夕礼拝

殺してはならない

「殺してはならない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章17節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第5章21-26節
・ 讃美歌:155、505

十戒の二つの役割  
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十戒を読んでいます。本日は17節の、第六の戒め「殺してはならない」を読みます。私たちが今こうして申命記の十戒を読んでいるのは、12年前に私がこの教会に着任して以来、夕礼拝で創世記から初めて旧約聖書を読み進めてきて、今申命記のこの箇所にさしかかっているからであるわけですが、しかし十戒はそれ自体が教会において大事にされてきた歴史があります。使徒信条、主の祈り、そして十戒を教会の「三要文」、三つの大事な文書、と呼ぶことがあります。私たちが今礼拝において唱えているのは使徒信条と主の祈りだけですが、十戒も、私たちの信仰生活が聖書の教えに従って整えられていくために大事な意味を持っています。使徒信条は信仰の告白であり、私たちが何を信じているのかを語っています。主の祈りは私たちの祈りを導く祈りの基本です。それでは十戒は私たちの信仰においてどのような役割を果すのでしょうか。そこには二つの役割があると言うことができます。一つは、神が私たちに求めておられることが十戒において示され、それによって私たちは、その通りに生きることができていない自分の罪を示され、自覚させられる、そして悔い改めへと導かれる、ということです。神の戒め、掟である十戒は私たち人間の罪を明らかにするのです。しかしそれだけだったら、十戒は私たちの信仰において消極的な意味しか持たないことになります。十戒によって、神のみ心に従っていない自分の罪が示され、自分はなんと駄目な人間なのかと落ち込んでいくばかり、ということになるでしょう。私たちは、自分はそこそこいい線行っている、何とかやれている、という傲慢に陥りやすい者ですから、そのように自分の罪を示され、打ち砕かれることは必要だとも言えます。しかし十戒は決して私たちを打ち砕き落ち込ませるためだけにあるのではありません。聖書が語っている神による救いは、罪の赦しです。自分の罪をより深く示されることを通して私たちは、その罪を赦して下さった神の恵みの大きさを示されるのです。この神による罪の赦し、救いの恵みの中で、十戒はもう一つの役割を果すものとなります。それは、罪を赦され救われた私たちが、神による救いの恵みに感謝して生きていく、その感謝の生活の道しるべとしての役割です。神の救いに感謝しつつ神に従って生きる私たちが、何を大切にして、どのようなことを目指して生きていけばよいのか、それを十戒が教え示すのです。これは積極的な役割です。十戒によって私たちは、自分の罪を示されるだけでなく、信仰者としての生き方、努力すべき方向性を示されるのです。十戒はこの二つの役割を果すことによって、私たちの信仰生活を整える働きをするのです。  
 本日読む第六の戒めにおいてもこの二つの役割を考えていきたいと思います。「殺してはならない」という戒めによって、私たちの罪が示され、また神の救いに感謝してどう生きるかが示されるのです。しかしこの第六の戒めをそのような役割を持つものとして実感することはそう簡単ではないとも言えるでしょう。これは「人を殺してはならない」という、「殺人」を禁じた戒めですが、今ここに集まっている私たちはおそらくまだ人殺しはしていないと思いますから、この戒めを守ることができないでいる自分の罪と言われてもピンと来ないし、また人との間にいろいろとトラブルはあっても、「殺そう」とまで思うことはめったにない私たちにおいては、「殺してはならない」を信仰生活の大切な道しるべとするというのも身近なことではないように感じられます。この後の「姦淫してはならない」や「盗んではならない」は、もっと身近な、自分もともすれば陥ることで、気をつけなければならないと思うけれども、「殺してはならない」についてはあまり真剣に考える必要はないように感じてしまうのです。

