クリスマス讃美夕礼拝

恐れるな

「恐れるな」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第2章1-20節

特別な思いで迎えるクリスマス
 みなさん、教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。今年のクリスマスを、私たちは特別な思いで迎えているのではないでしょうか。それは言うまでもなく、あの東日本大震災と福島の原発事故の体験によってです。世界的に見れば、大きな災害や事故は毎年のように起っているし、例えば何年か前のスマトラ島沖地震による大津波は、東日本大震災による津波の何倍もの死者を出しているわけですから、今年だけ特別な思いを抱くというのは、私たちの思いがいかに自分の身近なことにしか向いていない利己的なものであるか、ということの現れでもあるのですが、それは認めざるを得ないとしても、自分の国であのような大津波が起り、私たちがよく知っている町並みが押し流されていく映像を見せつけられ、またそれこそ遠い国である当時はソ連のいいかげんな技術によって起った迷惑な事態と思っていたチェルノブイリの事故と同レベルの事故がこの国で起ってしまった中で、やはり今年のクリスマスは特別な思いで迎えざるを得ないというのが正直なところです。来年の年賀状も「お祝い」の言葉を避けたものが発売されているそうです。クリスマスについても、「暢気にクリスマスなど祝っている場合か」という思いを持っている人もおられるのではないでしょうか。

不安と恐れ
 9ヶ月が経って、私たちの生活の目に見える部分はおおむね平常の姿に戻ってきていると言えると思いますが、あの震災の影響は私たちの社会全体になお大きくのしかかっています。多くの人々の命が突然失われたという悲しみや衝撃はそう簡単に癒えることはありません。津波で家や財産を失った人たちの生活の再建もまだまだこれからです。地域全体が壊滅してしまった所も多いわけで、東北から関東にかけてのあの広い地域をどのように復興していけばよいのか、その道はまだ見えていません。そして特に原発事故の影響は、福島県のみでなく、とても広い範囲に及んでいます。二週間ほど前に、原子炉の冷温停止が完了したという発表がなされました。事故自体は収束した、と説明されましたが、メルトダウンした核燃料がどうなっているのか分かっていないのに収束したなどと言ってよいのだろうかと思います。それらを処理するのにはこの先まだ何十年もかかるのです。そのくらいの期間、人が住むことができない地域も出てくるでしょう。そういう前代未聞の悲劇が今この国で起っているわけです。私たちの生活も、放射線の不安にさらされています。特に、食品の放射線量が心配です。暫定基準値というかなり緩い基準で今は食品が流通しています。より厳しい基準値が検討されているようです。それは良いことですが、一つ一つの食品は基準値以下でも、被爆はそれぞれの食品全部の影響を足し算して考えなければなりませんから、基準値以下なら安全、と言えるわけではありません。放射線の影響についての正しい知識を持って、気をつけるべきことをしっかりと気をつけていくことが、これからこの国で生きていくためには必要なのです。そのこと一つをとっても、今私たちの生活は不安に満ちています。その他にも、ヨーロッパの信用不安とか、タイの洪水といったことが、私たちの生活に直接深刻な影響を及ぼすことを今年私たちは実感させられました。つい数日前には、北朝鮮の金正日総書記の死去のニュースが流れました。今年はあちこちの国で、それまで長年独裁的権力を握っていた人たちが倒されましたが、金正日もまた今年、こういう形で歴史の舞台から姿を消すとは思っていませんでした。あの国がこれからどうなっていくのか、それも私たちにとっての新たな不安材料です。今私たちはまさにグローバルな社会を生きているわけで、世界で起っているいろいろな流れにいやおうなく巻き込まれ、影響を受けるのです。逆に言えば、福島の原発事故は日本だけでなく世界全体に大きな影響を与えており、今やフクシマの名はヒロシマ、ナガサキと並んで世界中に知られています。私たちの国も、世界の人々に不安と恐れを与えているのです。

クリスマスの物語
 そういう恐れ、不安の闇の中で、私たちは今年のクリスマスを迎えました。クリスマスは、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを記念する時です。そのイエス・キリスト誕生の出来事を語っている新約聖書ルカによる福音書第2章が先ほど朗読されました。既にイエスを身ごもっていた母マリアと夫ヨセフとが、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令によって、身重の身で長い旅をしなければならず、その旅先のベツレヘムでイエス・キリストは生まれたのです。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とあることから、キリストは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。馬小屋だったかどうかははっきりしませんが、少なくとも人間の居場所ではない所で、マリアは初めての出産をしなければならなかったのです。それは大変つらい、悲惨な出来事だったと言わなければならないでしょう。  しかしその晩、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、「民全体に与えられる大きな喜び」を告げました。その大きな喜びとは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。天使は、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」こそがその救い主であると言いました。マリアが悲惨な馬小屋でつらい思いをして産んだイエスこそが救い主であると告げたのです。羊飼いたちはお告げの通り、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」イエスを探し当て、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。

恐れるな
 かたや悲惨な出産の出来事を、しかし他方で大きな喜びが告げられたことを語っているクリスマスの物語の中で、今宵私たちが特に思いを向けたいのは、10節で天使が語った「恐れるな」という言葉です。天使は羊飼いたちに「恐れるな」と語りかけ、そして救い主の誕生という、民全体に与えられる大きな喜びを告げたのです。この天使の語りかけを、今宵私たちも聞きたいと切に願います。この特別な年のクリスマスを、神様が私たち一人一人に「恐れるな」と語りかけてくださり、大きな喜びを与えて下さる、そういう時として過ごしたいのです。

