夕礼拝

金の子牛

「金の子牛」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第32章1-35節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第10章1-13節
・ 讃美歌 : 233、441

契約の締結
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めております。前回、先月には、第24章を読みました。そこには、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことが語られていました。主なる神様がイスラエルの神となって下さり、イスラエルが神様の民となる、そういう特別な関係が、この契約によって主なる神様とイスラエルの間に結ばれたのです。そういう契約はこの時に初めて結ばれたものではありません。イスラエルの最初の先祖であるアブラハム以来、主なる神様はこの民と何度か契約を結んできて下さいました。ですからここで結ばれた契約は、主なる神様とイスラエルの民の、既にあった関係を改めて確認したものだと言うことができます。けれども、この時点でその関係が再確認され、新たな契約が結ばれたのは、この出エジプト記で私たちがこれまで読んできたように、エジプトで奴隷とされ、苦しめられていたイスラエルの民が、エジプトを脱出することができたという、主なる神様による救いの出来事が起ったからです。この救いの出来事によって、神様とイスラエルの民との関係は新しい段階に入ったのです。その新しい関係を確認する契約が新たに結ばれたのです。主なる神様によるエジプトの奴隷状態からの解放という確固たる土台が、神様とイスラエルの関係に据えられたと言ってもよいでしょう。
 24章でこの契約が結ばれたのですが、その前の20章から23章にかけてのところでは、「十戒」とそれに基づく「契約の書」が与えられています。それらは、エジプトにおける奴隷の苦しみから救われ、神様の民として歩んでいくイスラエルの民が、その救いの恵みに応えてどのように生きるべきかを教えています。さらに、24章の契約締結の後の25章から31章にかけては、主なる神様を礼拝し、犠牲の動物を捧げるための場所をどのように整えたらよいか、またその礼拝に仕える祭司がどのような装いをし、どのような儀式を行えばよいのかが教えられています。イスラエルが神様の民として歩むための具体的な教えがこの契約締結の前と後に語られているのです。エジプトからの解放という具体的な救いの恵みに基づく契約によって神の民としての新しい段階を歩み始めるイスラエルに、その歩みのための教えも新しく具体的に与えられた、それが十戒と契約の書であると言うことができるでしょう。

麓で待つ人々の不安
 さて本日はその後の32章を読むのですが、ここは前回読んだ24章の最後のところとつながっています。24章の終りには、モーセが、主なる神様から十戒を記した石の板を授かるために、従者ヨシュアと二人で、神の山であるシナイ山を登って行ったことが語られていました。彼らが登っていくと、雲が山を覆い、主の栄光が山の頂で燃える火のように見えた、とあります。その雲と火の中に、モーセたちは入って行ったのです。そして24章の最後の18節には、彼らはその山に四十日四十夜留まったとありました。本日の32章は、この四十日間、麓でモーセの帰りを待っていたイスラエルの人々の間で起ったことを語っているのです。1節の冒頭に「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て」とあります。モーセがなかなか戻って来ないので、待っている人々はやきもきし始めたのです。彼らはアロンのもとに集まって来ました。アロンはモーセの兄であり、モーセと共に出エジプトの指導者だった人です。彼はモーセがシナイ山に登っている間、留守をあずかり、民を指導するために任命されていました。そのアロンの所に人々が集まって来て、こう言ったのです。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」。彼らは、モーセがなかなか戻って来ないので不安になっています。雲に覆われ、雷鳴がとどろき、頂には火が燃えているような山に入ったきり帰って来ないのです。あのような山の中ではどうなってしまったか分からない、もう帰って来ることはできないのではないか、そういう不安が彼らを捕えていることはよく分かります。しかし彼らがその不安の中で語ったことはいったい何なのでしょうか。