社会的、歴史的に  
 しかしそれは大きな間違いです。私たちは、やはりこの戒めから自分の罪を示されるのだし、またこの戒めを信仰生活の大切な指針とする必要があるのです。そのことを二つの側面から考えたいと思います。第一は、社会的、歴史的な側面です。私たちは個人として人殺しをすることはめったにないかもしれませんが、私たちが構成している社会においてそういうことが行なわれることはこれまでもあったし、これからもあるでしょう。今この国において大きな問題となっているのは、集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされ、それに基づく安全保障法制の整備が進んでいることです。先週その法案がいよいよ国会に提出されました。現政権は「積極的平和主義」を掲げて、これまでのいわゆる「専守防衛」を越えて、国際社会の平和と安定に貢献しよう、そのために必要な武力の行使ができるようにしようとしています。このことによって、この国の軍隊が外国に行って戦闘行為に関わる可能性が生じようとしています。しかし現在の戦争は以前のように国家と国家が宣戦布告をしてするものではもはやなくなっており、「テロとの戦争」という言い方に表されているように相手のはっきりしないものとなっています。かつての戦争においても勿論多くの民間人が巻き添えとなって命を失いましたが、民間人のテロ行為との戦いにおいてはもはや民間人が敵そのものです。そういう現実の中での武力行使に参加するならば、この国の軍隊が他国の民間人を殺すことがいくらでも起り得るのです。私たち国民はその殺人に間接的に関わることになります。あるいはそれとは全く別のことですが、裁判員裁判において死刑の判決が下されることがあります。一般市民が裁判に関わり、そこで国家の名によって人を殺すことに参加するという事態が起っているのです。そのようにこの社会の仕組みの中で、私たちが人を殺すことに間接的に関わるということが今起り始めているのです。さらに私たちは、特に近隣諸国との関係において、歴史を振返って考えなければなりません。今年は戦後70年ですが、70年前までのあの戦争において、勿論多くの日本人も死にましたが、日本が朝鮮半島や中国、東南アジアにおいて多くの人々を殺し、傷つけたという事実があります。そのことを真摯に踏まえることなしに、それらの国々の人々と真実に友好的な関係を築くことはできないでしょう。「殺してはならない」という戒めをこのように社会的、歴史的な視点で捉えていく時に、そこには、私たちが人を殺す罪を過去において犯してきたこと、今後その罪に陥る危険があることが見えてくるのです。そして「殺してはならない」という戒めが、これからの社会の、国のあり方を、また近隣諸国との関係を考える上で大事な指針となることが見えてくるのです。  
 このような社会的、歴史的な側面からの捉え方は、特に十戒の後半を読んでいく上で大事です。後半には人間どうしの関係についての戒めが語られているわけですが、それは単に個人の内面のことに留まるものではなくて、私たちが他者と共にどのような社会を築いていくか、ということに関わっているからです。

個人的、内面的に  
 しかしこの戒めを見つめていくための第二の側面があります。それは本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第5章21節以下における主イエスのみ言葉によって示されている側面です。21、22節をもう一度読んでみます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。ここには、「殺してはならない」という戒めを主イエスがどのように読んでおられたのかが示されています。主イエスが語っておられるのは社会的、歴史的な事柄ではありません。むしろ全く個人的、内面的なことです。主イエスは「人を殺す」ことを、殺人を犯すことのみでなく、兄弟に腹を立て、馬鹿とか愚か者とか言うことにまで拡大しておられるのです。人を憎み、蔑むことも、神の前では殺人と同じだ、と言っておられるのです。この主イエスの教えを聞く時、私たちは自分が毎日のようにこの戒めに反することをしており、人を殺す罪を犯していることを覚えさせられます。「あいつ憎たらしい、あんなやついなければいいのに」という思いを抱く時、私たちは既に心の中でその人を殺しているのです。また主イエスはここで「ばか」とか「愚か者」と言って人を軽蔑することもそれと同じだと言っておられます。私たちは様々なことで人を軽蔑し、その裏返しとして優越感を覚えます。そういう私たちの思いから、様々な差別が生まれるのです。差別は相手の存在を否定し、人間としての尊厳を破壊します。その意味でそれは殺すことと同じなのです。このことは先程の、この戒めの社会的な側面について考えることにさらに広がりを与えます。この社会に存在する様々な差別、例えば今問題となっている外国籍の人に対するヘイトスピーチなどは、その人々の存在を否定し、生きる権利を奪おうとすることであり、それは殺人と同じ罪なのです。ナチスによるユダヤ人大虐殺も最初はそういうことから始まったのだということを私たちは真剣に受け止めなければなりません。

