主日礼拝

応答としての奉仕

「応答としての奉仕」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章1―3節
・ 讃美歌:13、52、512

神の国を宣べ伝え
 福音書には、主イエス・キリストのみ業と、その語られた教えが記されています。本日ご一緒に読むルカによる福音書第8章の1節も、主イエスのみ業、活動について語っています。1節にこのようにあります。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」。主イエスは、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」のです。「神の国を宣べ伝えた」というのは、誰もが幸せに暮らすことができる理想的な社会の建設を訴え、こうすればそれが実現できると語ったということではありません。いよいよ衆議院選挙が公示されて選挙戦が始まりました。立候補者たちは誰もが、自分に、わが党に投票すれば、皆が幸せなよい社会を築くことができるようなことを言っています。主イエスが町や村を巡って神の国を宣べ伝えたそのみ言葉は、これらの候補者たちの街頭演説とは全く違います。主イエスは、自分を信じてついて来れば神の国が実現できると語ったのでもなければ、皆の力を合わせて神の国を実現しようと訴えたのでもありません。主イエスは、「神の国は来た、実現した」と宣言なさったのです。そのことは既にこの福音書の第4章16節以下に語られていました。そこには、主イエスが、お育ちになったナザレの町の会堂で、ある安息日に語られた教えが記されていました。その日主イエスは旧約聖書イザヤ書の言葉を朗読なさいました。それは、主なる神様が救い主を遣わして下さり、捕われている人を解放し、目の見えない人の目を開き、圧迫されている人を自由にするという救いを実現し、主の恵みの年を来らせて下さる、ということを語っている預言の言葉です。そして4章21節で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお語りになったのです。神様による救いが、解放が、自由が、つまり主の恵みの年が、今実現した、とお語りになったのです。「神の国を宣べ伝えた」とはこういうことです。神の国とは、神様のご支配という意味です。神様の恵みのご支配の実現、それが神の国であり、そこに私たちの救いがある、その救いが今日実現した、神の国が今日あなたがたのところに来た、と主イエスはお語りになったのです。「今日」というのは、主イエス・キリストがこの世に来られ、そのみ言葉が語られた今日、です。つまり主イエスの到来によって、神様の救いが実現し、神の国が来たのです。主イエスはこのことを告げ知らせたのです。ですから繰り返しますが、主イエスは、「私と共に神の国を実現しよう」と人々に訴えたのではないのです。私において、神の国が、神様の恵みのご支配が到来し、実現している、と宣言なさったのです。

神の国の福音
 それゆえに、「神の国を宣べ伝え」に続いて「その福音を告げ知らせ」と語られているのです。神の国を宣べ伝えることは、福音を告げ知らせることです。福音というのは、「良い知らせ、喜びの知らせ」という意味です。神の国を宣べ伝えることは、神の国が来た、神様による救いが実現した、という良い知らせ、福音を告げることなのです。主イエスは町や村を巡って旅をしながら、この福音を告げ知らせました。だからそれは選挙の街頭演説とは違うのです。「私について来れば神の国を実現できる」とか「一緒に神の国を実現しよう」というアピールは、「良い知らせ」つまり福音ではありません。主イエスはそういうアピールをして回ったのではなくて、ご自分によって神の国が到来しているという福音をお語りになったのです。これが、主イエスのなさったことの中心です。主イエスの語られた教え、み言葉も、なさった数々の奇跡も、全てはこの神の国の到来という福音を告げ知らせるためだったのです。

十二人も一緒
 1節の終わりには「十二人も一緒だった」とあります。この「十二人」とは、主イエスの十二人の弟子たちです。主イエスがご自分に従って来ていた人々の中から十二人を選んで使徒と名付けられたことは6章の12節以下に語られていました。つまり主イエスの周りには、この十二人だけでなく、大勢の人々が集まり、従って来ていたのです。ですから本日の1節にある「町や村を巡って旅を続けられた」その旅には、この十二人のみならずさらに多くの人々がついて来ていたに違いありません。2節以下には、そこに多くの女性たちも一緒にいたことが語られています。しかしそれらの人々の中で特にこの十二人のみが主イエスと「一緒だった」と語られています。それは何故なのでしょうか。この十二人は後に、主イエスの復活後、主イエスによって実現した神の国の福音を宣べ伝える者として派遣されます。主イエスご自身が、神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた、その歩みに同行し、福音を宣べ伝える主イエスのお姿を間近で見ることによって、彼らは、遣わされる日に向けての訓練を与えられた、ルカはそのことをここで見つめていると言えるでしょう。

