説教題「人の子の現れるときに」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 創世記第19章15-26節
新約聖書 ルカによる福音書第17章20-37節
神の国はすでに実現し、将来完成する
先週に引き続き本日もルカによる福音書17章20~37節のみ言葉に聞いていきます。先週は20~25節を中心に読みました。20、21節で、「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人たちの質問に対して、主イエスはこのように答えられました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。主イエスが来てくださり共にいてくださるところにすでに神の国は実現している、すでに神のご支配は実現しているのです。主イエスが天に上げられた後の時代を生きている私たちにとっては、聖霊のお働きによって主イエスと共に生きている私たちのただ中に、すでに神の国が実現している、ということです。たとえ神のご支配がないかのように思える困難な現実にあっても、私たちはその現実のただ中に神のご支配が実現していると信じるのです。
同時に私たちは「人の子の日」を見たいと、つまり主イエス・キリストが再び来てくださり、神の国が完成するときを見たいと切に願っています。それは、「人の子の日」がいつ来るのか、そのしるしは何なのかに心を向けて、「見よ、再臨のキリストはあそこだ」、「見よ、人の子の日が来たしるしはここだ」というような言葉に惑わされて生きるのではありません。そうではなく主イエスが再び来て救いを完成してくださる確かな保証、つまり主イエスの十字架に心を向けて、地に足をつけて、しっかり現実と向き合って生きていくのです。このことを、先週、私たちは20~25節から受けとめてきたのです。
誰もが人の子の日が来たことに気づく
ところで先週、20~25節の中で触れなかった節があります。それは24節です。24節では「人の子が現れるときに起こること」が語られていると言えます。確かに人の子がいつ来るのかは分かりません。しかしそれは人の子が来ない、ということでは決してありません。人の子は必ず来る、主イエスは必ず再び来てくださる。このことを主イエスは繰り返し私たちに告げてきました。この福音書の12章40節でも主イエスは「人の子は思いがけない時に来るからである」と言われています。24節では、いつ来るのかは分からなくても必ず来る人の子が、どのように現れるかについてこのように言われています。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。稲妻がピカッとひらめき大空の端から端へと輝くとき、誰もが教えてもらわなくてもそのことに気づくことができます。同じように人の子も、一部の人だけが「人の子はあそこに現れた」とか、「ここに現れた」と気づくけれど、ほかの人はまったく気づかないということはありません。誰もが分かるようにして人の子は現れるのです。確かに誰にも人の子がいつ来るのかは分かりません。しかし人の子が来たならば、誰もがそのことに気づくのです。そうであれば、いつ来るのか分からない人の子が現れるときに備えて生きるよりも、人の子が来たと分かってから備えれば良いのではないか、と思うかもしれません。しかしそれでは手遅れなのです。このことが26~30節で、旧約聖書の出来事を取り上げつつ語られています。30節に「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」とあるように、旧約聖書の出来事と同じことが人の子が現れる日に、つまり主イエスが再び来てくださるときに起こる、と言われているのです。
ノアの時代
まず26節に「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう」とあります。ノアの物語は創世記6章~9章で語られています。神様は地上に不法が満ち、すべて肉なる者が地上で堕落の道を歩んでいるのをご覧になり、洪水によって地上のすべてのものを滅ぼすことにしました。しかし神様は、神様に従い、神様と共に歩んでいたノアには箱舟を造るよう命じられます。ノアとその家族が、またすべての生き物の一つがいが洪水を生き延びるためです。箱舟を造り終え、ノアとその家族、またすべての生き物から雄と雌が一匹ずつ箱舟に乗ると、ついには洪水が起こり、地上の生き物はすべて滅ぼされました。主イエスは27節でこの出来事についてこのように言われています。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。神様はノアに三階建ての大きな箱舟を造るよう命じられましたから、それを造るのには時間がかかったに違いありません。その間、人々はノアが箱舟を造っているのを見ていたはずです。ノアが箱舟を造っていることは、その人たちに対して、洪水が間近に迫っているという警告でもありました。しかし人々はその警告を無視して、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していたのです。大きな箱舟を造っているノアを見て、おかしなことをしていると思うだけで、相手にしようとしなかったのです。
