「神の民として生きる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: レビ記 第20章1-27節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第17章22-31節
・ 讃美歌:300、361
神の民に与えられた戒め
昨年の12月以来3か月ぶりに、旧約聖書レビ記を読み進めたいと思います。本日は第20章です。ここには、主なる神様からイスラエルの民に与えられた、これこれのことは決してしてはならない、という戒めが語られています。小見出しに「死刑に関する規定」とあるように、これこれのことをした者は死刑に処せられる、殺されなければならない、ということが並べられているのです。つまり、イスラエルの民において、最も重い罪とされていたのはどのようなことなのかがここに記されているのです。
その内容に入る前に一つ確認しておきたいのは、このレビ記における戒め、禁止の命令は、主なる神様によって選ばれて、神様の民とされたイスラエルの人々およびその中に寄留している人々に与えられたものだ、ということです。本日の箇所の2節の冒頭に「イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても」とある通りです。主はイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から救い出し、今、約束の地へと導いて下さっています。そしてその途上で彼らと契約を結んで下さいました。神様が彼らの神となって下さり、彼らは神様の民とされる、という契約です。この契約によって神の民とされたイスラエルの人々に、これらの戒めが与えられているのです。この20章の23-26節に、主がこれらの戒めをお与えになる基本的な目的が語られています。「あなたたちの前からわたしが追い払おうとしている国の風習に従ってはならない。彼らの行為はすべてわたしの嫌悪するものである。わたしはあなたたちに言う。あなたたちは彼らの土地を得るであろう。わたしはそれをあなたたちに得させるであろう。それは、乳と蜜の流れる土地である。わたしはあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちと諸国の民を分かつから、あなたたちは、清い動物と汚れた動物、清い鳥と汚れた鳥とを区別しなければならない。動物、鳥、すべて地上を這うものによって、自らを憎むべきものにしてはならない。これらは、わたしが汚れたものとして、あなたたちに区別することを教えたものである。あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである」。このように、これらの戒めは、神の民とされたイスラエルの人々が、周囲の国々の人々とは区別された生き方をしていくために与えられたのです。ですからここに語られているのは人類普遍の道徳ではなくて、主なる神様の民とされた者が、その恵みに相応しく生きるための戒めです。7、8節にもそのことが語られています。「自らを清く保ち、聖なる者となりなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする」。主なる神様がイスラエルの民をご自分の民とし、聖なる者として下さるので、その恵みを受けているイスラエルの民は自らを清く保ち、聖なる者となるためにこれらの戒めを守るのです。ですからこれらの戒めは、神様によって召し集められ、神の民とされている信仰者のためにこそあります。私たちが神様を信じて、神の民として生きていこうとするなら、これらの戒めにしっかり耳を傾けなければならないのです。
父母を呪ってはならない
この20章は、そのように神の民として生きる者たちにおいてあってはならない罪を教えています。どのようなことがあってはならないと言われているのでしょうか。9節には、「自分の父母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」とあります。両親を呪うようなことは、神の民においては決してあってはならないのです。これは十戒の第五の戒め「あなたの父母を敬え」を裏返して語っていると言えます。この戒めの根拠、理由は、主なる神様が両親を用いて私たちに命を与え、この世に生まれさせて下さったということです。自分を神の民として生かすために神様が用いて下さったのが両親であり、その意味で、両親は神様のみ手に導かれている人々なのです。ですからその両親を呪い、敬わないのは、私たちに命を与え、神の民として下さった神様を呪い、敬わないのと同じことです。「あなたの父母を敬え」という十戒にせよ、この戒めにせよ、私たちはそれらを世間一般に語られている道徳律の一つとしてではなく、神の民として生きるための大事な戒めとして受け止めなければならないのです。
性における罪
