主日礼拝

命の恵みを共に受け継ぐ

5月21日(日)主日礼拝
「命の恵みを共に受け継ぐ」 副牧師 川嶋章弘
・イザヤ書第54章4-10節
・ペトロの手紙一第3章1-7節

男女差別を認めているみ言葉?
 ペトロの手紙一を読み進めてきて、本日から第3章に入ります。前回の箇所の冒頭18節に「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」とありました。この「召し使い」と訳されている言葉は、本来「奴隷」を意味する言葉なので、「奴隷は主人に従え、それも無慈悲な主人にも従え」と言われていることになり、私たちには受け入れがたいみ言葉である、と前回お話ししました。同時に私たちは現代の価値観をこの手紙の書かれた時代に持ち込むわけにはいかないともお話ししました。同じように本日の箇所の冒頭1節前半のみ言葉も現代を生きる私たちにとって受け入れがたいみ言葉であると思います。このように言われています。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。あるいは7節前半にも「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし」とあります。「妻は夫に従え」、「夫は妻を自分よりも弱いものだと思え」。男尊女卑と受けとられかねないこれらのみ言葉は、私たちにとって受け入れがたいみ言葉であるに違いありません。実際、これらのみ言葉は男女差別を容認しているみ言葉として槍玉に挙げられることもあるのです。しかし私はこれらのみ言葉をそのように受け止めるのは誤りだと思います。前回も申し上げたように、時代背景を無視して私たちの価値観をこの手紙に押しつけることはできません。また文脈から切り離してこのみ言葉だけを取り上げて、聖書は男女差別を容認していると主張するのもあまりに短絡的です。なにより私たちは、み言葉が私たちに本当に告げようとしているメッセージを受け止める必要があります。これから読み進めていくと分かるように、この箇所は現代を生きる私たちに、とりわけ日本に生きるキリスト者である私たちに、まことに大きな慰めと励ましを告げているのです。私たちはそのことをこそ受け止めていきたいのです。

「妻と夫」という小見出し
 加えて言うならば、3章1節の前にある「妻と夫」という小見出しも、私たちにとってこの箇所を読むときの落とし穴になりかねません。新共同訳聖書の小見出しは便利な面もありますが、聖書を読むときに私たちをミスリードしかねないものでもあります。そもそも原文には小見出しは一切ないのですから、小見出しはあくまで参考程度に留めておいたほうが良いのです。本日の箇所の小見出しも間違っているとは言いませんが、この小見出しを見て、この箇所は「妻と夫」にしか関わりがないと受け止めてしまうなら、やはりこの小見出しはミスリードしているのです。確かにこの箇所は妻と夫について語っています。しかしそれは、誤解を恐れずに言えば表面的なことに過ぎません。この箇所が本当に見つめているのは、すべてのキリスト者の生き方であり、とりわけノンクリスチャンの親しい人との関わりの中での生き方なのです。

画期的なみ言葉
 改めて1節を見ていきます。このようにあります。「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」。この1節について、手紙の書かれた時代背景を踏まえるならば二つのことが言えます。一方で、先ほど申したように、ここで言われていることは、現代の私たちの価値観では受け入れられないことであるということです。当時のローマ社会における夫婦の関係は、妻が夫に従属しているというものであり、私たちにとって容認できるものではありません。しかしその一方で、ここで言われていることは、当時のローマ社会において画期的なことであったということです。ここで「妻たちよ」とは、キリスト者である妻たちのことです。「夫が御言葉を信じない人であっても」とあるように、彼女たちの夫はキリスト者ではありませんでした。ですから1-6節では妻がキリスト者で、夫がキリスト者でない夫婦について語られているのです。なぜこの手紙の宛先である小アジアの諸教会に、キリスト者の妻とそうでない夫という夫婦がいたのかについては色々と推測されています。小アジアでキリスト教の伝道が始まり、夫婦は当初一緒にその地に誕生したばかりの教会に通い、礼拝でみ言葉を聞いていたけれど、洗礼を受けたのは妻だけで夫は受けなかった、あるいは夫はみ言葉を受け入れず教会から離れてしまった、ということなのかもしれません。いずれにしても妻だけがキリスト者となったのです。このことは当時のローマ社会において決して当たり前のことではありませんでした。なぜならローマ社会において、妻は夫の宗教を全面的に受け入れるのが当たり前だったからです。ですからこの手紙の著者とされるペトロは、当時の「妻は夫に従わなくてはならない」という価値観を一面において受け入れているものの、全面的に受け入れているわけではないのです。妻は自分の夫に従わなければならない。しかしだからと言って、夫がキリスト者でなかったとしても、妻はキリスト者であって良い。信仰においては夫に従わなくて良い、夫の宗教を受け入れなくて良い、と言っているのです。現代を生きる私たちには実感しにくいことですが、2000年前の社会にあって、このみ言葉は極めて画期的でラディカルなことを告げていたのです。