ロトの時代
また28節冒頭には「ロトの時代にも同じようなことが起こった」とあります。創世記19章にロトとその家族が住んでいたソドムの滅亡が語られています。神様はソドムの罪が非常に重いので、御使いを遣わしてソドムを滅ぼすことにしました。御使いがロトにソドムの町を滅ぼしに来たことを告げ、自分の身内を連れてソドムから逃げるよう告げると、ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「神様がこの町を滅ぼされるから早くここから逃げよう」と言いました。しかし婿たちはロトの話を冗談だと思い、相手にしようとしなかったのです。結局、ロトとその妻、そして二人の娘だけが逃げることになり、嫁いだ娘たちと婿たちはソドムに留まったために滅ぼされてしまいます。主イエスは28、29節でこの出来事についてこのように言われています。「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」。ロトが「この町は滅びるから逃げよう」と警告したのに、婿たちはその警告を無視して、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」していたのです。
人の子の現れるときに備えて生きる
主イエスがこのようにノアの時代とロトの時代について語っているのは、洪水の恐ろしさや火と硫黄が天から降ってくる恐ろしさを強調するためではありません。ノアの時代には洪水への警告がありました。ロトの時代にも「ソドムの町から逃げなさい」という警告がありました。それにもかかわらずノアの時代の人たちもロトの時代の人たちも、その警告を無視して滅びました。主イエスはこのことを私たちに伝えようとしています。それと同じことが人の子の現れるときにも起こる、と言われているのです。いつ来るかは分からなくても人の子は必ず来る、と主イエスは私たちに告げられました。しかし私たちがこの主イエスのお言葉を無視し、人の子が現れるときに備えて生きないなら、私たちは滅びの警告を無視したノアやロトの時代の人たちと同じです。誰もが洪水や天から降る火や硫黄に気づくとしても、気づいたときには手遅れであるように、誰もが分かるようにして人の子が現れたときに、慌てて備えても手遅れなのです。私たちはこの地上の生涯において、いつ来るのか分からない人の子の現れるときに備えて生きなくてはならないのです。では、それはどのように生きることなのでしょうか。
日々の生活の営みにしか目を向けていない
そもそもノアの時代やロトの時代の人たちは、なぜ警告を無視したのでしょうか。それは、この人たちが日々の生活の営みにしか目を向けていなかったからです。この人たちは「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」、「買ったり売ったり、植えたり建てたり」することにしか関心を持っていませんでした。昨日も今日も明日も日々の生活が変わらず続くと思い、そのことばかりを考えていたのです。「食べたり飲んだり」や「買ったり売ったり」とは、贅沢な食事をすることや高価な買い物をすることではないと思います。むしろ日々の食事や買い物のことではないでしょうか。確かにノアの時代の人たちは堕落の道を歩んでいたに違いないし、ソドムの町の人たちの罪も重かったに違いありません。しかしこの人たちが、私たちよりもはるかに悪い人たちであると考えることはできないと思います。むしろ都会に暮らす私たちは、当時の都会であるソドムに暮らしていた人たちと似ている面が多いのです。私たちもソドムの人たちと同じように生きているかもしれない。たとえ特別悪いことをしていなくても、私たちもどこかで昨日も今日も明日も日々の生活が変わらず続くかのように思っています。日々の生活に追われ、その営みにばかり目を向けて生きているのです。しかしそのように生きるならば、ノアやロトの時代の人たちが神様の裁きを真剣に受けとめなかったように、私たちも主イエスが再び来てくださることを真剣に受けとめようとせずに生きてしまうのです。
地上の生活の営みに圧倒されている
