主日礼拝

神の怒り

「神の怒り」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:イザヤ書第57章14節-21節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第1章18-23節
・ 讃美歌: 2、141、433、76

一転して神の怒り
 この3月から主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み始めています。いろいろ他の予定が入って来て、なかなか進みません。前回この手紙を読んだのは5月10日でしたが、その日には1章の16、17節を読みました。そこには、この手紙の主題とも結論とも言えることが語られていました。それは、福音には神の義が啓示されている、ということでした。「福音」とは、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いを告げる良い知らせです。そして「神の義」とは、神がご自身の義を与えることによって罪人である私たちを義として下さり、救って下さるという神の恵みのみ業を意味しているのだということを前回お話ししました。主イエス・キリストの十字架と復活の福音において啓示されているのはこの神の義、神の救いのみ業なのです。そして私たちは、初めから終わりまで信仰を通して、ということは私たちが良い行いに励み、清く正しい人間になることによってではなく、ただ信仰によってのみその神の義、救いにあずかることができる。それがまさに福音、喜ばしい知らせです。16、17節において私たちはその福音を示され、その光に包まれたのです。ところが次の節である本日の箇所、18節には、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と語られています。17節とは一転して、人間の罪に対して神が怒りを現されることが語られているのです。

躓き
 3月にこの手紙から最初に説教をした時に、カール・バルトという人がこの手紙について書いた本のことを申しました。バルトの「ローマ書」と呼ばれるその本は、キリスト教の歴史において十九世紀から二十世紀への転換をもたらした、爆弾のような威力を持った本だったのです。そのバルトの本は、ローマの信徒への手紙を順々に読みながら丁寧に解説しているのですが、本日の1書18節から1章の終わりまでについての部分に彼は「夜」というタイトルをつけています。つまり1章18節からの所に語られていることは「夜」と呼べるような、暗い、光のない、闇の事柄だというわけです。実際ここでパウロが語っているのは、18節で今見たように、人間の罪とそれに対する神の怒りです。しかもそれを語る部分は1章で終わらずに3章20節まで続くのです。3章の9節にこのように語られています。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」。これが1章18節から3章20節までの部分の結論であると言えます。私たち人間は一人残らず皆罪の下にあり、それゆえに神の怒りの下に、裁きの下にある、それが「夜」と呼ばれている事態です。その夜が、本日の所から3章20節まで続くのです。ですからローマの信徒への手紙を読み進めていく私たちは本日から当分の間、夜の闇の中を歩まなければなりません。神の義、信仰によって与えられる救いの福音を再び聞くことは3章21節まで待たなければならないのです。ここに、ローマの信徒への手紙の難しさ、あるいは躓きがあると言えます。一念発起してこの手紙を読み始めても、すぐに人間の罪と神の怒りを語っている長いトンネルに入ってしまう。喜びや慰め、人生の支えを求めて聖書を読んでいるのに、こんな話ばかりでは気が滅入ってしまうと思う人もいるでしょう。

神の怒りを用いて?
 パウロはどういう思いでこの部分を語っているのでしょうか。人間の罪と神の怒りについて彼がこのように執拗に語っているのは何故なのでしょうか。それはある効果を狙ってのことなのでしょうか。つまり先ず最初に人間の罪を徹底的に示し、神がそれに対して怒っておられることを語ることによって、神の裁きへの恐れを読む者たちに抱かせ、その上で救いの恵みを示すことによって、救いの有り難さを際立たせようとしているのでしょうか。そのようにして人を信仰へと導こうとすることを、キリスト教の一部の人たちもしています。例えばお正月に初詣の人々が溢れている所で「死後、裁きにあう」などと書いたプラカードを持って立っている人がいて、「だからイエス・キリストを信じなさい」などという録音が流されたりしています。あれなどはまさに、裁きの恐ろしさによって人を導こうとしているわけです、あまり効果があるとは思えませんが。またそういうやり方は多くのカルト宗教もします。「あなたはこのままでは滅びますよ」「とんでもない不幸なことが起りますよ」などと人を脅して、「だからこれを信じなさい、そうすれば救われます」と言うわけです。私たちはそういう布教の仕方に対して嫌悪感を抱いており、そのような伝道は決してしません。何故ならば、私たちの伝道は、福音を宣べ伝えることだからです。福音、つまり神による救いの知らせ、喜びの知らせです。それは神の私たちへの愛を語っているのであって、先ず神の怒りによって人を脅して、怖がらせておいてからおもむろに救いを与えるようなものは福音とは言えないのです。そのように福音の信仰に立っている私たちは、ローマの信徒への手紙においてパウロが1章18節から3章20節までを費やして人間の罪と神の怒りについて語っていることに疑問を抱くかもしれません。パウロも、先ず人を神の怒りによって脅して、それによって救いの恵みを際立たせるというテクニックを用いているのだろうか。だとしたらそれは福音を語るのに相応しい仕方ではないのではないか、という疑問です。またもしそのようなテクニックが用いられているなら、この「夜」の部分はその後の光の部分、キリストによる救いの福音を際立たせるための準備に過ぎないことになり、ここはさっさと切り上げて早く3章21節以下に進んだ方がよい、ということになります。果してどうなのでしょうか。キリストの福音を信じる私たちは、1章18節から3章20節の、人間の罪とそれに対する神の怒りを語っている部分をどのように読んだらよいのでしょうか。本日は18節を丁寧に読むことによってそのことをご一緒に考えていきたいと思います。

