説 教「きょうだいをつまずかせない」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 出エジプト記第23章1-9節
新 約 コリントの信徒への手紙一第8章7-13節
信仰の知識
私が主日礼拝を担当するときには、コリントの信徒への手紙一を読み進めていて、前回から第8章に入りました。ここではコリント教会の一部の人たちからの質問に答える形で、「偶像に献げた肉」を食べることについて取り上げられています。本日は7節以下を読みます。
冒頭7節に、「しかし、この知識が誰にでもあるわけではありません」とあります。「この知識」とは、何を指しているのでしょうか。それは、4節の後半で言われていた、「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識のことです。パウロはこの信仰の知識が正しいことを認めています。この知識から「偶像に献げた肉」について考えるなら、「この世に偶像の神など」いないのだから、「偶像に献げた肉」と、そうでない肉とは何の違いもないのであって、それを食べても何の問題もない、ということになります。「偶像に献げた肉」を食べることによって偶像礼拝に逆行してしまい、汚れてしまうのではないか、と不安になったり、恐れたりする必要はないのです。このようにパウロは、信仰の知識を持っていることを否定しているのでは決してありません。むしろ正しい信仰の知識は私たちを不安や恐れから解放し、私たちに自由を与えることを見つめているのです。
私たちは「偶像に献げた肉」を食べるか、食べないかで悩むことはないでしょう。しかし「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、私たちにも関わることです。この知識によって、私たちはこの世界と私たちの人生が、得体の知れない様々な力によって支配されているのではなく、ただお一人の神様によって支配されていることを知ります。そのことによって得体の知れない様々な力に翻弄され、不安や恐れに駆られる人生から解放され、本当の自由を生きることができるようになります。ですから私たちにとっても信仰の知識は必要です。私たちは正しい信仰の知識を学び、身につけていくことを疎かにすべきではないのです。
知識は誰にでもあるわけではない
しかし、この知識が誰にでもあるわけではない、とパウロは言います。そして7節の後半でこのように言っています。「ある人たちは、今まで偶像になじんできたせいで、偶像に献げた肉として食べ、良心が弱いために汚されるのです」。日本語で「良心が弱い」と言われると、道徳意識が弱い、という意味に捉えられますが、ここではそのような意味ではありません。知識を持っていないために、「偶像に献げた肉」に対して自分がどのように振る舞ったら良いか決められず、悩んでいるということです。コリント教会の人たちの多くは、少し前まで偶像の神々を崇めて生きていました。しかしパウロの伝道によって福音を知らされ、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受け、救いにあずかり、キリスト者となったのです。とはいえキリスト者となったからといって、すぐにそれまでの生き方と関係なく生きられるようになる、というわけにはなかなかいきません。これまで「偶像に献げた肉」のおさがりを食べることが、その肉が供えられた神々を崇めることと切り離せない生活を送っていました。その人たちの中には、キリスト者となっても、何らかの機会に「偶像に献げた肉」を食べることになったら、その肉を、ほかの肉と何の違いもないとは思えず、「偶像に献げた肉」として意識せざるを得ない人たちもいたのです。「ある人たちは、今まで偶像になじんできたせいで、偶像に献げた肉として食べ」とは、このことを言っています。
私たちも洗礼を受けてキリスト者となったからといって、それまでの生活とまったく関係なく生きられるのではありません。唯一の父なる神、唯一の主イエス・キリストを信じるようになっても、以前に慣れ親しんでいたことにとらわれてしまうことがあります。前回も触れましたが、たとえば占いを気にしたり、死について話題にするのは不吉なことだと思ったりします。また「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」と教えられたとしても、その知識が、直ちに私たちの生き方や振る舞いに変化をもたらす、というわけでもありません。私たちの生き方や振る舞いの変化は、私たちが神様を礼拝し、神様の語りかけを聞き、神様と交わりを持って生きる中で起こっていくからです。神様と共に生きる中でこそ、信仰の知識が自分の生き方に関わるものとなっていくのです。ですから私たちは、信仰の知識を持っていないために、あるいはたとえ持っていても、信仰生活の中で直面する様々な問題について、どのように振る舞い、どのような態度を取れば良いのか決められずに悩むことがあります。それぞれに直面する問題は違っても、職場や学校や家庭で、あるいは教会で、どのように振る舞ったら良いのか分からず、悩んだり、葛藤したりしているのです。
食べなくても不利にはならず、食べても有利にはならない
