説教「約束された聖霊」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第16編1-11節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙第1章3-14節
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ペンテコステの出来事
本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスの復活から五十日目、主イエスが天に昇られてから十日目であるこの日、弟子たちは、使徒言行録第1章4、5節に語られていた、復活した主イエスのお言葉「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」の実現を待って、共に集まっていました。「父の約束されたもの」とは、聖霊です。聖霊があなたがたに降り、聖霊による洗礼が授けられる、それは、聖霊によって新しく生かされる、ということですが、父なる神はそういう約束を与えて下さっている、と主イエスはおっしゃったのです。そのことがこのペンテコステの日に実現しました。使徒言行録第2章にそのことが語られています。約束された聖霊を受けた弟子たちは新しく生かされました。力を与えられて、父なる神が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現して下さった救いを宣べ伝え始めたのです。こうして伝道が始まり、洗礼を受けて救いにあずかる人々がおこされ、教会が生まれたのです。教会は、約束された聖霊が弟子たちに降ったことによって誕生したのです。
聖霊で証印を押された
その聖霊は、ペンテコステの日に一度だけ降ったのではありません。その後の教会の歩みおいて、聖霊は繰り返し注がれました。聖霊が注がれたことによって、人々は新しく生かされ、キリストによる救いにあずかる印である洗礼を受け、そしてキリストによる救いの知らせ、福音を宣べ伝えていったのです。先ほど朗読された新約聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙第1章の13節にも、そのことが語られています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」。この手紙を書いたパウロは、エフェソの町の教会の信仰者たちに、あなたがたも「約束された聖霊」を受けたのだ、と言っています。エフェソの人々は、イエス・キリストによって神が実現して下さった救いの知らせを「真理の言葉」として、つまり「救いをもたらす福音」として聞き、それを信じて洗礼を受けました。しかしパウロはそこにさらに、「約束された聖霊によって証印を押された」ということを付け加えています。「証印」というのは、手紙などが、確かに差出人が書いた本物で、届けられる途中で書き換えられたり、すり替えられてしまってはいない、ということを証明するものです。聖霊はそういう働きをするのです。つまり、聖霊が注がれたことによって彼らは、自分たちに伝えられたキリストによる救いは、神が自らのご意志によって実行して下さった本物であり、それはキリストの十字架の死と復活によって既に確かに実現しているのだ、ということをはっきりと知り、信じることができたのです。聖霊は、キリストの十字架と復活による救いの知らせが、確かに「救いをもたらす福音」なのだ、ということを私たちの心に示して下さいます。私たちが福音を聞いて「信じた」というだけではその信仰はまことに弱く不確かなものです。少しでもつらいこと、苦しい試練が襲って来ると、私たちの「信じる」気持ちなどどこかへ吹っ飛んでしまいます。しかしそこに聖霊が注がれることによって、その信仰に証印が押されるのです。それによって私たちは新しく生かされます。自分が信じている、という自分の思いだけを救いの確かさの根拠として生きるのではなくて、聖霊なる神がそれを保証して下さっている、その聖霊に信頼して歩む者とされるのです。
受け継ぐべきものの保証
そのことが14節にも語られています。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」。聖霊が証印を押して下さる、というのは言い換えれば、聖霊が保証となって下さるということです。「わたしたちが御国を受け継ぐ」ことの保証とありますが、ここの原文には「御国を」はありません。聖書協会共同訳ではここは「聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり」となっています。聖霊は、私たちには「受け継ぐべきもの」があり、それを確かに「受け継ぐ者」とされていることを「保証」して下さるのです。受け継ぐ、というのは将来のことです。今はまだ受け継いではおらず、私たちはそれを手に入れていません。将来受け継ぐことの保証として聖霊が与えられているのです。つまり聖霊は、将来の救いの完成への希望を与えるのです。聖霊によって信仰に証印が押されるというのは、将来の救いの完成への希望を確かにされる、ということです。聖霊は、キリストの十字架と復活による救いの知らせが、確かに「救いをもたらす福音」なのだ、ということを私たちの心に示して下さるのだと先ほど申しました。キリストの十字架と復活は既に起こった過去の出来事です。それが神による、私たちのための救いのみ業だったことを、聖霊は私たちに信じさせて下さいます。しかし私たちは、神による救いがまだ実現していない現実の中を生きています。この世と私たちの人生には様々な苦しみ悲しみがあり、人間の罪と弱さに満ちており、神のご支配が目に見える仕方で実現してはいないのです。そういう苦しみ悲しみの現実によって、私たちの「信じる気持ち」は揺さぶられ、失われてしまったりするのです。聖霊はそのような私たちに、キリストの十字架と復活による救いが将来完成することを示して下さいます。それが私たちの「受け継ぐべきもの」です。神による救いが目に見える仕方で実現し、明らかになる日が将来必ず来る、私たちはその救いの完成を受け継ぐ者とされている、聖霊はそのことを保証して下さるのです。それによって私たちは希望を与えられます。聖霊は、過去になされた救いのみ業が本物であることを信じさせて下さると共に、その救いが将来完成するという希望を与えて下さるのです。この聖霊によって、私たちの現在の信仰の歩みは支えられ、確かなものとされるのです。
