主日礼拝

帰る家がある

「帰る家がある」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第3章19-25節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第15章11-32節  
・ 讃美歌:57、280、531

あなたはホームレス?  
 テレビでも紹介されてこのところ知られてきている奥田知志という牧師がおられます。北九州のバプテスト教会の牧師で、ホームレスの人々の支援の活動をしている方です。この方が、キリスト教学校である明治学院高校でなさった講演が本になったものを読みました。話の始めのあたりで奥田牧師は高校生たちにこのように問いかけています。「君たちの中にホームレスの人はいますか」。明治学院高校は私立の高校です。私立高校に子供を通わせるにはかなりのお金がかかります。そういうお金のある家庭の子供たちばかりなのですから、ホームレスの子がいるわけはありません。だからそう問われた生徒たちは笑うのです。しかし奥田牧師は続けてこのように語っていきます。いわゆるホームレスと呼ばれている人たちは、住む家がない、ハウスレスだ。あなたがたの中には、住む家がないハウスレスの人はいないだろう。けれども、住む家はあってもホームのない人は沢山いる。自分が本当の意味で帰ることができる所、そこに帰れば温かく迎えてもらえて、悩みや苦しみを打ち明けることができて、それを分かってくれる人がいる、そういうホームがないという人がいる。そして以下はこの講演からの直接の引用です。「今の時代はどうなのかというと、多くの人がホームレス化していっています。家に住んでいる人も住んでいない人も含めて現代は無縁化が進んでいます。さらに自分ひとりで生きていく。自己責任で生きていく。そんな時代です。もう一回聞きます。きみたちはホームレスではありませんか? 大丈夫ですか? 人は死にたくなることがあります。何回も。もういなくなりたいと思う日もあります。そのとき、きみたちはどこに帰りますか? 今すぐだれかの顔が浮かばなかったとしたら、きみはホームレスです」。この指摘に私たちははっとさせられます。自分はホームレスでないと言えるだろうか、安心して帰ることができて、温かく迎えてくれて、悩みや苦しみを打ち明けることができて、それを分かってくれる人がいる、そういうホームが自分にあるだろうか、もう死んでしまいたいと思うようなつらさ、悲しみに直面する時、自分には帰る家があるのだろうか、そのように問わずにはおれないのではないでしょうか。  
 今日は皆さんと御一緒に、新約聖書、ルカによる福音書第15章11節以下の、イエス・キリストがお語りになった一つのたとえ話を読みたいと思います。小見出しにありますようにこの話は「放蕩息子のたとえ」と呼ばれています。放蕩に身を持ちくずしてしまった息子の話です。でもこの話は見方を変えると、「ホームを失ってしまった息子の話」なのです。放蕩息子というのは、ホームを、帰る家を失ってしまった息子です。そのことを、この話をたどりながら見ていきたいと思います。

ホームを捨てた息子  
 「ある家に息子が二人いた」と始まります。この話には二人の息子が登場します。先ずは弟のことが語られていきます。弟は父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。つまり、父が死んだら自分が相続するはずの遺産を先にくれ、と言ったのです。そして父からその財産をもらうと、彼は全部を金に換え、遠い国に旅立ちました。要するに家を飛び出していったのです。彼は自由になりたかったのでしょう。父の家で家族と共に暮らしているのが、彼にはたまらなく窮屈で不自由な、がんじがらめに縛られた生活に感じられたのです。もっと自分の思い通りに生きたい、自由にしたいことをして暮らしたい、自分の力をこの世の中で試したい、そんな思いで家を出たのでしょう。しかしそれなら、何も持たずに出て行って、裸一貫で生きていけばよさそうなものです。ところが彼はそうはせずに、父の遺産をもらって出ていくのです。そこに彼の根本的な甘えがあります。自由になって、一人で生きていくのだと言いながら、父親の財産をちゃっかり持って行くのです。まだ親が生きているのに遺産をくれというのは、親に対して失礼なことです。自分にとってもうあんたは死んだのと同じだ、と宣言しているようなものです。ですから息子に言われた通りに財産を分けてやったこの父親は、随分お人よしの、子供を甘やかしている親だなと感じます。この息子は、父親のそういう甘さにつけ込んで、けっこうな現金を手に入れて、意気揚々と家を出て行きました。こんな家はもういらない。もうここに戻って来るつもりはない。自分は外の世界で、自由に思い通りに生きていくのだ。彼はそのようにして家を捨てたのです。このようにして彼は家を、ホームを失いました。失ったと言うよりも自分で捨ててしまったのです。

