夕礼拝

神の指

「神の指」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第7章14節-第8章28節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章14-23節
・ 讃美歌 : 217、447

十の災い
 出エジプト記は、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民が、神様によって遣わされたモーセに率いられてエジプトを脱出する、奴隷状態からの解放の物語です。奴隷の解放がそう簡単に、一朝一夕に行われるはずはないことは、アメリカの黒人奴隷解放の歴史を見ても明らかです。イスラエルの民のエジプトからの解放も御多分に洩れず、支配者エジプトの王であるファラオの頑強な抵抗によってなかなか実現しませんでした。ついにファラオが屈服してイスラエルの解放を認めるに至るまでに、主なる神様がモーセとアロンを通してエジプトに数々の災いを下されたことが、出エジプト記の7章から12章にかけて語られています。そこには全部で十の災いが下されたことが記されています。本日の箇所の冒頭、7章14節から24節までが、ナイル川の水が血に変わるという「血の災い」(第一)、25節から8章11節までが「蛙の災い」(第二)、8章12節から15節が「ぶよの災い」(第三)、16節から8章の終わりまでが「あぶの災い」(第四)、9章1節
から7節が「疫病の災い」(第五)、8節から12節が「はれ物の災い」(第六)、13節から9章の終わりまでが「雹の災い」(第七)、10章1節から20節が「いなごの災い」(第八)、10章21節から終わりまでが「暗闇の災い」(第九)、そして11、12章が最後の十番目、エジプト中の初子、つまり最初に生まれた子供が殺されるという災いです。この十番目の災いが決定的ものとなり、イスラエルのエジプト脱出が実現したのです。本日は、この中の、8章の終わりまで、つまり第一から第四の災いについて見ていきたいと思います。

第一の災い
 7章14~24節が第一の「血の災い」です。モーセとアロンが杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わり、川の魚は死に、悪臭を放つようになったのです。ナイル川の水だけでなく、エジプト中の川、水路、池、水たまりの水も血に変えられたとも語られています。とにかくこの災いによって、魚が死に、川は悪臭を放ち、飲み水がなくなってしまったのです。この災いが行われるのに先立って、ファラオへの予告がなされています。既にモーセとアロンはファラオの所に出向き、イスラエルを解放して主なる神様に仕えさせるようにと要求していました。しかしファラオは頑迷にそれを断ったので、主がこのような災いを下される、ということが前もって語られたのです。その17節にこのように語られていることは重要です。「主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主 であることを知る』と」。これから行われる一連の災いは、ファラオが、そしてエジプトの人々が、イスラエルの神こそが主であることを知るようになるために下されるものなのです。「わたしが主であることを知る」という訳からは当然そういう意味が読み取れるわけですが、「わたしが主である」というところの原文は「わたし、主」という単語がならんでいるだけです。しかも「主」と訳されている言葉は、前にも申しましたように「ヤーウェ」という神様のお名前です。「主人」という意味の言葉ではありません。ですから直訳すれば「わたし、ヤーウェを知る」ということになります。それは、わたしこそ神ヤーウェであることを知る、という意味にも取れるし、ヤーウェなるわたしが生きて働いていることを知る、とも取れるでしょう。とにかく、モーセを遣わしたイスラエルの神こそが生きておられるまことの神であり、その神が今イスラエルの解放を求めていることをエジプト王ファラオが知るようになることがこれらの災いの目的なのです。ファラオがこのことをはっきりと知るようになってこそ、イスラエルの民の奴隷状態からの解放は実現するのです。

頑迷なファラオ
 しかしファラオはどうしたでしょうか。22節に、「ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった」とあります。エジプトの魔術師たちも、同じことを、つまり水を血に変えるという秘術を行なったのです。このことは先月読んだ7章の初めのところにあった、アロンの杖が蛇になるという奇跡が行われた時、エジプトの魔術師たちも同じように自分の杖を蛇にしてみせた、という話と重なります。それを見たファラオの心はかたくなになり、主なる神様が生きて働いておられることを知ろうとせず、イスラエルの解放を認めようとはしなかったのです。23節には「ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった」とあります。しかし24節には「エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイルの水が飲めなくなったからである」とあります。ファラオは、「このぐらいのことはわが国の魔術師にもできる」という思いからモーセの要求を無視したのです。王宮に住む彼は水に不自由してはいなかったのでしょう。しかし一般の人々にとっては、ナイル川の水が飲めないことは死活問題です。人々は水を求めて必死に井戸を掘ったのです。まことの神を神として認め、受け入れようとしない頑迷な支配者の下で、弱い立場の人々だけが塗炭の苦しみを味わう、という現実がここに描かれています。

