主日礼拝

主イエスに遣わされて

「主イエスに遣わされて」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第2章1-7節 
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章1-13節
・ 讃美歌:204、231、431

大工の主イエス
 本日はご一緒にマルコによる福音書第6章の1節から13節をお読みしたいと思います。私たちは主イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを待ち望むアドヴェントの日々を歩んでおります。本日は待降節の第4主日です。この時期、多くの教会学校ではクリスマス聖誕劇をいたします。一般的に「ページェント」と呼ばれ、新約聖書の福音書に記された、主イエス・キリストの誕生にまつわる様々なエピソードを象徴的な形式の劇にまとめたものです。主イエス・キリストの誕生の様子を子ども達が衣装を来て演じます。その中で、主イエスの父ヨセフのこのような台詞があります。「ガリラヤのナザレから来ました。大工のヨセフと言います。」という主イエスの父ヨセフの台詞です。主イエスは大工のヨセフの子どもであるというのは、本日の箇所が根拠となっております。そして、主イエス御自身もまた大工でありました。3節には多くの人々が「この人は、大工ではないか。」と主イエスに言ったとあります。この「大工」と言う言葉の元々の意味は「家を建てる技術を持っている人」という意味です。家を建てるというのは木材だけを扱うのではなく、特にこの地方の家には石を用いるのですから、石屋としての仕事もあったことでしょう。今日の建築では、大工が立てた後、家具屋が入り、建具が入り、様々な仕事に分かれていますけれども、主イエスは建具もやれば、家具も作られたようであります。主イエスもこのように一人の人として働いていたということ分かります。この3節の「この人は、大工ではないか。」という先ほどの言葉をもっと強く訳しますと「この人は、あの大工ではないか。」という表現になります。「あの大工であるイエス」と言うことです。英語では不定冠詞と定冠詞の区別があります。ここには定冠詞をつけて「あの、大工さん」「皆が知っている大工」となります。ナザレという小さな村において、主イエスが大工であったということは皆が知っていたということです。「イエスは皆がよく知っているあの大工ではないか」ということになります。ナザレは主イエスが育ち、30歳頃になるまで働いておられた場所ですから、周りの人たちも皆お互いによく知り、主イエスのことも良く知っていたのです。

人として生まれ
 更に3節の続きには「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」と四人の男の子の名前が出てきます。彼らは主イエスの弟たちです。「ヤコブ」とは使徒言行録に登場する「主の兄弟ヤコブ」で、後にエルサレムの司教、監督になったと伝えられております。「ユダ」とは、新約聖書の後ろの方に「ユダの手紙」がありますが、このユダの手紙を書いた人だと言われております。実際には後の時代の人が書いてユダが書いたことにしたのだろうと言われておりますが、そのようにその著者と設定されるくらいに、その働きは当時よく知られていた人ではないかと思われます。「ヤコブ」という名前は過去に遡ってみますと旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブと続く信仰の祖先に由来する名前です。ヨセ、シモンという名前もまた、同じような名前がヤコブの子ども達の中にあります。「イエス」という名前も旧約聖書の中のヨシュアという名前と同じです。このような名前をつけたのは、主イエスの父ヨセフです。ヨセフは信仰深く、子ども達に信仰的な名前をつけ、このイスラエルの民の信仰の伝統を受け継ぐことを願いました。ヨセフは信仰深い大工の人であったのです。主イエスは信仰深い大工の子どもだったのです。しかし、ここでは主イエスのことを「ヨセフの子」とは記しておりません。「マリアの息子」と記しています。普通は、この人は誰の子だという時に、父親の名前と合わせる者です。父ヨセフは早くに死んでいたのではないか、ということも言えます。しかし、父親が早く死んでも、その子どもの事を「ヨセフの子」というのが通例であったようです。しかし、ここでは主イエスは「マリアの息子」と呼ばれています。そうなりますと、ここでナザレの村の人々は敢えて、主イエスを「マリアの息子」と呼んだのです。この事はマリアがヨセフと結婚する前に、身ごもった子であったということをここではっきりと示していると解釈できます。私たちは説教の前に共に使徒信条において信仰を言い表しました。主イエスを処女マリアより生まれた方として信じ言い表すのです。このことは私たちの信仰の告白において大切なことです。主イエスが確かに人間としてお生まれになったということです。それと同じことをナザレの村の人たちが「マリアの息子」と口にしているのです。