17節と18節は繋がっている
 先程も読んだ18節は、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」となっています。翻訳には現れていませんが、原文においてこの文章は一つの接続詞によって前の文と繋げられています。「なぜなら」とか「というのは」などと訳すことができる言葉で、前の文章で語られたこととこの文章とが矛盾なく繋がっていること、前の文章を受けてその理由や説明が語られていることを示す接続詞です。その言葉は16節にも17節にもありました。そのことを前回お話ししました。そのことから分かるのは、15節から16、17節は話がつがなっており、17節と18節もまた繋がっている、ということです。翻訳では15節と16節の間に段落があり、新しい小見出しが付けられています。17節と18節の間もそうです。しかしそういう段落や小見出しは後から付けられたものであって、書いているパウロはここを区切ることなく一気に書いているのです。15節で彼は、ローマへ行って福音を告げ知らせたい、という願いを語りました。そして16節ではその願いの根拠を、「なぜなら、私は福音を恥としないからだ、福音は、信じる者全てに救いをもたらす神の力なのだ」と語ったのです。17節はそれを受けて、福音が神の力であるのは、福音に神の義が啓示されているからだ、と語っています。その話の流れが18節にも続いています。17節の、神は福音においてご自身の義を啓示して下さっているということを受けて、18節は、神は同じように人間の罪に対するご自身の怒りを現わしておられる、と語っているのです。つまり18節は「というのは」という接続詞によって17節と繋がっており、神の義が啓示されることと神の怒りが現されることが一つに繋がっていることを示しているのです。そのことのもう一つの証拠は、17節の「福音には神の義が啓示されている」の「啓示されている」と、18節の「神は天から怒りを現される」の「現される」は、原文において全く同じ言葉であるということです。どちらも「啓示する、開き示す」という言葉です。そしてどちらも現在形で語られています。現在形は、ある事柄が今起りつつある、進行していることを表します。つまり17節と18節は、神の義が今福音において啓示されつつある、それと同時に人間の罪に対する神の怒りも今示されつつある、その両者は矛盾することではなく、一つのこと、表と裏のような関係なのだ、ということを語っているのです。

神の義と神の怒り
 そうであるならば、18節以下の、人間の罪とそれに対する神の怒りや裁きは、神の義や救いを際立たせるためのテクニックとして語られているのでは決してありません。むしろ、神の義、福音が啓示されるところには、同時に、人間の罪とそれに対する神の怒りが現されるのです。「啓示する」という言葉は、「私たち人間にはそのままでは隠されており、知ることができない神の事柄を、神ご自身がその覆いを取り去って明らかに示して下さる」ということです。イエス・キリストの十字架の死と復活による福音において神はご自身の義を、つまり神の救いのみ業を示し現して下さいました。そこには同時に、私たち人間の罪も示され、暴露されるのです。またその罪に対する神の怒り、裁きもあらわにされるのです。パウロは1章18節から3章20節までにおいて、福音が啓示されたところに同時に現され、はっきりとする人間の罪の現実と、神の怒り、裁きを、包み隠すことなく語っているのです。このことを語ることと、神の義、神の恵みによる救いを語ることとは切り離すことができません。ですから、1章18節から3章20節までの部分は、決して、先ず人間の罪を示し、神の怒りを語って人を脅しておいて、それによって救いの有り難さを際立たせようというテクニックとして語られているのではありません。私たちの罪と、それに対する神の怒りの事実を見つめることによってこそ、私たちは神の義、神が与えて下さる救いにあずかることができるのです。そして17節と18節の繋がりから見えてくることは、17節で先ず神の義の啓示が語られており、それを受けて18節で神の怒りの啓示が語られているという順序です。パウロは、先ず神の怒りを語って怖がらせてから神の義、福音を語っているのではなくて、神の義、福音が啓示されるところに、同時に人間の罪と神の怒りも現されると言っているのです。主イエス・キリストによる救いが示されるところにこそ、私たちの罪が、神の怒りと裁きが、その救いと共に見えてくるのです。

