主日礼拝

悲しむ人々は幸いである

「悲しむ人々は幸いである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第51章12-16節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章4節
・ 讃美歌:

悲しむ人々はなぜ幸いなのか
「悲しむ人々は幸いである」。この主イエスのみ言葉を味わい、これと対話しながら、新しい週を歩んでいきたいと思います。その時に誰もが感じるのは、「なぜ?」という疑問でしょう。悲しむ人々がなぜ幸いなのか。幸いでないから悲しんでいるのに、幸いだなどとどうして言えるのか。信仰者たちは昔からそういう問いを持ってこのみ言葉と対話してきました。そこからいろいろな読み方、解釈が生まれましたが、代表的なものにこういうのがあります。「主イエスは、自分の罪を心から悲しみ、悔いている人は幸いだと語られたのだ」。このように理解するならば、このみ言葉は、悔い改める者の幸いを語っている、ということになります。自分の罪を真剣に悲しみ、悔い改めるところにこそ、神からの赦しが与えられる。「その人たちは慰められる」とはそういうことだというのです。また「自分の罪を悲しむ」というこの理解は、「他の人が犯している罪を悲しむ」ということにも広がっていきます。自分の罪を悲しんでいる者は、同時に、他の人の罪をも悲しむのです。そこには、人の罪をただ批判し裁くのではなく、それを共に悲しむという姿勢が生まれます。単なる批判からは悔い改めは生まれないけれども、自分の罪を真剣に悲しみ悔いている人の語りかけによって、その人にも悔い改めが起っていく、ということはあり得るでしょう。さらにこの悲しみは、この世の様々な悲惨な出来事を悲しむこと、特に人間の罪によって引き起こされている出来事を悲しむことにもつながります。先日もトルコとシリアの国境付近で大きな地震があり、多くの人が命を失っています。被災者の数は日に日に増えていっています。このような自然災害の知らせを聞いて私たちは悲しみます。またまもなく一年になろうとしているウクライナにおける戦争は、まさに人間の罪によって引き起こされている悲惨な出来事です。私たちはそれを深く悲しみ、苦しんでいる人々のために祈り、何か自分にできることはないか、と思います。そのようにこの世界に起っている他の人たちの悲しみに共感し、同情する感受性を持つことはとても大事です。そしてそういう感受性は、自分自身が悲しみを知っているからこそ持つことができる、と言えるでしょう。悲しみはそのように、人と心を通わせるための手がかりとなるのです。そういう意味で、悲しむ人々は幸いであるということは確かに言えるだろうと思うのです。

私たちから遠い言葉?
けれども、そのような説明によって主イエスのこのお言葉を理解しようとするにつれて、このお言葉は次第に私たちの現実から遠く離れたものになっていくのではないでしょうか。私たちは、いつも自分の罪を嘆き悲んでいるわけではありません。自分の罪のために困ったことになると確かに悲しみますが、そこで私たちは、自分の罪を真剣に悲しんで悔い改めるよりも、いろいろと言い訳をして、人のせいにすることの方が多いのではないでしょうか。また他の人の罪を悲しむと言うと聞こえがよいですが、私たちはそのように言いながら、しばしば、人の罪を喜び、興味の対象とし、そういううわさ話に花を咲かせ、それによって優越感にひたるようなことをしているのではないでしょうか。悲しみを知っている者こそが、人の悲しみに共感することができる、というのは確かにその通りでしょうが、本当に悲しんでいる時には、人の悲しみなど目に入らない、自分の悲しみだけで精一杯で、人のことをかまっている余裕などなくなる、というのも、私たちの現実なのではないでしょうか。「悲しむ人々はこのような意味で幸いなのだ」という説明にある程度納得はしても、そこには、自分はそういう幸いな悲しみ方はなかなかできない、ということも見えてきてしまう。そして現実に激しい悲しみに直面すると、そんな説明は力を失ってしまう。「悲しむ人々は、幸いである」という主イエスのお言葉は、自分とは遠く離れたものに感じられて、「本当には悲しんでいないからそんな呑気なことが言えるんだ」などと思うようにもなってしまうのです。
悲しみの中に幸いを作り出して下さる主イエス
しかし主イエスはここで、悲しむ人々はこういう意味で幸いなのだ、という説明は全くしておられません。先週読んだ「心の貧しい人々は、幸いである」もそうでしたが、主イエスは、「悲しむ人々は、幸いである」と宣言なさったのです。こういう悲しみなら、という限定も、こういう見方をすれば、という留保もそこにはありません。ということは、主イエスが見つめている悲しみは、私たちから遠く離れた特別な悲しみではなくて、私たちが日々現実に味わっている悲しみなのです。私たちはそれぞれいろいろな悲しみをかかえています。愛する家族を失った悲しみの中にある家庭があります。自分のまた家族の、体の病気や怪我、あるいは老いによる衰えの悲しみがあります。心の病いや不安、孤独による悲しみもあります。「コロナ禍」の中で人との繋がりが失われていることによる悲しみもあります。コロナの影響に加えて物価上昇によって経済的な困難に陥っているという悲しみもあります。自分が願っている道が開けていかない、という悲しみをかかえている若者がいます。家族、隣人、同僚との人間関係がうまくいかない悲しみもあります。私たちはそれぞれ様々に異なった悲しみないし心配事をかかえて生きているのです。その私たち一人一人に対して、主イエス・キリストは、「悲しむ人々は、幸いである」と語りかけておられるのです。「こういう悲しみは幸いではないが、こういう悲しみなら幸いだ」とおっしゃってはいません。どんな悲しみだろうと、何を悲しんでいようと、「あなたは幸いだ」と宣言しておられるのです。それは、悲しんでいる私たちに、「おまえたちは実は幸いなのだから喜べ」と喜びを強制しているのではありません。そうではなくて、主イエスは、それぞれの悲しみをかかえて生きている私たちの現実のただ中に、幸いを作り出そうとしておられるのです。その幸いとは何でしょうか。それが、「その人たちは慰められる」ということです。悲しむ人々には慰めが与えられる、その幸いを主イエスは作り出そうとしておられるのです。

