主日礼拝

怒りと和解

5月14日(日)主日礼拝
「怒りと和解」 牧師 藤掛順一
・詩編第103編1-13節
・マタイによる福音書第5章21-26節

これまでの箇所との繋がり
 マタイによる福音書第5章の「山上の説教」を読みつつみ言葉に聞いています。本日から21節以下を読んでいきますが、ここは先週の17〜20節と密接に結びついているのだということを先週の説教において申しました。主イエスは17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。律法とは、旧約聖書に記されている、神がご自分の民であるイスラエルにお与えになった掟です。主イエスはそれを完成させるために来られたのです。その「完成する」とは、律法が元々目指していたことを「実現する」という意味だと先週申しました。主イエスはどのようにして律法を実現させようとしておられるのでしょうか。また20節には、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とも語られていました。律法を厳格に守っている律法学者やファリサイ派の人々の義、正しさにまさる義を持つようにと主イエスは言われたのです。それはどのような義、正しさなのでしょうか。これらの問いへの答えが、21節以下に語られているのです。

律法を完成する主イエスの教え
21節から22節かけてのところに、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」とあります。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」というのが旧約聖書の律法の言葉です。「殺してはならない」は律法の中心である十戒の第六の戒めです。「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は十戒ににはありませんが、律法の他の箇所にそれが語られています。つまり、神は律法においてイスラエルの人々に、「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じておられたのです。主イエスはそれを受けて、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって、ご自分の教えをお語りになりました。主イエスがどのようにして律法を実現させようとしておられるのかがここに示されています。そしてこの主イエスの教えを行うことが、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きることなのです。21節から5章の終わりまでのところには、このように、「~と命じられている」という言い方で律法の教えが取り上げられ、「しかしわたしは言っておく」に導かれて、それを完成する主イエスの教えが語られていく、ということが繰り返されています。律法を完成、実現する主イエスの教え、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは何かがここに語られているのです。

「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」
そういう流れを確認した上で、本日の箇所を見ていきます。今申しましたようにここには、「殺すな」という律法の教えがとりあげられています。それは、人を殺してはならない、ということです。人間の命は、神が与え、神が取り去られる、神のものです。それを人間が奪うことは、神のみ心を否定して自分が命の支配者となろうとする罪です。律法が「殺すな」と命じているのは、命は神のものであって人間のものではない、ということなのです。だからこの戒めは他の人を殺すことを禁じているだけでなく、自殺をも禁じています。自分の命も、他の人の命も、神のものとして大切にすることを、「殺してはならない」という律法は教えているのです。
現在の私たちの社会における法律においても、殺人は犯罪です。ですから、「人を殺した者は裁きを受ける」ということは、神の律法のみでなく、人間の法律にも定められているのです。しかしこの律法や法律があっても、イスラエルの民においても、また私たちの社会においても、殺人は無くなりませんでした。私たちの社会においては特にこのところ、人を殺すことが平気でなされるようになってきています。「誰でもいいから人を殺してみたかった」などという動機で殺人が行われるようなことにもなっています。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という律法ないし法律は、その目的を実現できていないのです。主イエスは、この律法を完成するために来られました。この律法が目指していたことを実現するために主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」以下のことをお語りになったのです。

怒ることは殺すことと同じ
主イエスがここでお語りになったのは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」ということでした。人を殺した者だけでなく、兄弟に対して腹を立てたり、「ばか」とか「愚か者」と言う者たちも裁きを受ける、と言われたのです。「兄弟に腹を立てる」、それは心の中で「この野郎」と思うことです。怒りや憎しみの思いを持つことです。「ばか」と言う、それはそのような思いを言葉にして表すことです。「ばか」と「愚か者」は日本語ではあまり違わないように感じますが、原文においては、「ばか」よりも「愚か者」の方がより強い言葉だと言えます。ですからここに並べられている三つのことは、兄弟に対する怒りや憎しみが次第に深く強くなっていくことを語っています。それにつれて、その者に与えられる裁きも深まっていくのです。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける、それは言わば地方裁判所の裁きです。「ばか」と言う者は最高法院に引き渡される、それはエルサレムにあった上級裁判所です。そして「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、それは、神の裁きによって滅ぼされるということです。そのように、憎しみ、怒りの深まりと共に、与えられる裁きも深まっていくのです。しかしだからといって、腹を立てるぐらいならまだ軽い裁きですむが、「愚か者」と人をののしるようなことをしたら神に滅ぼされるぞ、というふうにここを捉えるべきではありません。主イエスは私たちに、怒りや憎しみの段階を自覚させて、このくらいまでなら神の怒りもまだ大したものではないが、これ以上になるとヤバいぞ、などと考えさせようとしておられるのではありません。主イエスがおっしゃっているのは、心の中で兄弟に腹を立てることと「愚か者」と言うこととの間に本質的な違いはない、それらはすべて人を殺すことと同じであって、神の怒りと裁きの対象なのだ、ということです。つまり主イエスは、「殺すな」という戒めを、兄弟に対して腹を立てたり、「ばか」とか「愚か者」と言うことにまで拡大しておられるのです。主イエスはそのようにしてこの律法を完成し、それが目指していたことを実現しようとしておられるのです。この主イエスの教えを行うことが、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義です。律法学者やファリサイ派の人々は、人を殺して神のものである命を奪った者は神の裁きを受ける、と教えていました。しかし主イエスはご自分に従う弟子たち、信仰者たち、つまり私たちに、それ以上のことを求めておられるのです。人に対して怒る者も、人を殺した者と同じように神の裁きを受けるのだ、と言っておられるのです。