無言の行いによって
 それは単に、夫婦は別々の宗教を信じて良いという消極的なことを告げているのではなく、より積極的でより意義あることを告げています。そのことが1節後半で「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」と言われています。要するにノンクリスチャンの夫が、クリスチャンの妻の無言の行いによって信仰へ導かれるようになるためだ、と言われているのです。「無言の行いによって」と言われているのは、言葉による証よりも、言葉によらない「無言の行い」による証のほうがより説得力がある、ということではありません。そうではなく、日々の坦々とした生活における振る舞いによって、ということなのです。たまに気合を入れて、相手を説得して自分の信仰を分かってもらおうとするよりも(もちろんそういうことがあっても良いのですが)、絶え間ない日常の中での生き方こそが相手を信仰へ導くと言われているのです。このことは妻がクリスチャンで夫がノンクリスチャンの場合だけに当てはまるのではありません。夫がクリスチャンで妻がノンクリスチャンの場合にも当然当てはまります。どちらであろうと、日々の坦々とした生活におけるキリスト者の生き方が相手を信仰へと導くのです。

神のものとされて生きているのを目の当たりにする
 ではノンクリスチャンのパートナーを信仰へと導くキリスト者の生き方とは、どのようなものなのでしょうか。このことが2節で「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」と言われています。ここで「見るからです」と訳されている「見る」という言葉は、なんとなく見ているとか、なんとなく目に入ってくるという意味ではなく、「眼前に見る」、「目の前に見る」という意味の言葉です。夫婦であれば、日々の生活における相手の振る舞いを眼前に、目の前に見ています。ですから私たちキリスト者の日常の振る舞いを目の当たりにして、ノンクリスチャンのパートナーが信仰に導かれると言われているのです。そのように言われても、私たちは自分にはそんなことは到底できないと思います。夫婦は、お互いの良いところをもちろん知っていますが、それと同じくらいお互いの悪いところをよく知っているので、日常生活における自分の振る舞いが相手を信仰に導くというのは無理なように思えるのです。それだけでなく自分の日常の振る舞いが相手を信仰に導くと言われることに、重荷を感じてしまうかもしれません。できるだけ自分の弱さや欠けを隠して、キリスト者らしい振る舞いを見せなくては、とプレッシャーを感じてしまうからです。特に「あなたがたの純真な生活を見るからです」と言われてしまうと、「純真な生活」とは程遠い生活を送っている私たちは、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。けれども「純真な」と訳されている言葉は、汚れのないこと、つまり道徳的な清さを意味しているのではありません。「あなたがたの純真な生活を見る」とは、日常生活の中で、私たちが純真無垢に生きているのを、清く正しく生きているのを眼前に見る、ということではないのです。そうではなくこの言葉は「聖なる」という意味の言葉であり、今までもお話ししてきたように、「聖なる」とは、「神のものとされている」ということです。ですからノンクリスチャンのパートナーが、日々の生活の中で私たちの純真な生活を見るとは、私たちが神のものとされて歩んでいることを眼前に見る、目の当たりにするということなのです。私たちが弱さや欠けを隠して無理して生きているのを見るのではなく、神のものとされて生きているのを見るのです。