神の秘められた御計画
11節には、「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行なわれる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」とあります。私たちは、「約束されたものの相続者」、つまり「受け継ぐ者」とされているのです。それは今14節で見てきたように、将来の救いの完成にあずかる約束を与えられ、それを待ち望む者とされているということです。そしてこの11節には、私たちにそのような希望が与えられているのは、「御心のままにすべてのことを行なわれる方の御計画」によるのだ、と語られています。私たちが、キリストの十字架と復活による救いの福音を信じ、その救いが将来完成することを希望をもって待ち望む者とされているのは、「御心のままに全てのことを行われる方」である神の御計画によるのです。その神の御計画が最終的に何を目指しているのかが、8〜10節に語られています。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。
神の秘められた御計画が目指しているのは、あらゆるもの、つまり天と地の全てが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられることです。キリストがこの世の全てのものの頭となり、全てのものが頭であるキリストのもとに一つとされるのです。今は、人間の罪の力がこの世界に猛威を振るっており、様々な力が対立し合って、それによって日々悲惨な出来事が引き起こされています。つまり神のご支配とキリストによる救いは目に見える現実とはなっていないし、全てのものがキリストのもとに一つにされてはいないのです。しかし、神の秘められた御計画が実現する終わりの時には、神のご支配が全てのものの上に確立し、キリストこそが全てのものの頭であられることが明らかになり、その頭のもとに全てのものが一つとされるのです。それこそが、神の救いの業の完成であり、私たちに約束されているもの、私たちが「受け継ぐべきもの」です。私たちは、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」という救いの相続者とされており、この救いの完成を希望をもって待ち望んでいるのです。
主イエスの十字架と復活によって
これは神の「秘められた御計画」です。つまりその御計画は今は隠されており、そんな御計画があることに多くの人々は気づいていないのです。しかし9節に語られていたように、神はその「秘められた計画」を私たちに知らせて下さいました。それは、御子イエス・キリストをこの世に人間として遣わして下さったことによってであり、とりわけ主イエスの十字架の死と復活によってです。7節には「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」とあります。神は豊かな恵みによって、独り子イエス・キリストの十字架の死による贖い、罪の赦しを与えて下さったのです。このことを受けて8、9節に「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」と語られています。私たちが神の秘められた御計画を知り、その実現を待ち望む者とされたのは、神が、キリストの十字架の死による罪の贖い、赦しの恵みを私たちの上に豊かに注ぎ、あふれさせて下さっているからです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いが既に実現していることを示されることによってこそ、その救いが世の終わりに完成し、全てのものが頭であるキリストのもとに一つとされる、という神の秘められた計画の実現を信じて待ち望むことができるのです。そしてそれは全て、聖霊のお働きによることです。約束された聖霊で証印を押されることによって私たちは、キリストの十字架の死によって実現した罪の赦しを信じ、キリストの復活によって与えられた新しい命、永遠の命の希望を見つめつつ、世の終わりに全てのものが頭であるキリストのもとに一つにされる、その救いの完成を待ち望んで生きる者とされるのです。
聖霊は私たちにも注がれている
その聖霊が、今、私たちにも注がれています。私たちが主イエス・キリストによる救いを信じて洗礼を受け、キリストの体である教会に加えられて、頭であるキリストのもとで、その体の部分として、他の部分である兄弟姉妹と共に、父なる神を礼拝しつつ、また聖餐においてキリストの体と血とにあずかりつつ、キリストと一つにされて歩んでいるのは、聖霊が私たちに注がれていることのしるしです。私たちも、約束された聖霊で証印を押されているのです。そして私たちも、世の終わりにキリストのご支配が完成し、全てのものが頭であるキリストのもとに一つとされる、その救いの完成を待ち望む者、約束されたものの相続者とされているのです。その約束されたものの相続者の群れに、本日も一人の兄弟が、洗礼を受けて加えられます。聖霊なる神さまがこの兄弟を幼い時から教会へと導いて下さり、様々な出会いを通して礼拝に集う者として、この日へと至らせて下さいました。ペンテコステに弟子たちに降った聖霊が今この場にも豊かに注がれていることを、私たちはこのことを通して確認することができるのです。
