夕礼拝

蛇をもって蛇を制す

「蛇をもって蛇を制す」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第21章4-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章13-15節  
・ 讃美歌:299、441

荒れ野の旅路
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に 聞いています。その都度申しておりますが、民数記は、エジプトで奴 隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられて脱出し、神様 が約束して下さった乳と蜜の流れる地カナンに向かって荒れ野を旅し ていく様子を描いています。先月はその20章1~13節を読みまし た。その舞台となっていたのはカデシュという所です。新共同訳聖書 の後ろの付録の地図の2、「出エジプトの道」を見ていただくと、約 束の地カナンの南、シナイ半島北東部にカデシュ・バルネアとあるの がそれです。約束の地カナンに入るには、そこから北東方面に向かえ ばよいわけです。事実この地図にもその方向に点線が伸びていて、ホ ルマという所まで行っています。21章の1~3節には、イスラエル がこのホルマを攻め滅ぼしたことが語られています。ところが彼らは そのまますんなりと約束の地に入ることはできませんでした。その理 由はこの民数記の前の方に語られていました。イスラエルの民の犯し た神様への反逆の罪のために、彼らは四十年間、荒れ野を大回りして 旅を続けなければならなくなったのです。その旅は様々な意味で苦し いものでした。これまでにも何度か私たちは、イスラエルの民が荒れ 野の旅に不平不満を言ったことを見てきました。彼らは、水がないと 言っては騒ぎ、食べ物がないと言っては不平を洩らしたのです。そう いう生活の上での不自由のみならず、彼らは荒れ野の旅において様 々な妨げをも受けました。20章の14~21節を読むとそれが分か ります。イスラエルは、エドムの領土を通過することを拒まれたため にやむを得ずそこを迂回しなければならなかったのです。そのことが 21章4節にも語られています。「彼らはホル山を旅立ち、エドムの 領土を迂回し、葦の海の道を通って行った」とあります。先程の地図 で言えば、カデシュから東へ向かう点線が、死海の南あたりのエドム の地を通ることができずに、ずっと南へ下り、アカバ湾の岸まで一旦 下らなければならなかったということです。約束の地とは反対の方角 へと歩んで行かなければならなかったイスラエルの人々心は暗く、そ の足取りは重かったろうと思います。

アロンの死
またこの4節に「ホル山を旅立ち」とありますが、このホル山で、 20章22節以下が語っているように、アロンが死にました。アロン はモーセの兄であり、エジプト脱出の当初から、モーセと共にイスラ エルの民を導いてきた人です。特に彼はイスラエルの民の礼拝、犠牲 を捧げることを司る祭司として立てられた人でした。初代の大祭司が このアロンです。そのアロンがこのホル山で死んで、大祭司の職は息 子のエルアザルに継承されたのです。このアロンの死もイスラエルの 人々にとって大きな出来事だったでしょう。この出来事は彼らに、エ ジプトから脱出して約束の地へと旅をしているその途上で、目的の地 に着く前に死んでしまう者もいる、アロンのような指導者、神様に仕 える祭司でもそうなのだ、ということをはっきりと示したのです。彼 らは既に神様から、お前たちエジプトから出てきた世代の者たちは皆 荒れ野で死ぬことになる、約束の地に入るのはお前たちの子供たち だ、という宣告を受けていました。そのことを私たちはこれまでに読 んできました。しかしそれでも一縷の望みを抱いており、ひょっとし たら神様がみ心を変えて下さって、我々を約束の地に導き入れて下さ るかもしれない、とかすかに思っていたかもしれません。アロンの死 は、その望みを打ち砕く現実だったのです。我々はやはり荒れ野で死 ななければならない、約束の地に入ることはできない、ということを このことは彼らに思い知らせたのです。つまりアロンの死は、エジプ トを脱出してきた第一世代の人々にとっては、自分の死を強烈に意識 させられる出来事だったのです。しかもそれはいろいろなことをやり 遂げての大往生ではなくて、まだ目的地に到着できていない途上で の、志半ばにしての死なのです。