自由の使い方  
 このように家を捨て、自由になった彼はどうなったでしょうか。彼は遠い国で、「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」とあります。もともと自分で苦労して得た金ではありません。父からもらったものです。苦労してお金を得たことがない人は、お金の使い方も分かりません。彼はその金を生かして用いることができずに、無駄遣いしてしまったのです。気がついたら「何もかも使い果たし」ていました。そこに飢饉が起り、彼は食べるにも困り始めたのです。ある人のところに身を寄せ、豚の世話をするようになりました。豚はイスラエルの人々にとっては汚れた動物ですから、豚の世話というのは、誰もしたくない卑しい仕事ということです。彼はそこまで落ちぶれ、しかも豚の餌を食べたいと思うくらい飢えていたけれども、「食べ物をくれる人はだれもいなかった」とあります。この一言に、彼が陥った状態が象徴的に表現されています。彼は家を飛び出して自由になりました。自由に使えるお金も父からせしめました。そのお金を無駄遣いしてしまったというのは、彼が自分に与えられている自由の使い方を間違えてしまったということです。自由の正しい使い方とは何でしょう。それは、自分の自由を、他の人のために使うことです。ところが彼は自分の自由を、具体的にはお金を、自分のため、自分の楽しみのためにだけ使ってしまったのです。その結果どうなったか。お金があるうちは、多くの人々が彼の周りに集まって来ました。彼と一緒にその金を楽しむためです。その人々は、自分こそ君の親友だとか、あなたを愛しているわというようなことを言っていたのです。しかし、お金が無くなってしまった途端、その人たちは誰もいなくなってしまいました。彼が豚の餌でも食べたいと思うほどに腹をすかしていても、助けてくれる人は誰もいなかったのです。つまり彼は、困った時に助けてくれる本当の友人をただの一人も得ることができなかったのです。「財産を無駄遣いしてしまった」というのはそういうことです。財産は、つまり自分が自由にすることができるものは、他の人のために、他の人を助けるためにこそ用いるべきものです。そうすることによって、互いに助け合う友を得ることができます。人間関係を築くことができます。しかしそれを自分のため、自分の楽しみのためだけに使ってしまうなら、どんな財産もすぐに無くなってしまい、そこには何も残らないのです。このようにして彼は、どん底の苦しみに落ちてしまいました。それは貧しさや飢えの苦しみという以上に、温かく迎えてくれ、悩みや苦しみを打ち明けることができる人が一人もいない苦しみ、要するに愛してくれる人が一人もいない孤独の苦しみです。無縁社会と呼ばれる今、「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」という苦しみは、私たちにとって決して他人事ではないのではないでしょうか。

我に返って気づいたこと  
 この苦しみのどん底において、彼は「我に返った」と17節にあります。「我に返った」とは、自分を見失っていたことに気づいたということです。彼は何に気づいたのでしょうか。17節にこう語られています。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」。彼は父のところ、自分が飛び出してきた家を思い出したのです。そこでは、雇い人すらもが十分に養われていました。まして彼は息子だったのです。父の大きな愛の中で養われていたのです。彼はその愛に気づかず、そこを飛び出してしまいました。しかしその父の家こそが実は自分のホームだったこと、今自分はそのホームを捨ててしまったために飢え死にしそうになっていることに気づいたのです。それで彼は、18節「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」、このように決心しました。つまり彼は自分の罪に気づいたのです。父の愛を愛として受けとめずに自分を縛りつけるものとして嫌い、家を飛び出したこと、しかもその愛につけ込んで財産をせしめ、それを浪費してしまったこと、それらは父の恩を仇で返す罪だったことに彼は気づいたのです。つまり自分が今陥っている苦しみや孤独は、誰か他の人のせいでも、社会が悪いのでもなくて、自分自身の罪にこそ原因があることに彼は気づいたのです。