故郷ナザレにおいて
 しかし、この言葉は信仰の告白ではありません。むしろ、ここでは非難の言葉として使われています。主イエスがそこにおられるところで、遠慮しないで語られるのです。ナザレの人々は、このように主イエスの職業も家族も、その素性のすべてをよく知っておりました。その主イエスが家を出て、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と神の国の福音を宣べ伝える者、伝道者となったのです。更に主イエスは奇跡の業を行いました。主イエスの故郷のナザレにまで噂が伝わって来るようになったのです。このような主イエスの変貌に対する家族の反応はどうだったのでしょうか。少し前の3章20節以下には、身内の人々が主イエスを心配し連れ戻しにやってきたという記事が記されています。家族の者や身内の者は主イエスの変貌振りに動揺して、何とかして連れ戻したいと思ったのでしょう。しかし、結果はうまくいきませんでした。家族は複雑な思いで自分たちの村に帰ったのでしょうか。
 今度はその主イエスがその村に来たのです。本日の箇所の1節の「イエスはそこを去って故郷にお帰りになった」とあります。ここでは、「故郷」と記し、ナザレとは記していません。「故郷」となっています。この故郷は訳しますと「父の国」ということです。そのナザレにおいて、いったいのどのくらいの時間にどんなことが起こったのでしょうか。6節にはこうあります。「そして、人々の不信仰に驚かれた。」主イエスは人々の不信仰にびっくりなさったのです。その間の3節の最後には「このように、人々はイエスにつまづいた。」とあります。つまづいて、すぐ立ち直ったというのではなく、このような時の「つまづいた」というのはつまづいて倒れるという意味です。転んで、ひっくり返ってしまったということです。人々が主イエスにつまづいて、倒れて、倒れたのです。その人々の不信仰に主イエスのほうが驚かれたのです。そのような出来事が主イエスの故郷ナザレにおいて起ったのです。
 聖書の4つのどの福音書においても主イエスの生まれ故郷ナザレでの働きについては、良い関係が生まれなかったことを記しています。しかし、この後、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、主イエスの家族には変化が起こります。後の教会では母マリアはよく知られているようにあつい信奉を得ますし、主の兄弟ヤコブはエルサレム教会の中心になります。主イエスの十字架と復活によって、後の家族との新しい関係が築かれていくのです。しかし、この段階では確かに、主イエスの家族にしても、ナザレの会堂に集う人にしても、主イエスにつまずき、その不信仰は驚くほどのものと称されるのです。

信仰とは
 本日の箇所に先立つ、マルコによる福音書第5章21節から43節までに驚くべき信仰の物語が記されています。主イエスのガリラヤの湖の周辺で宣教の活動が記されています。主イエスは12年間出血で苦しんでいた人を癒されました。34節では「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われた言葉を頼りに、主イエスと共にとうとう自分の娘の死の床まで歩んでいった一人の男の物語が書かれております。続いてこのナザレでの働きが記されております。ここで一貫して取り上げられている主題は、「信仰」の事柄であるということが言えます。信仰を持つということは神の存在を信じることとも言えます。またキリスト教の教理を受け入れるとことであるとも言えます。しかし、更に、もっと根源的に、主イエスとどのような関係を保つかということです。この箇所では一貫して主イエスとの関わり方が問われています。ナザレの人たちの「驚くべき不信仰」とはどのような関わりだったのでしょう。
 2節をお読みしますと主イエスが安息日に会堂で教え始めら、多くの人々が驚いたということが記されています。人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と驚いたのでス。これは自然な反応です。主イエスの「授かった知恵」とは何でしょうか。「知恵」とはただ賢い、ただ利口ということではありません。ただ、知識があるということではありません。この言葉は、賢い知恵、最上の知恵、最も高く、最も深い知恵を意味いたします。主イエスの語られる言葉にはそのような知恵があるのだということです。ナザレの人々はそう聴き取ったのです。また、主イエスの手で行われる奇跡とは何でしょうか。「奇跡」とは元の言葉で「力」です。「力ある業」です。主イエスには知恵と力が備わっているということが、分かったのです。ナザレの人々は奇跡に感心したのです。2節には「驚いた」とあります。この「驚く」という言葉は、大いに驚いて「われを忘れたほどだったという」という意味の言葉です。主イエスの知恵も力も認める。それに驚くことは出来た。しかし、主イエスは人々の不信仰に驚かれたのです。主イエスの知恵と力ある業に我を忘れるほど驚く、けどそのことで信仰が生まれるわけではないのです。驚くような奇跡の業を信じても、それは主イエスに対する信仰にはならないのです。主イエスはそこに、人々の不信仰を見ておられるのです。人々は主イエスの知恵と力ある業に驚きました。そして「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここでわれわれと一緒に住んでいるではないか」と続けます。彼らは、他の町の人の知らない主イエスの真実、主イエスの家族のこと、職業を知っています。私たちもここで初めて、主イエスの兄弟の名前を知ります。しかし、彼らが知っている真実が「つまずき」になったのです。彼らの知っていることによって、主イエスを通して示される神の国のしるしを見えなくさせているのです。主イエスにおいて示された神の権威が見えなくなっているのです。自分の知っている主イエスの部分的な真実に固執するゆえに、まことの神の子であるという主イエスの真実の全体に対して心を閉ざしてしまうのです。自分の信仰によって、それも小さな壊れそうな信仰によって主イエスの示される大いなる神の業が見えなくなっているのです。神の御業は、人間をはるかに超えております。しかし、私たちは知っている知識の枠組みの中に主イエスを当てはめます。自分の知識において主イエスを見てしまうのです。