第二の災い
 この血の災いがどれくらい続いたのか、どのようにして終わったのかは語られていません。しかし25節を読むと、七日目には第二の災いが告げられていますから、数日間だったのでしょう。第二の災いは「蛙の災い」です。28節に「ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む」とあります。蛙はそれ自体害をもたらす動物ではありませんが、それが家に満ち、寝室にも、ベッドの上にも、かまどや鉢の中にも入り込んだらたまったものではありません。これもまた、エジプトの人々を苦しめる災いとなったのです。

魔術師たちの業
 8章3節を読むと「ところが、魔術師も秘術を用いて同じことをし、蛙をエジプトの国に這い上がらせた」とあります。先ほどの血の災いの時と同じく、エジプトの魔術師たちも同じことをしたのです。しかしここに興味深いことが見えてきます。エジプトの魔術師たちも、秘術によって蛙をエジプトの地に這い上がらせた。つまり彼らによって、人々の暮らしを脅かす蛙はますます増えたのです。ここに、魔術師たちもモーセたちと同じことをすることができた、という一連の記述の意味が見えて来ます。これらの話は、エジプトの魔術師たちもモーセらと同じ力を持っていた、ということを語っているように一見思えます。しかし、モーセたちはエジプトに災いを下したのです。同じことをエジプトの魔術師がしたということは、彼らもまたエジプトの人々を苦しめる働きをしたということでしかありません。ここに、魔術というものに対する聖書の極めて皮肉な見方が示されています。魔術を行う者は、人々を驚かすことによって自分の力を誇示していますが、彼らがしていることは人々を苦しめることにしかならず、救うことにはならないのです。彼らが本当に人々を救う力を持っているならば、むしろモーセたちがしたのとは反対のことを、つまり、蛇に変わった杖をもとの杖に戻し、血にかわった水をもとの真水に戻し、蛙の大群をナイル川に戻すということをしなければならないはずなのです。しかし彼らにはそれは出来ません。そのことが、4節のファラオの言葉に示されています。4節、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」。ファラオは、魔術師が蛙をエジプトの国に這い上がらせたのを見ています。しかし彼らがそれを退けて川に帰らせることはできないことを認めざるを得ないのです。それができるのは、主なる神、イスラエルの神のみなのです。だから、主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい、と願っているのです。この災いが、イスラエルの神である主によってもたらされており、魔術師たちはそれに対抗する力がないことを、ファラオも認め始めているのです。
 彼はここで「そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう」と言っています。災いを取り除いてくれるなら、イスラエルの解放を認めると初めて口にしたのです。モーセはファラオに、「あなたのお望みの時を言ってください」と言っています。私が祈り願うことによって、主なる神様はあなたの願いを聞いて蛙の大群を退かせて下さる。そればかりではない。あなたが指定した時にそのことをして下さるのだ、ということです。なぜこのようにファラオに時の指定までさせるのか。それは6節の後半にあるように、「あなたは、我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります」ということのためです。しかしそのようにして願った通りに、指定した時に災いが取り除かれたにもかかわらず、11節にあるように、「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった」のです。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、災いが過ぎ去ると、約束を翻してイスラエルを解放しようとしないのです。