次の10節から21節にかけては、性、セックスに関する様々な罪が並べられています。実にいろいろな、また凄まじいことが語られています。聖書は聖なる書だから清らかなことだけが書かれているという先入観を持って読んできた人は、ここに来たら卒倒してしまうかもしれません。ここにはまさに、人間の性における欲望が果てしなく広がっていくことが見つめられており、それらのことが全て、死に当る罪だと言われているのです。これらの教えは、性の解放が進んでいる今日、特に進歩的な人々からは時代錯誤として見向きもされないでしょう。しかし先ほど申しましたように、ここに語られているのは神の民として生きる者たちへの教えです。ですから私たちは、世の中の状況がどうであれ、これらの教えにしっかり耳を傾けなければなりません。そこにおいて基本的に示されているのは、人間の性的な営みも神様のみ心の下に置かれなければならない、ということです。神様は人間を男と女として創造し、一人の男と一人の女が結婚して夫婦となり、夫婦の性的な関係によって子供が与えられていくという秩序を定め、そのような歩みを祝福して下さっているのです。この秩序の中でこそ、性的な関係は神様の祝福の下に置かれます。しかしその秩序を超えて欲望に身を任せていくなら、そこで人は神様よりも自分を主人とする罪に陥り、欲望の奴隷となり、神様の祝福を失うのです。神の民として生きる者は、そのように神様の祝福を失うような歩みに陥ってはならないとこれらの戒めは教えているのです。
モレク神
父母を呪うことやセックスにおける罪と並んで、ここにはもう一つの重大な罪が示されています。2-6節にそれが語られており、最後の27節においてもう一度繰り返されています。まず2-5節を読みます。「イスラエルの人々にこう言いなさい。イスラエルの人々であれ、イスラエルに寄留する者であれ、そのうちのだれであっても、自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。国の民は彼を石で打ち殺す。わたしは、その者にわたしの顔を向け、民の中から断つ。自分の子をモレク神にささげ、わたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を冒涜したからである。もし、国の民が、自分の子をモレク神にささげる者を黙認し、殺さないならば、わたしがその者と家族に顔を向け、彼および彼に倣ってモレク神を求めて淫行を行うすべての者を民の中から断つ」。「子供をモレク神にささげる」ということが語られています。モレクというのは、フェニキアからイスラエルに伝えられた神の名前です。イスラエルの民は、主なる神様によって救われてその民とされ、約束の地カナンを得ることができましたが、そこに入るとその地に伝えられていた様々な異教の神々、偶像を拝むようになっていきました。その一つがこのモレクなのです。その祭儀は、子供をいけにえとして献げるという恐ろしいものでした。つまり「子供をモレク神にささげる」というのは、自分の子供を殺して犠牲として献げるということです。このモレク神の祭壇は、エルサレムの南側にあるベン・ヒノムの谷に設けられました。そこで子供を犠牲として献げる儀式がなされたのです。エレミヤ書第32章34、5節にはこうあります。「彼らは忌むべき偶像を置いて、わたしの名で呼ばれる神殿を汚し 、ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクにささげた。しかし、わたしはこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった」。また列王記下の23章10節には、ヨシヤ王がこのモレクへの犠牲の祭壇を破壊したことがこのように記されています「王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、だれもモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした」。トフェトというのは、モレクに犠牲を献げる祭壇のことです。このように、子供をいけにえとして献げるというモレク崇拝が、神の民とされたイスラエルの人々の中にも入り込んでいたのです。
このようなおぞましい儀式が、しかもそれは罪であるという神様の戒めがあるにもかかわらずどうしてイスラエルの民の間で行われるようになったのでしょうか。聖書には、イスラエルの二人の王が、このモレクに自分の子供を献げたことが語られています。一人はアハズ王です。列王記下16章1-3節に、彼が自分の子に火の中を通らせることをしたと書かれていますが、それはモレク神に献げたということです。もう一人はマナセ王です。同じ列王記下21章6節にこのようにあります。「彼は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せ や霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた」。これらの二人の王はいずれも、敵に攻められて国が滅びてしまうかもしれないという危機に立たされたのです。彼らが子供を犠牲として献げたのは、そういう国の存亡の危機においてだったろうと思われます。つまり、モレク神に子供をささげるという儀式は、特別な危機に瀕した人が、そこからの救いを求めて行うことだったようです。そういう特別な救いを願い求めるためには通常の献げ物では足りない、何か特別な献げ物が必要だ、自分の一番大切なものを犠牲にしなければそういう救いは得られない、という人間の思いと、子供をいけにえとして求めるモレク神崇拝の儀式とが結びついたのです。