気力喪失
ホル山を旅立ったイスラエルの民はそのような状況に置かれていま した。それを前提として、4、5節をもう一度読んでみましょう。 「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通 って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに 逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。 荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな祖末な食物で は、気力もうせてしまいます』」。彼らは、荒れ野の旅に、「途中で 耐えきれなく」なったのです。彼らが語った不平は、「パンも水もな く、こんな祖末な食物では」という、食べ物や水についてのことで す。しかしそれらの背後には、今見てきたいくつかの、もっと深い苦 しみ、悲しみ、恐れ、不安があったと言えるでしょう。荒れ野の旅に おいて食料や水が十分でないことは今に始まったことではありませ ん。しかしその都度主なる神様は彼らに、天からマナと呼ばれるパン を与えて食べさせ、あるいは岩から水を出して飲ませて下さったので す。「こんな祖末な食物では」と彼らが言っているのはそのマナのこ とでしょう。彼らはこれまでもずっとこのマナによって支えられ、養 われてきたのです。ですから状況は今突然悪くなったのではありませ ん。悪くなったのは、周囲の状況ではなくて、彼ら自身の心の状態で す。「気力もうせてしまいます」と言っています。それが一番の問題 なのです。食べ物や水の不足によって気力がうせてしまったのではな くて、気力がうせてしまったために、食べ物や水への不満が募ってき たのです。気力がうせてしまったから、荒れ野の旅に「耐えきれなく なって」しまったのです。彼らがそのように気力を失ってしまったの は、エドムの妨害によって約束の地とは反対の方向へと向かわなけれ ばならなかったためであり、アロンの死によって自分たちも荒れ野で 死ななければならないことを思い知らされたためでしょう。このよう なことが、私たちの人生にも起ってきます。いろいろなことに妨げら れて人生が思い通りにならず、願っており、計画していたのとは違 う、むしろ反対の方向へと進んで行かざるを得ない、こんなはずでは ないのに、ということが起ってくるのです。あるいは、自分の死を強 烈に意識させられる出来事が起ります。自分はあと何年生きることが できるだろうか、自分が願っていること、努力してきたことを生きて いる内に実現できそうにない、志を遂げることなく、中途半端なまま で世を去らなければならない、そういう思いに捕えられることがあり ます。そのようなことによって私たちは希望を失い、生きる気力をそ がれ、困難や問題と取り組み努力していく力を失うのです。そして、 気力が充実していた時には忍耐することができ、頑張ることができた 些細な苦しみ、不自由、困難が、私たちの足を止めてしまう、もう一 歩も前へ進めないようにしてしまうのです。

神への信頼を失う
そのように生きる気力が失われてしまう時に起る最大の問題は、そ れによって私たちの神様への信頼が失われ、信仰がぐらついてしまう ことです。イスラエルの民に起ったのはまさにそういうことでした。 彼らは途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって、「なぜ、 我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためです か」と言ったのです。神様がモーセを遣わして彼らをエジプトから導 き上って下さったのは、数百年に亘る奴隷としての苦しみから解放し て下さるためでした。彼らはエジプトで、自分たちのためではない働 きにこき使われ、食うや食わずの、不自由な生活を強いられていたの です。そういう屈辱や不毛な労働から神様が救い出して下さったので す。そして今彼らが歩んでいる荒れ野の旅は、神様がその前途に、乳 と蜜の流れる地を約束して下さっている歩みであり、たとえそれが自 分の世代には実現しなくても、次の世代、子供たちの時代には与えら れるという希望のある歩みなのです。それなのに彼らは、神様が与え て下さった救いと約束を思わず、「我々を荒れ野で死なせるつもり か」などと言っています。こんなことならエジプトで奴隷のままでい た方がマシだった、と言っているのです。つまり彼らは自分たちを奴 隷状態から解放して下さった主なる神様の恵みを忘れて、神様への信 頼を失っているのです。一言で言えば信仰を失っているのです。これ と同じことが私たちにもしばしば起ります。人生の歩みがうまくいか ず、苦しみや悩みによって生きる気力が失われる時に、神様を見上げ ることもできなくなり、神様への信頼を失い、信仰など何の役にも立 たないではないか、という思いに捕えられていく、つまり、困った時 の神頼みではなくて、困った時の神離れが起るのです。

炎の蛇による罰
このように、苦しみ悩みの中で神様への信頼を失い、不平不満に陥 っているイスラエルの民に対して主なる神様はどうなさったか。6節 に「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエル の民の中から多くの死者が出た」とあります。神様は民に対して怒 り、罰をお与えになったのです。「炎の蛇」というのは、かまれると 火に焼かれるように痛い蛇、ということでしょう。そのような毒蛇に よって、神様の怒りが、逆らう民に向けられ、多くの者が死んだので す。この出来事を私たちはどのように受けとめたらよいのでしょう か。荒れ野の旅路の苦しみの中で気力を失い、そのために神様への信 頼を失って逆らった民にこのような罰を与えるなんて神様はひどい、 と思うかもしれません。そう感じるのが一般的であるように思いま す。しかしそれは正しいことでしょうか。この話を、ここだけ取り出 して読むならばその感想も尤もなことと言えるかもしれません。しか し私たちはこれまでに、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民 を、神様が数々の奇跡によって救い出し、荒れ野の旅路において守 り、養ってきて下さった恵みを読んできたのです。エジプトの奴隷状 態からの解放は、イスラエルの人々の中から興った民族解放運動に神 様が手を貸して下さって実現したのではありません。イスラエルの民 はエジプトで、ただただ苦役にあえぎ苦しみ、救いを求めて叫んだだ けです。その苦しみの叫びを神様が聞いて下さり、手を差し伸べ、モ ーセを遣わして彼らを救い出して下さったのです。イスラエルの民は その救いのために何も努力したことはありません。ただその救いを受 けただけです。荒れ野の旅においても、繰り返し不平不満に陥る民 を、神様はその都度赦し、支え続けて下さったことを私たちはこれま で読んできました。そのようにこの民のこれまでの歩みを振り返るな らば、この神様の怒りは決して理不尽なことではありません。理不尽 なのはむしろイスラエルの民の方なのです。