第三の災い
 そこで12節以下には第三の災い、「ぶよの災い」が下されています。アロンが杖で土の塵を打つと、それは全てぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲ったのです。14節には、「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった」とあります。エジプトの魔術師たちも、今度はもう同じことをすることが出来ないのです。魔術師たちが登場して同じ奇跡を行うことの意味は先ほどの蛙の災いのところではっきりと語られました。ここからは、モーセとアロンを通して主なる神様がなさる業が、魔術師たちの力をはるかに超えたものであることが示されていくのです。魔術師たちはファラオに「これは神の指の働きでございます」と言いました。自分たちの力のとうてい及ばない力ある業がモーセとアロンによって行われている、これはもはや人間の業、人間の力によることではない、神の指の働きとしか言いようがない、生きているまことの神がモーセとアロンを通して働いておられるのだ、と彼らはファラオに告げたのです。モーセやアロンを通して働いておられる神様の力と直接対決をし、とうていかなわないことを思い知った彼らだからこそ、このことをはっきりと知ることができたのです。しかしファラオはなおも心をかたくなにし、彼らの言うことを聞きませんでした。
 今見てきたように、第一から第三の災いにかけて、一つのストーリーがあります。これらの災いを下したのは誰であり、その意味と目的は何であるかが次第に明確にされていき、エジプトの魔術師たちの敗北が決定的となっているのです。またこのことにつれて、ファラオのかたくなさが深まっていることも描かれているのです。

第四の災い
 8章16節以下は第四の災い、「あぶの災い」です。ここにはまた、新しい要素が示されています。第三の災いの「ぶよ」と第四の「あぶ」とでは被害がどう違うのかはよく分かりません。29節には、「国はあぶのゆえに荒れ果てた」とあります。具体的にどう荒れ果てたのかはよく分かりません。しかしそういうことはあまり問題ではないのです。この第四の災いにおいて示されている新しい要素は、18、19節に語られていることです。「しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う」。「ゴシェン地方」というのは、エジプトの中で、イスラエルの民が住んでいた地方です。私の民イスラエルの住むその地方には、あぶを入り込ませない、と主なる神は言っておられるのです。そのようにこの第四の災いには、イスラエルの民をエジプト人と区別して、エジプト人にのみ災いを与え、イスラエルはその災いから逃れさせる、ということが語られているのです。これが新しい要素です。このようにイスラエルの民とエジプト人とを神様が区別して、イスラエルを災いから守ることによって、ファラオは、「主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる」のだと言われています。ファラオが支配し、絶対的な権力を握っているこのエジプトの地のただ中に、主なる神様がおられ、ご自分の民イスラエルを守り導いておられることをファラオは知らなければならないのです。またここで、「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う」と神が言っておられることは重要です。ここには、聖書が語る救いの本質が示されていると言えるのです。聖書において、救いとは、神様が「わたしの民」と呼んで下さり、他の民とは区別して贖って下さることです。贖うというのは、代金を払って自分のものとすること、他の者の捕虜、奴隷とされてしまっている人を、身代金を払って自分のもとに取り戻すことです。神様がそのようにして私たちを贖い、ご自分の民に加えて下さったことが、聖書の語る救いなのです。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたというのは、まさにこの「わたしの民をあなたの民から区別して贖う」という救いのみ業です。このみ業がこの後実現していきます。その「区別して贖う」ことが決定的になされたのが、最後の十番目の災いであり、そこにおける「過越」の出来事なのです。この第四の災いは、この最後決定的な災いによる神様の贖いのみ業を予告し、指し示していると言うことができます。
 この災いの中で、ファラオは、モーセらと条件闘争を始めようとします。主に犠牲をささげたいと言うなら、この国の中ですればよい、と先ず言っています。モーセらがそれを断ると、それなら国の外に出てよいが、あまり遠くに行ってはならない、と言っています。モーセがこの条件を受け入れて、あぶを去らせるように主に祈願する、と言ったのは不思議なことのように思われます。なぜならファラオが、一旦主に犠牲をささげさせた後イスラエルをエジプトに戻らせてなお奴隷としておこうとしているのは明白だからです。しかしモーセがこの提案を受け入れたのは、25節後半の「ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください」という言葉を語るためだと言うことができるでしょう。この言葉によって、ファラオが再三約束を翻して、一旦認めたことを拒み続けたことが明確されているのです。そしてこのたびも、災いが過ぎ去るとファラオは心を頑迷にして民を去らせようとしないのです。