主イエスはこの戒めをどう捉えておられたか  
 このように、主イエスの教えを通して「殺してはならない」という第六の戒めを見つめる時に、そこに私たちの現実の罪が指摘されていることが分かるし、私たちが神を信じてどう生きるかの大切な指針としてこの戒めを捉えることもできるようになります。また主イエスの教えによってこの戒めの社会的、歴史的な射程が広げられていくことも示されるのです。主イエスこそ、この戒めを最も深く理解しておられ、それを最も正しく解説なさった方だ、と言うことができるのです。ですから私たちは、主イエスがこの戒めをどのように理解し、またこの戒めに従ってどのように歩まれたのかを見つめたいと思います。そうすることによって私たちはこの「人を殺してはいけない」という戒めを、世間の一般的な常識よりもずっと深く豊かな内容を持つ神の言として聞くことができるのです。

神が愛しておられる命  
 人を殺してはいけないことは世間の常識であり、殺人を犯せば逮捕されて罰せられるわけですが、しかしそもそも何故人を殺してはいけないのでしょうか。道徳的な教えにおいては、そのことは人間の権利によって説明されます。人には誰でも基本的人権があり、その中心に「生存権」、生きる権利がある。人を殺すことはその基本的な権利を侵害し、奪うことだから人を殺すことは許されない、それが道徳的な教えにおける説明でしょう。しかし十戒が「殺してはならない」と言っている根拠は、また主イエスがこの戒めにおいて見つめておられることは、それとは違うことです。それは何かというと、神が私たち人間一人一人を愛し、その愛ゆえに命を与え、生かしておられる、人間の命は神が与え、神が取り去られるものだ、神のものであり、神が愛して生かしておられる命を、人が奪ってはならない、ということです。根本的に見つめられているのは、人間の権利ではなくて神の愛なのです。主イエスはこの神の愛に基づいてこの戒めを読んでおられます。それによって語られたのがあの、兄弟に腹を立てる者は、「ばか」とか「愚か者」と言う者は人を殺しているのだ、という教えなのです。人の「生きる権利」を認めることが問題ならば、その人に対して腹を立て、憎んでいたとしても、その人を軽蔑していたとしても、殺しさえしなければその権利を守っていると言うことができます。しかし神が十戒において求めておられるのは、私が愛し、命を与え、それを守っている人の命を、あなたも大切にし、守ってほしい、つまりあなたもその人を愛してほしい、ということなのです。人の生きる権利を認め、尊重することは、それすらも否定され、殺されてしまったり、差別の中で人格を否定され生きながら殺されてしまうという現実がある中で大切なことです。この社会においては、基本的人権である生存権がきちんと守られ、保障されるようにすることが重要な課題です。しかし主イエスが見つめておられる神のみ心、神が本当に求めておられることは、それ以上のこと、私たちが隣人を愛して生きることなのです。しかもその隣人とは、私たちが「腹を立てる」ようなことをする人、軽蔑したくなるような人です。私たちがその人のことを理解できず、共感できず、人間関係がなかなかうまくいかない、良い交わりが築けない、そういう人です。マタイ福音書5章23節以下の主イエスのお言葉で言えば、「自分に反感を持っている兄弟」や「あなたを訴える人」です。そのような人と、仲直りをし、和解しなさい、と主イエスは勧めておられます。つまり関係がうまくいかない人との関係を回復し、その人を憎んだり軽蔑するのでなく愛するようになることを主イエスは求めておられるのです。そうすることこそが、「殺してはならない」という神の戒めを守って生きることなのです。なぜそうしなければならないか、その理由はただ一つ、神がその人を愛しておられ、命を与え、それを守っておられるからです。神が愛しておられる人を私たちも、自分の憎しみや軽蔑の思いを越えて愛して生きる、「殺してはならない」という戒めはそのことを求めているのです。逆に言えば、私たちが自分の憎しみや軽蔑の思いによって生きるところに、人を殺すことが起るのです。