誰に導かれているのか
 「我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」。この言葉は二つの重大な問題を示しています。第一は、彼らはいったい今まで誰に導かれていると思っていたのか、ということです。「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセ」と言っています。自分たちはモーセに導かれてきた、と彼らは思っているのです。勿論モーセが、エジプトからの脱出において彼らの先頭に立つ、目に見える指導者でした。しかしエジプトの奴隷状態からの解放は、決してモーセという人間の指導力や交渉力によって実現したことではありません。全ては主なる神様の力によることであり、主が行って下さったみ業だったのです。イスラエルの解放を頑なに認めようとしなかったエジプト王ファラオがついに屈服したのは、過越の出来事において、主なる神様がエジプトの全ての初子を撃ち殺すというみ業を行って下さったことによってでした。さらには、ようやくエジプトを出たと思ったのも束の間、心変わりしたファラオが戦車部隊を率いて追って来たのです。前は海、後ろからはエジプトの戦車部隊という絶体絶命の危機に直面した時、主なる神様が海の水を左右に分けて道を開いて下さり、彼らはそこを通って向こう岸へと渡ることができたのです。後から追ってその道へ入ってきたエジプトの戦車部隊の上に海の水が返り、彼らは全滅してしまったのです。これもまた、主なる神様の大いなる救いのみ業です。イスラエルの民はそれらのことを自分の目で目撃し、体験してきたはずなのです。だから、自分たちをエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野の旅を今導いておられるのは主なる神様であり、モーセはその主なる神様から遣わされ、神様のみ心を自分たちに伝えてくれる人だ、ということを彼らは知っているはずなのです。ところが、そのモーセがどうなったか分からないとなった途端に彼らは、自分たちに先立って進み、導いてくれる者がもういない、という思いに陥っています。ということは、彼らはこれまで、モーセという目に見える指導者のことしか見ていなかったということです。そのモーセを遣わし、彼を通して語りかけ、自分たちを救い、また教え導いて下さっている主なる神様のことが全く目に入っていない、意識されていないのです。つまり彼らは、神様にではなくて、目に見える人間に依り頼み、人間の指導者の存在によって安心を得ていたのです。これが、イスラエルの人々の言葉に現れている第一の問題です。

神を造ろうとする人々
 そして第二の重大な問題は、彼らが、自分たちに先立って進む神々を造ってくれるようにとアロンに要求していることです。モーセという人間の指導者に頼っていたのですから、モーセがいなくなれば次の指導者、つまりモーセの後継者を求める、というのが論理的な帰結ですが、そうはなりません。モーセという人が主なる神様から、民の指導者としての類い稀な賜物、カリスマを与えられていたことは間違いないでしょう。そういうモーセを頼りにしていた人々が、モーセと同じようにその後継者に頼るということにはならないのです。そうではなくて彼らは、目に見える神を造り出そうとするのです。目に見える神というのは、自分の思い通りの神ということです。自分が神について抱いているイメージ、神はこうであってほしいと思っている願い、それがそのまま形になった神を求めていくのです。そういう彼らの思いは、もともとモーセに頼っていた時と実は少しも変わっていません。つまり彼らはモーセにも、自分の思い通りの、自分がこうであってほしいと期待している指導者のイメージを見ていたのです。モーセ自身は、自分の力によって民を導こうとしたのではなくて、主なる神様のみ心に従って、与えられた使命を果していたのです。そのモーセの思いを彼らが本当に理解していたなら、たとえモーセがいなくなっても、主なる神様が自分たちをちゃんと導いていて下さることを見つめることができたでしょうし、まして目に見える神を造ろうなどと言い出したはずはありません。しかし彼らはモーセの思いを理解するのではなく、自分の願う指導者像を勝手にモーセにあてはめて、そのモーセに頼っていたのです。そのモーセから今度は、目に見える、形ある神の像に乗り換えようとしているだけのことです。つまりモーセという人間に頼っていることと、目に見える神の像を造ろうとすることは本質的には同じことなのであって、いずれにしても自分の思いや願いを何かに投影して、それを神とし、それに依り頼んでいるのです。ですから先ほど彼らの言葉には二つの重大な問題があると申しましたが、その問題は実は一つだとも言えるわけです。

偶像を造ってしまう私たち
 この言葉に現れているイスラエルの民の重大な問題は、私たちにおいても決して他人事ではないでしょう。私たちの信仰は、目に見えない神様を信じ、神様にこそ依り頼んで生きることです。しかし、その信仰に生きているはずの私たちが、実は本当に依り頼んでいるのは、目に見える人間だったりすることはよくあるのです。神様との交わりよりも、ある指導者によって、導き手によって、あるいは仲間の信仰者との交わりによって実は信仰が支えられている、ということがあります。そのような信仰に生きていると、その指導者、導き手が亡くなったり、いなくなったりした時に、あるいは仲間との交わりが途絶えてしまった時に、このイスラエルの民のように、自分を導いてくれる存在がいなくなってしまったという絶望感に陥り、信仰者として歩み続けることができなくなってしまうのです。そしてそこで起るのは、それまで自分がその指導者によって、あるいは仲間たちによって与えられてきた良い体験を、つまり思い出を、神としてしまうことです。思い出が偶像になってしまうということが起るのです。神様は、目に見える具体的な人間を通して私たちに語りかけ、働きかけ、救いを与えて下さいます。ですからそういう人間が与えられていることは大きな恵みです。しかし大事なことは、その人間だけを見つめているのではなくて、その人を通して語りかけ、救いを与えて下さっている目に見えない神様との交わりをしっかりと持つことなのです。それがないと、私たちは結局、神ではない人間を、あるいは人間の思い出を神にしてしまうという偶像崇拝に陥ってしまうのです。