神を利用しようとする罪
レビ記20章は、このモレク神崇拝を死に当る罪として断罪していますが、それは、これは子供への虐待であるとか、子供の人権を守る、というような理由によってではありません。3節に「わたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を冒涜したからである」とあるように、モレク神崇拝は何よりも主なる神様の聖なる名への冒涜なのです。つまり一般的な道徳の教えとしてではなくて、主なる神様を信じる神の民の歩みにおいて、これはあってはならないことなのです。それは第一には勿論、主なる神様とは別のモレクという神に犠牲を献げるようなことがあってはならないということですが、それだけではなくて、もっと深い理由があります。先ほど申しましたように、人々がモレク神に子供を献げたのは、重大な危機や苦しみに直面した時でした。何でもないのにやたらに子供を献げたりはしないのです。その時人の心を捕えているのは、「主なる神様をいくら礼拝し、犠牲を献げていても、自分のこの危機や苦しみは解決されそうもない」という思いです。主なる神よりももっと確かな救いを約束してくれる神はいないのか、と思っているところに、モレク神への崇拝が入り込んで来るのです。子供を犠牲にして献げるなど、親としては忍びない、大変な苦しみです。しかしだからこそ、そういう犠牲には効果がありそうに思えるのです。子供を殺して犠牲とするなどとんでもないことだと私たちは思いますが、実は、子供を犠牲にすることを求めるからこそ、モレク神への崇拝は栄えるのです。新興宗教が莫大なお金を集めるのはこういう心理によってです。献金は少しでいいです、などと言う宗教はかえって流行らないのであって、望みをかなえたければ沢山献金しなさい、大きな犠牲を払いなさい、と言われた方がみんなその気になるのです。こういう人間の心理の底にあるのは、神様との間でのギブ・アンド・テイクの思いです。自分を犠牲にして沢山のものを神様にささげれば、それに見合う恵み、ご利益をいただけるだろうと思うのです。しかしそれは結局は、神様を自分の願いを叶えるために利用しようということです。神様はそこでは、お金を入れれば品物が出てくる自動販売機と同じです。よりより品物を得るためにはより多額のお金を入れなければならないのは当然のことなのです。モレク神崇拝の根本的な罪は、子供への虐待というようなことではなくて、神様を、人間の願いをかなえ、求めている助けを得るための道具として利用しようとすることにこそあるのです。そしてそれはさらに掘り下げて言うならば、この世界や人間の歩みの全てが主なる神様のご支配の下にあり、主のみ心こそが行われる、ということを否定して、主なる神様とは別の何らかの力がこの世を支配しており、人間が犠牲を献げたりまじないのようなものを用いることによってその力を自分の都合のよいように動かすことができると思い込むことです。主なる神様のご支配よりも様々な霊的な力の支配の方がより現実的であると感じ、そしてそれらの力をコントロールしようとすることがそこでは起っているのです。それは、主なる神様の民において決してあってはならない罪なのです。
占いの罪
モレク神に子供をささげることに続いて6節には「口寄せや霊媒を訪れて、これを求めて淫行を行う者があれば、わたしはその者にわたしの顔を向け、彼を民の中から断つ」とあります。そして最後の27節にも「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪に当たる」とあります。先程のマナセ王のところにも、モレク神に子供をささげることと並んで口寄せ や霊媒を用いたことが主の目に悪とされることとされていました。「口寄せ」というのは、死んだ人の霊を呼び出してその語ることを告げる、いわゆる「巫女」のような人です。サウル王が、預言者サムエルの霊を口寄せによって呼び出したことがサムエル記上28章に語られています。そのことは、サウルが神様に見放されて滅びへの道をまっしぐらにつき進んでいくことの現れでした。「口寄せ」を訪れることも、危機や苦しみの中で、主なる神様にでなくて死者の霊の力に依り頼もうとするという意味で、モレク神に子供を献げるのと本質的には同じ、神の民においてあってはならない罪なのです。「口寄せ」と並んで「霊媒」とも語られています。それは、霊的な能力を発揮して、普通の人には分からないことを告げたり、こうした方がよいとアドバイスしたりする者のことです。以前の口語訳聖書ではこれは「占い師」と訳されていました。このように訳した方が、私たちの身近な所にもあって警戒しなければならない事柄であることが分かってよいと思います。聖書は、占い師のところを訪ねてアドバイスを受けたりすることを、モレク神に子供をささげるのと同列の、神の民において決してあってはならないこととして厳しく戒めているのです。申命記の第18章9-14節がその代表的な箇所ですので読んでみます。「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」。このように聖書は、神の民として生きる者たちにおいては、あらゆる占い、魔術、迷信が罪であるとしています。なぜなら、それらのことにおいては、生まれた日の星座であるとか、どういう名前をもって生きているかとか、いわゆる「風水」などが自分の人生を支配していることが前提となっており、主なる神様ただお一人がまことの神としてこの世界と私たちの人生を導いておられることが否定されているからです。