神への不満
しかしそれでもなお、私たちの心のどこかには、この神様の怒りと 罰に対する不満と言うか、釈然としない思いが残るかもしれません。 それは何故でしょうか。それは私たちが、神様は人間に恵みを与える べきものだ、とどこかで思っているということでしょう。イスラエル の民も同じように思っていたのだと思います。荒れ野の旅の苦しさの 中で彼らは、これでは神様の恵みなど感じられない、と思ったので す。それが彼らの不平不満を生み、反逆を生んだのです。私たちはそ れに同情を覚えます。神様が恵みをちゃんと与えていないのだから、 不満が起るのは当然だ、それを罪だと言って罰するのは不当だ、恵み をちゃんと与えていればこんなことにはならないのだ、だからむしろ 神の方が悪いんだ、そんな思いが私たちの中にはあるのではないでし ょうか。つまり、神様とは人間に恵みを与えるべきもので、恵みを満 足に与えられない神など信じるに価しない、という思いです。私たち は基本的にそういう思いに捕えられているのです。それゆえに、困 った時の神頼みということも起るし、また、困った時の神離れも起る のです。

神は交わりを作り出そうとしておられる
しかし聖書は、神についてのそのような先入観を打ち砕きます。人 間が自分の思いによって考え、造り出した神は、人間の願いを叶え、 恵みやご利益を与える神です。しかし聖書が証ししている神様は、ご 自分の自由な恵みのみ心によって私たち人間と関わり、私たちとの間 に恵みに基づいた交わりを造り出そうとしておられる方です。交わり というのは、譬えて言えばキャッチボールのようなものです。相手に 対してボールを投げ、相手はそれを受け止めて投げ返すのです。お互 いが相手に働きかけ、それをお互いが受け止め合うということがなけ れば、交わりは成り立たないのです。神様は人間とそのような交わり を持とうとしておられ、先ずご自分から恵みのボールを投げることに よってそれを始めようとしておられるのです。イスラエルの民をエジ プトの奴隷状態から解放し、荒れ野の旅を導いて下さったことは、神 様が投げた恵みのボールでした。そのボールをイスラエルの民がち ゃんと受けとめて、今度は神様に投げ返す、それが、神様に信頼し て、荒れ野の旅の苦しみを忍耐し、約束の実現を信じて待ち望みつつ 歩むことです。それをしなかったイスラエルの民は、神様から投げか けられた恵みのボールを受けとめず、投げ返さなかったのです。神様 とのキャッチボールに応じようとせず、神様との交わりを築こうとし なかったのです。それがここで起っていることです。自分が望んでい る恵みが与えられていないと、神がちゃんと義務を果していないと不 平を言い、だから信じることができない、従うことができないと言っているイスラエルの民は、神様を交わりの相手としてでなく、自分 の望みを叶えるための手段としてしか見ていないのです。そのような 民に対して神様は怒っておられるのです。それは理不尽な怒りではあ りません。交わりを求めるがゆえの怒りです。神様は、私たち人間と の間に、真実な交わり、応答の関係を築こうとしておられるのです。 それゆえに、このようにお怒りにもなるのです。

恵みのボールを投げる神
炎の蛇に襲われた民は、7節、「民はモーセのもとに来て言った。 『わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈 って、わたしたちから蛇を取り除いてください。』」。この民の言葉 は、罪の悔い改めの言葉です。犯した罪を認め、その赦しをモーセを 通して神に求めているのです。しかしとても安易な、本当に悪かった と思っていることが感じられない、とにかく蛇の苦しみを取り除いて もらうためなら何でもする、というような印象を受けます。しかしモ ーセはこの民のために執り成し祈り、神様はそれに応えて下さいまし た。私たちが神様の立場だったら、こんなに簡単に相手を赦したりは しないと思います。「お前たち、本当に悪かったと思っているのか」 ぐらいのことは言うでしょうし、もっとネチネチと嫌味を言うかもし れません。しかし神様はそうはなさらない。それは、神様が、先程申 しましたように、人間との間に交わりを築こうとしておられるからで す。人間を苦しめたり滅ぼしたりすることが神様の目的ではないので す。怒りも、交わりを求めるがゆえの怒りです。ですから神様は、交 わりのための機会をいつでも捉えてようとしておられるのです。民の 悔い改めの言葉はその機会です。それが本心からのものか、というこ とを問題とするよりも、その機会を捉えて、再び、恵みのボールを投 げかけておられるのです。

