夕礼拝

小さな群れよ、恐れるな

5月14日 夕礼拝
「小さな群れよ、恐れるな」 副牧師 川嶋章弘
・イザヤ書第40章10-11節
・ルカによる福音書第12章22-34節(2)

思い悩むな
 先週に引き続き、本日もルカによる福音書12章22-34節のみ言葉に聴いていきます。前回お話ししたように、主イエスは弟子たちに「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)と言われました。そして烏と野原の花に注目するよう弟子たちに促し、このように言われました。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。しかしその烏を神様は養ってくださるではないか」。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかしその野原の花を神様は着飾ってくださるではないか。明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神様は装ってくださるではないか」。「そうであるならご自分に似せてあなたたちをお造りになり、あなたたちを愛し、大切にしてくださっている神様が、あなたたちを養ってくださらないはずがないし、装ってくださらないはずがないではないか」。この神様の養いと守りを信じて生きるとき、私たちは思い悩むことから解放されて生きることができます。私たちに命を与えくださり、その人生を導いてくださる神様に自分の命と人生を委ねて生きるとき、私たちは思い悩みから自由になって生きることができるのです。ですから前回お話ししたように、「思い悩むな」とは、言い換えれば「神様を信じて生きなさい」ということであり、「神様が自分の人生を養い、装ってくださることを信じて生きなさい」ということなのです。

自分の力で人生を着飾る
 このことを裏返して言えば、神様を信じて生きないならば、思い悩んで生きなくてはならない、ということです。このことが29-30節で示されていました。「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」。「世の異邦人」とは神様を信じていない人たち、あるいは神様を知らない人たちのことです。その人たちは、神様が自分の人生を養い、装ってくださると信じていないゆえに、知らないゆえに、自分の力で自分の人生を養い、着飾らなくてはなりません。そのために食べ物や着る物を切に求め、そのほかにも色々なものを飽くことなく求めていくことによって、いつも思い悩みにとらわれて生きなくてはならないのです。

 このように生きているのは「世の異邦人」だけとは言えません。我が身を省みるならば、私たちは神様を信じ、神様を知っているにもかかわらず、しばしば自分の力で自分の人生を養い、着飾ろうとし、あれやこれや求めています。そしてそうすることによって、私たちも思い悩みにとらわれているのです。自分の人生を着飾るために私たちが求めるものは財産だけではありません。才能や知識や経験、あるいは地位や名声、そのほかにも色々なものがあるでしょう。それらを手に入れることで、一時、自分の人生を着飾ることができるかもしれません。しかし私たちはどれほど着飾って生きることができたとしても、地上の人生の終わりに迎える死において、これまで自分を着飾っていたすべてのものが奪われるのです。12章13節以下で、畑が豊作だったので大きい倉を建て、そこに穀物を蓄えることで自分の命を永らえることができると思ったあの金持ちに、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と告げられました。この愚かな金持ちと同じように、自分の持っているものでどれほど着飾ったとしても、私たちは自分の寿命を僅かでも延ばすことができないのです。

神の国を求めなさい
 そのような私たちに主イエスは言われます。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」。私たちは自分の力で人生を着飾るために色々なものを求めることによって思い悩んで生きています。その思い悩みから解放されるのは、私たちが神の国を求めることによってなのです。神の国とは神のご支配のことであり、神のご支配を求めるとは、すでにこの地上に実現した神のご支配のもとで、神様が自分の命と人生を養い、装ってくださると信じて生きることにほかなりません。そのように生きるとき、私たちに思い悩まないで生きる人生が与えられるのです。29節には「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない」とありました。この「考えてはならない」は、「神の国を求めなさい」の「求めなさい」と同じ言葉です。つまり神の国を求めて生きるのか、それとも自分の力で人生を着飾るために色々なものを求めて生きるのか。そのどちらを求めて生きていくのかが問われているのです。私たちは両方を求めて生きていくことはできません。神の国をこそ求めて生きていかなくてはならないのです。