神の前での恐れ
 羊飼いたちに天使が現れたことを語っている9節には、「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあります。天使が現れ、主の栄光に照らされたために、羊飼いたちは非常に恐れたのです。この恐れは、彼らがもともと抱いていたものではなくて、天使が現れたことによって初めて生じたものです。この羊飼いたちは、何の恐れもない、豊かで平安な暮らしをしていたわけではありません。彼らはむしろとても貧しい人々であり、しかも、家畜と一緒に野宿する生活をしていたために、人並みの生活をしていない者たちとして人々から蔑まれ、差別されていたのです。ですから彼らの日々の生活は、まさに恐れと不安に囲まれていました。でも天使は、彼らのその恐れに対して「恐れるな」と言ったのではありませんでした。彼らは天使が現れ、主の栄光に照らされたことによって、それまで生活の中で感じていたのとは違う恐れを覚えたのです。それは、神様のみ前に立つことによる恐れ、神様の栄光に照らされることによる恐れです。神様の偉大さ、清さ、栄光の前で、自分が弱くちっぽけな、罪にまみれた者でしかないことを知らされることによる恐れと言ってもよいでしょう。そういう恐れは、自分の普段の生活における苦しみや悲しみ、貧しさや弱さから生じるものではありません。彼ら羊飼いたちも、貧しさや差別される苦しみやそれによる恐れは覚えていたけれども、神様の前でのこの恐れは知らなかったのです。私たちもそうではないでしょうか。私たちも、自分のいろいろな事情の中で、特に今置かれている社会の不安な状況の中で、恐れを覚えます。でもそれは神様の前で自分の弱さや罪を示されることによる恐れではありません。そういう恐れを私たちは失っているのです。そしてそのことこそが、現在の私たちの、この社会の、最大の問題なのではないでしょうか。今この社会に起っているいろいろな問題、不安と恐れを私たちにもたらしている事柄の根本に、神様の前での恐れを失っているということがあるのではないでしょうか。

恐れを失ったために
 原発の事故はその典型的な現れだと思うのです。原子力というのは、地球の自然環境の中では基本的に安定した状態にある原子を人為的に分裂させ、そこから生じる莫大なエネルギーを利用しようとするものです。しかしそのエネルギーと共に、放射性物質が生まれ、それが人間をはじめ生物の命を脅かすのです。そしてこの放射性物質は、細菌やウイルスなどのように消毒することができません。煮ても焼いてもなくなりません。だから今ゴミ焼却場から出る灰が大問題となっています。高性能の焼却場でゴミ全体の量を減らせば減らすほど、放射性物質はなくならずにかえって濃縮され、埋め立てにも使えない高濃度の放射性廃棄物がどんどんたまっていくのです。原子力開発は、人間がこの原子力エネルギーとそこから生じる放射性物質を安全に管理することができる、という人間の力への過信に基づいて進められてきました。私たち一般の者たちも、人間の技術によってそれらを安全に管理できるという説明を信じて、いわゆる安全神話を鵜呑みにしてきたのです。しかしそれはとんでもない思い上がりでした。私たちは「恐れ」を失っていたのです。神様の前で、神様がお造りになった自然の前で、人間の力や知恵がいかにちっぽけな、弱いものであるか、さらに人間がいかに罪深いものであるか、そういうことへの恐れの思いを失ったことによってこのような思い上がりに陥り、その結果、今このようなしっぺ返しを受けているのではないでしょうか。今私たちに、この社会に、根本的に欠けていること、本当に必要なことは、神様の前での恐れ、神様を恐れる思いを持つこと、つまりこの羊飼いたちが覚えた恐れを私たちも抱くことなのではないでしょうか。

本当に恐れるべき方を恐れる
 神様の前での恐れを抱くというのは、神様を、何をするか分からない得体の知れない力として怖がることとは違います。羊飼いたちは、恐ろしい怪物に出会って恐れたのではありません。神様の栄光に照らされたのです。人間を超えた、神様の偉大な力、清さ、正義、真実に触れたことによって恐れたのです。そしてそこには、神様からの「恐れるな」というみ声が響くのです。そのみ声によって、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という大きな喜びが告げられたのです。神様の偉大な力、清さ、正義、真実が示され、その前で私たちが自分の小ささ、弱さ、罪深さを示されて恐れを覚える、その時にこそ神様は私たちに「恐れるな」と語りかけて下さり、そして示して下さるのです。神様の偉大な力、清さ、正義、真実は、私たちを滅ぼそうとしているのではなくて、罪と汚れに満ちている私たちを救って下さるのだ、ということをです。そのために、神様の独り子イエス・キリストが、この世に来て下さったのだということをです。イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれたというのは、この世のつらい苦しい悲惨な現実のただ中に来て下さったということです。そして主イエスは弱く貧しい罪ある人間と共に歩んで下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエス・キリストのご生涯と十字架の死によって、神様の偉大な力、清さ、正義、真実が私たちを救って下さることが示されたのです。クリスマスは、そのイエス・キリストが私たちのところに来て下さったことを喜び祝う時です。クリスマスにこの世に来て下さった神様の独り子イエス・キリストを心の中にお迎えすることによって、私たち一人一人の心にも、神様からの「恐れるな」という、恵みに満ちたみ声が響くのです。この恵みに満ちたみ声を聞いて、神様のみ前に膝まづいて礼拝する者となることによってこそ私たちは、人間の思い上がりを悔い改めて、神様のみ前に自分の弱さ、小ささ、罪深さを認めて謙遜になり、本当に恐れるべき方である神様を恐れて生きていくことできます。この後ご一緒に、アッシジのフランシスコの「平和の祈り」を祈りたいと思いますが、この祈りも、神様をこそ恐れて生きる信仰から生まれたものです。本当に恐れるべき方である神様を恐れることを知った者は、この世界に渦巻く不安と恐れに負けることなく、神がもたらして下さる平和の道具として生きることができるのです。

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