神の選びと予定
さて本日の箇所から私たちは、もう一つ大事なことを示されます。3〜5節にこう語られています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。神は天地創造の前に、私たちを選んで下さり、そして御心によって私たちを、救いにあずかる者へとお定めになった、つまり予定して下さったのだ、と語られています。天地創造の前に、ということは、私たちが生まれる前に、ということです。神は私たちが生まれる前から、私たちを選んでおられ、救いにあずかる者として予定して下さっていたのです。「キリストにおいてお選びになりました」と言われているし、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」とも言われています。つまり私たちが選ばれたのも、救いへと予定されたのも、私たちの清さや正しさによってではなくて、イエス・キリストによる救いの恵みによってです。私たちは神を無視し、背き逆らっている罪人ですが、神はそのような私たちを、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずからせ、神の子として新しく生きる者とするために、ただ恵みによって選んで下さり、救いへと予定して下さったのです。先ほどの11節の「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」という言葉も、同じことを語っています。御心のままにすべてのことを行われる神の御計画、あの「秘められた計画」とは、多くの人々の中から私たちを選び、救いへと予定して下さり、その私たちを招いて信仰を与え、聖霊による証印を押し、約束されたものを受け継ぐことを待ち望みつつこの世を生きる者として下さり、そして終わりの時にその救いを完成して下さる、という御計画だったのです。私たちの信仰も、そこで与えられる希望も、神の選びと予定という神の御心、御計画にこそその根拠があるのです。本日洗礼を受ける兄弟も、幼い頃から、いや生まれる前から、この神の選びと予定の中にありました。そしてそれは今この礼拝に集っている私たち一人ひとりに言えることです。私たちが主イエス・キリストを信じる信仰者として生きていることは、あるいはその信仰を求める思いをもって、あるいは聖書の教えや教会の信仰に興味や関心をもって、こうして教会の礼拝に集っていることは、神が私たちを既に選んでおられ、救いにあずかる者としようと予定しておられることの現れです。私たちがどのような人間であるか、清く正しく生きているか、神に従った生活をしているか、そんなことは関係ありません。天地創造の前に、なのですから、私たちがどんな良いことも悪いこともする前に、神は私たちを選び、予定して下さっているのです。
何のために選ばれているのか
それは何のためなのでしょうか。6節には「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」とあります。12節にも「それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」とあります。14節の後半にも「こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」とあります。私たちが選ばれ、救いへと予定されたのは、神がその独り子イエス・キリストによって与えて下さった素晴らしい救いの恵みに感謝して、神をほめたたえて生きるためです。神がただ恵みによって与えて下さった救いに感謝して、神をほめたたえつつ、喜んで生きる、それが私たちの信仰の生活です。そのために私たちは、洗礼を受けて教会の一員となり、聖餐にあずかりつつ、頭であるキリストのもとで兄弟姉妹と一つに結ばれて、キリストのご支配にあずかって生きるのです。それは、神がこの世の終わりに実現して下さる救いの完成の先取りです。神による救いの完成とは、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられることです。キリストこそが全てのものの頭であられることは、今はまだ隠されていて、目に見える現実にはなっていません。その中で私たちは、神に選ばれ、救いへと予定され、頭であるキリストのもとに集められ、キリストのもとで一つとされて歩んでいます。それは、世の終わりに、神の秘められた計画が実現して、全てのものが頭であるキリストのもとに一つとされるという救いの完成の先取りであり、予告でもあります。神は最終的にはこの世の全てのものを、頭であるキリストのもとに一つにして下さるのです。今私たちが、神に選ばれて、教会に連なり、頭であるキリストのもとで生きているのは、世の終わりに神が完成して下さるこの救いを人々に指し示し、その救いへと人々を招くためです。私たちが神に選ばれ、救いへと予定されているというのは、自分たちは他の人たちとは違って救いを約束されてラッキーだ、ということではないし、あるいは、選ばれていない人はどうなるのか、と神に文句を言うようなことでもなくて、神が私たちを用いて、全ての人々を、ご自分の救いへと招こうとしておられる、そのために私たちを用いようとしておられる、ということなのです。聖霊によって証印を押された弟子たちは、全世界へと出て行って、キリストによる救いの福音を宣べ伝えました。私たちも、聖霊を注がれて新しく生かされ、神が与え、遣わして下さる伝道の使命に生きていくことによって、神の秘められた救いのご計画の実現のために仕えていくのです。