説教題「死んでいたのに生き返り」 副牧師 川嶋章弘
エゼキエル書 第18章30-32節
ルカによる福音書 第15章11-32節
放蕩息子のたとえ
先週に引き続き、本日も「放蕩息子のたとえ」として知られている、主イエスの譬え話に聞いていきます。前回お話ししたように、この譬え話は父親とその二人の息子の話であり、前半11-24節では弟と父親について、後半25-32節では兄と父親について語られています。先週は前半を読みましたが、本日は後半を中心に読みつつ、この譬え話全体が見つめていることに目を向けていきます。
弟と父親
まず11-24節で語られていた弟の話を振り返っておきます。弟は、本来父親が死んだときに相続する財産を、父親が生きている内に受け取りました。その全部を金に換えて、父親のもとから離れ遠い国に旅立ったのです。弟はそこで放蕩の限りを尽くし、父親から与えられた財産を無駄遣いしました。何もかも使い果たした弟に追い打ちをかけるようにひどい飢饉が襲い、彼は食べるにも困り始めました。ユダヤ人としての感情に反して、律法で汚れた生き物とされていた豚の食べるいなご豆を食べようとするほど、彼は飢えていたのです。ところが飢え死にしそうな彼に食べ物を与える人はいませんでした。弟はお金も食べる物も助けてくれる人もなく、まさに人生のどん底にあったのです。けれどもこの人生のどん底で弟は我に返ります。自分が何者であったのかを思い起こし、自分が捨て去ってきた場所を思い起こし、父親のもとに帰ることにしたのです。自分には息子と呼ばれる資格がないと分かっていたので、彼は父親にこのように言うことを心に決めました。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。
一方父親は、息子が家に戻ってくるのを待ち続けていました。自分から財産を半ば強引に奪い、自分のもとから離れていったにもかかわらず、息子が家に戻ってくるのを待ち続けていたのです。しかも単に待っていたのではありません。家から出て来て、家の外でいつ帰ってくるか分からない息子を待ち続けたのです。どれだけの年月が過ぎたのかは分かりませんが、あるとき父親は、家から遠く離れたところに息子の姿を見つけます。長い旅をしてやっとそこまでたどり着いたのでしょう。すると父親は憐れに思い、息子に走り寄って首を抱き、接吻しました。息子が父親に言おうと心に決めていた言葉を遮って、父親は僕たちに、息子にいちばん良い服を着せ、その手に指輪をはめ、その足には履物を履かせ、肥えた子牛を屠り食べて祝おうと言ったのです。誰もが息子と呼ばれる資格はないと思っていたのに、本人すらもそう思っていたのに、父親は彼を自分の息子として迎え入れたのです。
神の憐れみ
この弟の姿は私たちの姿であり、この父親の姿は父なる神様のお姿です。神様はご自分のもとから離れ、好き勝手に生きている私たちが、ご自分のもとに帰ってくるのを待ち続けてくださるのです。神様に背いていた私たちには神の子と呼ばれる資格がまったくないにもかかわらず、ご自分のもとに帰ってきた私たちを神の子と呼んでくださるのです。父親が息子を憐れに思ったように、神様は私たちを深く憐れんでくださいます。その私たちに対する深い憐れみによって神様は独り子イエス・キリストを遣わしてくださり、十字架に架けることによって私たちの救いを実現してくださいました。罪のもとで死んでいた私たちを生き返らせ、失われていた私たちを見つけ出すために主イエスは十字架で苦しみを受け死んでくださったのです。
兄の怒り
さて弟が父親のところに帰ってきたとき、兄は畑にいました。一昨日も昨日も今日も、これまでと変わることなく畑で働いていたのです。ところが畑仕事を終えて家の近くまで来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきました。いつになく騒々しいのを訝しく思った兄は僕を呼んで、「これはいったい何事か」と尋ねました。すると僕は「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と答えました。これを聞いた兄は怒り出しました。怒って家に入ろうとしなかったのです。そこで父親が家から出て来て兄をなだめましたが、兄は怒りを爆発させてこのように言いました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。
兄の怒りの理由は?