クライマックスへ向けて
 第四の災いまでをこのように読んできますと、話が次第に盛り上がりを見せていることが分かります。これらの災いの話は、同じような話がただ並べられているのではなくて、最後の第十の決定的な災いというクライマックスに向けて、次第に高まりを見せているのです。そのことは別のことからも言えます。第一の災いにおいて、水を血に変えるためにアロンは杖でナイル川の水を打ちました。7章25節では、主がナイル川の水を打ったのだ、と語られています。そして第三のぶよの災いにおいて、土の塵を杖で打つと塵は全てぶよになったとあります。どちらにおいても「打つ」という言葉が用いられています。この言葉は、実は12章12節にも出てきます。最後の十番目の災いにおいて、神様がエジプトの全ての初子を「撃つ」のです。同じ言い方が12章の13節にも23節にもあります。翻訳では「攻撃」の「撃」という字が用いられていますが、原文において用いられているのは、7章の「打つ」と同じ言葉です。つまり、ナイル川の水を打って血に変える災いも、土の塵を打ってぶよを発生させる災いも、最後の、エジプトの初子が主によって撃ち殺されるという災いを指し示している、そこへ向けての準備として下されているのです。
 もう一つ、8章20節に、あぶのために国が「荒れ果てた」とあります。この言葉は、12章13節と23節において、エジプトの初子を撃ち殺すみ使いのことが「滅ぼす者」と呼ばれている、その「滅ぼす」と同じ言葉です。あぶのために国が荒れ果てたとは具体的にどういうことなのかよく分からないと先ほど申しましたが、この言葉はむしろ最後の災いにおいて、全ての初子が撃ち殺されてしまうという究極の災いを指し示しているのです。

神の指の働き
 さてこのように、最後の決定的な災いというクライマックスに向けて次第に高まりを見せているこれらの話ですが、そこにおいて鍵となるのは、これらの災いが全て、イスラエルの神である主によって下されたものだということです。魔術師たちはそのことを8章15節で、「これは神の指の働きでございます」と語っています。このことを認めるか否かが、モーセらとファラオの戦いの中心的なテーマです。ファラオがそれをなかなか認めようとしないために、イスラエルの解放はなかなか実現せず、エジプトに災いが繰り返し下されていったのです。
 新約聖書において、このことと重ね合わせて読むことができるのが、本日共に読まれたルカによる福音書第11章14節以下です。ここには、主イエスが悪霊を追い出していることを見た人々の中に、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言った者たちがいたことが語られています。悪霊を追い出すことができるのは自分が悪霊の親玉だからだ、という理屈によって、要するに主イエスが神様から遣わされ、神様の力を発揮していることを否定しようとしているのです。そのような思いに対して主イエスは、悪霊あるいはサタンが内輪もめをしていたらその国は成り立たないだろう、とおっしゃり、「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とお語りになりました。主イエスが悪霊を追い出しているのは、悪霊の親玉の力によるのではなくて、神の指、神様の力と権威とによってなのだ、ということです。つまりこの主イエスのみ業において、悪霊、サタンと神様との間に、どちらの国が勝利するかという全面戦争が行われているのです。「国」という言葉は「支配」という意味です。悪霊の支配と神の支配、そのどちらが勝利するかという戦いです。この戦いが主イエス・キリストのご生涯において戦われているのです。そして主イエスの十字架の死と復活において、主イエスの父である神様がこの戦いに勝利し、そのご支配を打ち立てて下さったのです。このことを信じ受け入れるかどうかが、信仰と不信仰の分かれ目です。このことを信じ受け入れる者は、神の国、神様の恵みのご支配が自分たちのところに既に来ていることを信じることができます。そしてその神様のご支配の下で生きることができるのです。このご支配の下でこそ私たちは、この世を支配している様々な力、人間の権威や権力の下での奴隷状態から解放されるのです。主イエスによって神様が悪霊の支配から解放して下さっていることを信じ、その神様のご支配の下で生きようという思いを与えられるところにこそ、私たちの本当の解放、自由があるのです。しかし主イエスによるこの解放の恵みを信じないならば、私たちはいつまでも悪霊の、神様に逆らう力の支配下に奴隷としてつながれたままです。自分の力をどんなに磨き、人間の最高の力を身に付けたとしても、あのエジプトの魔術師たちが結局自国の人々を苦しめることしかできなかったように、そのような人間の力は私たちを救うことはできないのです。主イエス・キリストによって成し遂げられている神の指の働きこそが、私たちを本当に解放し、自由にし、生かすことができるのです。

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