これまで見てきたように、コリント教会においては、「偶像に献げた肉」について正反対の振る舞いをしていた人たちがいました。一方の人たちは、信仰の知識から「偶像に献げた肉」を食べても何の問題もないと考え、それを普通に食べていました。もう一方の人たちは、信仰の知識を持っていないために、あるいは持っていても、「偶像に献げた肉」を食べることになったら、その肉を「偶像に献げた肉」と意識せざるを得なくなり、心を乱され、信仰生活を乱されてしまうので、食べることを避けていました。パウロは、コリント教会にこの両者がいたことを問題にしているのではないでしょう。8節にはこのようにあります。「食物が、私たちを神のもとに導くのではありません。食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません」。このパウロの言葉は、「偶像に献げた肉」を食べていた人の主張を支持しているように思えます。「食物が、私たちを神のもとに導くのでは」ないのだから、つまり「食物」は私たちの救いに関係ないのだから、「偶像に献げた肉」を食べても問題ない、と言っているように思えるのです。しかし後半の言葉を注意深く読むと、パウロの強調は別のところにあることが分かります。パウロは「食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません」と言います。食物は私たちの救いに関係ないのだから、「偶像に献げた肉」を食べないからといって、救いに不利になることはないし、逆に食べたからといって、救いに有利になることはない、と言っているのです。この言葉は、良心が弱いために、「偶像に献げた肉」を食べることを避けていた人たちを安心させる言葉です。食べることで心が乱され、信仰生活が乱されるぐらいなら、その肉を食べなくても問題ない、救いにはまったく関係ない、と言っているからです。その一方でこの言葉は、信仰の知識を持ち、「偶像に献げた肉」を普通に食べていた人たちに対する皮肉を含んでいます。パウロは「食べても有利にはなりません」と言っていますが、それは裏返せば、知識を持っている人たちが、「偶像に献げた肉」を食べることで救いに有利になるかのように思っていた、ということです。知識を持っている自分たちのほうが、そうでない人たちよりも救いに有利であるかのように勘違いし、そうでない人たちに対して高ぶっていたのです。ここでパウロが問題にし、また心を痛めているのは、このことであったのです。
弱い人々のつまずきとならないように
だからパウロは9節でこのように言います。「ただ、あなたがたのこの強さが、弱い人々のつまずきとならないように、気をつけなさい」。聖書協会共同訳は「あなたがたのこの強さ」と訳していますが、新共同訳では「あなたがたのこの自由な態度」と訳されていました。この訳の違いは、元々の言葉の意味の幅が広いからですが含蓄に富んでいます。つまり「知識」を持っているとは、「強さ」を持っていることであり、その「知識」や「強さ」は「自由」をもたらすことを見つめているのです。「偶像に献げた肉」の場合でも、「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰の知識は、この世に働いているように思える偶像の神々の力に惑わされない「強さ」を与え、それゆえに「偶像に献げた肉」を、ほかの肉と何も変わらない肉として食べるという「自由」を与えます。しかしその「知識」が、その「強さ」が、その「自由」が、弱い人々の躓きとなってはならない、とパウロは言うのです。
知識のある人たちの振る舞いによって
具体的に、知識を持った人たちのどのような振る舞いが、弱い人々の躓きとなったのでしょうか。10節でこのように語られています。「知識のあるあなたが偶像の神殿で食事をしているのを、誰かが見たら、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に献げた肉を食べるようなことにならないでしょうか」。そもそもキリスト者が何故、偶像の神殿で食事をしているのか、と疑問に思われるかもしれません。いくら知識があっても、キリスト者なら偶像の神殿で食事をするのは避けるはずではないかとも思います。しかしこの人たちは自分から進んで偶像の神殿で食事をしたのではないでしょう。コリント教会は異教社会の中にありました。キリスト者となっても、親戚関係の儀式や社会の行事、仕事の関係などで、偶像の神殿での食事に招待されることがあったに違いありません。「偶像に献げた肉」を食べても問題ないという確信があれば、このような場は、むしろ親戚や社会の人たち、仕事の関係者と交わりを持ち、人間関係を深めるために有益でもあったはずです。この人たちは信仰の知識による強い確信に立ち、与えられた自由を活かして、偶像の神殿でキリスト者でない人たちと交わりを持っていたのです。ところが弱い人たちが、この人たちの振る舞いを見たら、「その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に献げた肉を食べるようなことに」なるかもしれない、とパウロは言います。このパウロの言葉は分かりにくいですが、信仰の知識を持っていないか、持っていても、信仰生活を乱されないために「偶像に献げた肉」を食べることを避けていた人たちが、偶像の神殿で食べている人たちを見て、「あの人たちが食べているのだから、自分も食べて良い」と思ってしまい、「偶像に献げた肉」を食べるようになるかもしれない、と言っているのです。しかしそれでは、弱い人たちは信仰の知識によって自分で決断して食べることにはなりません。依然として食べて良いのか自分では決断できていないのに、知識のある人たちの振る舞いに引きずられて、「偶像に献げた肉」を食べてしまうことになるのです。それでは、本当の自由に生きていることには決してならないのです。