このように兄が怒りを爆発させたのは、もっともなことのように思えます。しかしその理由はどこにあるのでしょうか。父親から財産を受け取った後、兄と弟が歩んだ人生の違いにあるのでしょうか。当時の財産は主に土地でしたが、弟は与えられた土地を売って金に換え、それを元手に遠い国に旅立ち、今までとはまったく異なる生活を送りました。放蕩の限りを尽くして好き勝手に生きたのです。しかし兄は、これまでとまったく同じ生活を送りました。土地を与えられたとはいえ、それを売ったわけではないので、今までと変わらず父親のもとで、父親と一緒に働く生活が続きました。土地の名義変更だけをしたようなものです。父親に仕え、父親の言いつけに背くことなく、兄はこれまでと変わらない日常を過ごしたのです。このような兄と弟が歩んだ人生の違いを思うとき、兄は弟の生き方が羨ましかったのではないかと思います。兄も、弟のように父親のもとから離れて、自分の好きなように生きたかったけれど我慢していたのではないか。その我慢の限界が来て、兄は怒ったのではないかと思うのです。しかしそうではありません。前回お話ししたように、私たちの社会では、自分の力で自分の好きなように生き、自分のやりたいことを実現していく生き方こそ、価値のある、カッコいい生き方であると考えられていますし、そのような生き方に憧れる人も少なくありません。けれども兄は、弟のように生きたいと思っていたわけではありませんでした。弟の生き方が価値あるとも、カッコいいとも思っていなかったのです。兄は弟の生き方ではなく、自分の生き方こそが正しいと思っていたからです。父親に仕え、父親の言いつけに背くことなく生きることが、正しい生き方だと思っていたのです。兄にすれば、弟の生き方は正しくない生き方であり、弟が遠い国で放蕩の限りを尽くして身を持ち崩したのは当然の結果であったのです。
それなら兄の怒りの理由は、一体どこにあるのでしょうか。改めて兄が父親にぶつけた怒りの言葉に目を向けると、兄の怒りの理由が、弟のように生きるのを我慢していたことにあるのではなく、正しく生きているにもかかわらず自分が報われないことにあるのが分かります。正しくない生き方をして、娼婦どもと一緒に父親の財産を食いつぶした弟が家に帰ってくると、父親はその弟のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めました。しかし父親に仕え、父親の言いつけに一度も背くことなく、正しい生き方を続けてきたにもかかわらず、父親は、自分が友達と宴会をするために子山羊一匹すら与えようとしなかったのです。弟のためには「肥えた子牛を屠っておやりになる」、しかし自分のためには「子山羊一匹すらくれなかった」。報われるはずのない弟が報われ、報われるべき自分がまったく報われない。このことこそが、兄の怒りを爆発させたのです。
報いを求める
ここに至って、私たちは改めて兄が怒りを爆発させたことに共感するのではないでしょうか。私たちも兄が報われるのは当然だと、兄が報われないのは公平ではないと思うのです。私たちの多くは親の言いつけに背いたことが一度ならずあるので、私たちは自分の生き方を兄の生き方に簡単に重ね合わせることができないと思います。しかしそうであったとしても、私たちは報いを求めるという点で、兄と同じなのではないでしょうか。その意味で、この兄の姿は私たちの姿なのです。兄ほどではなくても、私たちもそれなりに正しく生きようと努めています。善い行いをなすために努力しています。教会の奉仕のために色々と頑張ることもあります。何年も父親に仕え、父親の言いつけに一度も背くことのなかった兄の生き方が誤っていたとは言えないように、私たちが善い行いをなそうと努力し、教会の奉仕のために頑張ることそれ自体が誤っているのではありません。しかし私たちはしばしば自分が努力し、頑張っているのに報われないことに対して怒りを抱きます。なぜこれだけ努力しているのに、頑張っているのに報われないのだろうかと怒るのです。皆が報われないなら諦めもつくかもしれません。しかし自分より正しく生きていないように見える人が報われて、自分が報われないとしたら心穏やかではいられません。自分はこのたとえの兄ほどは正しく生きていないけれど、しかしあれほど好き勝手に生きているあの人に比べれば、自分のほうが正しく生きているのに、なぜあの人が報われて、自分は報われないのだろうか。善い行いをなすために努力しているようには見えないあの人が、奉仕のために頑張っているようには見えないあの人が報われて、なぜ努力し、頑張っている自分が報われないのだろうか、と怒りに駆られるのです。私たちは自分が正しいことをしていると思っているときにこそ、努力し頑張っていると思っているときにこそ、そのことに対する報いを求めます。報われて当然だと思い、ほかの人と比べて公平に報われていないと怒りを抱かずにはいられないのです。
