2023年11月の聖句についての奨励(11月1日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
マタイによる福音書第5章9節
平和を願い求めている私たち
今私たちは、そして世界全体が、平和を心から願い求めています。ロシアのウクライナ侵攻からもう一年半以上、激しい戦闘がなお続いています。そして今度は新たにパレスチナにおいて、イスラエルとハマスとの戦いが始まり、既に双方に数千人の死者が出ています。イスラエルがガザ地区への本格的な地上侵攻を開始したら、犠牲者はさらに大幅に増えることは確実です。その戦いはもう始まっているのかもしれません。インターネットを始めとする技術の進歩によって世界がこれだけ一体化しているこの21世紀に、どうしてこのような戦争が起るのか、なぜそれを止めることができないのか、私たちは不可解な思いと共に焦燥感を抱いています。しかしロシアとウクライナの問題にしても、イスラエルとパレスチナの問題にしても、複雑な歴史的事情があって、どちらが正しくてどちらが間違っている、と単純に言えるものではありません。だから簡単には解決しないのです。これらの戦いを終わらせるための努力が様々になされていますが、明確になったのは国連の無力さです。ロシア、アメリカ、中国の拒否権行使によって何も決めることができません。国連は「平和を実現する幸いな者」ではないことがはっきりしました。では、平和を実現することができるのは誰で、どうすればそれが実現するのか、全く暗中模索の状態です。今私たちに出来るのは、人道支援の働きのために献金をすることぐらいで、それはそれで大事なことですが、それで根本的に平和が実現するわけではありません。今は平和の実現を主なる神に祈り求めるしかないのです。しかし「それしかできない」と思うのではなくて、私たちにできるその祈りをしっかりと祈り続けていきたいと思います。
オルガンコンサートからクリスマスへ
この11月の18日に、四年ぶりに教会のパイプオルガンコンサートを行います。演奏者としてお招きするのは、スイスの教会オルガニストとして活躍してこられた上野睦さんですが、コンサート全体に「平和のうた」というタイトルをつけて下さいました。それは勿論、現在の世界の情勢を受け止めてです。このコンサートを、主なる神に平和を祈り求める時として持ちたいと思います。そして来月にはクリスマスを迎えます。主イエスがベツレヘムの馬小屋でお生まれになったことを喜び祝って、天の大軍が神を賛美して歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカによる福音書第2章14節)。これは賛美であると同時に祈りです。主イエス・キリストがこの世に来て下さったことによって、天における神の栄光と、地の平和が実現したことを、天使たちは喜び歌ったのです。しかし地の平和は、私たち人間の罪のゆえに、その時も今も、この地上の目に見える現実とはなっていません。主イエスのご降誕によって地に平和がもたらされることを、天使たちは私たちの先頭に立って祈り求めてくれたのです。その祈りを共に祈りつつクリスマスへの備えをしていきたいと思います。「戦争によって苦しんでいる人々がこの世界にはいる中で、クリスマスを喜び祝うのは不謹慎だ」などと思う必要はありません。クリスマスを喜び祝うことは、天使が告げた「地には平和」の実現を祈り求めることなのです。クリスマスの「讃美夕礼拝」で私たちは毎年、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」を皆で祈っています。「主よ、わたしをあなたの平和の器とならせてください」というこの祈りを、切実な思いで祈らないですんだ年はこれまでにもありませんでしたが、今年はより一層真剣に祈らざるを得ません。「あなたの平和の器」つまり「平和を実現する人々」としていただくことを祈り求めつつ、クリスマスに備えていきたいと思います。
詩編85編9節
教会のオルガンコンサートはいつも、聖書を読み祈りをもって始めています。今月のコンサートで読むのは、詩編第85編の9節です。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように」。地の平和は、主なる神がそれを宣言して下さることによってこそ実現します。人間は戦争、戦いを宣言します。それが「宣戦布告」ですが、それなしにも「特別軍事作戦」などといって戦いを始めます。同じことを日本も昔しました。中国との戦争を「支那事変」と呼んだのは、宣戦布告なしの特別軍事作戦だったからです。戦いを始めることは人間の「愚かなふるまい」の最たるものです。平和は、神がそこに平和を宣言して下さることによって実現するのです。神はその宣言によって、私たち人間が「愚かなふるまい」に戻らないように止めて下さるのです。そうでないと私たちは愚かなふるまいを繰り返し、戦いを止めることができません。神が平和を宣言して下さり、人間が自らの「愚かなふるまい」に気づくことができることを私たちは待ち望み、祈り求めたいのです。
イザヤ書2章4節