 神のものとされて生きる生活とは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いに与り、その救いの恵みに感謝して喜んで生きる生活です。それは、この手紙の1章3節にあるように「生き生きとした希望」が与えられている生活であり、また1章8節にあるように「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれて」いる生活です。もちろんそれは、私たちの人生には苦しみや悲しみがない、ということではありません。喜べないときがあり、希望を持てないときがあるに違いありません。まさに今、私たちはそのような困難な時を生きているように思えます。しかし自分の力では喜ぶことも希望を持つこともできない困難な時にあっても、主イエス・キリストによる救いによって与えられている本当の喜びと希望が、私たちの日々の生活を支え続けているのです。困難な日々の中にあっても、神のものとされ、主の日の礼拝を中心とし、礼拝から礼拝へと希望を持って喜んで生きる私たちを眼前に見て、目の前に見て、ノンクリスチャンのパートナーが信仰へと導かれるのです。聖書協会共同訳は、「信仰に導かれるようになるためです」を「神のものとされるようになるためです」と訳しています。神のものとされた私たちの生活を目の当たりにすることを通して、ノンクリスチャンのパートナーも神のものとされるようになるのです。

あらゆる親しい人との間で起こること
 このことは夫婦の間においてだけ起こることではありません。親子の間でも、友人との間でも、職場の同僚との間でも、あらゆる親しい人との間で起こることです。夫婦でなくても親しければ親しいほど、距離が近ければ近いほど、自分の欠点や嫌なところを相手に知られています。それなのに自分の生活を見て、相手が信仰に導かれるだろうかと思います。しかしそのような弱さや欠けを抱えている私たちが、神のものとされて希望を持って喜んで生きているなら、それを間近で見ている人は信仰に導かれ、神のものとされるようになるのです。もちろんそれは私たち自身の力によってではなく、聖霊のお働きによって起こることです。欠点だらけであっても礼拝を中心として喜んで生きている私たちの生活を通して、聖霊のお働きによって主イエス・キリストによる救いが証しされ、その救いが広がっていくのです。

大きな慰めと励まし
 この約束がすべてのキリスト者に与えられていることは、日本に生きるキリスト者である私たちにとって大きな慰めであり励ましです。自分の夫が、あるいは妻がクリスチャンでないことがあり、自分の親や子どもが、友人や同僚がクリスチャンでないことがあります。日本においてはその方が圧倒的に多いのです。そのような状況にあって私たちは、自分が救われて生きているように、自分の大切な人たちが信仰に導かれ、救いに与って生きることを切に願っています。しかし同時に親しい関係だからこそ、どうやって自分は大切な人に伝道したら良いのだろうか、救いを証ししたら良いのだろうかと思い悩むのです。そのような私たちに、この約束が与えられています。自分の大切な人がみ言葉を信じない人であっても、私たちが神のものとされて、生き生きとした希望を与えられ、喜んで生きているのを目の前で見ることを通して、聖霊のお働きによって信仰に導かれ、神のものとされる、という約束が与えられているのです。私たちにはこの約束がいつ実現するかは分かりません。しかしそうであったとしても私たちはこの約束に信頼して、この約束に希望を置いて、日々坦々と神のものとされて生きる生活を送っていくのです。

柔和で穏やかな霊という朽ちないもの
 3-4節でも、私たちキリスト者の生き方が見つめられています。このようにあります。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」。要するに外面的な装いではなく内面的な装いこそが神の御前で価値がある、と言われているのです。しかしそれは、「人間は、外見ではなく人柄だ」というようなことではないし、まして妻に、あるいは女性に「柔和でしとやかな気立て」を求めているのでもありません。この4節を聖書協会共同訳は、新共同訳とは異なりこのように訳しています。「柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人でありなさい」。「柔和でしとやかな気立て」ではなく「柔和で穏やかな霊」と訳され、「内面的な人柄であるべきです」ではなく「心の内に秘めた人でありなさい」と訳されているのです。ここで私たちが思い起こすべきなのは、聖書において「柔和」とは、主イエスにこそ最もふさわしい言葉であるということです。マタイ福音書は、主イエスがエルサレムに入場されたとき、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」という預言が実現したと記しました(21章4節)。主イエスこそが柔和な方であり、「柔和で穏やかな霊という朽ちないものを心の内に秘めた人」にほかならないのです。その柔和さ、穏やかさとは、神の独り子であるにもかかわらず、力によってではなく、十字架の死という弱さの極みによって、主イエスが救いを実現したことに表れています。主イエスが力を振るうのではなく力を手放されたことに、裁くのではなく赦されたことに表れているのです。私たちは「柔和で穏やかな霊という朽ちないもの」を自分の頑張りや努力によって手に入れることはできません。そうではなく洗礼において主イエスに結ばれることによって、それを与えられるのです。ですから3-4節で見つめられているキリスト者の生き方とは、洗礼において主イエスに結ばれ、神の子とされ、神のものとされた私たちが、「柔和で穏やかな霊という朽ちないもの」を与えられ、自分の親しい人に対して力を振るうのではなく力を手放し、その人を批判したり裁いたりするのではなく、その人を赦して生きる生き方なのです。