慰められる
悲しむ人々への慰めはどのようにして与えられるのでしょうか。悲しみは人それぞれに違うのだから、悲しむ人への慰めも、人によって違うものであるはずだ、だから「慰められる」などと一言で言うことは出来ないのではないか、と思ったりもします。この慰めを、悲しみの原因となっている問題が解決され、解消されること、と考えるならばその通りでしょう。個々の悲しみにはそれぞれの解決、解消が必要なのであって、全部まとめて解決しますなどということはあり得ないのです。しかし、「慰められる」は、悲しみの原因が解消されるというのとは違うことです。悲しみの原因となっている問題が解決されるから慰められるのではありません。慰められるというのは、悲しみの現実の中で、その悲しみを背負って生きていくことができるようになることです。悲しみに押しつぶされてしまうことなく、立ち上がって新しい一歩を踏み出していく勇気と力を与えられることです。慰められることによって私たちは、悲しみがなくなるのではなくて、悲しみを背負って生きていく力を与えられるのです。
「慰める」と訳されている言葉には、日本語の「慰める」という言葉から受ける印象を越えた広がりがあります。聖書の中で、これと同じ言葉が、ある時は「励ます」とも訳されています。「慰められる」とは、悲しみを背負って生きることができるように力を与えられ、励まされることです。またこの言葉はある時には「勧める」とも訳されます。勧誘の勧と書く「勧める」です。悲しみによって立ち止まり、うずくまってしまっている者に、立ち上がって歩んでいくことができるような勧め、アドバイス、支えが与えられるのです。「慰められる」という言葉には、これらのことが全て含まれています。そういう広がりを持った本当の慰めによって、悲しみを背負って生きる力が与えられるのです。

傍らに呼ぶ
こういう広がりを持った本当の慰めは何によって与えられるのでしょうか。それを知るためには、この「慰める」という言葉の成り立ちを知らなければなりません。「慰める」という聖書の言葉のもともとの意味は、「傍らに呼ぶ」ということです。「慰める」も「励ます」も「勧める」も、皆「傍らに呼ぶ」ことによってなされるのです。例えばバレーボールの試合において、流れが相手チームの方に傾いている時に、監督がタイムをかけて選手たちを傍らに呼ぶことがあります。それによって選手たちは一息つき、浮き足立っている気持ちを整えられ、アドバイスを受けて、もう一度新たな気持ちで試合に臨むことができるのです。「慰められる」ことは、このように「傍らに呼ばれる」ことによって起ります。つまり、本当の慰めは、傍らに呼んで下さる方によって与えられるのです。悲しむ者が慰められるのは、悲しみの原因が取り除かれることによってではありません。自分を傍らに呼んで、ねんごろに語りかけ、慰めと励ましと勧めを与えて下さる方と出会い、その方との交わりを与えられるところに、本当の慰めがあるのです。
私たちを傍らに呼んで下さり、慰めと励ましと勧めを与えて下さる方、それは言うまでもなく主イエス・キリストであり、その父なる神です。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」という主イエスのお言葉は、主イエスご自身が、悲しむ者たちを傍らに呼び、ねんごろに語りかけて、まことの慰めを与えて下さる、という宣言であり、約束でもあるのです。