金の子牛
 アロンは民の要求に屈して、「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」と言いました。すると民は全員、着けていた金の耳輪をはずして持って来たのです。このことも象徴的な意味を持っていると思います。偶像の神、自分の思いや願いを満たしてくれる神を求める時、人は自分の持っている最も貴重なもの、高価なものを惜しげもなく差し出すのです。そこで求められる代償はむしろ大きい方が喜ばれるのです。そのようにして得られる神の方が、より自分の願いをかなえてくれる力がありそうだからです。ご利益を約束する宗教が莫大なお金を集めるのはこの思いを巧みに刺激することによってです。そこには明らかに、これだけ沢山捧げたのだから神様も自分の願いをかなえてくれるのでは、という期待、神様と取引をする感覚が働いています。偶像の神にはそういう取引の感覚がついてまわります。いっしょうけんめい貢ぐことによって相手の好意を得ようとするような感覚です。そういう感覚によって生まれて来たのが、ここでは、金で出来た若い雄牛の鋳像でした。小見出しではそれが「金の子牛」と呼ばれています。しばしばそのように語られますので、ここでもそう呼びたいと思います。

誰に聞き従うのか
 この金の子牛を見たイスラエルの民は、4節後半でこう言いました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」。注意しなければならないのは、これはアロンが語った言葉ではない、ということです。人々から金の耳輪を集め、鋳型を造ってこの金の子牛を造ったのはアロンでしたが、その子牛を「これがあなたの神だ」と語ったのはアロンではなくて、「我々に先立って進む神々を造ってください」と願った民だったのです。つまり人々は自分で自分にそう言い聞かせたのです。そしてこの宣言は、20章2節の、十戒の前提となっている主なる神様のみ言葉、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と明らかに対応しています。20章では、主なる神様ご自身が、私こそ、あなたがたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、と宣言しておられます。しかしここでは、イスラエルの民が、主なる神様のその宣言に対抗して、目に見えるこの金の子牛の像こそが、私たちをエジプトの国から導き上った神だ、と自分自身に対して宣言しているのです。このことは、どちらの宣言に聞き従って生きるのか、という問いを私たちにつきつけています。主なる神様の、私こそがあなたを奴隷状態から解放した神だ、という宣言に聞き従い、主なる神様にこそ依り頼んで生きるのか、それとも、主なる神様ではなく、自分の願いの投影である偶像に依り頼んで生きるのか、そのことを私たちも問われているのです。そしてそれは、主なる神様を主人として従って生きるのか、それとも自分が主人となって生きようとするのか、という問いでもあります。本当の救いはどちらにあるのか、主なる神様に従うことにか、それとも自分の思いや願いを中心にして生きていくことにあるのか、という問いでもあります。私たちもそういう問いの前に立たされるのです。

偶像の祭り
 民がこのように金の子牛の像を自分たちの神だと言ったのを見たアロンは、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言しました。アロンとしては、これを「主の祭り」と呼ぶことで、主なる神様への義理を多少は果たしたつもりだったのかもしれません。人々は翌朝早く起きて、金の子牛に犠牲を捧げ、礼拝しました。そしてその金の子牛の前で飲み食いしました。神様の前で食事をするということは、前回の24章にもありました。イスラエルの長老たちがシナイ山で主なる神様の前で食べ、また飲んだのです。それは神様と民との契約の印としての食事でした。食事をするというのは、特別に深い関係に入ることの象徴です。イスラエルの民は、金の子牛の像の前で飲み食いすることによって、自分たちはこの金の子牛の民であることを確認したのです。そしてさらにそこには「立って戯れた」とあります。これは、祭りにおける飲み食いに伴うどんちゃん騒ぎという以上の意味を持つことです。洋の東西を問わず、いわゆる五穀豊穣を祈願する祭り、豊年満作を願う祭りは、多産、子孫繁栄の願いと結びついて、生殖行為を促し、性的な欲望を刺激するような内容が伴ってくるのです。後にカナンの地に定住したイスラエルにおいて、周辺の民族のそのような神々の祭りが入り込んで来ることが大きな問題となりました。ここで行われたこともそういうことと結びついていると思われます。人間が、自分の願いの投影として造り出す偶像は、基本的に、人間の様々な欲望を肯定し、それを刺激するのです。「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」というのは、この祭りにおいて、人間の様々な欲望が、性的な欲望も含めて、解き放たれたことを意味しています。これもまた、偶像の神の特徴であると言えるでしょう。