人と人との関係を抜きにしては語り得ない
 7節に「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」とあります。1-6節とは反対に、7節ではキリスト者である夫と、そうでない妻について語られているのです。しかしすでに見てきたように、1-6節で語られていることは、妻がクリスチャンで夫がノンクリスチャンの場合だけでなく、夫がクリスチャンで妻がノンクリスチャンの場合にも当てはまるし、夫婦の関係だけでなく、親子や友人や同僚を始めとする、あらゆる親しい人との関係にも当てはまるのです。同じように7節で言われていることも、夫がクリスチャンで妻がノンクリスチャンの場合だけでなく、逆の場合でも、そしてあらゆる親しい人との関係にも当てはまります。しかしそうであるならば、なぜこの箇所で、わざわざ妻への勧めと夫への勧めに分けて語られているのか、と疑問に思うのではないでしょうか。このことについても色々と議論があるようですが、私は人と人との関係を抜きにしては語ることができないことが、この箇所で見つめられているからだと思っています。私たちが主イエス・キリストの十字架による救いを信じ受け入れるというのは、自分だけに関わること、と言えるかもしれません。しかし神のものとされ希望を持って喜んで生きている私たちを、ノンクリスチャンの親しい人が目の当たりにすることを通して信仰に導かれるというのは、自分だけに関わることではなく、自分と相手との関わりの中で起こることです。そのことに注目するために、聖書において人と人との関係を代表している夫婦の関係が語られ、妻への勧めと夫への勧めが語られていると思うのです。

命の恵みを共に受け継ぐ
 ですから7節では、私たちがノンクリスチャンの親しい人を「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と言われているのです。それは、私たちが親しい人を尊敬していれば、その人はキリスト者でなくても、私たちの祈りを邪魔することはない、私たちの祈りの時間を尊重してくれる、ということなのでしょうか。そうかもしれません。しかしそれだけではないと思います。むしろ共に生活しているノンクリスチャンの夫や妻、親や子、友人や同僚に対して、私たちが「命の恵みを共に受け継ぐ者」として関わり、尊重するのでないならば、私たちは本当に神に祈ることができない、ということなのではないでしょうか。共に生活している人が「命の恵みを共に受け継ぐ者」と信じていないならば、私たちは本当に神に祈ることはできないのであり、私たちの祈りは妨げられてしまうのです。なぜならたとえその人が神を信じていなくても、あるいは神を信じている自分を理解してくれていなくても、その人のことは放っておいて、自分だけが神に祈ることができれば良い、ということにはならないはずだからです。もちろんそれは、無理にでも一緒に祈らなくてはならないというようなことではありません。そうではなく、たとえ私たちの信仰が理解されなかったり、拒まれたり、時には笑われたりしたとしても、その親しい人が「命の恵みを共に受け継ぐ者」であると信じ、共に生きていくときにこそ、私たちは本当に神に祈れるということなのです。私たちは、神が私たちの大切な人を、世の終わりの復活と永遠の命を共に受け継ぐ者として恵みの中へと招いてくださっていると信じ、その人と共に生きていきます。そのように生きている私たちを目の当たりにすることを通して、ノンクリスチャンの親しい大切な人が、聖霊のお働きによって信仰に導かれ、「命の恵みを共に受け継ぐ者」となるのです。神のものとされて、希望を持って喜んで生きている私たちを目の当たりにし、主イエスに結ばれることによって「柔和で穏やかな霊という朽ちないもの」を与えられ、裁くよりも赦して生きる私たちを目の当たりにすることを通して信仰に導かれ、「命の恵みを共に受け継ぐ者」となるのです。本日の箇所は私たちに、このことを信じて良いと告げています。このことをこそ信じて日々坦々と生きていきなさい、と私たちを力強く励ましているのです。

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