けれども私たちはここで立ち止まらざるを得ないとも思います。なぜなら私たちの多くは、好き好んで毎日の生活に追われているわけではないからです。そうしなければ生きていけないから、そうしているのです。昨日も今日も明日も日々の生活が変わらずに続くことを望んでいるというより、そう考えていないと生活が回らないから、そう考えるようにしているのです。ノアが箱舟を造っているのを見ていた人たちは、洪水が近づいているのに気づかずに気楽に生きていたのでしょうか。もしかしたら毎日の生活に一杯一杯で、ノアの相手をする余裕がなかったのかもしれません。ロトに「この町が滅ぶから逃げよう」と言われた婿たちは、都会の生活をエンジョイしていたからロトの言葉を冗談だと思ったのでしょうか。もしかしたら自分の仕事の責任を考えて、「逃げよう」と言われても頷くわけにはいかなかったのかもしれません。私たちが日々、圧倒的に接しているのは、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」、「買ったり売ったり、植えたり建てたり」という地上の生活の営みです。好むと好まざるとにかかわらず、私たちの日々は地上の生活の営みに圧倒されているし、私たちはその営みに対する責任を負っています。地上の生活の営みに一杯一杯にならざるを得ないのが、そのことにしか関心を持てなくなってしまうのが、私たちの現実なのではないでしょうか。
執着せずに生きる
そのような私たちに主イエスは31節で、さらにこのように言われています。「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない」。主イエスが再び来られるときに、人の子が現れるときに、屋上にいる人は家の中にある家財道具に執着して、それを取り出すために下に降りてはならないし、畑にいる人も家にあるものに執着して、家に帰ってはならないのです。しかしこのことは人の子が現れるときにだけ、自分の持っているものに執着するな、ということではありません。そうではなく地上の生涯において、自分の持っているものに執着せずに生きなさい、ということです。そのように生きることが、いつ来るか分からない人の子が現れるときに備えて生きることであり、そのように生きるからこそ、人の子が現れるときに、自分の持っているものに執着しないでいられるのです。
ロトの妻のこと
主イエスは「ロトの妻のことを思い出しなさい」とも言われています。すでにお話ししたように、ロトとその妻、そして二人の娘だけがソドムの町から逃げることになりました。共に読まれた旧約聖書創世記19章15節以下で、主なる神はソドムから逃げるロトたちに向かって、「命がけで逃れよ、後ろを振り返ってはいけない」(19章17節)と命じられました。ところがロトの妻は後ろを振り向いたために塩の柱になってしまったのです。彼女が後ろを、つまりソドムの町を振り返ったのは、そこに残してきた嫁いだ娘たちとその婿たちに、また自分の持ち物に、あるいはこれまでの思い出に後ろ髪を引かれたからです。それらに後ろ髪を引かれ、執着したために彼女は滅びを招きました。主イエスはこのことを思い出しなさい、と言われたのです。
自分の命を生かそうと努める者はそれを失う
そして主イエスは38節でこのように言われています。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」。「自分の命を生かそうと努める」とは、ロトの妻のように、自分の家族や財産、あるいは思い出に後ろ髪を引かれ、執着することです。またノアの時代やロトの時代の人たちのように、自分の日々の生活の営みにしか関心を持てなくなることです。要するにこの地上の生活に、そこでの営みに執着し、そのことにしか関心を持てなくなってしまうことです。しかしそのように生きるなら自分の命を失う、と主イエスは言われます。このことは不思議なことのように思えます。本来、私たちが日々の生活に追われているのも、自分の家族や財産を大切にするのも、自分の命を守るため、保つためであるはずだからです。しかしそれではむしろ自分の命を守れない、保てない、と主イエスは言われるのです。
日々の生活の中に神の支配を信じる
そうであるなら私たちは、日々の生活に関心を持たず、無責任になり、財産を捨て、家族との関わりを断てば良いのでしょうか。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つ」とはそういうことを見つめているのでしょうか。そうではありません。私たちが目を向けるべきなのは、私たちが日々の生活に一杯一杯になり、自分の家族や財産や思い出に執着するとき、いったい私たちに何が起こっているのかということです。そのとき私たちは、神様を無視して生きているのではないでしょうか。ノアやロトの時代の人たちが日々の生活に追われて警告を無視したのは、この人たちが神様を無視して生きていたからです。だから神様の裁きを真剣に受けとめずに滅びを招きました。ロトの妻が自分の家族や財産や思い出に執着して後ろを振り返ったのは、彼女が神様の命令を無視したからです。確かに私たちの日々は地上の生活の営みに圧倒されています。その営みに対する責任も負っています。その営みの中で自分の家族や財産や思い出を大切にして生きています。しかしその中で私たちは神様を無視して生きてはならないのです。