖霊は私たちの上にとどまって、今は目に見えないが、キリストの再臨において明らかになるキリストの天における栄光を信じさせて下さり、それを待ち望む信仰を与えて下さるのです。この神の霊の働きのゆえに、キリストの名のゆえに非難される者は幸いだと言えるのです。
 さてそのように、キリストの苦しみにあずかること、つまり信仰による苦しみを受けることは幸いであり、喜ぶべきことであるわけですが、それはもちろん16節にあるように「キリスト者として苦しみを受けるのなら」です。世の終わりに現されるキリストの栄光にあずかることへと繋がっているのは、キリストを信じることによって受ける苦しみなのであって、それ以外のことによる苦しみはそうではありません。15節に語られているのはそのことです。「あなたがたのうち誰も、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」。自分自身の罪によって陥る苦しみは、キリストの名のゆえの苦しみではない、それは当然のことです。「他人に干渉する者として」というのは、他者の信仰やそれによる習俗をやたらに批判すること、例えば、神社に初詣に行っている人たちに、「これは偶像礼拝だ。やめなさい」などと言って妨害するようなことを指しているようです。これらのことによって人々に非難されることは、キリストの名による苦しみではなくて、自分がもたらしている苦しみです。それはキリストの苦しみにあずかることではありません。そのような苦しみに陥ることがないように、気をつけて生活すべきなのです。そのことが17節以下に語られています。

裁きは神の家から始まる
 17節に「なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来たからです」とあります。神の裁きは神の家、つまり教会から始まるのです。それは「私たちがまず裁きを受ける」ということです。神の裁きを恐れて生活することが勧められており、それゆえに、自分の罪によって苦しみに陥るようなことにならないように、「人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者」にならないように気をつけなさい、と言われているのです。しかし「裁きが神の家から始まる」「私たちがまず裁きを受ける」というのはどういうことなのでしょうか。神の家である教会は、そしてそこに連なる私たちは、神の恵みによって選ばれ、信仰を与えられ、キリストによる救いにあずかった者なのではないのでしょうか。このことは、私たちの信仰においてとても大事なことを示しています。それは、私たちの救いは、自分の力や手柄(信仰深さや善い行いなど)によって「獲得」したものではなくて、主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことによって、つまりただ神の憐れみと恵みによって与えられたものだ、ということです。そうであれば私たちは、救いを自分の権利や財産のように所有することはできません。救いは神の恵みによって常に新たにいただくものであり、私たちは神を礼拝し、み言葉を聞き、祈り、神との交わりに生きていくことによって、感謝してそれにあずかるのです。そのことを見失って、自分が既に救いを持っているかのように捉え、神を礼拝し、神との交わりに生きることを失ってしまうなら、それは神の恵みによる救いを無にすることであり、神はそれに対してお怒りになり、お裁きになるのです。つまり信仰を与えられ、救いにあずかった私たちは、神の大いなる恵みに応答する責任があるのです。それは私たちこそ、神の裁きに最も近い者とされている、ということです。キリストの十字架による救いによって、「裁きが神の家から始まる時が来た」のです。救いにあずかった「私たちがまず裁きを受ける」のです。だから私たちこそ、神の裁きを恐れて生活すべきなのです。「あなたがたのうち誰も、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」と言われているのはそのためなのです。

人の罪を背負って赦しに生きる者へと
 しかしこれは、人殺しや盗みのような罪を犯さないように、ということだけを言っているのではありません。私たちは、神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことによって赦され、救われたのです。この救いにあずかって生きるのですから、私たちも、他の人の罪を背負い、そのための苦しみを引き受けて、人の罪を赦していくのです。そのようにして、キリストの苦しみにあずかる者となっていくのです。私たちの生き方は信仰によってそのように変えられていくのです。「人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉する者」ということによって見つめられているのは、人を傷つけ、苦しめ、また人を裁くことです。キリストの苦しみにあずかることによって私たちは、そのような生き方から、人の罪を背負って赦しに生きる歩みへと変えられていくのです。そこにこそ、信仰を持たない人とは違う新しい生き方があります。この新しい生き方には苦しみが伴いますが、キリストの苦しみにあずかるこの苦しみは、キリストの再臨において現されるキリストの栄光に繋がっているのです。

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