12人を遣わす
 それから、イエスはナザレから付近の村を巡り歩いてお教えになりました。そして、次に主イエスは12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わされます。ここでは弟子たちを伝道にお遣わしになったときの記事が記されています。伝道とは主イエスのことをお伝えすることです。私たちは主イエスを多くの人に伝えていくために、祈りを合わせて励む者でありたいと思います。しかし、伝道は主イエス御自身がなさるものです。主イエスご自身の伝道の業のために、私たちは招かれ、召されているのです。主の召しを受け、遣わされる。このことを切実に受け止めたのは、最初の教会の使徒たちでありました。マルコによる福音書は、既に第3章において、主イエスが弟子たちの群れの中から特別に十二人を任命して、使徒と名付けられたことを伝えています。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3・14―15)。「使徒」と訳されているのは、文字通りには「遣わされた者」という意味の言葉です。ここではっきりと、主イエスが弟子たちをお召しになったのは、まさに、遣わすためであったということがと記されています。この箇所ではこの計画が実行に移され、十二人の使徒たちが実際に、派遣されていく場面を描いています。そもそも、主イエスが遣わし、弟子たち遣わされるという関係は、突然始まったことではありませんでした。6節の後半に「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」(6・6b)。主イエスご自身もまた、各地を巡り歩いて教えておられました。しかもそれは、主イエスから始まったのではなくて、主イエスにもまた、その出てきた源があるのです。以前、弟子たちに語られたことがあります。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(1・38)。主イエスは、一体どこから出て来られたのでしょうか。具体的な知名ではガリラヤのナザレであります。しかし、さらに突き詰めて言えば、父なる神のもとから出て来られた、ということであるはずです。「父なる神の国」から主イエスは来られたのです。まことの神の子であります。御子主イエスは、父なる神のもとから遣わされて、福音を宣べ伝えるために出て来られたのです。ここに「遣わす」ということの原型があります。まず、父なる神が御子イエスをお遣わしになりました。そして今度は、御子イエスがご自分の弟子たちを、まさに使徒として遣わされるのです。そこには、父なる神から始まる派遣の流れともいうべき枠組みがあります。そして、今も、主は私たちを召してお遣わしになるのです。ヨハネによる福音書においては、復活された主イエスが、最初に弟子たちに姿を現されたとき、主が言われた言葉を記しています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20・21)。そしてさらに、弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(同22―23節)。父なる神が主イエスをお遣わしになり、主イエスは、使徒たちをお遣わしになりました。今日においても、主の教会は、召された者たちを祝福と共にこの世へと派遣するのです。私たちも遣わされた者である、ということです。この自覚はとても大事です。もしもこの「遣わされた」という自覚があいまいになると、父なる神から始まった派遣の流れが、途中で途切れてしまいます。

どこから遣わされるか
 そうなりますと二重の危険性があります。一つには、私たちがどこから来たのかが分からなくなってしまうのです。自分がどこから来たかを見失うとき、教会は主から託された使命を忘れてしまいます。教会の存在の意味と目的を見失ってしまうのです。そうなれば、この世に埋もれてしまいます。または遣わされてもいないところで勝手に語り始めてしまいます。教会は、目に見えるこの世のニーズに答えるために建てられたのではありません。また何か、社会のために役立つ働きを担うことで自分たちの存在意義を確保しようとするなら、それは本来の使命からの逸脱になります。教会は、主によって遣わされ、主から命じられたことを行い、すべてを主にお献げします。自らを遣わしてくださった方に対する信仰に立ち帰り、本来の使命を再確認する必要があるのです。
 二つめの危険性も、最初のものと深く結びついて現れます。自分がどこから来たかが分からなくなると、また今どこにおり、どこへ行くのかも分からなくなってしまうのです。私たちがどこから来て、どこへ行こうとしているのか、教会は何であり、今何をするのか、それは、父なる神のもとから始まった派遣の流れの中にしっかりと身を置かなければ分かりません。私たちをお遣わしになった方の言葉を聞き、その霊を受けていなければ分からなくなってしまうのです。御言葉を学び、主の霊に導かれ、さらには、具体的な派遣の歴史としての教会の歴史の中に自分自身を見いだすとき、私たちは神から託されている教会の大事な、教会だけに委ねられている固有の使命に目を開かれていくのです。