主イエスの一行の日々の生活
 さてこのように1節には、主イエスのみ業とその教えのことが語られています。しかしその後の2節と3節に語られているのは、主イエスのみ業でも教えでもありません。ここは福音書において珍しく、主イエスご自身のことではなくてその周囲にいた人々の姿を語っている箇所です。主イエスの周りには、あの十二人の弟子たちがおり、さらにその周囲に、先ほど申しましたように多くの人々が従って来ていました。この2、3節が語っているのは、その中には多くの女性たちもいたことです。彼女たちが、3節の最後にあるように、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」ことが語られているのです。
 この2、3節はとても大事だと思います。なぜならここには、主イエスに従って行った人々の生活が語られているからです。あるいは、その生活を見つめるきっかけが与えられているからです。主イエスに従っていた人々の一行がどれくらいの人数だったのか、定かではありません。この後の10章には、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつの組にして派遣したということが語られていますから、数十人からある時には百人以上の人々が共にいたのだろうと想像されます。このような集団が町や村を巡って旅をしていくというのは大変なことです。今ならば、宿の手配と交通機関の手配さえすれば何とかなるかもしれません。それだけでも勿論大変なことですが、当時の旅は全て徒歩であり、泊まる宿などはなかったでしょうから、ほとんど野宿だったのでしょう。そのような一行が旅をしていくためには、毎日の食事をどう準備するか、ということだけでも大きな問題です。食材を全部自分たちで調達し、それを調理しなければなりません。調理するための場所の設営も必要です。また飲み水もどこかから汲んで来なければなりません。そういうことを一日も欠かさずに毎日繰り返していかなければ、生活は成り立たないのです。食事の用意だけではありません。寝る所をどう整えるか、衛生状態をどう保つか、洗濯のことなども考えなければなりません。尾籠な話ですが、トイレをどうするかということだって大問題です。そうやって数え上げていけばきりがないくらい、いろいろな具体的課題があるのです。人間が生活するというのはそういうことです。主イエスとその一行にも、そういう生活があったのです。神の国の福音を宣べ伝えることだけが行われて、後は霞を食って生きていたのではありません。主イエスも肉体をもってこの世を一人の人間として生きておられたのであって、そこには日々の具体的な生活があり、それなしには生きていくことができない様々な事柄があったのです。この箇所には、主イエスとその一行のために、今申しました日々の具体的な生活の事柄において奉仕した人々がいたということが語られています。この人々のことが語られていることによって、私たちは、主イエスと主イエスに従っていた人々の日々の具体的な生活に目を向けさせられるのです。そこに、この箇所の大事な意味があるのです。

女性たちの奉仕
 ここには、主イエスの一行の中に多くの女性たちがおり、彼女たちが自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していた、とあります。何十人、場合によっては百人を超える人々が生きていくために必要な沢山のものを、彼女らが自分の持ち物を出し合ってまかなっていたというのです。ただしこの「持ち物」と訳されている言葉は物質的な品物のみを意味しているのではなくて、要するに自分に属するもの、自分の能力や資質といったことも含まれます。ですから、食材や衣類を持ち寄って一行の必要をまかなっていた、というだけではなくて、それぞれが自分の知識や技術や能力を発揮して、自分にできることをして奉仕していたということでしょう。また、ここの書き方だと女性たちのみが持ち物を出し合っていたようにも感じられますが、主イエスに従って来た男性たちも自分のお金や持ち物や力を提供したということが当然あったはずです。男も女も、それぞれが自分に出来ることをし、持ち寄ることができるものを持ち寄ることによって、主イエスの一行の日々の生活が営まれていたのです。それらの、捧げられたお金や物や労働力をアレンジして、それぞれの人の賜物を生かしつつ、毎日の食事を準備したり、生活の場を整えたりする奉仕を中心になって担っていたのが女性たちだったのでしょう。女性たちが一行に奉仕していた、ということからそのようなことを読み取ることができると思います。この「奉仕していた」という言葉は「ディアコネイン」という言葉であり、ここから、ディアコノス、つまり「執事」という教会における一つの務めを表す言葉が生まれたのです。執事の務めとは、この女性たちがしていたようなこと、主イエスに従う人々の共同体である教会において、それぞれの持ち寄ったもの、捧げたものが適切に配分され、また知識や技術といった賜物がよく用いられ、要するに一人一人の奉仕が生かされて、主イエスに従う人々の歩みが整えられ、支えられていくようにすることなのです。