考え、決断することを求める
パウロは11節の前半で、「そうなると、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります」と言います。「滅びることになる」というのはきつい表現です。しかしここで見つめられているのは、強い人たちの知識が、弱い人たちが信仰生活の中で直面する問題に対して自分で決断する機会を奪ってしまうことは、その人の信仰生活を壊してしまうこと、滅ぼしてしまうことだ、ということです。すでにお話ししたように信仰の知識を得ても、私たちはすぐに自分の生き方、振る舞いを変えられるわけではありません。ある問題に対して自分の振る舞いを決断するまでには時間が必要です。しかも必要な時間は一人ひとり異なります。私たちは悩みながら、葛藤しながら、自分の振る舞いを決めていくのです。それは、なかなかしんどいことでもありますが、しかしそれが私たちキリスト者の信仰生活です。私たちの信仰生活は、自分で考え決断することのない、ルールブックに従うような生活ではありません。神様は私たちに考え決断することを求めておられるからです。神様と交わりを持って歩む中で、聖書が告げている信仰の知識に基づいて、一つのひとつの問題について考え、決断していくのが私たちの信仰生活なのです。だからこそ強い人たちの知識が、考えて決断する機会を弱い人たちから奪ってはならないのです。
愛が伴わなければ
パウロは、また聖書は、私たちが知識を得ることを、それによって本当の自由に生きることを決して否定していません。むしろ信仰の知識を得て、それによって信仰の強さ、つまり信仰の確信を得て、キリスト者に与えられている本当の自由に生きることを求めています。しかし同時に、その知識や自由を、どのように用いるべきなのか考えるよう求めてもいるのです。前回の箇所の8章1節で、「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げます」と言われていました。それは、知識を否定しているのではなく、その知識に愛が伴わないことを問題にしています。愛が伴わない知識や強さや自由は、自分を高ぶらせ、上から目線で相手に接し、その人が信仰生活の中で直面する問題に対して考え、決断する機会を奪ってしまいます。知識を持っている人がそうでない人に、この世に偶像の神などはおらず、「偶像に献げた肉」を食べても何の問題もないのだから、不安になったり恐れたりせず「偶像に献げた肉」を食べるべきだと主張するのは、決して相手を本当の自由に生かすことにはならないのです。愛が伴っていないとき、知識や強さや自由は、相手を造り上げることができません。むしろ相手の信仰生活を壊してしまうのです。
自由を用いない自由
だからパウロは13節でこのように言っています。「それだから、食物が私のきょうだいをつまずかせるなら、きょうだいをつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」。「肉」とは「偶像に献げた肉」のことであり、パウロは菜食主義になると言っているのではありません。しかも「私は」と言っていることからも分かるように、コリント教会の人たちに、今後決して「偶像に献げた肉」を食べるな、と命じているのでもありません。自分だったらこうする、と述べているに過ぎないのです。ですからここで私たちが受けとめるべきことは、私たちも「偶像に献げた肉」を食べないほうが良いということではなく、私たちが、私たちのきょうだいを躓かせないために、時には自分に与えられている自由を制限する必要があるということです。信仰の知識によって与えられている自分の知識や強さや自由を、きょうだいを、教会に連なる仲間を躓かせないために、敢えて用いないことがある、ということなのです。それこそが、愛が伴うということです。私たちは与えられている自由を活かすというのは、自分のしたいように生きることだと思っているところがあります。しかし自由を活かすとは、そこに愛が伴うなら、与えられている自由を制限し、その自由を用いないで生きるということでもあり得るのです。愛の伴う本当の自由に生きるとは、自由を用いない自由に生きることなのです。