神が必要なものを与えてくださる
 主イエスは神様を信じているなら食べ物や着る物はいらない、と言われたのではありません。生きていくためには食べ物や着る物が必要ですし、それだけでなくほかにも必要なものがあります。たとえば私たちが生きていくためには、自分の人生に意味と価値があることが必要だし、将来への希望があることが必要なのではないでしょうか。私たちが生きるのに必要なこれらのものを、神様はよく知っていてくださる、と主イエスは言われます。そして私たちに、自分の力でこれらのものを求めるのではなく、神の国を求めなさいと命じられるのです。私たちが生きるのに必要なものを知っていてくださる神様のご支配に信頼し、委ねて生きるならば、これらのものは加えて与えられるからです。それは、神の国を求めて生きれば、生きるために必要なものがおまけでついてくる、というようなことではありません。そうではなく神の国を求めて生きる歩みにおいてこそ、私たちの命と人生を養い、装うために本当に必要なものが与えられるということなのです。私たちは自分の力で人生を着飾ることによって人生の意味や価値を、将来への希望を手に入れることはできません。私たちに命を与え、その人生を導いてくださり、私たちが生きるのに本当に必要なものを知っていてくださる神様だけが、私たちに本当に意味と価値のある人生を、将来への本当の希望のある人生を与えることができるのです。

神の国をくださる
 だから32節の後半で、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と言われています。神の国を求め、神のご支配に委ねて生きる私たちに、父なる神様が喜んで神の国を与えてくださる、と約束されているのです。この約束は、神の独り子であるイエス・キリストが十字架で死なれ、復活されることによって私たちに与えられました。主イエスの十字架と復活による救いに与ることによって、私たちは神の子とされ、神の国に生きる者とされる、という約束が与えられたのです。洗礼を受け、主イエスによる救いに与った私たちにとって、この約束はすでに実現しています。私たちはすでに神の子とされ、この地上に「実現した神の国」を生き始めているのです。けれども「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束が意味しているのは、それだけではありません。この約束は、世の終わりに「完成した神の国」を私たちに与えてくださる、という約束でもあるのです。それは、世の終わりに私たちが復活させられ永遠の命に与って、完成した神の国で主イエスと共に生きるようになることにほかなりません。私たちの父となってくださった神様が、喜んで世の終わりに完成した神の国を私たちに与えてくださるという約束があるからこそ、私たちの人生には意味と価値があり、将来への希望があるのです。世の終わりに復活と永遠の命に与るという約束が与えられているからこそ、地上の死によって奪われることのない意味と価値と希望のある人生を、私たちは生きることができるのです。死によって失われることのない本当の希望によって、私たちが死への恐れから解放されて生きるとき、私たちの人生は本当に意味あるもの、価値あるものとなるからです。私たちは「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束を信じて生きます。その私たちを、神様は栄華を極めたソロモンよりも着飾ってくださり、私たちに意味と価値のある人生を与えてくださるのです。

富を天に積む
 33節ではこのように言われています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。「尽きることのない富を天に積みなさい」の「富を天に積む」とは、自分の善い行いを積み重ねて、神様に認めてもらう、ということではありません。富とは、私たちが自分の人生において頼りにしているもののことであり、最も大切にしているもののことです。つまり「富を天に積む」とは、私たちが自分の持っているものを頼みとして生きるのではなく、神様のご支配を頼みとして生きることなのです。同じことが、続く34節の「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」というみ言葉においても見つめられています。私たちが本当に頼りとし、大切にしているものがあるところに、私たちは自分の心を置いているのです。私たちが自分の持っているものを頼りとし、それらで自分の命と人生を養い、着飾って生きようとするならば、私たちの心は地上にあります。しかし私たちが神様のご支配を頼みとし、神様が自分の命と人生を養い、装ってくださると信じて生きるならば、私たちの心は天にあるのです。地上に生きている私たちの心が天にあることこそ、地上にあって神の国を求めて生きることです。世の終わりに「完成した神の国」が与えられることに希望を置いて、この地上にすでに「実現している神の国」に生きることなのです。なにより自分の持っているものを頼りとするなら、それらの富はいつ減るか分かりません。そして地上の死において、それらの富はすべて失われるのです。しかし神様の養いと守りを頼みとするなら、その富は「尽きることのない富」であり、地上の死を超えて失われることのない富なのです。
自分の持っているものを隣人のために用いる