私たちも弟息子  
 弟息子が我に返って気づいたこの自分の本当の姿は、そのまま私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちも、自由を求め、自分の思い通りに生きたいと願っています。神を信じる信仰はその妨げになる、信仰は窮屈な、不自由な、がんじがらめに縛られた生活を生む、だから神から自由になって、自分の可能性を伸ばして歩みたい、などと思っているのです。しかし私たちがそのように自由に生きるために用いている人生の元手は全て、神様が与えてくれたものではないでしょうか。私たちのこの体も、健康も、様々なことをする能力、才能も、あるいはそれを生かす機会も、私たちが自分で作り出したものではありません。私たちは神様が与えて下さった元手を用いて人生を歩んでいるのです。今持っているお金は自分が苦労して働いて得たものだ、と主張するかもしれません。しかしそれを得ることができたのは、持って生まれた能力や、それを生かすことができる環境が与えられていたからで、それを備えて下さったのはやはり神様なのです。つまり私たちはあの息子と同じように、父の愛によって分け与えられた財産を元手としてこの人生を生きているのです。父の財産をもらって家を飛び出していくこの息子は甘えている、と感じますが、まさに私たちも、自分で得たのではない様々な元手を神様から与えられて生きています。私たちも、父である神様に甘えて生きているのだし、そうでなければ生きることができないのです。  
 父から与えられた財産をどう使うかは息子たちの自由でした。それと同じように、神様が与えて下さった人生の元手も、それをどう使うかは私たちに委ねられています。私たちはそれをどう用いているでしょうか。他の人のために、人との良い交わりを築くために用いているでしょうか。むしろこの息子のように、それを自分のため、自分の喜びのためにのみ用いてしまうことが多いのではないでしょうか。つまり私たちも、神様が与えて下さったものの使い方をしばしば間違ってしまい、その結果、人との間に愛し愛される関係を築くことができず、大事な時に助けてくれる友を得ることができず、孤独に陥っていくという苦しみを味わっているのです。

ホームを失った弟  
 我に返り、父の家こそが実は自分のホームだったことに気づき、父の愛を無にしてそこを飛び出してきてしまった自分の罪に気づいたこの息子は、父のもとに帰ろう、そして「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おう、と思いました。彼は、自分が生きることのできる場所はあの父のもとにしかないことに気づいたのです。しかし同時に思い知らされたのは、もう息子としてそこへ戻ることはできない、ということです。こんな家にいるのは不自由で嫌だ、父はもう死んだものと思う、と言って飛び出して来たのですから、その罪に気づいて、反省して、「ごめんなさい」と詫びたとしても、それで元通り息子として受け入れてもらえるはずはない、それが人間としての自然な思いです。つまり彼は、自分にはもう帰る家がない、ホームを失ってしまったのだと思ったのです。そしてそれは自業自得だから仕方がない、もはやホームなしに、帰る家なしに、雇い人の一人として生きていくしかないと観念したのです。

愛する息子として迎える父   
 こうして彼は父のもとへと帰って行きました。出て行った時は意気揚々と希望に満ちていましたが、今やぼろぼろになり、乞食のような姿で戻って来たのです。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。まだ遠くにいる変わり果てた姿の息子に父は気付いて、走り寄って抱きついて、帰りを喜んだのです。それはこの父が彼のことを片時も忘れておらず、いつも帰りを待っていたということです。息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」とお詫びの言葉を語り出します。しかし父はそれを遮り、僕たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と言います。これは、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言っている息子の言葉を否定して、「これは私の愛する息子だ」と宣言したということです。お前は私の愛する息子なのだから、私の家こそお前の家だ、お前はいつでもここに帰ることができる、そうすれば無条件で温かく迎えてもらえる、悩みや苦しみを打ち明けることができ、それを分かってくれる人がいる、そういうお前のホームがここにあるのだ、と父は言っているのです。それは人間の常識に反することです。「父の愛を理解せず、勝手に飛び出していって無駄遣いをしてスッカラカンになったような奴はもう息子と呼ばれる資格はない」というのが人間の常識なのです。しかし神様は、そういう常識に反して、私たちを赦し、愛する子として迎え入れて下さる、そのことをこのたとえ話は語っているのです。放蕩息子をこのように叱りもせずに迎え入れる父はなんて甘いんだ、と思うかもしれません。しかし、神様に背く罪によって帰るべきホームを失い、ホームレスになってしまっている私たちが、神様のもとにもう一度ホームを得ることができるとしたらそれは、神様がこのように無条件で私たちを赦し、迎えて下さることによってでしかないのです。