上げられた青銅の蛇
神様が新たに投げかけて下さった恵みのボールは、青銅で炎の蛇を 造り、旗竿の先にそれを掲げよという命令でした。炎の蛇にかまれた 者がその青銅の蛇を見上げると、それだけで命が助かるようになった のです。このようにしてイスラエルの民は、青銅の蛇によって罪を赦 され、神様の怒り、罰から救われたのです。しかしどうしてこのよう な形での救いが与えられたのでしょうか。炎の蛇を民の間から取り除 いた方が手っ取り早いのにと思います。それは一つには、炎の蛇を取 り除いてしまわないことによって、民が、自分たちの罪を忘れないた めであると言えるでしょう。苦しみの元が取り除かれてしまうとすぐ に自分の罪を忘れてしまうのが私たちの基本的な姿です。しかしこの ことの本当の意味はもっと深いところにありました。それは新約聖書 において初めて明らかになった意味です。それを語っているのが、本 日共に読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第3章の13節 以下です。そこをもう一度読んでみます。「天から降って来た者、す なわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならな い。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためであ る」。これは主イエス・キリストのお言葉であり、「人の子」とは主 イエスご自身のことです。主イエスは天から降って来た方であり、天 に上った方であることが語られています。そして主イエスが天に上げ られることが、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」ことと重ね合わされています。それは主イエスの十字架を意識した言葉です。つまりここ で主イエスは、「私はまもなく十字架につけられ、竿の先に上げられ た蛇のように地上高く上げられる、そのことを通して、父なる神のも とに、天に上げられるのだ」と言っておられるのです。そしてそれは 同時に、この主イエスの十字架が、モーセが掲げた青銅の蛇と同じ く、罪に陥った民に赦しを与えるものだということです。青銅の蛇を 見上げた者が救われたように、上げられた人の子を見上げて信じる者 が皆、永遠の命を得るのです。天から降って来た神の独り子であられ る主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって、神様に背 き逆らい、神様からの恵みのボールを受け止めようとせず、交わりを 求めておられる神様のみ心を無にしてしまう罪の赦しが与えられ、神 様との新しい関係、交わりが与えられるのです。このようにモーセが 掲げた青銅の蛇は、主イエス・キリストの十字架の死を予告し、指し 示すものでした。神様は主イエスの十字架の死によって、罪に陥って いる私たちに向けて新たに、恵みのボールを投げかけて下さっている のです。このボールをしっかり受け止め、神様に向かってそれを投げ 返していくことが私たちの信仰なのです。

私たちの荒れ野の旅を支えるもの
信仰をもってこの世を生きていくことは、神様の恵みの約束を信じ て荒れ野を旅していくようなものです。そこには様々な妨げや苦しみ があり、気力をそがれてしまうような出来事が起ります。けれどもそ れは、神様の恵みがそこにない、ということではありません。神様は この荒れ野の旅の中で、私たちとの間に真実な交わりを造り出そうと しておられるのです。そのために、いつも神様の方から、恵みのボ ールを投げかけて下さっているのです。独り子イエス・キリストをこ の世に遣わし、その十字架の死と復活によって罪の赦しと永遠の命の 約束を与えて下さっていることが、神様が私たちに与えて下さってい る最大の恵みです。私たちの周りには蛇がいます。蛇は聖書では、人 間を神様の恵みから引き離し、罪に陥れようとする悪魔、サタンの象 徴です。私たちはいつもこの蛇の攻撃、誘惑にさらされているので す。そして私たちはまことに無力な者であって、この蛇の攻撃や誘惑 によってすぐに神様の恵みを見失い、信頼を失い、神様との交わりに 生きることができなくなってしまいます。しかしそのような私たちの ために神様は救い主イエス・キリストを与えて下さいました。私たち の罪を背負って十字架にかかって下さった主イエスを見上げるだけ で、蛇の毒はその力を失うのです。なぜなら主イエスの十字架と復活 とにおいて、神様は罪の力、サタンの力を打ち破り、私たちに救い を、新しい命を与えて下さっているからです。十字架と復活の主イエ スを仰ぎ見る信仰こそが、荒れ野の旅を続けていく私たちを支え、約 束の地へと導いていくのです。

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