【2024年6月奨励】「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

  • 使徒言行録第2章43〜47節
今月の奨励

2024年6月の聖句についての奨励(6月5日 昼の聖書研究祈祷会)
「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(47節)
使徒言行録第2章43〜47節 牧師 藤掛順一

ペンテコステの出来事は続いている
 5月19日に私たちはペンテコステ(聖霊降臨日)を祝いました。弟子たちに聖霊が降り、主イエスによる救いを宣べ伝える伝道が始まり、教会が誕生したことを喜び祝ったのです。この出来事は、ペンテコステの日一日だけのことではなく、その後もずっと継続されていきました。ペンテコステの日に始まったこと、つまり信仰者たちが聖霊を受けて力を与えられ、伝道がなされ、新たに洗礼を受ける者が誕生し、そして教会が形作られていったことは、二千年後の今日にまで続いているのです。私たちの教会も、150年前に聖霊のお働きによって誕生してから今日まで歩み続けてきました。聖霊のお働きが150年続いているのです。創立150周年を記念する今年、私たちは、聖霊が今もみ業を行って下さっていることを覚え感謝すると共に、これからも私たちに聖霊が降り続け、私たちが力を与えられて伝道に遣わされ、新たに洗礼を受ける人々が生まれ、教会が築かれていくことを信じ、また祈り願っていきたいのです。そのことを願いつつ、ペンテコステに生まれた最初の教会のその後の歩みを語っている箇所を6月の聖句としました。聖霊によって誕生した教会が、引き続き聖霊の働きを受けて成長していった様子をこの箇所から確認し、私たちも聖霊の働きを受けて歩み続けていくことを祈り願いたいのです。

四つの基本的なこと
 ペンテコステの出来事は使徒言行録第2章に語られています。その日に、聖霊を受けた弟子たちが立ち上がり、その代表としてペトロが人々に説教を語りました。それを聞いた人々が心を動かされて、3000人ほどの人々が洗礼を受けました。そのようにして生まれた最初の教会の様子が本日の箇所の直前の42節に語られています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。これらのことは二千年後の私たちの教会においても行われています。「使徒の教え」を記したのが新約聖書であり、その教えを聞くことが礼拝における説教です。「相互の交わり」は私たちも大切にしています。「パンを裂く」とは聖餐のことであり、それは主イエス・キリストと一体とされることです。「使徒の教え」と「パンを裂く」ことは「説教と聖餐」であり、それが教会の礼拝の中心をなしています。そして「祈ること」です。本日の祈祷会もそうですが、私たちは祈ることを大切にしています。信仰が思想と区別されるのは、祈ることにおいてです。祈りのないところに信仰はないのです。この四つのことは、教会が常に変わらず行っている基本的なことであり、聖霊の働きによって教会はこれらのことを継続していったのです。

一つにされた
 43節以下はその続きです。42節に語られている四つのことを継続して行っていった教会において、どのようなことが起っていったのかがここに語られているのです。今月の聖句としたのはその最後のところ「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」です。「救われる人々」とは、主イエスによる救いの福音を信じて洗礼を受け、キリストの体である教会に連なっている人々です。その人々が日々新たに加えられていったのです。「一つにされたのである」というのは新共同訳聖書に特徴的な訳語です。口語訳も聖書協会共同訳も、「日々仲間に加えて下さったのである」となっています。それだけで意味は通じるわけですが、しかしここの原文には「同じ所に一緒に」という意味の言葉が確かにあり、それが「一つにされた」と訳されているのです。2章1節の「一同が一つになって集まっていると」にも同じ表現があります。コリントの信徒への手紙一の14章23節に「教会全体が一緒に集まり」とあるところも同じです。つまりここには、ただ「新たな仲間が加えられた」というのではなくて、同じ所に一緒に集まる者とされた、という意味が込められているのです。「コロナ禍」によって私たちは、このことがとても大事な意味を持っていることを実感させられました。この数年、「同じ所に一緒に集まる」ことを妨げられてきたことは、私たちの信仰にとって大きな試練でしたが、このことによって、「同じ所に一緒に集まる」ことが教会において根本的に大事であることをはっきりと示されたと言えます。教会とは、同じ所に一緒に集まる群れなのです。そのことなしに教会は存在しないのです。コロナ禍の中で、礼拝のライブ配信が盛んになりました(私たちの教会ではそれはしませんでしたが)。それは物理的に教会に行くことができない人たちのためには意味があるし、福音を伝える新たな手段だとも言えます。しかしそれに伴って、「教会に行かなくても礼拝ができる」「面倒な交わりには加わらずに自宅で一人で礼拝をしていた方がよい」という思いも生まれてしまったように思います。それは教会にとって、また一人ひとりの信仰において、重大な危機です。「一つになって集まる」ことは教会にとって欠かすことのできない基本なのです。「一つにされたのである」という新共同訳はそのことを意識させてくれるという意味でとても良い訳だと言えると思います。