主イエスによる和解の恵みの中で  
 主イエス・キリストは、父である神のこのみ心をしっかりと理解しておられ、そのみ心に従って「殺してはならない」という戒めを受け止めておられました。だから、これは昔の人が言っていたような「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」というだけのことではない、この戒めをお与えになった父なる神のみ心はこうだ、と語ることができたのです。そして主イエスは、この戒めの正しい捉え方を教えただけでなく、この戒めを与えた父なる神のみ心に従って生きて下さいました。つまり、神が愛し、命を与えて下さった人間たちを、つまり私たちを、心から愛して歩んで下さったのです。その人間たちは、つまり私たちは、神を神として敬わず、従わずに逆らい、敵対しています。神に反感を持ち、神なんかいないとか、あるいは神がしているこのことは間違っているなどと神を断罪し訴えることもしばしばです。神がそのような私たちに腹を立て、どうしようもない連中だと軽蔑して見捨ててしまっても不思議はないのが私たち人間です。しかし主イエスは、父なる神のみ心に従って、そのどうしようもない罪人である私たちを愛して下さり、私たちと仲直り、和解をするためにこの世に来て下さいました。私たち人間はその主イエスを受け入れようとせず、仲直り、和解のために差し出して下さっている手を払いのけて、主イエスを十字架につけて殺してしまいました。しかし主イエスは、その十字架の死において、私たちの罪を全て背負って、その償いをし、神による罪の赦しを実現して下さったのです。つまり主イエスは、十字架の死に至るご生涯の全体において、「殺してはならない」という戒めに込められている父なる神のみ心、人間に対する愛のみ心に従って生きて下さり、神と私たちとの和解を実現して下さったのです。「殺してはならない」という戒めの真実の意味は、主イエスのご生涯と十字架の死とによってこそ示されているのです。主イエスの十字架によるこの神の愛を受け、主イエスが実現して下さった和解の恵みの中で生きることによってこそ私たちは、第六の戒めを私たちの信仰の生活の道しるべとして、単に人を殺さないだけでなく積極的に愛して生きていくことができるのです。

隣人との関係の土台  
 「ハイデルベルク信仰問答」はそのことを問107でこのように語っています。「自分の隣人を殺さなければそれで十分なのですか」という問いに対してこのように答えているのです。「いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです」。ここに語られているように、「殺してはならない」という戒めを行なって生きるとは、隣人を自分自身のように愛し、敵に対してさえ善を行なって生きることです。それはまさに主イエスが罪人である私たちの救いのために、十字架の死に至るご生涯においてして下さったことです。主イエスの十字架によって与えられた救いの恵みを受けて、その恵みの中で私たちも隣人を愛していく、そこに私たちの隣人との関係の土台があります。十戒の後半、つまり隣人に対してどう生きるかを教えている部分がどこから始まるか、については二つの考え方があることを以前にお話ししましたが、この第六の戒めを後半の最初の戒めと考えるならば、この戒めは、自分の隣人を、神が愛しておられる人として心から愛しなさいと語ることによって、この後に続く隣人との関係についての教えの土台を据えていると言うことができるのです。

「あなたは」殺してはならない  
 最後にもう一つ大事なことがあります。この第六の戒めは、以前の口語訳聖書では、「あなたは殺してはならない」と訳されていました。「あなたは」という言葉があったのです。原文をそのまま訳せばそうなります。新共同訳はこの後の戒めも含めてその「あなたは」を省略しました。いちいち訳す必要はないと判断したのでしょう。しかしこれは浅はかな考えです。十戒は、「何々してはならない」という規則、禁止事項の羅列ではありません。それは主なる神からご自分の民への語りかけです。その冒頭には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という語りかけがあります。「あなたを奴隷の家から解放したあなたの神であるわたしが、あなたに言う、あなたは…」というのが十戒の基本的な語られ方なのです。つまり神はこれによって、ご自分の民の一人一人と、「わたしとあなた」という関係を築き、共に生きようとしておられるのであって、単に規則を与えておられるのではないのです。言い換えれば、神はこの十戒において、私たち一人一人と、愛の関係を結ぼうとしておられるのです。「あなたは」という語りかけによって神は、「わたしはあなたを愛している、あなたに命を与え、生かし、守り導いている」ということを示して下さっています。そしてこの第六の戒めにおいては、「わたしが愛しているあなたは、同じようにわたしが愛しているあなたの隣人のあの人をも、この人をも、私と共に愛してほしい、慈しんでほしい、あの人この人にわたしが与え、守り導いている命を大切にしてほしい、そしてあの人この人との間に、わたしの愛を土台として、愛の関係を結んでいってほしい、いさかいがあるなら和解し、仲直りしてほしい」と語りかけておられるのです。主なる神が自分に「あなたは」と語りかけておられる、その語りかけを受け、神との交わりに生きていくことによって、私たちも、隣人に「あなたは」と語りかけ、その人を傷つけ殺すのではなく、愛し大切にし、交わりを築いていく者となっていく道が開かれるのです。

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