遣わされる者の姿
 さて、主イエスご自身によって呼び集められた十二人の弟子たちは、二人ずつ組にして遣わされて行きました。教会の伝道は、決して、個人の業ではありません。二人という共同の交わりの中で、主イエスの業を委ねられるのです。それは同時に、証言の確かさのためでもあったと思われます。大切な証言のためには、二人または三人の証人が必要とされたのです。弟子たちは、今や重大な使命を託され、遣わされようとしています。そこで主イエスが使徒たちに与えられたのは、汚れた霊に対する権能です。主イエスは、お遣わしになる者たちに、ご自分の権威と力をお授けになるのです。ところが、それに続く主のご命令は、私たちに戸惑いを与えます。8節から9節です。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(マルコ6・8―9)。主イエスから託された驚くべき権能の重さに比べて、驚くべき軽装です。この命令を、そのままで今日の伝道に当てはめるとすれば、とても理解しがたい思いが残ります。しかし、私たちの考えや理解を超える、権威の重さと装いの軽さの対照の中に、遣わされた者の生き方がはっきりと示されているのです。主イエスが弟子たちを送り出すときの状況は、あまりにも無謀ではないかと思われます。弟子たち十分に訓練されていません。まだ主イエスのこともよく分かっていないのです。神の子、救い主としての主イエスを信じるまでには至らない、信仰の不確かな人たちばかりでした。けれども、主イエスは、弟子たちが十分に訓練を受け、理解を深めて、弟子として独り立ちできるまで待とうとはなさいませんでした。選ばれた者たちにはなお欠けがあり、弱さがあり、未熟さがあります。しかしそれにもかかわらず、主イエスはこの人たちを送り出されるのです。さまざまな不安を抱えたままで送り出された者たちにとって、頼ることができるのは、自分の能力や知識や経験、ましてやこの世の財産ではありません。ただ一重に、自分を遣わしてくださった主イエスの権威、神の御子から託された権能だけです。汚れた霊に打ち勝つ聖なる霊の力、それは、主ご自身が共にいてくださることを現す恵みの力です。遣わされた者の驚くべき軽い出で立ちは、本当に頼るべきものが何であるかをはっきりと教えているのです。

神に委ねて
 弟子たちが持つことを許されたのは、ただ一本の杖だけでした。杖は蛇やサソリのいる地方では、必需品であったと思われます。しかしそれだけではなくて、主イエスから託された権能のしるしでもあります。ちょうど、モーセが神から与えられた杖だけを頼りに、エジプトの王の前に立ち、イスラエルの民を荒れ野の旅へと導いて行ったように、遣わされた者は、主にのみ頼る信仰の象徴として杖だけを手にするのです。履物を履いて歩き回る。まさに、足で伝道するのが、弟子たちに与えられた務めでした。食べ物やお金や着る者のことを心配していたら、福音を宣べ伝える旅を続けることはできません。すべての必要は神が備えてくださることを信じて、ただ御子の権能、キリストの代理としての権威だけを頼りにして、宣教の旅へと遣わされるのです。良い条件を求めて伝道の拠点を変えたりせず、ひたすら、導かれるままに、御言葉を宣べ伝える。そして、たとえ、それが受け入れられなかったとしても、足の塵を払いおとすことで、すべてを神に委ねることができるのです。神がお遣わしになり、神が共に働いてくださるのですから、私たちはその結果もまた、神にお任せするのです。遣わされた者は、遣わされた者としての務めを精一杯に果たしたら、後は神にお任せするしかないのです。伝道の伸び悩みでひどく自分たちを責めてしまうということは、逆に教勢が伸びれば自分を誇ることにつながるでしょう。劣等感も優越感の裏返しです。そうなりますと結局は、神の御業ではなく、自分の業にこだわっていることになるのです。
 確かに、最初の使徒たちと同じように、私たちもまた、人間的な欠けや物質的な欠けを数えだしたら切りがありません。まことに不信仰な者です。けれども、私たちは、自分たちがどこから来て、どこへ行こうとしているかを知っております。弱いときにこそ強く、乏しいときにも富んでいると言いうる恵みの場所が備えられているのです。私たちは、主イエスの力と知恵を豊かにいただくために、自分自身の力と知恵に頼ることを捨てなければなりません。いや、本当に頼るべきものを見いだしたとき、仮のものや代用品は色あせてしまうはずです。キリストのものとされ、召し出され、この貧しく、不信仰な私たちを通して、主の栄光が現され、その御業が力強く前進していくのです。

関連記事

TOP