私たちの日々の営みは、どれ一つとして神様と関わりなしにあるわけではないからです。どれほど神様と関わりがないように思える営みの連続であったとしても、そこにも主イエスが共にいてくださり、神様が関わりを持ってくださっているのです。私たちはこのことを信じて生きるのです。それは、私たちの日々の生活のただ中に、神のご支配が実現していると信じることにほかなりません。あの「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」という主イエスのお言葉を信じて生きることにほかならないのです。追われているように感じる日々の生活の中に、昨日も今日も明日も変わらないように思える日々の生活の中に、主イエスの十字架によって神のご支配が実現していると信じます。自分の家族との関わりも、自分の持ち物との関わりも、神のご支配のもとにあることを信じます。そのように私たちが、今、日々の生活の中に神のご支配が実現していると信じて生きるとき、私たちは将来、主イエスが再び来てくださり、神のご支配が完成することを真剣に受けとめて生きるようになるのです。今、すでに神のご支配が実現していると信じることは、将来、神のご支配が完成すると信じることと一つのことなのです。
再び来てくださる主イエスに迎え入れられる
34節では、二人の男が一つの寝室に寝ていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われ、35節では、二人の女が一緒に臼をひいていれば一人は連れて行かれ、他の一人は残されると言われています。それは救われるか滅ぼされるかは五分五分だということではありません。半分が救われ半分が滅ぼされるから、救われる半分に入るために必死に生きろ、と脅しているのでは決してありません。そうではなく一人ひとりが、自分の日々の一つ一つの営みの中に神のご支配を信じて生きることが問われているのです。たとえ二人の人が共にいたとしても、一人ひとりが問われているのです。そして日々の営みの中に神のご支配を信じて生きる人は、人の子の日に連れて行かれるのです。「連れて行かれる」は、「迎え入れる」や「受け入れられる」とも訳せます。神のご支配を信じて生きる人は、人の子の現れるときに、再び来てくださる主イエスに迎え入れられ、受け入れられるのです。37節で、弟子たちが「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ね、主イエスは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と答えています。謎めいた問答ですが、おそらく条件が整えば必然的に結果が生じることを見つめています。つまり死体のあるところに必然的にはげ鷹が集まるように、神のご支配を信じて生きる人のところに、必ず主イエスは来てくださり、その人を迎え入れ、受け入れてくださるのです。
人の子の現れるときに
私たちは日々の一つ一つの営みの中に、小さな営みの中にも大きな営みの中にも神のご支配が実現していると信じ、神様を無視することなく、神の御心を求めつつ生きていきます。そのように生きるとき私たちは、いつ来るか分からない人の子が現れるときに備えて生きているのです。そのとき私たちは、「食べたり飲んだり」、「買ったり売ったり」することを疎かにするのではなく、つまり日々の生活を疎かにするのではなく、むしろ日々の生活の営みに責任を持ちつつ、しかしその営みに執着し、それにしか関心を持てなくなることから自由になって生きるのです。自分の財産や家族や思い出を大切にしつつも、それに執着することから解放されて生きるようになるのです。私たちの執着は、私たちの支配欲の表れです。しかし私たちではなく神様こそが私たちのあらゆる営みを支配しておられます。その神のご支配を信じることによって、私たちは自分の執着から自由になって生きることができるのです。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」とは、自分の生活や持ち物に執着しない人は長生きできるということではありません。私たちは必ず地上の生涯で死を迎えるのです。しかし自分の生活や持ち物に執着せず、今、すでに実現している神のご支配を信じ、将来、神のご支配が完成することを信じて生きるとき、私たちは人の子が現れるときに地上の死を超えた復活と永遠の命にあずかります。「かえって保つ」とは、地上の命を永らえることではなく、この永遠の命にあずかることにほかならないのです。人の子の現れるときに、日々の一つ一つの営みの中に神のご支配を信じて生きる私たちのところに、必ず主イエスが来てくださり、私たちを迎え入れ、復活と永遠の命にあずからせてくださいます。私たちは日々の営みの中で色々な困難、苦しみや悲しみに直面しても、この地上の死を超えた究極の希望に望みを置いて歩んでいくのです。