私たちの当たり前、神の当たり前
そのように弟と比べて、あるいはほかの人と比べて公平に報われていないと憤る兄と私たちに、父親は、そして神様はこのように言われます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前」だ、と神様は言われます。しかしこの当たり前は、私たちの当たり前ではありません。正しく生き、善い行いを積み重ね、努力し頑張っている人が報われる、というのが私たちの当たり前だからです。しかし神様の当たり前はそうではない。神様から離れ、好き勝手に生き、放蕩の限りを尽くし、善い行いを積み重ねるどころか悪い行いを積み重ねていた人が、ご自分のところに帰ってくるのを神様は喜んでくださり、祝宴を開いてくださるのです。神様の当たり前は、私たちの当たり前と衝突するのです。弟はすべてのものを失いました。兄からすれば当然の結果です。しかし父親は自分のもとに帰ってきた弟に失った以上のものを与えたのです。同じように神様は、神様から離れ、好き勝手に生き、神様との関係を失い、隣人との関係をも失い、ぼろぼろになってしまった私たちを憐れんでくださいます。その憐れみによって神様と私たちの関係を回復してくださるのです。本来、私たちはすべてを奪われて当然なのに、神様は奪うどころかさらに恵みを与えてくださいます。死んでいたのに生き帰り、失われていたのに見つかった、と喜んでくださり祝宴を開いてくださるのです。誤解を恐れずにいえば、神様は全然公平な方ではありません。神様の憐れみは私たちが考える公平さを突き破るのです。しかしそのような私たちの常識を突き破る憐れみだからこそ私たちは救われました。私たちが善い行いを積み重ねたから、努力して頑張ったから、その報いとして私たちは救われたのではありません。ただ神様の一方的な憐れみによって、一方的な恵みによって、独り子を十字架に架けてくださることによって、私たちは救われたのです。
すでに報われている
しかしそうなると神様のもとで生きるより、好き勝手に生きたほうが良いように思えます。神様のもとで生きていても報われず、好き勝手に生きてから神様のもとに戻ってくると報われるならば、兄のように生きるよりも弟のように生きたほうが良いのではないかと思います。神様が私たちの当たり前を突き破り、私たちの当たり前を逆転させて、弟が報われて兄が報われないのであれば、神様はご自分のもとに留まる者を顧みてくださらないのではないかと思うのです。しかし主イエスのたとえは、兄のように生きる人が弟のように生きる人に逆転され、報われることがない、ということを見つめているのでしょうか。この父親は弟だけを憐れみ、兄を憐れまなかったということなのでしょうか。そうではありません。父親は弟が帰ってくるのを家から出て来て、家の外で待ち続けました。同じように父親は、怒りに駆られ家に入ろうとしなかった兄を、家から出て来てなだめたのです。弟に対しても兄に対しても父親は同じように憐れに思い、家から出て来たのです。怒りをぶつける兄に対して、父親はこのように言いました。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。兄は自分が報われていないと思っていました。しかし本当は、兄はすでに報われていたのです。父親に「子よ」と呼ばれること、いつも父親と一緒にいられること、父親のものをすべて与えられていること。このことこそ兄に与えられている報いです。いえ、報いという言葉は正確ではありません。報いというのは、なんらかの行いに対して与えられるものだからです。しかし兄に与えられているのは、兄の行いとはまったく関係なく与えられている恵みなのです。私たちも同じです。私たちが神様のもとで生きるとき、善い行いを積み重ねたり、奉仕を頑張ったりすることに対して報われるかどうかが大切なのではありません。私たちが神様のもとで生きていることこそ、私たちがいつも神様と共にいられることこそ、私たちに与えられているなにものにも代えがたい報いです。なにものにも代えがたい神様の恵みなのです。私たちは神様から「子よ」と呼んでいただけることが、どれほど大きな恵みであるかを簡単に忘れてしまいます。私たちが神様から「子よ」と呼んでいただけるのは、神の独り子、イエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったからです。本来神の子ではあり得ない私たちが神様から「子よ」と呼ばれるために、主イエス・キリストの死を必要としたのです。私たちは神様から「子よ」と呼ばれるたびに、このことを想い起こすべきなのです。神様は、神様のもとで生きる私たち一人ひとりに、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる、わたしのものは全部お前のものだ」と言ってくださいます。このことこそ、神様が、その深い憐れみによって、独り子の十字架の死によって、私たちに与えてくださっている約束です。神様の子どもとして、いつも神様と共に生き、いつも神様の導きと支えと守りの内に生きることにこそ、私たちの本当の慰めと平安と希望があるのです。