不信心
 神の義、福音が啓示されるところに、人間のどのような罪が見えてくるのでしょうか。18節はそのことを語っています。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義」これが人間の罪の姿です。不信心と不義という二つの言葉が用いられています。不信心とは、神を信じないこと、神を神として敬わず、従おうとしないことです。神との関係におけるこの不信心が人間の罪の根本として見つめられています。この「不信心」の意味を私たちは正しく捉えなければなりません。世間において「不信心」という言葉が普通に持っている意味をそのままここに読み込んでしまってはなりません。普通不信心とは、神などいないと思うこと、あるいは信仰を持つことなどご免だと思うことです。そういう意味では、教会の礼拝に集っている私たちは、まだ洗礼を受けておられない方々も含めて、不信心ではない、むしろ大変奇特な信心深い人であるということになります。それではここに集っている私たちは不信心とは関係ないと言えるのでしょうか。そうではありません。パウロがここで不信心の罪に対して神が怒りを現されると言っているのは、自分も含めた全ての人間に対してということなのです。つまり、世間の人々が「信心深い」と思っているような生活の中で、人間はどこまでも不信心に陥っているということをパウロは見つめているのです。パウロ自身がまさにそうでした。彼はもともとユダヤ教ファリサイ派のエリートとして、誰よりも信心深い生活を送っていました。神を否定するどころか、神に熱心に仕え、働いていたのです。ところが彼は、主イエス・キリストと出会ったことによって、自分の神への熱心さが実は不信心以外の何物でもなかったことを示されました。彼が熱心に信じ従っていた神は勿論旧約聖書以来の主なる神ですが、その神が、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって救いを与えて下さるという驚くべき仕方で新しいみ業を行なって下さったのに、彼を初めとするユダヤ人たちはそれを受け入れずに、自分たちが受け継ぎ守ってきたことに固執して、キリスト教会を迫害していたのです。それは神のみ心とみ業を信じ受け入れるのでなく自分たちの思いや受け継いできたことを守ろうとすることでした。パウロは復活して生きておられる主イエスとの出会いによって自分のこの不信心を示されたのです。その不信心は、神を信じ従っているつもりで、実は自分の思いを第一とし、自分が主人となっているということです。教会の礼拝に集っている私たちも、その不信心と無縁ではないのです。

不義
 不信心と並んで不義という言葉が使われています。それは文字通り正しくないこと、悪です。私たちが罪という言葉によって普通に思い浮かべるのはこの不義のことです。不義は目に見える形で私たちの生活の中に、人間関係に現れ、そこに様々な問題を引き起こします。私たちはそういう不義、罪が自分にあることを知っています。しかしここで注目すべきなのは、その不義という言葉が18節でもう一度用いられていることです。「不義によって真理の働きを妨げる」とあります。不義は真理の働きを妨げるものなのです。私たちはそのことをどれだけ意識しているでしょうか。自分や他の人の不義、悪によって様々な問題が起り、人間関係がうまくいかなくなる、それによって嫌な思いをしたり、自己嫌悪に悩まされることはしばしば体験するわけですが、不義が真理の働きを妨げるということについてはあまり考えていないのではないでしょうか。しかしパウロは、これこそが不義のもたらす最大の問題であり、人間の罪の根本がそこにあると言っているのです。
 「不義によって真理の働きを妨げる」というところは、直訳すれば「不義の中に真理を閉じ込める、押さえ込む」となります。つまり不義は、私たちの中で働こうとしている真理を閉じ込め、働けなくしてしまうのです。その真理とは、主イエス・キリストのことだと言えるでしょう。主なる神は私たちの中で、真理である主イエス・キリストが力を発揮し、働くことを願っておられるのです。しかし私たちの不義、罪が、主イエスの働きを妨げ、閉じ込めてしまう、私たちの罪の最大の問題はそれです。私たちのする一つ一つの行いが倫理的道徳的に問題があるということよりも、私たちが主イエス・キリストを自分の心の中の牢獄に閉じ込めてしまい、働けなくしてしまう、主イエスのみ言葉を封じ込めて、あくまでも自分の思いを貫こうとすること、それが不義なのです。