神の国を生きる
 さて少し脱線しましたが、女性たちの奉仕が語られていることの意味をさらに考えたいと思います。これはあくまでも一般論であり、現代ではこういう区別はかなり流動的になってきてはいると思いますが、基本的に、男性は観念的、抽象的な理念の世界を生きているのに対して、女性は具体的、現実的な生活を生きているということが言えると思います。ルカ福音書がここで、女性たちの奉仕を見つめ、語っていることはその意味において重要なのです。それはつまり、1節に語られている神の国の福音、神様の恵みのご支配が主イエスにおいて実現している、という救いの知らせ、良い知らせが、単なる観念的抽象的な事柄ではなくて、具体的現実的な生活における事柄だということを、この2、3節が示している、ということです。女性たちは、また女性たちの奉仕に支えられて日々の生活を営んでいる主イエスの一行は、この神の国の福音を具体的に生きていたのです。つまり彼らは、それぞれが自分の持ち物を持ち寄り、自分の出来ることをして奉仕しつつ共に生きることによって、主イエスがもたらして下さった神の国、神様の恵みのご支配を、日々の生活の中で具体的に味わい、実感していたのです。私たちがこの2、3節から読み取るべき最も大事なことはこのことだと思います。私たちの信仰は、神の国の福音を信じる信仰です。私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活において、神の国が、神様の恵みのご支配が既に実現していることを信じているのです。しかしこの福音を、頭で理解し、心で信じるだけでなく、その福音を生活していくことが大切です。毎日の具体的な生活を、主イエスを信じ、主イエスに従って、主イエスと共に歩んでいくのです。それは何か特別なことをすることではありません。誰もがしている毎日の生活、食べたり飲んだり、寝たり起きたり、仕事に行ったり学校に行ったり、家事をしたり、介護や看病をしたり、遊んだり勉強したり、それら全てのことを、神の国の福音の中で、主イエスと共に、また教会における信仰の兄弟姉妹、神様の家族である人々と共に生活していくために、自分にできることをし、捧げることができるものを捧げて奉仕していくのです。そのようにして私たちは、神の国、神様の恵みのご支配の中で、それを体験しつつ共に生きていくのです。信仰を持って生きるとはそういうことなのです。

神の国を生きる共同体
 三人の女性たちの名前がここに挙げられています。マグダラの女と呼ばれるマリア、クザの妻ヨハナ、スサンナの三人です。2節の冒頭には「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち」とありますので、この三人ともが主イエスによって悪霊の支配から解放され、癒された体験を持っていたようです。しかしそのことがはっきり語られているのは「マグダラの女と呼ばれるマリア」、いわゆるマグダラのマリアのみです。彼女は、七つの悪霊を追い出していただいたのです。七つの悪霊を追い出してもらったというのは、要するに悪霊によってひどく苦しめられていたところから救われたということです。このマグダラのマリアを、7章36節以下に出て来た、主イエスの足を涙で濡らし、髪の毛で拭い、香油を注いだ「罪深い女」と同一人物だと考える読み方が昔からありました。悪霊というのを、ただ病気を引き起こすだけでなく、人間に罪を犯させる力と考えれば、そういう読み方もできるかもしれません。あの「罪深い女」は娼婦だったのではないかと想像する人がいる、と前回申しました。そうなると、このマグダラのマリアと次の「クザの妻ヨハナ」とは対照的な人物であることになります。ヨハナの夫クザは「ヘロデの家令」とあります。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに仕える高官です。その奥さんですから、当時の上流階級の出身の女性だったのでしょう。ひょっとしたら、夫や家庭を捨て、家を飛び出して来ていたのかもしれません。主イエスの一行にはこのような身分の高い出身の人もいれば、娼婦だった人もいた、ということです。三人目のスサンナについてはどのような人がは分かりません。名前が挙げられているのはこの三人のみですが、「そのほか多くの婦人たちも一緒であった」とあるように、主イエスの一行には多くの女性たちが加わっていたのです。このことは当時としてはまことに珍しいことでした。つまり当時、女性が男性と共にこのような宗教的集団、また共同生活の集団に加わるということはほとんど考えられなかったのです。このことが示唆しているのは、この主イエスの弟子たちの一行において、女性が一人の人間として人格を認められ、尊重されていたということです。彼女たちが自分の持ち物を出し合って一行に奉仕していたということによってルカが語ろうとしているのは、女性は主人公ではなくてただ奉仕しているだけの者だったということではなくて、彼女らが主イエスの一行の一員として尊重され、日々の生活を支えるなくてはならない大切な働きを担っていた、ということです。まさにそこに、主イエスによって実現した神の国、神様の恵みのご支配を具体的に生きる者たちの姿があります。主イエスのもとで、男性も女性も、一人の人間としてお互いを尊重し合い、それぞれが自分の賜物をささげ、自分にできることをして奉仕していく共同体が、具体的に築かれていったのです。