十戒の違反
 イスラエルの民は、このような偶像礼拝に陥ったのです。そのようなことが起ったのが、モーセが、十戒を記した二枚の石の板を授かるためにシナイ山に登っていた間だったというのは、何ともやりきれない、皮肉な話です。十戒と契約の書の内容は既に民に語られ、説明されていましたから、民はそれを知っており、24章の3節で、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言ったのです。それなのに彼らは、その十戒を記した石の板が授けられている間に、第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」とを完全に破り、主なる神様をおいてほかのものを神とし、自分の思いや願いをかなえてくれる金の子牛の像を造り、それに向かってひれ伏し、礼拝したのです。先月、24章において私たちは、主なる神様がイスラエルの民と契約を結び、彼らをご自分の民として下さったことを読みました。イスラエルの民はこの契約によって神の民として新たに歩み出した途端に、このような罪に陥り、神の民としての歩みを自分で投げ出してしまったのです。

見えない神を信じて
 このようなことが起った原因は、先程も申しましたように、彼らが、目に見えない神様を信じ信頼して歩んでおらず、目に見える人間の指導者や、自分を導いてくれる人ばかりを見つめ、その人を頼りにしていたからです。それゆえに、これも先程申しましたように、これは私たち一人一人にも起ることなのです。私たちは、いろいろな人との出会いによって信仰を与えられます。それは神様の恵みであり、神様がそこに働いて私たちを導いて下さっているのです。しかしそこで私たちは、その人のことだけを見つめていてはならないのです。その人を生かし、導き、自分のところに遣わして下さった主なる神様をこそ見つめ、その神様との交わりに生きることを求めていかなければならないのです。そうでないと、まさにここで起ったように偶像を造り出してそれを拝むようなことになってしまうのです。

試練の中で
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第10章1節以下は、主イエス・キリストによる救いにあずかり、信仰者として歩んでいる者が、偶像礼拝に陥ってしまうことへの警告を語っており、その中で、この出来事が取り上げられています。7節の「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」というのがそれです。このことだけでなく、いくつかの事例があげられて偶像礼拝の警告が語られているのですが、その最後の13節に、よく知られたこの言葉があるのです。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。このみ言葉が語っているのは、私たちが偶像礼拝に陥ることは、試練の中で起るということです。モーセが山に入ったきり帰って来ないというのは、待っているイスラエルの民に与えられた試練でした。その試練は、彼らが、自分たちを救い、導いておられるのは誰なのかということを真剣に考え、主なる神様こそが自分たちを救い、導いておられる方なのであって、モーセはその神様から遣わされ、神様による救いに自分たちの目を向けさせようとしているのだということを知るために与えられていたのです。そのことに目を向けるをなら、この試練に耐えて神様の民として歩み続けることができる逃れる道がそこに見出せたはずなのです。しかしイスラエルの民はその試練において、「神は真実な方です」という信仰に立つことができずに、偶像礼拝に陥りました。その続きのところは次回のお楽しみとしたいと思います。本日のところにおいて私たちが確認しておきたいのは、信仰の試練の中で本当に力となるのは、人間の指導者や導き手との交わりではない、ということです。人間の指導者や導き手との交わりは感謝すべきことですが、それらの人々を通して、生けるまことの神様が私たちと出会い、交わりを築き、導いて下さっていることに目を開かれていくことによってこそ、目に見えない神様の救いと導きが与えられていくのです。クリスマスに備える最後の週である今週、目に見える人間の働きを通して私たちに語りかけ、救いを与えようとしておられる主イエス・キリストとの交わりをこそ求めていきたいと思います。それこそが、クリスマスに備えるために最も大切なことなのです。

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