途方にくれる教え
この教えは私たちを途方にくれさせます。「殺人を犯してはならない」という戒めなら何とか守っている、と私たちは思っています。「あいつ殺してやりたい」なんて思うこともあるけれども、そう思ったからといって実際に殺したりはしない、それが普通です。殺してやりたいと思うことと、実際に人を殺すこととの間にはものすごく大きな隔たりがあるはずなのです。だから、「人を殺してみたかった」という思いが実際の殺人に繋がってしまうというのは、ものすごい短絡だと思うのです。それが普通の人間の感覚でしょう。けれども主イエスは、「あいつ腹立つ」と心の中で思うことは、実際に人を殺すことと同じだとおっしゃるのです。そうだったら、私たちは誰もが、毎日何人もの人を殺している、と言わなければならないでしょう。

「和解しなさい」
主イエスのこのお言葉に私たちは途方にくれる思いですが、今はその先へと読み進めていきたいと思います。23節以下には、さらに二つの教えが語られています。祭壇に供え物を献げようとする時に、兄弟が自分に反感を持っていることを思い出したなら、まずその兄弟と仲直りし、それから供え物を献げなさいという教えと、自分を訴える人と一緒に、その裁判の場への道を行くなら、途中で和解しなさいという教えです。この二つの教えは、「仲直りせよ」「和解せよ」という点で共通しています。同じことを語っていると言ってよいでしょう。自分に反感を持っている人、自分を訴えようと思っている人と、和解しなさいという教えです。しかも、「祭壇に供え物を献げる」というのは、神を礼拝することです。信仰において何よりも大事なのはこの礼拝です。その礼拝を後回しにしても、先ず兄弟と和解、仲直りをしなさいと教えられているのです。兄弟に腹を立てることは殺すことと同じだ、という教えに続いてこのことが語られていることの意味を考えなければなりません。そこから気付かされるのは、対立や憎しみを覚える相手と和解しなさい、ということこそが、主イエスがここで私たちに求めておられることの中心だ、ということです。人に対して怒ったり憎んだりすることは殺すのと同じだ、という教えは、対立や憎しみを抱いている者に和解を促すために語られているのです。

禁止ではなく積極的な命令によって
ここに、本日の教えの大事なポイントがあります。「殺すな」という教えは、「~するな」という禁止、つまり「戒め」です。しかし主イエスの教えは、禁止に留まるものではないのです。主イエスはもっと積極的に、「人と和解せよ」と命じておられるのです。そこに、主イエスが「殺すな」という律法をどのようにして完成し、その目的を実現しようとしておられるのかが示されているのです。主イエスは、「殺すな」という戒めの「殺す」の意味を、「兄弟に腹を立てる」ことにまで拡大して、より厳しい禁止命令を与えることによってこの律法を完成しようとしておられるのではありません。主イエスによる律法の完成、実現は、「~してはならない」という禁止の命令によってではなく、むしろ「~しなさい」という積極的な命令によってなされるのです。ここについて言えば、「殺すな」という禁止ではなく、「和解せよ、仲直りせよ」という命令によって、ということです。人に対して腹を立てたり憎んだりすることも人を殺すことと同じように神の裁きを受ける、という教えは、だから「和解しなさい、仲直りしなさい」ということへと導くために語られているのです。

根本的な問題は怒り
人を殺すことの根本には、人に対する敵意、怒り、憎しみがあります。「誰でもいいから人を殺してみたかった」という動機で殺人を犯した人の心の中にも、特定の誰かに対してではなくても、人に対する、あるいはこの社会に対する、怒りや憎しみがあったと言えるでしょう。そしてその根本には、自分自身に対する怒りや憎しみがあった、とも言えるでしょう。そういう憎しみや怒りが解消され、自分自身との、そして人との、そして自分が生きている集団、社会との、和解、仲直りが実現しなければ、「人を殺す」という問題は解決しないのです。主イエスはその根本的なところに踏み込むことによって、この律法の目指していることを実現しようとしておられるのです。

神との和解によってこそ
自分に反感を持っている兄弟と、あるいは自分を訴えようとしている人と「和解しなさい、仲直りしなさい」と主イエスは語られました。それは人間どうしの間の和解です。しかし、あなたを訴える人と和解しないでいると、牢に投げ込まれ、最後の1クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない、という厳しい言葉によって主イエスが意識しておられるのは、人間の裁判というよりもむしろ神による最終的な審きであると思われます。つまり主イエスはここで、人との間の敵意、怒り、憎しみにおける和解、仲直りのみを求めておられるのではありません。神との関係の中で、人との間の敵意、怒り、憎しみを見つめておられるのです。祭壇に供え物をしようとして、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、という教えも、神への礼拝に先立って兄弟と和解しなさいと言っているわけですが、それは、兄弟と和解することによってこそ、神を正しく礼拝することができるからです。つまり、兄弟と和解することにおいてこそ、神と良い関係を持って生きることができる、と言っておられるのです。人との和解は、人間関係を良くすることに留まるのではなくて、神との関係を良くすること、
神との和解へと繋がっているのです。