伝道は主なる神のみ業
 そのように共に集まる仲間が新たに加えられていったことがここに記されており、私たちもそのことを祈り願っているわけですが、47節でもう一つ大事なのは、「主は」という言葉です。救われる人々を日々仲間に加え一つにして下さったのは主なる神なのです。教会の人々の伝道の努力の結果そういう成果があがった、というのではないのです。ですから私たちがここから読み取るべきことは、「伝道の方策」ではありません。初代の教会はこのように伝道したから多くの受洗者が与えられた、それに倣って私たちもこのように伝道しよう、という話ではないのです。主なる神が、聖霊のお働きによって、救われる人々を日々仲間に加え一つとして下さったのです。伝道は人間の努力や工夫によってなされることではありません。伝道の成果があがったりあがらなかったりするのは、人間がどれだけ頑張ったか、頑張らなかったではないのです。それは主なる神のみ業であり、人間の力を超えた奇跡です。一人の人が教会に来るようになり、信仰を得て洗礼を受け、そして教会に連なる者として生涯を送っていく、それはもう人間の業ではない。神がして下さる奇跡です。今月の聖句を通して私たちはそのことを見つめたいのです。

奇跡が行われるための場として教会を整える
 しかしここには、その神による奇跡が、何もないところに起ったのではないことが語られています。主が救われる人々を日々仲間に加え一つにして下さる奇跡は、教会がこのように歩んでいる中で起ったのだ、ということが43節以下に語られているのです。私たちの努力で救われる人が新たに生まれることはありません。それは主ご自身が聖霊によってして下さるみ業です。しかし教会を、その奇跡が行われるための場として整えていくことにおいて、私たちのなすべきこと、私たちに求められていることがあるのです。それをこの箇所から学びたいのです。

一つになって共に生きる交わり
 44節に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。ここにも47節と同じ「一つになって」があります。一つになって共に集まっている教会の姿がここに語られているのです。しかもここには、その「一つになって」が単なる気持ちの問題ではなく、財産や持ち物を共有する、という仕方で、物理的に、目に見える形でなされていたことが語られています。「おのおのの必要に応じて、皆が分け合う」という交わりがそこにはあったのです。「一つになって共に集まる」とはそういうことです。つまりそれはただ日曜日には教会に集まって礼拝をする、というだけのことではなくて、本当に一つの共同体として共に生きていく、ということです。このことを律法的に受け止めて、教会員は自分の財産を全て売り払って教会に献金しなければならない、などと考える必要はありません。初代の教会においてもそれは強制的なことではなかったことは使徒言行録の5章からも分かります。大事なのは、お互いが自分のものを自分のためだけに用いるのでなく、人のためにささげて支え合っていく交わりを築いていくことです。自分の慰め、平安、喜びだけを求めていたらそれはできません。主イエスの愛を受け、その救いにあずかった者たちが、神を愛し、互いに愛し合って共に生きる共同体を具体的に築いていくのです。そのような一つになって共に生きる交わりがあるところでこそ、主の奇跡が行われ、救われる人々が日々仲間に加えられ一つにされていくのです。