 そのように私たちが自分の力ではなく、神様のご支配に頼って生きるときに、私たちに与えられていく生き方が、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」というみ言葉に示されています。それは慈善事業に励みなさい、ということではありません。もちろん慈善事業は尊いものですが、誰もが行えるわけではないでしょう。ここで本当に見つめられているのは、神の国を求めて、神のご支配のもとで、神様が自分の人生を養い、着飾ってくださると信じて生きるとき、私たちは自分の持っているものを頼みとして生きることから解放されて生きることができる、ということです。財産であれ、才能や知識や経験であれ、あるいは地位や名声であれ、自分の人生を着飾るために握りしめていた色々なものを頼みとすることなく生きるようになるのです。それは、言い換えるならば、自分の持っているものを自分自身のためではなく、ほかの人のために用いていくようになる、ということです。私たちはこのことを日々の生活の中で経験します。神様の養いと守りに委ねることによって、自分の持っているものを握りしめることから自由にされた私たちは、日々の生活の中で、自分の持っているものを用いて、隣人に仕えて生きる者へと変えられていくのです。

教会に向かって語りかけている
 さて、ここまで私たちは主イエスのお言葉を、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉として聞いてきました。主イエスは私たち一人ひとりに、「思い悩むな」、「神の国を求めなさい」、「富を天に積みなさい」と語りかけられていたのです。けれどもこの箇所で、主イエスが私たち一人ひとりに語りかけられていると受けとめるだけでは十分ではありません。32節に見逃すことのできないみ言葉が、ここでしか聞くことのできないみ言葉があるからです。それは「小さな群れよ、恐れるな」というみ言葉です。「小さな群れよ、恐れるな」。主イエスは私たち一人ひとりに向かって語っているだけではなく、弟子たちの小さな群れに向かって、そして私たちの小さな群れ、私たちの教会に向かって語っているのです。私たちが連なるこの指路教会は「小さな群れ」とは言えないように思えるかもしれません。確かに日本基督教団に属する教会の中でも、教会員の人数が上から何番目かの大きな教会です。しかしそれでも私たちは圧倒的に多くの主イエスを信じていない人たちに囲まれている「小さな群れ」なのではないでしょうか。指路教会を中心に、みなとみらいを覆うぐらいまで同心円状にエリアを広げていけば、主イエスを信じる小さな群れである指路教会を囲んで、圧倒的に多くの主イエスを信じていない人たちがいるのです。この状況は、主イエスの語りかけを聞いていた弟子たちの状況によく似ています。このとき主イエスと弟子たちは、足を踏み合うほどの多くの群衆に囲まれていました。その群衆の中には、律法学者やファリサイ派の人たちのように、激しい敵意を持っていた人たちもいたに違いありません。主イエスを信じていない多くの人たちに囲まれ、敵意を持っている人たちの視線に晒されている弟子たちに、その小さな群れに、主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と語りかけたのです。