先ほど、人への怒りや憎しみの根本には、自分自身に対する怒りや憎しみがある、と申しました。その自分自身への怒りや憎しみのさらに根本には、神への怒りや憎しみがあるのです。自分自身に対する怒りや憎しみというのは、自分の現実を自分が受け入れられない、自分がこのような者であることを喜べない、ということです。自分に命を与え、このような者として生かしておられる神への怒りや憎しみがそこにあるのです。神への怒りや憎しみと自分への怒りや憎しみは結びついており、そこから人への、社会への怒りや憎しみが生まれているのです。主イエスは、そのような怒りや憎しみをかかえている私たちに、和解をもたらして、怒りや憎しみから解放して下さるのです。その根本は神との和解です。神との和解によって、自分自身との和解がもたらされ、そして自分自身との和解から、人との和解、社会との和解が生まれるのです。その和解を実現することによって主イエスは、「殺すな」という律法が目指していたことを実現しようとしておられるのです。

主イエス・キリストの十字架によって実現した神との和解
主イエス・キリストは、私たちと神との和解を実現するためにこの世に来て下さいました。私たちは、深い悲しみや苦しみを味わう中で、自分にこのような悲しみや苦しみを与えている神を憎んでしまいます。あるいは、いろいろなことがうまくいかない時に、自分のやりたいこと、歩みたい人生を神が妨害して、自分の自由を奪い、縛り付けようとしていると感じてしまいます。私たちの心の中には、神に対するそのような反感、敵意が渦巻いているのです。神の愛を信じることができず、神に敵対していく思いがあるのです。それが罪です。そのような罪の中にいる私たちを救うために、神の独り子が人間となってこの世に来て下さったのです。人間となって下さった主イエスは、私たちの神に対する反感、敵意、罪を全てご自分の身に引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの十字架の死によって、神は私たちの神に対する反感、敵意を乗り越えて、罪を赦して、和解の手を差し伸べて下さったのです。主イエスの十字架の死によって実現したこの罪の赦しによって、つまり神が罪人である私たちに注いで下さった大きな愛によって、私たちは神と和解して、神を愛し、良い関係をもって生きていくことができるのです。この神との和解を与えられることによって、私たちは自分自身とも和解することができます。今のこの自分がそのままで神に愛されていることを知らされて、その自分を受け入れ、愛することができるようになるのです。またそのように自分が神に愛されていることを知ることによって、自分に反感、敵意を持っている兄弟と和解して、つまりその兄弟をも愛することができるようになっていくのです。それは簡単なことではありませんし、私たちの決意や努力によってできることでもありません。しかし主イエスの十字架の死による神の愛を信じて、神と和解して、神との良い交わりを与えられていくならば、神の支えの中で、兄弟との和解をもあきらめずに求めていくことができるのです。そこに、「殺すな」という律法が目指していること、敵意や憎しみを乗り越えて互いに愛し合い、生かし合って生きることが実現していくのです。そしてそこに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる、主イエスによって救われ、主イエスに従っていく者たちの義が実現するのです。

和解に生きることへの招き
主イエスが律法を完成し、その目的を実現しようとしておられるのは、「~してはならない」という禁止によってではなく、「~しなさい」という積極的な命令によってです。でも「兄弟と和解しなさい」という積極的な命令も、それを行うことができる者は救われるが、行えなければ滅びる、という掟として与えられたのなら、律法が目指していることは実現しません。主イエスは、「兄弟と和解しなさい」という命令を与えると共に、ご自身が十字架の死への道を歩んで下さるとによって、神に敵対している罪人である私たちを神と和解させて下さったのです。この神との和解の恵みの中でこそ、私たちは、兄弟と和解していくことができるのです。ですから「兄弟と和解しなさい」という主イエスの命令は、十字架の死によって私たちがそれを行うことができるようにして下さった、という主イエスの救いのみ業に基づいています。主イエスは十字架の死によって実現して下さった神との和解によって、私たちを、兄弟との和解に生きることへと招いて下さっているのです。

和解への道に共にいて下さる主イエス
主イエスは、私たちの神への反感、敵意、罪をご自分の身に受け止め、それによって傷つき、苦しみ、死んで下さったことによって、神との和解を実現して下さいました。私たちが兄弟と和解して生きるための道も、この主イエスと共に歩むことにこそあります。私たちの人生は、「あなたを訴える人と一緒に道を行く」、ような道行きです。その人生を、兄弟に腹を立てながら、人をののしりながら、つまり人を殺しながら生きていくのは悲しいことです。しかし和解に生きようとすることにも苦しみが伴います。主イエスは、苦しみを背負って和解への道を歩んでいく私たちと共にいて下さり、支えて下さるのです。

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