主なる神こそが平和を実現して下さることを、イザヤ書第2章4節が語っています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」。剣や槍という武器、戦いの道具は、憎しみを実現するものであり、破壊のみをもたらします。鋤や鎌という農具は生産の道具であり、平和の内に用いられて人を生かし豊かにします。武器も農具も、人間が得た資源と技術によって作り、用いるものです。剣や槍を打ち直して鋤や鎌へと変える、つまり資源と技術を戦い、憎しみのために用いることをやめて、生産のため、人を生かすため、愛することのために用いるようになるところに、平和が実現するのです。そして人がそのように資源や技術の用い方を変えることは、主が国々の争いを裁き、多くの民を戒めて下さることによってこそ実現するのです。人間が自らの判断でそのようにすることは、残念ながら困難だ、ということでしょう。ですからこのイザヤ書第2章は、「終わりの日」に起こることとしてイザヤが見た幻なのです。しかし私たちは、「終わりの日」にならなければ平和は実現しないのだからあきらめるしかない、と考えるのではなくて、終わりの日に主が実現して下さる救いを信じて待ち望み、祈り求めつつ、剣や槍を鋤や鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない、つまり平和を実現することをこそ学んでいくことへと、不十分、不完全ながらも近づいていけるようにと努力していきたいのです。
この世の現実の中で
終わりの日の主による救いの完成の時には、平和が実現します。逆に言えばその時までは、この世界に平和が完全に実現することはないのです。人間の罪と愚かさのゆえに、争いや対立は常にあり、武力で自分(たち)の思いを実現しようとすることが無くなることはないでしょう。そういうこの世の現実、人間の罪の現実を私たちはしっかり見据えていなければなりません。そしてそういう現実においては、ローマ帝国における「ローマの平和」のように、圧倒的軍事力によって平和が維持される、ということもあります。あるいは東西冷戦の時代のように、米ソ両大国の「バランス・オブ・パワー」によって平和が維持される、ということもあります。それはいずれも不完全な平和であり、いつか崩れ去るものですが、しかしこの世に平和な時をもたらすことも確かです。初期キリスト教の伝道において、例えばパウロがあれだけの伝道旅行をすることができたのは、「ローマの平和」のおかげだと言えるのです。逆にソ連の崩壊による冷戦の終わりは平和どころかあちこちで紛争を生じさせました。ロシアのウクライナ侵攻もその一環だと言えます。終末以前のこの世の現実においては、軍事力によって平和が実現する、ということもあります。パレスチナにおいても、そのような形でしか人道危機を乗り越えることはできないのかもしれません。
イザヤ書9章1〜6節
しかしそのような平和は相対的なものであり、ある人々の犠牲の上に成り立っていることも事実です。だから軍事力によって平和を実現する者が「幸い」であり「神の子と呼ばれる」わけではありません。私たちは、この世の現実の中での暫定的な平和を模索しつつ、主なる神が終わりの日にもたらして下さる完全な平和を祈りつつ待ち望んでいきたいと思います。主なる神は、それが虚しい希望ではないことを、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったことによって示して下さいました。イザヤ書第9章1〜6節が主イエスの誕生をこのように預言しています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」。私たちのために生まれた一人のみどりごである主イエスこそ「平和の君」であり、兵士の靴、血にまみれた軍服をことごとく焼き尽くして絶えることのない平和を実現して下さるのです。
キリストこそ「平和を実現する人」
この預言の成就としてお生まれになった主イエスは、十字架の死によって私たちの平和となって下さいました。エフェソの信徒への手紙第2章14〜18節にそのことが語られています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠くに離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」。私たち人間は「敵意という隔ての壁」を築き、それが戦いを生じさせています。主イエス・キリストは、私たち人間の敵意を全て引き受け、ご自分が十字架にかかって死んで下さることによって、敵意を滅ぼして、神と和解させて下さいました。独り子をも与えて下さった神の愛によって罪を赦されて神との和解を与えられた私たちは、人間どうしの罪によって生じている敵意を乗り越えて、和解へと歩み出すのです。私たちが築いている「敵意という隔ての壁」はそう簡単に乗り越えられるものではありません。和解への歩みも困難だらけで、少し前進したかと思うと大きく後退してしまうようなことばかりです。世の終わりの救いの完成の時まで、それが完全に実現することはないでしょう。しかし、主イエス・キリストは、十字架の死と、そして復活によって、既に敵意を滅ぼして下さっています。主イエスこそ、「平和を実現する幸いな人」であり、「神の子と呼ばれる」人なのです。敵意を乗り越えて復活し、永遠の命を生きておられる神の子主イエスが、私たちと共にいて下さいます。その主イエスを信じて、あきらめることなく、「平和の福音」を告げ知らせていきたいのです。
平和を実現する人となる
この世の現実においては、暫定的な和解を交渉によって、双方の妥協によって実現していくことが必要です。不完全な和解であっても、それによって悲惨な戦いがしばらくでもやみ、傷ついている人の救援がなされることは良いことです。そういう努力が今まさに求められているし、傷ついている人々への人道支援の働きに協力していきたいと思います。しかし私たち信仰者は、本当の和解が成り立ち、敵意が滅ぼされるためになすべきことをしなければなりません。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が私たちとの間に実現して下さった和解を宣べ伝えること、「和解の福音」を伝道することです。世の終わりに神が実現して下さる完全な平和を待ち望みつつ、主イエスによる罪の赦し、神との和解を伝道することによってこそ私たちは、争い、対立に満ちているこの世界を、「平和を実現する幸いな人々」として、神の子と呼ばれる者として生きることができるのです