神の怒り
 パウロは、私たちのこのような不信心と不義に対して神が怒りを現される、そのことが、主イエス・キリストによって神の義、救いが啓示されるところに同時に起っている、と語っています。神は、人間の罪を赦し、救って下さる方であるだけでなく、人間の罪、不信心と不義とに対して激しくお怒りになる方なのです。しかもその怒りは、今この時に現されているのだということを、18節の「現されます」が現在形であることが示しています。私たちは、この神の怒りを、今自分に向けられているものとして真剣に受け止めなければなりません。それは救いの福音の有り難さを際立たせるための単なる陰ではありません。さっさと切り上げて救いの恵みを語っているところに進んだ方がいいというものではなくて、私たちが真剣に向き合わなければならない現実なのです。本日の説教の題を「神の怒り」としたわけですが、それには躊躇もありました。こんな題を掲示板で見て、礼拝に来たいと思う人がいるだろうか、先週は春の伝道礼拝でしたが、そこで予告される来週の説教題が「神の怒り」では、せっかく伝道礼拝に来た人もまた来ようという思いを失うのではないか、とも思いました。しかしそれでも敢えてこの題を掲げることにしました。それは、福音において啓示されている神の義を受け止め、その救いにあずかることは、神の怒りをしっかりと見つめることなくしてはあり得ないからです。主イエス・キリストによる神の救いの恵みは、私たちの罪に対する神の怒りと裏表の関係にあります。相手を本当に愛している者は、相手の罪や裏切りに対して激しく怒るのです。何をしても怒らないような相手は、自分のことを本当に愛してはいないのです。神の怒りは、神の私たちに対する真実な愛の現れなのです。

主イエスの十字架において
 パウロは、神の怒りが、神の義と共に啓示されていると言っています。神の義が啓示されているのは、17節にあるように福音においてです。その福音とは、御子イエス・キリストに関するものだ、と2?4節に語られていました。主イエスの十字架の死と復活がその中心です。主イエスの十字架と復活において、神の義が、神の恵みによる救いのみ業が啓示されているのです。そしてそこにはそれと同時に、人間の罪に対する神の怒りも啓示されています。主イエスの十字架の苦しみと死においてです。神の怒りは、主イエスの十字架の苦しみと死において啓示されているのです。私たちの不信心と不義に対する神の怒りは、私たちの上に下されたのではありません。私たちの上にそれが下されたなら、私たちはとっくに滅ぼされており、生きていることなどできないのです。しかし神は、私たちの罪に対する怒りを、独り子主イエス・キリストの上に下されたのです。それが主イエスの十字架の苦しみと死の意味です。主イエスが、私たちの罪に対する神の怒りを全て背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。それによって神の義が、つまり神が罪人である私たちにご自身の義を与え、私たちを義として下さるという救いが私たちに与えられたのです。神の義と神の怒りは、この主イエス・キリストの十字架において、共に啓示されたのです。

今起りつつある出来事として
 神の義の啓示も、神の怒りの啓示も、どちらも現在形で、つまり今起りつつある、進行していることを表す形で語られていると先ほど申しました。主イエス・キリストの十字架と復活における神の義と怒りの啓示は私たちにとって過去のことではありません。今起りつつあることです。私たちがこうして礼拝を守り、そこでみ言葉を聞き、聖霊のお働きによって、十字架にかかって死んで復活なさった主イエス・キリストと出会うことによって、そのことが起っているのです。また本日私たちは聖餐にあずかり、主イエスが十字架の上で肉を裂き、血を流して、私たちの罪に対する神の怒りを引き受けて下さった恵みを体をもって味わい、体験します。そのようにして私たちは主イエスの十字架と復活によって実現した神の義を新たに啓示され、それを今自分に与えられている救いの恵みとして受け、その救いにあずかって生かされていくのです。その時に、私たちの不信心と不義も、それに対する神の怒りと裁きも、今現在のこの自分のこととして示されます。自分が神の怒りによって裁かれ、滅ぼされなければならない罪人であることがはっきりと示されるのです。そしてそれと同時に、その神の怒りを主イエスが私たちに代って引き受けて下さり、罪の赦しを与えて新しく生かして下さることもまた、今現在のこの自分のこととして示されるのです。主イエスの十字架と復活によって与えられた神の救いの恵みを私たちが今自分に起りつつある出来事として体験するのは、礼拝においてみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによってなのです。

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