人生の戦いのただ中で
主イエス・キリストが私たちをご自分の傍らへと呼び、慰めを与えて下さる、そこに悲しんでいる私たちの幸いがあります。その幸いはどのようにして与えられるのでしょうか。私たちはどこでその幸いにあずかることができるのでしょうか。主イエスが私たちをご自分の傍らへと呼んで下さることはどこで起るのでしょうか。先程のたとえで言えば、私たちは人生という試合の中で、とても強い敵と対戦しており、さんざん攻められてたじたじとなり、浮足立ち、敗色濃厚になっています。それが、悲しみに捕えられている私たちの姿です。そんな私たちを見て、監督である主イエスがタイムを宣して下さる、そして私たちを傍らに呼んで、慰めと励ましと勧めを与えて下さる、そのことはいつどこで起るのでしょうか。そして私たちが試合のコートから出て、監督である主イエスの傍らに行くことはどうしたらできるのでしょうか。しかしそもそも人生には「タイム」などありません。「タイム」なし、待ったなしです。人生の戦いをちょっとやめて主イエスのところへ行って慰めを得る、などということはできないのです。日曜日、主の日の礼拝はそういう時ではないか、と思うかもしれません。礼拝の時間は、一週間の中で、人生の戦いからしばし離れて、主イエスのもとに集い、その慰め、励まし、勧めをいただく時ではないか。確かにそういう面もあるでしょう。しかし礼拝に集っている私たちは、人生の戦いの場を離れているわけではありません。いろいろなことで悲しんでいる私たちは、人生にタイムをかけて、悲しみの現実から離れてこの礼拝の場にいのではありません。礼拝の間だけは悲しみを忘れていられる、というものではないでしょう。私たちは皆、それぞれの悲しみを抱えたままでこの礼拝に集っているのです。つまりこの礼拝の間も私たちは、人生の戦いの場にいるのです。その厳しい戦いの場にいるままで、主イエスの傍らに呼ばれているのです。

主イエスが来て下さる
そしてそのことは実は、私たちが主イエスの傍らに出向くことによってではなくて、主イエスの方が、悲しんでいる私たちの傍らへと来て下さったことによって実現しているのです。神の独り子であり、まことの神であられる主イエス・キリストが、私たちと同じ人間になり、この世に来て下さったのはそのためです。神である主イエスが、悲しみつつこの世を生きている私たちのところに来て下さったのです。しかも主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちの身代わりになって十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。主イエスがこの世に来られたのは、苦しみ悲しむ私たちの傍らに立つだけでなく、私たちの苦しみと悲しみを、私たちに代って担って下さり、私たちに代って死んで下さるためだったのです。その主イエスが、地上に教会を築き、私たちをご自分のもとへと招いて下さっているのです。ですから私たちは、慰めを与えていただくために主イエスのところに行かなければならないのではなくて、主イエスご自身が、私たちの傍らにまで降りて来て下さって、悲しんでいる私たちと共にいて下さり、語りかけて下さり、慰めと励ましと勧めを与えて下さっているのです。礼拝とはそういう場です。私たちは、人生の戦いのただ中で、この礼拝において、傍らに来て下さっている主イエスと出会い、主イエスの語りかけを受けるのです。私たちは今この時も、人生の戦いの中におり、それぞれの悲しみを背負っています。それを隠して、何の悩みも悲しみもないような振りをしてここにいるわけではないし、その必要もありません。悲しみにおしつぶされそうになっている自分を、言わばひきずるようにして、私たちはこの礼拝に集っているのです。私たちの救いのために人となり、十字架の苦しみと死を引き受け、そして復活して生きておられる主イエス・キリストが、ここで私たちに出会って下さり、傍らに来て下さり、語りかけて下さるのです。それによって私たちは、慰めと励ましと勧めを与えられるのです。

わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの
悲しんでいる私たちが慰めを受ける。それは先程申しましたように、悲しみの現実が解決してしまうことではありません。悲しみはなお重荷としてあります。しかし私たちは、傍らに共にいて下さる主イエスとの出会いによって、変えられていくのです。悲しみに押しつぶされてしまうことなく、それを背負って立ち上がり、新しい一歩を踏み出していく勇気と力を与えられていくのです。その力は私たちの中にはありません。主イエス・キリストの十字架と復活によって、父なる神が私たちをご自分の民として下さり、慰めを与え、力づけて下さるのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書51章12節以下にはそのことが語られています。12節に「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」とあります。主なる神こそが、イスラエルの民を真実に慰めて下さる方なのです。それはどのようにしてか、それが15、6節に語られています。「わたしは主、あなたの神/海をかきたて、波を騒がせるもの/その御名は万軍の主。わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ/わたしの手の陰であなたを覆う。わたしは天を延べ、地の基を据え/シオンよ、あなたはわたしの民、と言う」。万軍の主なる神、天を延べ、地の基を据えられた全能の神が、「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と宣言して下さるのです。このことによって、イスラエルの民は慰めを受けるのです。12節の2行目から14節にかけてこのように語られています。「なぜ、あなたは恐れるのか/死ぬべき人、草にも等しい人の子を。なぜ、あなたは自分の造り主を忘れ/天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ/滅びに向かう者のように/苦痛を与える者の怒りを/常に恐れてやまないのか。苦痛を与える者の怒りはどこにあるのか。かがみ込んでいる者は速やかに解き放たれ/もはや死ぬことも滅びることもなく、パンの欠けることもない」。「あなたはわたしの民」と宣言して下さる神との交わりによってイスラエルの民は、自分たちを苦しめる者たちをもはや恐れることなく歩んでいくことができるのです。これと同じ恵みが、主イエス・キリストによって私たちに与えられています。主イエスが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、神は私たちに、「私はあなたの神、あなたは私の民、私こそあなたを慰める」と宣言して下さっているのです。私たちはこのことによって慰められ、力を与えられて、悲しみを背負いつつ、新しい一歩を踏み出していくのです。

主イエスによる慰めの中で悲しむ者は幸いである
悲しむ人々が幸いであるのは、このまことの慰めのゆえです。先週の「心の貧しい人々は、幸いである」において、心の貧しいことそれ自体が幸いではなかったように、本日の「悲しむ人々は、幸いである」も、悲しみそれ自体が幸いだとか、悲しみにはこういう意味や価値があると言っているのではありません。悲しみは悲しみであって幸いではありません。悲しむ者は幸いではないのです。悲しみを無理に幸いと思うことが求められているのではないのです。そうではなくて、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して生きておられる主イエス・キリストが傍らにいて下さることによって、悲しんでいる私たちに慰めが与えられるのです。この主イエスによる慰めの中で、私たちの悲しみは、意味のあるものとなるのです。自分の罪を悲しみ、悔い改めることも、主イエスの十字架による罪の赦しという慰めの中でこそ与えられます。そして人の罪を責めるのではなく共に嘆き悲しみ、共に悔い改めへと至っていくことも、主イエスによる慰め、罪の赦しを与えられている者にこそできることです。そして、悲しみを知っている者こそが他の人の悲しみへの共感や感受性を持つことができる、というのも、主イエスによって与えられる慰めの中でこそ起こることでしょう。主イエス・キリストによる慰めの中で悲しむ者は、幸いなのです。

主において常に喜びなさい
この2月の教会の月間聖句は「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」です。この聖句が私たちに語りかけていることについては、1日の昼の祈祷会において語った奨励を読んでいただきたいのですが、この聖句の字面から、信仰者はどんな時にもいつも喜んでいなければならない、悲しんではならないのだ、という強迫観念に捉えられるようなことがあってはなりません。主イエスは「悲しむ人々は、幸いである」ともお語りなったのです。それはつまり、あなたがたは悲しんでよい、泣いてよい、ということです。ただ、忘れないでほしい、悲しんでいるあなたの傍らには、私がいる、泣いているあなたの隣に私がいて、慰めを与えようとしている、あなたの悲しみは、私の慰めの中にあるのだ、と主イエスはおっしゃっているのです。この慰めを知り、この慰めの中で生きることが信仰です。私たちは、主イエスが与えて下さるこのまことの慰めに支えられて、悲しみを背負って生きていくのです。そこに、「主において常に喜ぶ」ことが実現していくのです。

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