共に読まれた出エジプト記23章4、5節にこのようにあります。「もし、あなたの敵の牛、あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ずその人のもとに返さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れているのを見たならば、放置しておいてはならない。必ずその人と一緒に起こしてやらなければならない」。前後の文脈から、「あなたの敵」とか「あなたを憎む者」とは、裁判の訴訟で争っている人のことであり、敵対関係にあり、憎んでいる人です。しかし裁判の場を離れた日常生活においては、相手の否を訴え、批判することが出来たとしても、それを控え、その自由を敢えて用いず、それどころか相手が困っていたら助けなさい、と言われているのです。たとえ敵であっても、憎んでいても、愛の伴う本当の自由に生きるとき、私たちはきょうだいを躓かせるのではなく助けるのです。
このきょうだいのためにも
しかし私たちは、自分が愛の伴った知識や強さや自由によって、きょうだいを躓かせることなく、造り上げていくことができるのだろうかと思わずにはいられません。どのようにしたらそのようにきょうだいと関わっていけるのだろうかと思います。私たちはしばしば、教会に連なる仲間と接するときにも、自分の知識や強さや自由を振りかざしてしまうことがあるからです。しかしパウロは11節の後半でこう言っています。「しかし、このきょうだいのためにも、キリストは死んでくださったのです」。このことこそが、私たちがきょうだいと関わるときの要となります。信仰の知識を持っていない人、あるいは持っていてもまだ決断できず、悩んでいる人がいます。しかしその人のためにも、キリストは死んでくださったのです。その人が救われ、神様と交わりを持って生き、自分で考え、決断して信仰生活を送っていくために、キリストは十字架で死んでくださいました。そのことに目を向けるならば、自分の知識や強さや自由を振りかざし、「きょうだいに対して罪を犯し、その弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すこと」になる、と気づかされるのです。キリストは「この私」のために死んでくださり、「この私」を救ってくださいました。同じようにキリストは、あの人のためにも、この人のためにも死んでくださったのです。そうであるなら、その人たちを躓かせて、その信仰生活を壊してしまってはならない。その人たちを躓かせるぐらいなら、自分の自由を敢えて制限し、用いないで生きるのです。私たちはしばしば、教会に連なる仲間の発言や振る舞いが気になり、それが間違っている場合、それを正そうとすることに躍起になりがちです。もちろん相手の間違いを正さなくてはいけない場合もあります。しかし8節を言い換えて言うならば、発言や振る舞いが、私たちを神のもとに導くのではありません。キリストが私たちのために十字架で死んで復活されたことが、ただそれだけが、私たちを神のもとに導き、救いに導くのです。だから私たちは、きょうだいとの関係において、教会の仲間との関係において、この人のためにもキリストは死んでくださったということにしっかり心を向けます。このことが私たちの関係の出発点であり、中心であり続けるのです。好き嫌いとか、合う合わないとか、考え方の違いとかではなく、このきょうだいのためにもキリストが死んでくださったことを、相手との関係の土台に据えることによって、私たちは愛の伴った知識や強さや自由によって相手を造り上げていくよう変えられていくのです。
きょうだいをつまずかせない
コリント教会の中には強い人と弱い人がいました。しかし私たちの教会のメンバーが強い人と弱い人に分けられると考えるべきではありません。そうではなく私たちは自分が強い人であることもあれば、弱い人であることもあるのです。ある問題については自分で決断できていても、別の問題については悩み、葛藤していることがあります。ですから私たちは、互いに愛の伴った知識や自由によって関わっていきます。このことについては自分が自由を敢えて用いないということがあり、別のことについては相手が自由を敢えて用いないということがあります。互いにキリストが相手のためにも死んでくださったことを見つめ続ける中で、相手を躓かせるのではなく、造り上げていくのです。とはいえ私たちは、相手がどんな問題について悩み、葛藤しているのかがすぐには分かりません。私たちが直面する問題は、「偶像に献げた肉」の問題ほど分かりやすくないし、多岐に渡るからです。だからこそ私たちは互いに相手を知らなくてはなりません。相手を知らなければ、どのように関わり、接して良いのか分かりません。自分の自由をどのように制限すれば良いのかも分かりません。私たちはどんな人とも同じように接し、同じように自分の自由を制限するのではありません。それでは、自分で考えて決断する信仰生活ではなく、ルールブックに従うような信仰生活です。そうではなく私たちは、キリストがこの人のためにも死んでくださったことを見つめる中で、互いに相手を知っていき、相手が葛藤し悩んでいる問題については、自分の知識や自由を振りかざすのではなく、それを敢えて用いないでいくのです。そのことを通してこそ、私たちは少しずつではあっても、互いを躓かせるのではなく、愛によって造り上げていくことができるのです。このきょうだいのためにもキリストは死んでくださった。そこに私たちの愛を伴う交わりの土台があり、私たちの教会が建て上げられていく土台があるのです。