応答としての奉仕
 マグダラのマリアをあの「罪深い女」と同一人物と考えるとするならば、そこにもう一つのことが見えてきます。つまりマリアはもともとは誰もが「罪深い女」として蔑み、相手にしようとせず、爪弾きにされていた人だったのです。そういう人が、主イエスによって悪霊を追い出され、「あなたの罪は赦された」という宣言を与えられて、弟子たちの群れに加わり、奉仕しているのです。そこには身分の高い階層の出身であり、教養もあっただろう「クザの妻ヨハナ」のような人も共にいます。しかし彼女らの間におかしなわだかまりはないのです。「あの人はもともとは罪深い生活をしていたんだ」などと批判したり差別したりする人はいないのです。主イエスによって罪を赦され、病を癒され、一人の人間として大切にされ、生かされている、そのことへの感謝が、出身も違えば人生経験も全く違い、普通ならばとうてい共に生きることなどあり得ないような人々を結び合わせて、一つとし、共に奉仕する者としているのです。

差別を乗り越える共同体
 マグダラのマリアをあの罪深い女と同一人物と考えなくても、同じようなことが言えます。マリアは以前七つの悪霊に取り付かれていたのです。その時彼女は、常軌を逸した、人々が恐れ、気味悪がって近寄ろうとしない生活をしていたに違いありません。つまり彼女はいずれにせよ、人々から差別され相手にされない孤独の中を生きていたのです。そういう人が、主イエスの救いにあずかり、癒されてその共同体の一員となり、共に奉仕する者となったのです。主イエスによってもたらされた神の国、神様の恵みのご支配を生きるところには、このような、生まれつきの人間の間にある差別、分け隔てを乗り越える共同体が築かれていくのです。その基本は、主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国、神様の恵みのご支配への感謝であり、その恵みへの応答として主イエスに仕え、また兄弟姉妹に仕え、隣人に仕えていく奉仕です。一人一人が自分にできることをして、自分の力や、技術や、時間や、お金を、あるいは祈りを捧げて、主イエスの恵みへの応答としての奉仕をしていくことによって、私たちは神の国を、日々具体的に生きる群れとなることができるのです。

詩編22編
 本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第22編を選びました。「わたしの神よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか」という、主イエスが十字架の上で語られた悲痛な叫びから始まる詩です。そのような苦しみの中で歌われているこの詩ですが、最終的には、主なる神様への深い信頼が歌われていきます。その信頼を歌う部分は、23節から始まります。23節に「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」とあります。26節にも「それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます」とあります。この詩人は、神様に見捨てられたように感じられる苦しみをかかえつつ、神を信じる人々が集い、神を賛美する集会、つまり礼拝に連なっているのです。彼が神様への信頼を回復していったのは、この礼拝においてなのです。神様を賛美する礼拝において語られ、告げ知らされていること、その中心が29節です。「王権は主にあり、主は国々を治められます」。神様が王として、国々を治め、支配し、導いておられることを告げる言葉、つまり「神の国の福音」です。神の国、神様の恵みのご支配を告げる福音が語られ、その福音を信じて神様を賛美しつつ生きる人々の集会、礼拝の中に身を置くことによって、神様に見捨てられてしまったという絶望の中にいた詩人は、慰めを受け、力づけられ、神様に信頼して再び立ち上がることができるようになったのです。彼は、神の国の福音をただ聞いて、知識として得ることによってこのように立ち上がったのではありません。その福音を信じて生きている人々が、一週間の生活の中心として共に集まり、礼拝をささげている。その場に彼も身を置き、そこで神の国の福音を聞いているのです。そしてそこに集まる人々が、神様の恵みへの応答として、それぞれの賜物をささげて互いに支え合い、仕え合いつつ日々の具体的な生活を送っているその共同体の一員として彼も生きているのです。その共同体の中でこそ、彼の絶望は神への信頼に変えられていったのです。
 私たち教会は、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した神の国、神様の恵みのご支配を信じて生きる信仰者の共同体です。教会が、神の国の福音を、頭で理解し、心で信じるのみでなく、具体的な体をもってその福音を生きる共同体となることによってこそ、この詩人に起った、絶望から神様への信頼への転換、その救いが私たちにも与えられるのです。そしてそれだけでなく、この詩編の最後の所、30節の終わり以降に歌われていることが私たちにおいても起るのです。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。つまり、次の世代への信仰の継承、主イエス・キリストによって成し遂げられた神様の救いのみ業をさらに多くの人々に告げ知らせていく伝道が、私たちの間で実現していくのです。

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