私たちの群れの恐れ
 私たちの教会が抱えている思い悩みや恐れは、弟子たちの群れが抱えていたものと必ずしも同じではありません。弟子たちと同じように、圧倒的に多くの主イエスを信じていない人たちに囲まれていても、私たちは弟子たちとは違って迫害を恐れることはないでしょう。しかしそうであっても、世にあって小さな群れである私たちの教会は、確かに思い悩み、恐れと不安を抱いているのです。
 三年に亘ったコロナ禍を通して、礼拝に出席する方の人数が減りました。コロナが落ち着いてきたので、これから出席者が増えていくかもしれません。けれども増えていかないかもしれない。コロナ前の出席者数には戻らないかもしれません。このことは単に人数の問題ではありません。私たちの群れから離れてしまった方がいる、ということです。それは、私たちの小さな群れが散らされてしまう危機にある、ということにほかなりません。私たちの教会は、このことに心を痛め、思い悩み、恐れと不安を抱かずにはいられないのです。
 あるいは10年後、20年後の教会は、どうなっているだろうかと思うこともあるのではないでしょうか。10年、20年の間に、私たちの群れに加わる方よりも、私たちの群れから天に召される方のほうが多くなり、私たちの群れが小さくなっていくかもしれません。このことも単に人数の問題ではありません。神様が教会に与えてくださっている伝道という使命を、私たちの教会が十分に担えなくなる、ということです。私たちの教会の伝道が危機に晒される、ということにほかならないのです。私たちの教会は、このことにも心を痛め、思い悩み、恐れと不安を抱かずにはいられないのです。

神の国を求める群れ
 そのように心を痛め、思い悩み、恐れと不安を抱いている小さな群れである私たちの教会に、主イエスは「小さな群れよ、恐れるな」と言われているのです。「思い悩むな」、「神の国を求めなさい」、「富を天に積みなさい」と言われるのです。私たち一人ひとりがそうであるように、私たちの教会も、自分たちの力で教会を営み、整え、着飾ろうとしてしまいます。特に困難に直面するとき、自分たちの力でなんとか立て直そうとするのです。そのために色々なものを求めることによって、教会は思い悩み、恐れと不安に駆られます。しかし主イエスはそのような私たちの群れに、「神の国を求めなさい」と言われているのです。神様が私たち一人ひとりの命と人生を養い、導き、装ってくださるのと同じように、神様は私たちの教会を建ててくださり、その歩みを導いてきてくださり、これからも導いてくださり、支え、守ってくださいます。私たちの群れがこのことを信じて歩むとき、これからどのような困難に直面するとしても、思い悩みや恐れや不安が、私たちの群れを決定的に支配することはありません。たとえひと時、失望することはあったとしても、決して絶望することはないのです。

富を天に積む群れ
 私たちの群れは「富を天に積む」群れです。言い換えるならば、私たちの群れが本当に頼りとし、大切にしているものは、自分たちの教会のビジョンとか計画とかではなく、神様のご支配です。神様が必ず私たちの群れを導き、支え、守ってくださることを信じて歩むとき、私たちの群れの心は、地上ではなく天にあります。だから私たちの群れは、すでにこの地上の教会において神様のご支配が始まっていると確信し、世の終わりにそのご支配が完成することに希望を置いて歩んでいくことができるのです。
小さな群れよ、恐れるな

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。私たちの群れは、この主イエスの言葉によって生かされている群れであり、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という約束によって生かされている群れです。本日、主日礼拝後に4月定期教会総会が行われました。この総会において私たちは、神様が2022年度の教会の歩みを恵みによって導いてくださったことを、感謝をもって振り返り、そのことを通して与えられた課題を2023年度の歩みに活かしていきたいという思いを新たにしました。けれどもこの総会で私たちは、なによりも私たちの教会への神様の語りかけを聞いたのではないでしょうか。「小さな群れよ、恐れるな」という語りかけを聞いたのです。神様は「あなたがたの群れを大きくするから心配するな」と言われているのではありません。「小さな群れよ、恐れるな」と言われているのです。私たちの教会は、2023年度の歩みの中で色々な困難に直面し、思い悩み、恐れや不安に駆られることが度々あるかもしれません。しかしその度に、「小さな群れよ、恐れるな」という主イエスのお言葉に、神の語りかけに聴いていくのです。私たちの群れを養い、導き、装ってくださる神様に信頼して、恐れることなく、「キリストの体である教会の再建」という今年度の目標に向かって歩みを進めていくのです。そのように歩んでいく私たちの小さな群れを、私たちの教会を、神様は栄華を極めたソロモンにもまさって着飾ってくださるに違いないのです。

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