喜びに生きる共同体においてこそ
 そのような共同体の姿が46節から47節に語られています。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」。エルサレムで生まれた最初の教会が、エルサレム神殿での礼拝と、家ごとに集まっての集会をしていたことがここから分かります。これらが一つになったのが私たちの主の日の礼拝です。そこにおいて先ほどの42節の「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」がなされていたのです。「パンを裂き」と並んで語られている「喜びと真心をもって一緒に食事をし」が「相互の交わり」に当たります。そしてこの「パンを裂くこと(聖餐)と共の食事をすること(交わり)」は、「使徒の教え」が語られ、祈りが大切にされているところでなされていたのです。神を礼拝し、賛美しつつ、喜んで共に生きている信仰者の共同体の姿がここにあります。このような喜びに生きる共同体においてこそ、先ほどの「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」ということがなされていったのです。つまり、いろいろなものを分け合うことは、そのように命じられてではなくて、共に礼拝をし、主イエスによる救いの恵みにあずかり、喜びと真心をもって一緒に食事をする交わりに生きる共同体において、自発的に喜んでなされていったのです。そしてそのような共同体の存在は世の人々の目にとまり、インパクトを与えたのです。「民衆全体から好意を寄せられた」とあるのはそういうことです。喜びをもって共に生きており、一つになって互いに支え合っている共同体は、世の人々に、新鮮な驚きを与えるのです。教会は、社会の何かの問題と取り組む活動をすることによって影響力を発揮するのではありません。一つになって、互いに愛し合い、分かち合いつつ共に生きる交わりこそが、世の人々に感銘を与えるのです。その感銘は、「好意」を生むだけではありません。ここでは民衆全体から好意を寄せられたとありますが、この後教会は激しい迫害をも受けるのです。民衆の好意と敵意は表と裏の関係にあります。しかし好意があろうと敵意があろうと、主は救われる人々を日々仲間に加え一つとして下さるのです。伝道は民衆の好意によってではなく主のみ業によって進むのです。

聖霊によって、神を恐れる者とされることを
 このような、喜びをもって共に生き、一つになって互いに支え合う共同体が築かれていれば、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つとされたのである」というみ言葉通りのことが今も起るでしょう。そうなっていないのは、私たちがそのような共同体を築くことができていないからだと言わなければなりません。しかしそのような共同体はどうしたら築けるのでしょうか。それは私たち人間の努力によってできることではありません。初代の教会においても、弟子たちが頑張って努力してこうなったのではなくて、聖霊が彼らに降り、彼らを新しく造り変え、力を与えて下さったのです。聖霊によって彼らはどのように造り変えられたのか、そのことが43節に語られています。「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」。「すべての人に恐れが生じた」これこそが、聖霊を受けて新しくされた人たちの姿です。「恐れ」とは神への恐れです。それは単に「怖がる」ことではなくて、神が生きてみ業をなさっていることを、しかもこの自分に働きかけ、語りかけ、共に歩み、自分を用いようとしておられることを意識することです。それを意識するなら、自分の感覚や考えや願い、あるいは世間の常識を前提とするのではなく、神がどのようなみ心をもってどのようなみ業をなしておられるのかを知ろうとするし、そのためにみ言葉を熱心に聞こうとすることが起るのです。神のみ心(み言葉)を求め、それによって常に自分の思いを修正されていくことを受け入れつつ生きること、それが神を恐れて生きることだと言えるでしょう。それこそが、聖霊によって新しくされた人間の姿です。そしてそのように歩むところには、聖霊によって「多くの不思議な業としるしが行われる」のです。「喜びをもって共に生き、一つになって互いに支え合う共同体」を築くために根本的に必要なのはこの、神を恐れる者とされることです。神を恐れることを失ってしまうと、信仰は自分のため、自分の平安や慰めのためとなります。そこには「自分のものを人と分かち合う」ことは起こりません。「喜びをもって共に生き、一つになって互いに支え合う共同体」が築かれる土台は、聖霊によって与えられる神への恐れなのです。ペンテコステの出来事が私たちにおいても継続されていき、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つとされたのである」ということが私たちにも起っていくために、私たちも、聖霊によって神を恐れる者とされることを祈り求めていきたいのです。
 

TOP