報いを求めるところに自由はない
兄はこのことに気づけませんでした。すでに報われていることに気づけずに、自分が正しく生きていることに対する、自分の善い行いに対する報いを求めようとしたのです。30節で兄は、自分の弟のことを「私の弟」と呼ばず「あなたのあの息子」と呼んでいます。自分の弟であることを認めず否定しているのです。最も身近な隣人の一人である弟との関係が破れてしまっているのです。神様が与えてくださっている大きな恵みに気づこうとせず、自分の行いに対する報いを求めて生きるとき、私たちは不満を抱え、隣人に対する怒りを抱えて生きることになります。弟のように神様から離れ、自分の力で生きることに本当の自由はありませんでした。しかし神様のもとに留まって生きていても、兄のように自分の行いの報いを求めて生きるなら、そこにも本当の自由はないのです。神様のもとで生きているように思っていても、自分と隣人を比べて、自分の正しさを振りかざして隣人を裁き、隣人との関係を壊してしまうなら、私たちは神様のもとに留まりながら、神さまから遠く離れてしまっているのです。
死んでいたのに生き返り
この主イエスのたとえは「放蕩息子のたとえ」と言われています。しかし「二人の息子を持つ父親のたとえ」と呼んだほうが良いと思います。24節で「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ」とあり、32節にも「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」とあります。しかし死んでいたのは、いなくなっていたのは弟だけではありません。兄もまた、死んでいたのです。いなくなっていたのです。二人の息子とも、死んでいたのであり、失われていたのです。その二人の息子の両方を、父親が深く憐れみ、愛していることをこのたとえは語っています。そのことを通して、神様がご自分のもとから離れてしまう人を、ご自分のもとに留まっていても自分の行いの報いを求めてしまう人を、その両方を深く憐れんでくださり、愛してくださっていることを見つめているのです。私たちはこのたとえの弟であり、兄でもあります。一方で私たちは神様から離れてしまうことによって、失われている者、死んでいる者となっているのです。その一方で私たちは神様のもとにいても、神様の恵みによってすでに報われていることに気づけずに、自分の行いの報いを求めてしまうことによって、失われている者、死んでいる者となっているのです。そのような私たちが神様の深い憐れみと愛によって、死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのです。神様から「子よ」と呼びかけられ、いつも神様と共に生きる者とされたのです。
喜びの交わりへ入っていこう
自分の弟を「あなたのあの息子」と呼ぶ兄に対して、父親は「お前のあの弟は」と言います。兄が、自分の弟との関係を回復することを願っておられるのです。その回復は、弟が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのを喜ぶ祝宴へ、兄が入っていくことによって与えられます。父親は兄をこの祝宴へと招いているのです。このたとえでは、この後の兄の行動は語られていません。それは、私たち一人ひとりに委ねられているのです。
共に読まれた旧約聖書エゼキエル書18章31節以下で、「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と、神様は言われています。だれの死をも喜ばない神様が、主イエス・キリストによって、死んでいた私たちを生き返らせてくださり、いなくなっていた私たちを見つけ出してくださいました。その大いなる恵みの内に、私たちは、自分だけでなくほかの方が死んでいたのに生き返り、いなくなっていなのに見つかったことを喜ぶのです。そのことを喜ぶ交わりへと入っていくのです。私たちは、神様の招きに応えて、失われた者が見つけ出されたことを喜ぶ教会の交わりへと入っていくのです。