知られざる神に
本日共に読む新約聖書の箇所として、使徒言行録第17章22節以下を選びました。ここは、使徒パウロがギリシャのアテネで伝道した時に語った説教です。パウロはこのように語り始めています。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」。アテネにはいろいろな神々の祭壇があり、その中には「知られざる神に」というものまであった。つまり、まだ自分たちが知らないでいる神様がおられるかもしれない、そういう神様にも粗相があってはならないから、祭壇を作って献げ物をして、怒りを招かないようにしよう、ということです。この「知られざる神に」という祭壇を築く思いこそがまさに、モレク神に子供をささげたり、占いを気にしたり頼ったりする思いであると言うことができます。その根底には、この世界や人生を、得体の知れない、薄気味の悪い霊の力が支配しているという思いがあります。その力は人間の願いや望みを叶えるために働くこともあれば、時として人間に害を加え、災いをもたらすこともあります。そういう霊の力が災いをもたらさないようにするために祭壇を作ってお祭りをしてご機嫌を取らなければならないし、占いや呪術によって逆にその力を自分の願いを叶えるために利用しようとすることも起るのです。しかしそれはギブ・アンド・テイクの世界ですから、より大きなご利益を得るためにはそれだけ大きな犠牲が必要となり、そこに、子供をいけにえとするようなおぞましいことも生じるのです。これらのことの底に流れている根本的な思いは、「知られざる神」に対する恐れです。パウロは、アテネの人々が沢山の神々を祭っているけれども、その神々を得体の知れない薄気味悪い力としてしか感じることができておらず、恐れの思いに捕えられていることを見て取ったのです。そこで彼はこのように語りました。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」。パウロがここで語ったのは、「あなたがたの知らないこういう神様もいるんですよ」ということではありません。「あなたがたは本当の神を知らない、本当の神は、あなたがたが恐れているような、得体の知れない、薄気味悪い、粗相があったら人に害を加えるような方ではない。そうではなくて、この世界とその中の全てのものを造り、今も導き、支配しておられる方であり、その方が、私たち全ての者に命を与え、必要なすべてのものを与えて下さっているのだ」とパウロは語っているのです。そしてこのまことの神は、人間に仕えてもらわなければ生きていけないような方ではないし、まして、子供の命をいけにえとして求めるような方ではありません。むしろその反対に、その独り子の命を私たちの救いのために、私たちの罪を赦して下さるために与えて下さる方なのです。そのように、独り子の命をさえ与えて下さる愛をもって私たちを支配し、導いて下さっている神こそ真実の神であり、私たちを恐れから解放し、神を愛し、信頼して喜びと感謝に生きることができるようにして下さるのです。それが、パウロが告げ知らせている福音です。
神の民として生きる
私たちは今週、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを特に覚える受難週を歩みます。神の独り子であり、まことの神であられる主イエスが、私たちの救いのために苦しみを引き受け、私たちの罪を全て背負って死んで下さったのです。そして来主日はイースター、主の復活の記念日です。主イエスを復活させることによって父なる神様は私たちにも、神の子として生きる永遠の命を約束して下さったのです。これほどまでに愛して下さっている神を知らされているのですから、私たちはもはや、知られざる神を恐れて何か粗相があっては大変とびくびくしながら生きる必要はありません。また自分の願いを叶えるために神を利用しようとするギブ・アンド・テイクの世界からも解放されています。私たちは、神の愛を信じ、信頼して委ね、従っていくことができるのです。その歩みの中で、父母との関係も、男女の関係も整えていくことができるし、あらゆる占いやまじないなどから遠ざかって生きることができるのです。弱い私たちはこれらのことにおいて罪に陥りがちな者ですが、主イエスの十字架の苦しみと死とによって罪を赦して下さる神様の愛が、神の民としての私たちの歩みを支えているのです。