ホームを失った兄  
 さてこの話には後半、25節以下があります。ここには今度は兄息子が登場します。彼は「畑にいたが」とあります。つまりこの兄は、父のもとにずっと留まり、畑仕事を、つまり家の仕事をしていたのです。父は財産を二人に分けてやったと12節にありましたから、彼も弟と同じようにそれを金に換えて家を出て行くこともできたのです。しかし彼は家に、父のもとに留まり、そこで働いていました。ですから世間の人々から見たら、弟とは正反対の、立派な孝行息子です。その兄が一日の畑仕事を終えて帰ってみると、家では盛大な宴会が行われています。どうしたのかと僕に聞くと、「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」とのことです。これを聞いた兄は、怒って家に入ろうとしなくなってしまいました。彼の思いは29節以下に語られています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。この言葉から分かるのは、実はこの兄も、弟と同じように、父のもとにいることを喜んでいない、父の愛に気づいていない、ということです。彼は我慢して父のもとに留まっているのです。本当は自分もあの弟のように自分の好きなように、自由に生きたいのに、と思っていたのです。彼を支えていたのは、自分はこれだけ我慢して、頑張って父に仕えている、だからその見返りがあってよいはずだ、という思いでした。ところがその思いは、放蕩の限りを尽くして戻って来た弟を父が喜び迎えたことによって打ち砕かれました。自分の今までの努力や我慢は何だったのか。怒って家に入ろうとしない兄の姿は、彼もまた帰るべき家を、ホームを失ってしまっていることを示しています。愛し合い受け入れ合うのではなく、努力や我慢によって維持され、それに対する見返りを求めていくような場所はもはや家庭、ホームではありません。そこにはもはや、安心して帰ることができる所、温かく迎えてもらえて、悩みや苦しみを打ち明けることができて、それを分かってもらえるような場所はないのです。家に留まっていながら、兄がこのようにホームを失ってしまったのは、弟と同じように彼も、父の愛を見失っていたからなのです。

帰る家がある  
 この兄のもとに父は出て来てこう言っています。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。父が言っているのは、「お前は働いて給料を貰う雇い人ではなくて、私の愛する子だ」ということです。その意味で、弟に対して語ったのと同じことです。父が彼を子として愛している、それは彼がどれだけ頑張って働いているかとか、どれだけ我慢しているか、その見返りとしてではありません。子であるがゆえに、父は愛しており、共にいることを喜び、そして彼に自分の全てを与えようとしているのです。この父の愛のもとにこそホームがあります。私たちのホームも、父なる神様のこのような愛のもとに与えられているのです。このホームは、私たちが神様の愛に気づかず、自由を求め、自分の思い通りに生きようとして飛び出してしまい、しかし神様から与えられているものの使い方を間違ってしまい、人との関係を正しく築くことができずに、傷つけ合い、孤独に陥ってしまうようなことがあっても、そういう私たちの罪によって失われてしまうことはありません。父である神様はそれでも私たちを愛していて下さり、いつも待っていて下さり、罪の結果ぼろぼろになってしまった私たちを無条件で赦し、受け入れて下さるのです。そのために、神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのです。キリストの十字架によって与えられた罪の赦しによって、私たちは神様を父と呼ぶことができ、神様のもとに安心して立ち帰ることが出来るのです。またこのホームは、私たちがどれだけ頑張って立派な人として生きているか、我慢して神様に仕えているか、という私たちの努力に対する報いとして与えられるものでもありません。父なる神様が私たちを、独り子主イエス・キリストを与えて下さるほどに愛して下さっている、その愛によってこそこのホームは支えられているのです。だからこそ私たちは、喜んでそこに帰ることができます。そしてそこで、自分の苦しみや悲しみを、また罪を、打ち明けることができます。そして真実な慰めと支えと、そして罪の赦しをいただくことができます。そして、同じ神様の愛のもとに置かれている兄弟姉妹を、家族として受け入れることができるのです。最後の32節の「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という父の言葉はそれを語っています。父の愛を見失い、そこから失われて生きることができなくなっていた弟が、父の愛のもとに帰って来ることができた、真実のホームを、家庭を回復することができた、そのことを共に喜び、祝宴に共に連なる者となることによって、この兄もまた、見失っていた父の愛のもとへと帰ることができるのです。真実のホームを、家庭を回復することができるのです。この真実のホームへと、主イエス・キリストの父である神様が私たち一人一人を招いて下さっています。だから私たちには、どんな悲しみや苦しみ、また罪の中にあっても、帰る家があるのです。迎えてくれる家族がいるのです。教会の礼拝に集うことによって、私たちは毎週、父である神様の愛のもとに、私たちの真実なホームに、帰って来ることができるのです。

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